第十一話
昼休みになった。
机の下で右脚を伸ばす。
次に左。
膝を曲げる。
足首も一回ずつ回す。
朝走った時より軽い。
ふくらはぎの張りもない。
午後はクラスで何かやるらしい。
そのあと陸上部。
今日は見に行くだけでいい。
走れる場所と、スタートブロックと、ウエイトの場所。
あとはトラックの硬さ。
明日からどうするかは、それ見て決める。
「一橋さん、お昼ここで食べる?」
「うん」
「じゃあ机くっつけよ」
「いいよ」
前の席の子が椅子ごと振り返る。
机を少し寄せる。
鞄から弁当を出したところで、廊下側から声がした。
「ねえ、あの子めっちゃ可愛くない?」
「どれ?」
「今歩いてる黒髪の子」
別にどうでもいい。
弁当箱の留め具を外す。
「え、ほんとだ。めっちゃ綺麗」
「何組だろ」
「四組から出てきたよ」
四組。
手が止まった。
別に、四組だからって見る必要はない。
でも見た。
廊下。
三人。
真ん中より少し右に、長い黒髪の女の子。
背筋が伸びてる。
歩いても頭の高さがあまり変わらない。
踵から強く落ちる感じもない。
接地は静か。
歩幅は広くない。
運動部っぽくはないけど、身体の使い方は綺麗だった。
顔を見る。
金色っぽい目。
確かに。
可愛い。
で。
その左。
短い黒髪。
少しだけ日に焼けた首。
歩く時、左だけまだわずかに幅を取る。
長谷川。
「……は?」
「どうしたの?」
「何でもない」
何でもなくない。
なんでいるの。
いや、学校だからいるのは当たり前。
四組なんだから。
そうじゃなくて。
なんであのクソガキの横に、あんな可愛い子がいるんだよ。
腹立つ。
長谷川の反対側には、知らない男子。
そいつが何か言う。
長谷川が笑う。
黒髪の子も笑った。
また腹立った。
何なの。
「一橋さん、知ってる人?」
「長谷川」
「あ、知り合いなんだ」
「同じ家」
「え?」
聞き返されたけど、そっちは今どうでもいい。
三人がこっちへ来る。
長谷川は普通に歩いてる。
何にも悪いことしてない。
別に誰と歩こうが勝手。
そんなこと分かってる。
分かってるけど。
なんか嫌。
八組の前まで来た。
このまま通り過ぎる。
「長谷川!」
呼んだ。
思ったより声が出た。
廊下の何人かがこっちを見る。
長谷川も止まった。
振り向く。
「何?」
何って。
……何だろ。
*
「武田さん、さっきの男の子知ってる?」
弁当の蓋を開けたところで聞かれた。
「誰?」
「廊下歩いてた人。黒髪の女の子と一緒にいた」
見る。
長谷川。
男子一人。
女子一人。
朝まで知らなかったはずの人間と、もう普通に歩いてる。
早。
「ああ」
「知り合い?」
「長谷川なら」
「同じクラス?」
「違う。四組」
「じゃあ中学一緒?」
「違う」
「え、じゃあ何?」
箸を取る。
「同じ家」
止まった。
「……え?」
「学校のシェアハウス」
「待って、あの男の子と住んでるの?」
「そうだけど」
「二人で?」
「違う。五人」
「男の子は?」
「あいつだけ」
「ええ!?」
「声でかい」
「いやだって!」
隣の子まで身を乗り出してきた。
「何それ。男女で住めるの?」
「学校のやつだから」
「すご」
「別に」
すごくはない。
少なくとも、私にとっては。
最初は最悪だったし。
今も好きではない。
ただ、必要ない時に近づいてこない。
一回言えば分かる。
勝手に触らない。
それだけ。
「あの黒髪の子も一緒に住んでる?」
「知らない」
「知らないの?」
「家にはいない」
「あ、じゃあクラスの子か」
「多分」
三人がそのまま先へ行く。
廊下の向こう。
八組。
急に声が飛んだ。
「長谷川!」
聞き間違えるはずがない。
彩愛。
「あ、あの子も知ってる?」
「彩愛」
「え、一橋彩愛?」
「そう」
「武田さん、知り合いすごくない?」
「同じ家」
「え?」
今日何回その顔されるんだろ。
「彩愛も?」
「うん」
「何その家」
「私に聞かないで」
本当に。
私は決めてない。
廊下を見る。
彩愛が八組から出てきてる。
長谷川たちは止まった。
男子一人が少し後ろ。
黒髪の子は長谷川の右。
近すぎる感じはない。
触れてもいない。
別にどうでもいい。
彩愛が何か聞いている。
ここから全部は聞こえない。
でも長谷川の声は通る。
「——天尾。四組」
天尾。
黒髪の子の名前らしい。
彩愛が天尾を見る。
天尾も見る。
それからまた長谷川。
何してるの。
「ねえ」
「何」
「あれ、なんか雰囲気変じゃない?」
「いつもあんな感じ」
言ってから後悔した。
何で私が説明してるんだろう。
「いつも?」
「……」
長谷川が何か言った。
ここは聞こえた。
「いいだろ」
彩愛の声。
「何が!」
嫌な予感。
「天尾、可愛いだろ」
「知ってるし!」
何してんの。
教室の入口にいた何人かまで見る。
廊下を歩いてた人も速度を落とした。
「俺と購買行く」
「だから何!」
「いいだろ」
「何が!」
ほんとに何してんの。
学校でもやるんだ。
あれ。
家だけじゃなかったんだ。
「……あの二人、付き合ってる?」
「違う」
反射で答えた。
「早」
「違うから」
「でもめっちゃ痴話喧嘩っぽいけど」
「違う」
あれはそんなものじゃない。
ただの。
ただの何。
小学生?
「一橋も行く?」
「行かない!」
「じゃあ俺ら三人で行ってくるわ」
「勝手に行けば!」
「行くけど」
「じゃあ早く行って!」
「呼び止めたのお前じゃん」
「うるさい!」
周りで笑いが起きた。
私は額を押さえた。
恥ずかしい。
何でこっちが。
「武田さん」
「何」
「あれも同じ家の人なんだよね?」
「……」
長谷川が明らかに楽しんでる。
彩愛は本気で腹立ててる。
知らない男子は帰りたそう。
天尾だけ普通に見てる。
「武田さん?」
「知らない人たち」
「さっき同じ家って言ったじゃん」
「知らない」
「一橋さんも?」
「知らない」
「めっちゃ知ってるじゃん」
「他人」
笑われた。
「恥ずかしいんだ」
「違う」
「顔ちょっと赤いよ」
「赤くない」
「同居人が廊下で痴話喧嘩してるから?」
「だから違うって」
声が強くなった。
また笑われる。
最悪。
廊下を見る。
長谷川たちは歩き始めた。
彩愛はまだ何か言ってる。
長谷川が振り返りもせず片手だけ上げた。
本当に。
知らない人たちってことにしたい。
「食べるよ」
「はーい」
「もうその話しないで」
「分かった分かった」
絶対分かってない。
箸を持つ。
少し遠くなった長谷川の声が、まだ廊下から聞こえた。
うるさい。
*
「何?」
一橋が八組の前まで出てきた。
足は軽そう。
朝より変な張りもなさそうだ。
何で呼ばれたんだろ。
「どこ行くの」
「購買」
「なんで?」
「気になるから」
「……ふーん」
何だ、その聞き方。
福山が後ろで黙ってる。
天尾は俺の右。
一橋の目が俺から福山。
天尾。
また俺。
「その子誰?」
「天尾。四組」
「天尾沙樹羽」
天尾が自分で言った。
「一橋彩愛でしょ」
「なんで知ってるの」
「陸上」
「ああ」
一橋の顔が少しだけ戻る。
福山が横から小さく言った。
「一橋って、あの一橋?」
「多分」
「マジか」
一橋が見る。
「何」
「いや、何でもないです」
「なんで敬語なの」
「何となく」
弱。
さっきまで俺にあれだけ言ってたのに。
一橋はまた天尾を見る。
天尾も一橋を見る。
俺を見る。
何だ。
この聞き方。
一瞬だけ、嫉妬とかいうやつかと思った。
でも違う。
すぐ分かった。
これ、俺の横に天尾がいるのが気に入らないだけだ。
多分、俺だけなんか得してるように見えて腹立ってる。
それだけ。
ガキじゃん。
口元が緩んだ。
「何笑ってんの」
「別に」
「絶対なんかあるじゃん」
ある。
こういう顔するなら。
もう少しやるか。
「いいだろ」
「は?」
「天尾、可愛いだろ」
一橋の眉が寄った。
「知ってるし」
「俺と購買行く」
「だから何」
「いいだろ」
「何が!」
福山が小さく、
「始まった」
と言った。
「何が?」
「絶対分かってやってるだろ」
「知らん」
「その顔で言うな」
一橋が天尾を見る。
「なんで長谷川と一緒にいるの?」
「購買を見てみたかったから」
「一人で行けばいいじゃん」
「長谷川くんたちも行くって言ってたから」
「ふーん」
全然納得してない。
何に納得する必要があるのかも分からない。
でも分かりやすいから面白い。
「一橋も来る?」
「行かない」
「じゃあ俺ら三人で行ってくるわ」
「別に聞いてないし」
「はいはい」
「その言い方ムカつく」
「じゃあちゃんと聞けよ」
「何を!」
「俺らが購買行く話」
「どうでもいい!」
「じゃあ何で呼んだんだよ」
止まった。
一橋が。
ほんの一瞬。
「……なんとなく」
「意味分かんね」
「うるさい!」
八組の中から笑い声がする。
廊下も何人か見てる。
福山が俺の制服の袖を引いた。
「長谷川」
「何」
「もう行こうぜ」
「何で」
「俺が恥ずかしい」
「何でお前が」
「周り見ろ!」
見る。
八組。
廊下。
結構見られてる。
「あ」
「あ、じゃねえよ!」
「人気者じゃんお前」
「俺じゃねえよ!」
天尾が笑う。
一橋がまた天尾を見て、少し嫌そうな顔をした。
やっぱり。
面白い。
「じゃあな」
「早く行けば」
「午後寝んなよ」
「寝ない」
「朝走ってるから眠くなるぞ」
「ならない!」
「ざんねーん」
「何が!」
手だけ上げる。
歩き出す。
福山がすぐ横へ来た。
「お前ら何なん?」
「同居人」
「それは知ってる」
「じゃあ何」
「いや……」
「何」
「やっぱいい」
「言えよ」
「絶対嫌」
「つまんね」
「お前に言ったら絶対ろくなことにならん」
「よく分かってんじゃん」
「自覚あんのかよ!」
六組の前。
教室の中から視線。
一人。
二人。
男子。
見方で何となく分かる。
顔を知ってるんじゃなくて、確認してる。
「長谷川鳴美じゃね?」
「マリノスの?」
やっぱり。
知らない顔。
福山の歩幅が少し狭くなった。
「……お前、マジで知られてんな」
「関東ならいるだろ」
「いるだろ、じゃねえよ」
「福山も手振っとけよ」
「なんで俺が」
「付き人ですって」
「誰が!」
「マネージャー?」
「もっと嫌だわ!」
天尾が横で、
「似合いそう」
と言った。
「天尾!?」
「何?」
「お前までそっち行くなよ!」
「どっち?」
「長谷川側!」
「俺側って何」
「地獄」
「ひど」
「お前が作ってんだよ!」
声が響く。
前から五人くらい来る。
横から教室を出るやつもいる。
そのまま行くとぶつかる。
右へ一歩。
左は使わない。
福山の肩を指の付け根で押す。
「そっち」
「ん?」
「詰まる」
「あ」
天尾は自分で一歩前へ抜けた。
三人で一列。
人の塊を過ぎて、また並ぶ。
「お前そういうの早いな」
「何が」
「人避けんの」
「見えるだろ」
「俺見えてなかったけど」
「じゃあ前見ろ」
「見てたわ!」
「嘘つけ」
「うるせえ」
七組。
九組。
廊下はまだ混んでる。
「長谷川くん」
「何」
天尾が隣から見る。
「さっきの一橋さん、仲いいんだね」
「そう?」
「違う?」
「まあ、家ではよく喋る」
「喋るっていうか喧嘩だろ」
福山。
「喧嘩じゃねえよ」
「どう見ても喧嘩だよ!」
「一橋が勝手に怒ってるだけ」
「お前が煽ってんだろ!」
「反応するから」
「小学生か!」
「高校生」
「そういう話じゃねえ!」
天尾がまた笑う。
天尾はよく笑うな。
大きくは笑わないけど。
口元だけ少し変わる。
「購買、何見たいの?」
聞く。
「まだ決めてない」
「じゃあ何で来たの」
「見たことないから」
「俺と一緒じゃん」
「そうかも」
「長谷川は弁当あるんだろ?」
福山が言う。
「ある」
「なのに購買?」
「それとこれは別」
「分かんねえ」
「パン何種類あるか気になるだろ」
「気にならねえよ」
「人生損してんな」
「パンで?」
「パンで」
「安い人生だな!」
「楽しいぞ」
十組が見えてきた。
*
廊下を歩く人間は、同じ速度では動かない。
昼休みは特に。
教室から出る人。
戻る人。
立ち止まる人。
友達を待つ人。
曲がる人。
避ける人。
その全部が、細い廊下の中で少しずつぶつからないように形を変える。
長谷川くんは、その形が変わる前に動く。
十組の前へ来る少し前。
前方から男子が三人。
その左側を女子が二人。
九組の扉から一人出る。
六人の進路が、三歩後には重なる。
長谷川くんの右眼球が先に動いた。
顔はまだ福山くんへ向いている。
白目の露出が右側だけ増える。
その次に顎が二度ほど右へ回る。
足はまだ止まらない。
右踵が床につく直前、つま先の向きが数度外へ逃げた。
右膝がその方向へついていく。
骨盤はほとんど回らない。
左脚は大きく踏み替えない。
術後の膝を、混雑の中で軸足にしない。
右側だけで進路を作る。
同時に、左手が上がった。
福山くんの肩へ。
掌全体では触れない。
示指から小指の中手指節関節付近。
指の付け根が制服の布を押す。
肩峰そのものからは少し内側。
力は弱い。
制服の皺が一度だけ斜め下へ引かれて、すぐ戻る。
「そっち」
福山くんの僧帽筋上部が一瞬収縮した。
肩が上がる。
驚き。
その直後、長谷川くんの手から伝えられた方向へ身体が動く。
抵抗しない。
触れられることそのものへの警戒はない。
右足。
左足。
一歩ずつ。
天尾さんは、それより早かった。
長谷川くんの手が福山くんへ触れる前に、一歩前へ出ている。
歩幅だけを一時的に広げた。
上半身は変わらない。
頭頂の高さもほとんど変化しない。
肩甲骨の上下動も少ない。
頸部の筋に余計な緊張がない。
姿勢を意識して固定している人間なら、急な歩幅変更でどこかが崩れる。
天尾さんは崩れない。
胸鎖乳突筋も浮かない。
鎖骨の角度もほぼ同じ。
腰部だけで姿勢を作っているわけでもない。
背中全体。
骨盤。
首。
全部で同じ場所に頭を運んでいる。
綺麗。
ただ、綺麗という言葉だけでは足りない。
止まっている時より、歩いている時の方が分かる。
長い黒髪は、身体より遅れて動く。
右脚が前へ出る。
骨盤がわずかに回る。
肩は逆方向へ小さく返る。
髪はその後。
耳の前にあった一束が頬骨の外側へ触れ、下顎角のあたりを滑って、肩へ落ちる。
皮膚に触れた瞬間も、彼女は払わない。
瞬きもしない。
慣れている。
描くなら、髪そのものを増やさない。
頬へ触れている一束だけ残す。
髪を描くことで、顔が動いていないことを見せる。
三人が十組の前へ来る。
長谷川くんの顔がこちらへ向いた。
認識までが早い。
視線が止まる。
右眉は動かない。
左も。
でも右の口角が先に持ち上がる。
上唇が右だけ少し斜めに引かれる。
口輪筋より、頬筋の動きが先。
右の鼻唇溝が深くなる。
頬の脂肪が上へ押されて、右下眼瞼の外側が狭くなる。
目尻に一本。
短い皺。
左はまだ出ない。
左右差。
その次に顎が少し落ちる。
開口量は小さい。
下唇と上唇の間に細い隙間。
上顎中切歯が一部だけ見える。
喉。
顎の下。
舌骨のあたりがわずかに上へ動く。
頸部前面の皮膚が引かれる。
息が一度出る。
「おう」
声が乗る。
笑顔を描くなら、口を大きくしない。
歯もいらない。
右頬。
右下眼瞼。
鼻唇溝。
顎の力が抜けた形。
それだけで、この人が笑った時に幼くなる理由は足りる。
「長谷川くん」
私は右手を上げる。
長谷川くんと同じ上げ方にはならない。
私の肩関節は私の位置で動く。
肘の屈曲角度も違う。
長谷川くんは歩幅を変えない。
挨拶だけ。
止まらない。
でも私を見る時間は、一歩分より少し長い。
知らない相手へする確認ではない。
知っている相手。
家で何度も見ている相手。
その隣。
福山くん。
長谷川くんが私を見た瞬間、福山くんの視線は先に私へ来た。
そのあと長谷川くん。
また私。
眉頭が少し寄る。
鼻根部の皮膚に浅い縦皺。
唇は閉じたまま。
下唇の中央が少し前へ出る。
疑問。
誰。
多分。
でも聞かない。
廊下で何度か周囲の視線を拾っていた時とは違う。
あの時は、眼球が先に動いてから顔が追っていた。
今は私と長谷川くんの間を往復する。
関係を知りたい。
福山くんは、感情が身体に出やすい。
描きやすい。
長谷川くんとは別の意味で。
長谷川くんは局所の動きが速い。
福山くんは全身に伝わる。
肩。
首。
眉。
口。
全部が少しずつ同じ方向を向く。
そして天尾さん。
私を見る。
最初に動いたのは眼球。
顔は正面のまま。
上眼瞼がほんの少し上がる。
眉は動かない。
口角も動かない。
呼吸も変わらない。
瞳孔は分からない。
廊下の光が一定ではない。
それを材料にはできない。
興味。
多分。
驚きではない。
驚いた時に出る、下顎の緩みがない。
鼻翼も動いていない。
首も引かない。
ただ見る。
私が見ていることに気づいている。
それでも視線を外さない。
面白い。
三人の距離。
長谷川くんと福山くん。
近い。
福山くんの右肘が長谷川くんの左上腕へ何度か入り込む。
そのたびに二人とも避けない。
布が触れる。
腕が触れる。
気にしない。
距離が雑。
長谷川くんと天尾さん。
少し広い。
肩と肩の間に、もう一人の前腕が入る程度。
狭くもない。
遠くもない。
長谷川くんが天尾さんへ身体を傾けることはない。
天尾さんも同じ。
会話の時だけ、顔の角度が変わる。
今日知り合った。
おそらく。
福山くんとも今日かもしれない。
でも福山くんには、もう接触を許している。
許している、というより。
考える必要がない。
天尾さんには、まだ余白がある。
描くなら。
三人を等間隔には置かない。
長谷川くんを少し前。
福山くんを左後ろ。
天尾さんを右。
福山くんとの間は狭くする。
服の袖が触れるくらい。
天尾さんとの間には床を残す。
その床が、今日までの時間の差になる。
「今の誰?」
通り過ぎてから、福山くんの声。
「赤間。同じ家」
「また?」
「またって何だよ」
「お前同じ家のやつ多すぎんだろ」
「五人住んでんだからいるだろ」
「そうだけど!」
福山くんの声が上がる。
それにつられて肩も上がる。
喉頭も上がる。
首の前に横皺が一本増える。
長谷川くんは笑う。
今度は左も少し動いた。
天尾さんが振り返る。
今度は目だけではない。
首が回る。
胸鎖乳突筋の輪郭が右だけ出る。
黒髪が遅れて流れる。
耳が一瞬見える。
私を見る。
目が合う。
一秒。
二秒。
天尾さんの下瞼がほんの少し持ち上がる。
口角は動かない。
でも最初より柔らかい。
興味が増えた。
多分。
私は見返す。
三秒になる前に、天尾さんが前を向いた。
髪が肩へ戻る。
その時、右手の指が一度だけ動いた。
人差し指。
中指。
髪には触れない。
触れようとして、やめたのか。
ただ動いただけか。
まだ分からない。
分からないものは、描かない方がいい。
勝手に意味を足すと、形が嘘になる。
三人が遠ざかる。
長谷川くんは真ん中ではない。
少しだけ前。
福山くんがその後ろから何か言う。
天尾さんは横。
一枚にするなら。
顔はいらないかもしれない。
肩。
歩幅。
腕の間。
床。
それだけで今の三人は描ける。
でも。
天尾さんの目は残したい。
福山くんの肩も。
長谷川くんの右頬も。
全部残すと、うるさい。
どれを捨てるか。
考える。
その前に。
八組の前で、彩愛ちゃんの声がした。
長谷川くんの声も。
何かあった。
彩愛ちゃんは、多分怒っていた。
でも怒鳴り方が、家で長谷川くんとくだらないことをしている時と同じだった。
なら。
多分、くだらない。
あとで聞こう。
私は弁当箱を開けた。
卵焼きの切り口が、片側だけ少し潰れていた。
圧がかかった方向が分かる。
箸を入れる。
崩れる。
それも少し面白かった。




