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第四話

家に戻る頃には、時刻はもう十二時を回っていた。

「重い」

「知らん」

「こっち重いって」

「知らん」

「交換して」

「嫌でーす」

「なんで!」

「俺のも重いから」

 鳴美は右手の買い物袋を軽く持ち上げた。

 米に牛乳、卵、調味料。

 共有用として買ったものがかなり入っている。

 彩愛の方も洗剤やらトイレットペーパーやらで、それなりに重い。

「短距離選手だろ。あと三十メートル頑張れ」

「短距離選手は買い物袋持って走んないから」

 そんなやりとりを挟みつつ、鳴美は鍵を開けて中へ入った。

「ただいまー」

「ただいま」

 返事はない。

 靴を脱いで、鳴美はそのままリビングへ向かう。

 そして。

「……お前」

「何?」

「もう散らかしてんじゃん」

「は?」

 床にタオル。

 ソファの端に薄手の上着。

 スポーツバッグがローテーブルの横。

 朝出る前にはなかったものが三つほど増えている。

 彩愛がそれを見る。

「まだ散らかしてないけど」

「床に三個ある」

「三個は散らかしてない」

「何個からなんだよ」

「五個」

「基準あんの腹立つな」

「あと二個はいける」

「いくな」

 鳴美は買い物袋をキッチンへ運んだ。

「その前にそれ片して」

「あとで」

「昨日も聞いたな、それ」

「今日は本当にやる」

「昨日も多分言ってた」

「言ってない」

「じゃあもっと悪いじゃん」

「うるさいなあ」

 彩愛はぶつぶつ言いながら、結局タオルだけ拾った。

 上着とバッグは残った。

「二個になった」

「そういうゲームじゃねえから」

 そこへ、リビングの奥からなおが顔を出した。

「帰ってたんだ」

「今帰った」

「買えた?」

「大体。赤間、これ共有のやつだから、あとで場所だけ見といて」

「分かった」

 なおが袋の中を覗く。

「お米も買ったんだ」

「無かったからな」

「お昼は?」

 その一言で、彩愛も鳴美を見る。

「長谷川」

「何」

「お昼」

「日本語として情報量少なすぎるだろ」

「作る?」

「なんでお前が当然みたいな顔してんの」

「だって買ってきたし」

「買い物行っただけで調理権まで取得したつもりか?」

「私も持ったよ」

「持たせたんだよ」

「同じじゃん」

「違いますー」

 彩愛が口を尖らせる。

 なおはしばらく二人を見てから、

「私は食べたい」

 と言った。

「赤間さん素直ですね」

「食べたいから」

「じゃあ何かやって」

「何すればいい?」

「買ったやつしまって」

「分かった」

「話が早い」

 なおはそのまま冷蔵庫を開けた。

 彩愛も横から覗き込む。

「私もやる?」

「一橋は床」

「えー」

「床」

「買ったもの先じゃない?」

「床」

「はいはい」

 彩愛がようやくバッグと上着を抱えた。

 階段へ向かいながら、

「長谷川、細かい」

「五個までセーフとか言ってる奴に言われたくねえ」

「まだ二個だったし」

「その理論捨ててこい」

 ぱたぱたと二階へ上がっていく。

 なおが卵を冷蔵庫へ入れながら言った。

「彩芽ちゃん、面白いね」

「赤間も人のこと言えんぞ」

「私?」

「昨日、掃除一切手伝わず成果だけ享受しただろ」

「私が散らかしたものじゃないから」

「まだ言う」

「筋は通ってると思う」

「そこが腹立つんだよな」

「そう?」

「そうでーす」

 なおが振り返った。

 少しだけ目を細める。

「長谷川くん、私にもそれやるようになったね」

「何が?」

「その喋り方」

「嫌?」

「別に」

「じゃあ続行でーす」

「そう」

「反応薄っ」

「もっと反応した方がいい?」

「いや、それはそれで違う」

「注文多いね」

「赤間さん生意気になりましたねー」

「昨日会ったばっかりだけど」

「成長が早い」

「何の?」

「知らん」

「適当」

 そこで階段から彩愛が戻ってきた。

「片した」

「えらいえらい」

「その言い方やめて」

「よくできましたー」

「うざ」

 鳴美は笑いながらスマートフォンを取り出した。

 昼は簡単なものでいい。

 検索して、冷蔵庫にあるものと今買ってきたものを確認する。

 豚肉。

 キャベツ。

 卵。

「焼きそばでいい?」

「いい」

「いいよ」

「返事はいいんだな」

 二人とも食べる気満々だった。

     *

 二階。

 晴瑠奈は床に座り込んでいた。

「……終わった……」

 目の前には電子ピアノ。

 その下には防音と振動対策のマット。

 位置を測って。

 ずらして。

 敷いて。

 ピアノを動かして。

 少し傾いている気がしてまた直して。

 配線をまとめて。

 ペダルを置いて。

 椅子の高さも合わせた。

 途中、一度マットの位置が気に入らなくなって最初からやり直した。

 想像していたよりずっと時間がかかった。

 晴瑠奈はそのまま後ろへ倒れる。

「疲れた……」

 天井を見る。

 少しだけ休んだ。

 それから身体を起こす。

 腹も減った。

 下から何か焼く匂いがしている。

「……」

 多分、長谷川だ。

 それで食べる気になるわけではない。

 自分のお昼ご飯はある。

 ただ。

 いつまでも部屋にいるのもつまらなかった。

 一橋と赤間とは、もう少し普通に話してみたい。

 晴瑠奈は立ち上がった。

     *

「赤間、それ取って」

「これ?」

「そう」

「はい」

「ありがと」

「一橋、皿」

「今?」

「今」

「なんで私だけ命令形なの」

「赤間は働いてるから」

「私も働いたじゃん」

「床の二個?」

「片した!」

「自分のだろ!」

 そんな声が飛び交うリビングへ、晴瑠奈は降りてきた。

 階段の途中で、少し止まる。

 昨日までは知らない人間だった。

 正確には、今もほぼ知らない。

 なのに。

「ソースどこ?」

「そこ」

「そこってどこ」

「目の前」

「ないけど」

「右」

「最初から右って言えばいいじゃん!」

「見ろよ!」

 何故か一橋と長谷川が、何年も一緒にいるみたいな喧嘩をしている。

 まだ暮らして1日も経過していないのに。

 赤間はその横で静かに皿を並べていた。

「……何これ」

 思わず声が出た。

 彩愛が振り返る。

「あ、武田」

 表情が明るくなる。

「終わった?」

「……うん」

「何してたの?」

「ピアノ置いてた」

 なおが反応した。

「ピアノ?」

「うん」

「部屋に?」

「電子ピアノ」

 鳴美がフライパンを動かしながら少しだけ顔を上げる。

「ピアノ?」

 晴瑠奈はそちらを見る。

 ほんの一瞬だけ身体が硬くなる。

 鳴美は気づいたのか、すぐフライパンへ視線を戻した。

「あー……なんかデカいのあったな」

「見たの?」

「運び込んでる時に。何かは知らんかった」

「ふーん」

 それ以上は聞いてこなかった。

 なおの方が食いついた。

「ずっとやってるの?」

「小さい頃から」

「クラシック?」

「まあ、基本は」

「電子ピアノ、鍵盤重いやつ?」

 晴瑠奈が少し瞬きをする。

「……うん。かなり生ピアノに近いやつ」

「へえ」

 なおが明らかに興味を持っている。

「タッチでちゃんと音変わる?」

「変わるよ。さすがに本物ほど細かくはないけど」

「弱い音の時?」

「そう。強く弾く方は結構出る。でも弱くした時の幅はちょっと狭い」

「ああ」

 なおが頷いた。

 その頷き方が、適当ではない。

 晴瑠奈が少しだけなおを見る。

「……赤間さん、ピアノやってた?」

「ほとんどやってない」

「え?」

「興味はある」

「それだけ?」

「音楽も絵に使えるから」

 晴瑠奈がまた瞬きをした。

「絵に?」

「うん。音そのものは描けないけど、音を聞いた時にどう見えるかとか。構成も似てるところあるし」

「……へえ」

 彩愛がその二人を交互に見る。

「構成?」

「例えば」

 なおが少し考える。

「全部を同じ密度で埋めると、見てほしいところが分からなくなることあるでしょ」

「絵で?」

「うん」

 晴瑠奈が言った。

「音も似てるかも。全部強く弾けばいいわけじゃないし」

「だよね」

「同じフレーズでも、どこで音切るかで全然違うし」

「余白みたいなもの?」

「……そう。それ近い」

 晴瑠奈の声が、少し変わった。

 さっきまでより明らかに自然だった。

「ペダルも踏めば綺麗になるってもんじゃないんだよ。残しすぎると音が混ざるし」

「色を重ねすぎて濁るみたいな?」

「そうそう」

 晴瑠奈が初めて、少し前のめりになる。

「え、めっちゃ分かるじゃん」

「多分、考え方が近いんだと思う」

「音楽詳しいの?」

「詳しいってほどじゃない。調べるだけ」

「何を?」

「色々」

「色々って」

「美術に使えそうなもの」

 晴瑠奈が小さく笑った。

 その横で。

「……」

 彩愛は完全に黙っていた。

 しばらく頑張って聞いていた。

 だが、ペダル。

 余白。

 密度。

 色が濁る。

 途中から何を話しているのか、ふわっとしか分からない。

 彩愛は静かに横を見る。

 鳴美が食べ終わった皿を持って立ち上がったところだった。

 そのまま流しへ。

 洗い始める。

 彩愛も自分の皿を見る。

 立つ。

 歩く。

 鳴美の横まで行く。

 無言で、自分の皿を流しの端へ置いた。

 鳴美の手が止まった。

「……今なんか増えた?」

「気のせいじゃない?」

「皿が繁殖したんだけど」

「春だから」

「皿に繁殖期ねえよ」

 彩愛は何食わぬ顔で戻ろうとする。

「待て」

「何」

「自分で洗いなさい」

「ついでじゃん」

「出ました、“ついでじゃん”」

「もう洗ってるし」

「俺がな?」

「一枚増えても変わんなくない?」

「変わりまーす」

「何が?」

「俺の気分」

「ちっさ」

「じゃあ自分で洗え!」

 彩愛が皿に手を伸ばす。

 鳴美が先に取った。

「はい残念。もう洗いまーす」

「じゃあ最初から洗えばいいじゃん!」

「感謝が足りませーん」

「ありがと」

「軽っ!」

 少し離れたところで、晴瑠奈が無言でそのやり取りを見ていた。

 昨日会ったばかり。

 そのはずだ。

 なのに。

 なんだ、こいつら。

 鳴美は彩愛の皿まで洗い終えると、水を止めた。

 手を拭く。

 それから、晴瑠奈となおがまた話し始めたのを確認するように一度だけそちらを見た。

 何も言わない。

 買ってきたものの残りを片づけ始める。

 冷蔵庫。

 棚。

 ゴミ袋。

 さっきまで散々うるさかったくせに、会話には入ってこない。

 晴瑠奈は少しだけ気になった。

 けれど、なおがすぐ続きを聞いてくる。

「同じ曲でも弾く人でかなり違う?」

「全然違うよ」

「楽譜は同じなのに?」

「同じだからこそ、かな」

「面白い」

「テンポとか強弱だけじゃなくて――」

 会話はまた深くなっていく。

 そして。

 彩愛が、また黙った。

「……」

 少し。

 かなり。

 分からない。

 視線を動かす。

 今度は冷蔵庫の前で鳴美が何かを整理している。

 彩愛はそっちへ行った。

「長谷川」

「何」

「何してんの」

「見て分からん?」

「冷蔵庫見てる」

「じゃあ聞くなよ」

「暇?」

「今の会話のどこに俺が暇な要素あった?」

「喋れるじゃん」

「お前マジで自由だな」

 彩愛はそのまま鳴美の横に立った。

 向こうではなおと晴瑠奈がまだ話している。

「長谷川、あれ分かる?」

「何が?」

「話」

「細かいところは全然」

 彩愛が少し安心したように、

「だよね」

 と言った。

 鳴美が冷蔵庫の卵を奥へ寄せながら、しばらく向こうの会話を聞く。

 晴瑠奈が何か話している。

「だから、全部ちゃんと鳴らそうとすると逆に平坦になるっていうか」

「絵でも全部主役にすると主役なくなるしね」

「そう」

 鳴美が何気なく言った。

「要は全部目立たせようとしたら、結局どこ見てほしいのか分かんなくなるみたいな話だろ?」

 なおがこちらを見る。

「かなり雑だけど、近い」

 晴瑠奈も少し間を置いて、

「……まあ、」

 と答えた。

「ほら」

 鳴美は何でもないように冷蔵庫を閉める。

 横を見る。

 彩愛が黙っている。

「何?」

「……別に」

「何だよ」

「別に」

「…………あー」

 鳴美の口元が上がった。

 彩愛が嫌そうな顔をする。

「何」

「分かった」

「何が」

「一緒に分かんないと思ってたんだ?」

「は?」

「俺もそっち側だと思って安心してたんだ?」

「違うし」

「ざんねーん」

「うざ」

「鳴美くん、ちょっとだけ分かっちゃいましたー」

「うっざ!」

「一橋さん一人だけ置いてかれちゃいましたねー」

「置いてかれてない!」

「かわいそー」

「うるさい!」

「拗ねてる拗ねてる」

「拗ねてない!」

「声でっか」

「誰のせいだよ!」

「黙れ!」

「効いてる効いてる」

「もういい!」

 晴瑠奈は、その光景を呆然と見ていた。

「……」

 本当に。

 本当に、くだらない。

 高校生なのに。

 しかも長谷川は、一橋彩芽が何で機嫌を悪くしたのか普通に分かっていた。

 分かった上で。

 慰めるでもなく。

 わざわざ一番腹の立つ言い方を選んでいる。

 晴瑠奈の口から、思わず漏れた。

「……性格悪」

 鳴美が振り返った。

「今なんか言った?」

「別に」

「言ったじゃん」

「話しかけないで」

「はい」

 即座に終わった。

「……」

 晴瑠奈は少しだけ眉を寄せる。

 そしてまた、彩愛を見る。

「お前ほんとムカつく!」

「負け惜しみでーす」

「何に負けたんだよ!」

「知らん!」

「お前が言ったんだろ!」

 また始まった。

 晴瑠奈は思う。

 男だからどうこう以前に。

 こいつ。

 普通に。

 クソガキだ。

「……」

 隣では、なおが静かに二人を見ていた。

 表情はほとんど変わっていない。

 けれど。

 視線だけが、少し忙しい。

 鳴美を見る。

 彩愛を見る。

 二人の間を見る。

 距離。

 表情。

 声。

 怒っているのに、離れない。

 嫌がっているのに、また近づく。

 鳴美は彩愛にはここまでやるのに、晴瑠奈には一度止められればすぐに引く。

 なのに、さっきの音楽の話は、細かい知識もないまま根っこだけ拾った。

「……」

 なおは何も言わなかった。

 ただ。

 少しだけ、目が光っていた。

 この家。

 思っていたより。

 使えるものが多いかもしれない。

 絵に。

 あるいは、それ以外にも。

「赤間さん?」

 晴瑠奈が呼ぶ。

「何?」

「さっきの続きなんだけど」

「うん」

 なおはすぐにそちらへ戻った。

 リビングの片側では、また音と余白の話が始まる。

 もう片側では。

「一橋、それ共有の棚に入れんなよ」

「なんで?」

「それお前のポテチだろ」

「ちょっとくらいいいじゃん」

「戻してきなさーい」

「家の中でどこに戻すんだよ!」

「自分の部屋!」

「遠い!」

「二階だろ!」

 今日も、この家はうるさかった。

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