第五話
昼食が終わってから、しばらくして。
なおが晴瑠奈を見た。
「武田さん」
「ん?」
「さっきのピアノ」
「うん」
「聴いてみたい」
晴瑠奈が少しだけ目を丸くする。
「……今?」
「嫌ならいいけど」
「いや、別に」
晴瑠奈は少し考えてから立ち上がった。
「聴くだけなら」
「聴く」
「私も行く」
彩愛がすぐに手を挙げた。
晴瑠奈がそちらを見る。
「一橋さんも?」
「せっかく置いたんでしょ?」
「まあ」
三人が階段へ向かう。
その途中、彩愛が振り返った。
「長谷川は?」
「行かん」
鳴美はソファの横で、自分の荷物を整理していた。
「なんで?」
「なんでって」
「ピアノ」
「俺が行く必要ないだろ」
「興味ないの?」
「あるけど」
「じゃあ来れば?」
「武田の部屋だろ」
それだけ言って、また手元へ視線を戻す。
晴瑠奈は何も言わなかった。
彩愛だけが、
「ふーん」
と妙な顔をした。
「何」
「別に」
「何だよ」
「なんでもない」
「感じ悪」
「お前に言われたくない」
「早く来なよ」
晴瑠奈に呼ばれて、彩愛は階段を上がっていった。
*
晴瑠奈の部屋は、まだ完全に片づいているわけではなかった。
段ボールが壁際にいくつか残っている。
その中で、電子ピアノだけはやけにきっちりと収まっていた。
「おー」
彩愛が近づく。
「でか」
「触んないでね」
「まだ何もしてないじゃん」
「しそうだから」
「しないし」
言いながら、鍵盤の端へ伸びかけていた手を引っ込める。
なおは床を見る。
「これ、防音の?」
「うん。防振も」
「結構厚いね」
「下に響くの嫌だから」
「全部一人でやったの?」
「うん」
「だからずっと部屋いたんだ」
「思ったより時間かかった」
晴瑠奈は椅子を引いた。
「何か弾けばいい?」
「武田さんがいつも弾いてるのでいい」
「そういうのが一番困るんだけど」
「じゃあ好きな曲」
「それも困る」
なおが少し考える。
「今弾きたい曲」
「……」
「それなら?」
「まあ」
晴瑠奈が座る。
鍵盤に手を置いた。
さっきまで話していた時とは、少しだけ雰囲気が変わる。
背筋を整えて。
一度、息を吐く。
それから。
指が動いた。
彩愛もなおも黙る。
音は大きくない。
けれど、一音目が鳴った瞬間に、部屋の中の空気が変わった。
晴瑠奈の指は迷わなかった。
速いところは軽く。
ゆっくりしたところでは、音を置くように。
同じ旋律がもう一度戻ってきた時、最初より少しだけ柔らかくなる。
彩愛は最初、晴瑠奈の手元を見ていた。
そのうち椅子の背にもたれた。
なおはずっと見ていた。
指。
肩。
顔。
ペダルを踏む足。
音が止まる。
最後の一音が消えてから、少しだけ間があった。
「……すご」
最初に言ったのは彩愛だった。
「普通にめっちゃ上手いじゃん」
「普通にって何」
「いや、こんなちゃんと弾くと思ってなかった」
「失礼なんだけど」
「だって昨日からずっと怖いし」
「関係なくない?」
「ある」
「ない」
晴瑠奈が少し笑う。
なおはまだ黙っていた。
晴瑠奈がそちらを見る。
「……何?」
「途中」
「うん」
「同じところ、二回目だけ弱くした?」
晴瑠奈が瞬きをする。
「したかな」
「したと思う」
「よく聞いてるね」
「何で?」
「何でって?」
「何で二回目だけ変えたの?」
晴瑠奈は少し考えた。
「……その方がいいから?」
「どういうふうに?」
「どういうふうにって」
「一回目と同じじゃ駄目なの?」
「駄目ではないけど」
晴瑠奈は鍵盤を見た。
「同じだと、なんかしつこいじゃん」
「しつこい」
「一回出したのに、また同じ強さで出すとさ。もう分かったってならない?」
「ああ」
なおが頷く。
「だから二回目は引いた?」
「多分」
「多分なんだ」
「別に考えてやってないし」
なおが止まった。
「考えてない?」
「うん」
「今のも?」
「今のも」
「でも、同じだとしつこいって分かってるんだよね」
「それは分かるよ」
「じゃあ何も考えてないわけじゃない?」
「……」
晴瑠奈が少し眉を寄せる。
「弾いてる時に、いちいち言葉で考えてないってこと」
「なるほど」
「ここは弱くして、ここで間取って、とか考えながらやってない」
「じゃあ何で分かるの?」
「聴けば分かるじゃん」
「私は多分考える」
「弾きながら?」
「絵なら」
なおは自分の指を見た。
「ここに何を置くとか。なんでこの色にするかとか。全部じゃないけど」
「それ、疲れない?」
「別に」
「私は無理」
「何で?」
「何でって」
晴瑠奈が少し笑う。
「弾いてる時くらい、弾くだけでよくない?」
なおは黙った。
彩愛は二人を見比べる。
また始まった。
さっきの昼飯の時と同じ顔をしている。
「じゃあさ」
なおが続ける。
「弾いた後なら、何でそうしたか説明できる?」
「多分」
「弾いてる最中は?」
「しない」
「考えなくてもできるから?」
「それもあるけど」
晴瑠奈は少しだけ言葉を探した。
「……考えなくていいから」
なおの目が動く。
「考えなくていい?」
「うん」
「その方が好き?」
「まあ」
「何で?」
「……」
晴瑠奈がなおを見る。
「赤間さん、結構聞くね」
「気になるから」
「見たまんまだな」
「嫌?」
「まだ平気」
「じゃあ聞く」
「ほんと遠慮ないね」
晴瑠奈は呆れたように笑った。
それでも止めない。
だから、なおも止めなかった。
「何も考えない方が楽なの?」
「楽っていうか」
「うん」
「別に意味とか考えなくていいじゃん」
「ピアノに?」
「うん」
「上手くなりたいとかは?」
「それはあるよ」
「人に聴かせたいとか」
「別に」
「表現したいとか」
「……それも別に」
「じゃあ何で弾くの?」
「好きだから」
晴瑠奈は即答した。
なおが黙る。
「それだけ?」
「それだけじゃ駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあいいじゃん」
「うん」
なおはまた少し考えた。
「でも、武田さんって普段は結構考えてそうだから」
「何それ」
「色々」
「雑」
「だから、ピアノの時だけ考えないのが気になった」
晴瑠奈の指が、鍵盤の上で止まる。
「……別に」
「うん」
「弾いてる時まで色々考えたくないだけ」
なおが晴瑠奈を見る。
「考えたくない?」
「……」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、晴瑠奈の顔から笑みが消えた。
なおはそれを見逃さなかった。
「それとも」
「何」
「考えないようにしてる?」
少しだけ、空気が変わった。
彩愛もなんとなく察したのか、口を閉じる。
晴瑠奈はすぐには答えなかった。
鍵盤を見たまま、指先で白鍵を軽く撫でる。
「……そういう言い方されると、ちょっとめんどくさい」
「ごめん」
なおはすぐに言った。
「踏み込みすぎた」
「……うん」
「もう聞かない」
「うん」
そこで、本当に終わった。
なおは続きを探らない。
晴瑠奈も少しだけ肩の力を抜いた。
「別に怒ってはないけど」
「分かった」
「ただ」
「うん」
「弾いてる時くらい、何も考えなくていいのが好きなの」
なおは少しだけ目を細める。
「分かった」
「本当に?」
「多分」
「多分なんだ」
「完全には分からないから」
「……そっか」
晴瑠奈は小さく息を吐いた。
それから、鍵盤に手を戻す。
「もう一曲聴く?」
「聴く」
なおは即答した。
「私も――」
彩愛が言いかけて。
少し考える。
「……やっぱ下行ってくる」
「え」
「何」
「もう飽きた?」
「飽きてないし」
「じゃあ何」
「ちょっと喉渇いた」
「飲み物持ってくれば?」
「……下で飲む」
「飽きてるじゃん」
「飽きてないって!」
彩愛は立ち上がった。
「あとで感想聞くから」
「誰が言うの」
「なお」
「私?」
「晴瑠奈に言ったら怒られそう」
「怒らないし」
「じゃあ二人とも」
そう言って部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
晴瑠奈となおは一度顔を見合わせた。
「……分かんなくなったんだと思う」
なおが言った。
「何が?」
「話」
「……ああ」
二人とも少し笑った。
*
下へ降りると。
鳴美はリビングの床に座っていた。
洗濯した服を取り込んだらしく、横に小さな山ができている。
Tシャツ。
ジャージ。
タオル。
一枚ずつ畳んでいる。
彩愛は冷蔵庫を開けた。
麦茶を出す。
コップに注ぐ。
一口飲む。
それから、鳴美を見る。
「長谷川」
「ん」
「何してんの」
「見りゃ分かるだろ」
「洗濯物?」
「そう」
「ふーん」
彩愛はもう一口飲んだ。
鳴美は気にせず畳み続ける。
彩愛が自分の服を見る。
今着ているTシャツではない。
朝着ていたスポーツ用のものが、二階の部屋にある。
「……」
コップを置いた。
階段を上がる。
二分ほどして戻ってくる。
手にはTシャツが一枚。
鳴美のところへ歩く。
無言で。
畳みかけの服の横に置いた。
鳴美の手が止まった。
Tシャツを見る。
彩愛を見る。
彩愛は麦茶を飲んでいる。
鳴美はTシャツを持った。
そのまま彩愛の膝へ置いた。
「……」
「……」
彩愛がそれを取る。
もう一度置く。
鳴美が返す。
彩愛が置く。
鳴美が返す。
三回目。
「何」
「何」
「なんで戻すの」
「なんで置くの」
「畳んで」
「嫌」
「一枚じゃん」
「一枚なら自分でやれ」
「今畳んでるじゃん」
「俺のをな」
「ついでじゃん」
鳴美の手が止まる。
「お前その言葉好きすぎるだろ」
「便利だから」
「禁止な」
「何を?」
「ついでじゃん」
「なんで」
「俺に被害が出るから」
「大袈裟」
「じゃあ自分でやれ」
「えー」
彩愛がまたTシャツを置いた。
鳴美はしばらくそれを見る。
それから無言で手に取った。
彩愛が少しだけ笑う。
鳴美は綺麗に畳んだ。
「ほら」
「ありがと」
彩愛が手を出す。
鳴美は渡さない。
「何」
「百円」
「は?」
「作業料」
「聞いてない」
「今言った」
「払わない」
「じゃあ返却」
「畳んだのに!?」
鳴美がTシャツを広げようとする。
「待って待って待って!」
「払わないんだろ?」
「だからって戻すな!」
「サービスには対価が必要でーす」
「ケチ!」
「じゃあ自分で畳め!」
「もう畳んだじゃん!」
彩愛がTシャツを奪おうとする。
鳴美が上へ逃がす。
「返して!」
「百円」
「やだ!」
「じゃあ駄目」
「私のだよ!」
「証拠は?」
「私が持ってきたの見てたでしょ!」
「記憶にございませーん」
「最悪!」
二階から足音がした。
なおが降りてくる。
その少し後ろに晴瑠奈。
二人がリビングへ入る。
彩愛が鳴美の手からTシャツを奪おうとしている。
鳴美は片手を上げて逃げている。
「返せ!」
「百円!」
「払わない!」
「交渉決裂!」
「私の服で交渉すんな!」
晴瑠奈が止まった。
「……何してんの」
彩愛が即座に振り返る。
「聞いて! こいつが私のTシャツ返さない!」
「お前が勝手に俺に畳ませたんだろ!」
「畳んだなら返せばいいじゃん!」
「作業料!」
「聞いてない!」
「後払い制です!」
「詐欺!」
「人聞き悪っ!」
晴瑠奈が眉間を押さえる。
「こいつが始めた」
「どっちが?」
「長谷川!」
「一橋!」
「お前だろ!」
「長谷川!」
「……」
晴瑠奈はなおを見る。
なおも二人を見ていた。
少しだけ考える。
「今回は彩芽ちゃんだと思う」
「赤間!?」
「勝手に置いたんでしょ?」
「一枚だよ!?」
「枚数は関係ないと思う」
「ほらー」
鳴美が笑う。
「赤間さん正論でーす」
「お前は調子乗るな!」
「敗訴でーす」
「何の裁判だよ!」
晴瑠奈が小さく息を吐く。
「ほんと小学生」
鳴美が晴瑠奈を見る。
「こいつよりはマシ」
「は!?」
「一橋さん聞きました? 今の」
「聞いたよ!」
「異議申し立てどうぞ」
「お前が一番ガキ!」
晴瑠奈は呆れたように目を逸らした。
なおはその横で、まだ二人を見ている。
さっきまで。
ピアノの前で、ずっと考えていた。
どうしてそう弾くのか。
何を考えているのか。
何を表しているのか。
どうして何も考えないのか。
意味。
理由。
目的。
そういうものを、探してしまう。
探さなければ、見つけられない。
「百円!」
「やだ!」
「じゃあ返さーん」
「泥棒!」
「元は俺の労働成果でーす」
「Tシャツは私の!」
目の前では、二人がTシャツ一枚で揉めている。
多分。
意味はない。
何かを表現しているわけでもない。
何かの役に立つわけでもない。
ただ。
くだらない。
「……」
なおは少しだけ目を細めた。
それでも。
少しだけ、面白い。




