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第三話

翌朝。

 目が覚めた時、時計は六時五十八分を指していた。

 鳴美はしばらく天井を眺めて、それから身体を起こした。

 新しい部屋。

 まだ完全には片づいていない段ボール。

 昨日までとは違う天井。

 少しだけ違和感がある。

 ただ、それより先に身体がいつもの順番で動いた。

 ベッドの端に座る。

 左脚を伸ばす。

 膝を曲げる。

 もう一度伸ばす。

「……よし」

 痛みはない。

 少し張っている程度。

 昨日は引っ越しに掃除までした。ならこんなものだろう。

 鳴美は立ち上がって、水を一杯飲んだ。

 着替えて部屋を出る。

 廊下は静かだった。

 まだ七時。

 武田も赤間も寝ているらしい。

 リビングへ向かう。

 そこで先客に気づいた。

 一橋彩愛が床に座っていた。

 スポーツウェア。

 髪は後ろで適当にまとめている。

 足首を回し、膝を抱え、股関節をゆっくり動かしていた。

 昨日リビングのど真ん中でやっていたストレッチとは少し違う。

 身体を伸ばすというより、動きを確かめている。

 彩愛が顔を上げる。

「おはよ」

「おう」

「起きんの早いね」

「お前もな」

「走るから」

「朝から?」

「軽くね」

 彩愛は立ち上がる。

 その場で二、三度弾むように身体を動かしてから、足首をもう一度確認した。

 鳴美は何となく見ていた。

「何」

「いや」

「見てたじゃん」

「ちゃんとやんだなと思って」

「何それ」

「昨日のお前見てたら、適当に走ってんのかと思ってた」

「は?」

「散らかして、逃げて、ただ飯食っただけじゃん」

「昨日の私の評価低すぎない?」

「事実しか言ってませーん」

「朝からうざ」

「いってらっしゃーい」

「まだ出てないし」

 彩愛は玄関へ向かう。

「何分くらい?」

「二十分くらい」

「それだけ?」

「身体温めるだけだから」

 鳴美が少しだけ目を細める。

「へえ」

「何」

「別に」

「その“へえ”何」

「行ってこいよ」

「なんかムカつく」

「朝から元気ですねー」

「帰ったら覚えとけ」

「怖い怖い」

 彩愛が出ていった。

 玄関が閉まる。

 鳴美は一人になったリビングで、少し笑った。

 身体を温めるだけ。

 つまり、その後がある。

 ただ朝から走りたいだけではないらしい。

「……陸上部か」

 昨日見たスパイク。

 ストレッチ用品。

 脚の使い方。

 走る前の準備。

 なんとなくガチでやっていることくらいは分かっていた。

 けれど、思っていたよりちゃんとしている。

 鳴美は自分も外へ出る準備をした。

 走ることはまだできない。

 だから散歩だ。

     ◇

 朝の空気は少し冷たかった。

 鳴美は近所をゆっくり歩いた。

 速く歩く必要はない。

 左脚の接地。

 膝の違和感。

 左右の歩幅。

 無意識に確認しながら進む。

 昔なら、この程度は運動にすら入らなかった。

 朝に軽く身体を動かして、そのままボールを触る。

 学校が終われば練習。

 帰って飯を食って、風呂に入って、早く寝る。

 中学までは、それが普通だった。

 今は歩くだけ。

「……まあ、しゃーねえか」

 焦っても早く治るわけではない。

 鳴美はそのまま二十分ほど歩いて家へ戻った。

 家の近くまで来たところで、人影が見えた。

 一橋だった。

 もうジョグは終わったらしい。

 家の前の少し広い場所で、何かやっている。

 軽く腿を上げる。

 リズムよく足を運ぶ。

 小さく跳ねるような動き。

 何本か繰り返して、今度は短い距離を軽く走った。

 全力ではない。

 けれど速い。

「……あ」

 鳴美の足が止まる。

 一本。

 戻る。

 少し間を空ける。

 また一本。

 動きを確認している。

 ただ速く走っているわけではない。

 接地も、姿勢も、腕振りも、一つずつ意識しているのが分かる。

「マジじゃん」

 思わず口から漏れた。

 彩愛が振り返る。

「何が?」

「お前」

「何」

「普通に速いな」

 一瞬。

 彩愛の表情が止まった。

「……何それ」

「褒めた」

「急に?」

「昨日は走ってるとこ見てねえし」

「そりゃそうでしょ」

「もっと勢いだけで走ってんのかと思ってた」

「失礼すぎるんだけど」

「でもちゃんとしてた」

「当たり前」

「へえ」

「その言い方やめて」

 彩愛は少しだけ得意そうだった。

 それが分かりやすくて、鳴美が笑う。

「嬉しそう」

「別に」

「褒められて嬉しいんじゃーん」

「うるさい」

「速いねー、一橋さん」

「キモい!」

「朝から元気だな」

「お前のせいでしょ!」

 二人で家に入る。

 彩愛はそのまま風呂場へ向かった。

「シャワー浴びてくる」

「はいはい」

「覗くなよ」

「誰が覗くか!」

「一応」

「朝から喧嘩売んな」

 扉が閉まる。

 鳴美はしばらくその方向を見てから、リビングへ戻った。

「……ちゃんと競技者なんだな」

 昨日より、少しだけ一橋彩愛という人間が分かった気がした。

     ◇

 彩愛がシャワーを浴びている間に、鳴美も軽く身体をほぐした。

 左膝周り。

 腿。

 ふくらはぎ。

 左右差を確かめるように、ゆっくり。

 走れない分、やれることをやる。

 しばらくして、彩愛が戻ってきた。

 髪はまだ少し湿っている。

「長谷川」

「ん?」

「それ、膝?」

「そう」

「怪我してんの?」

 鳴美が少しだけ顔を上げた。

「分かった?」

「朝から左だけずっと見てるし」

「よく見てんな」

「私も競技やってるからね」

「なるほど」

 それ以上は聞いてこなかった。

 彩愛は自分の朝食を取りに行く。

 コンビニの袋。

 おにぎり。

 ヨーグルト。

 飲み物。

「ちゃんと食うんだ」

「当たり前じゃん」

「もっと適当かと思ってた」

「昨日から失礼すぎない?」

「昨日のお前が悪い」

「いつまで引っ張るの」

「最低一週間」

「長っ」

 鳴美も朝飯を作り始めた。

 米をよそう。

 味噌汁を温める。

 卵を焼く。

 彩愛が横を見る。

「……それ何個焼いてる?」

「秘密」

「二個じゃん」

「数えられて偉いねー」

「私のある?」

「ないでーす」

「絶対あるじゃん」

「ありません」

「その皿二枚何?」

「観賞用」

「嘘つけ」

「朝から口悪いなあ」

 彩愛が自分のおにぎりを開ける。

「じゃあ自分の食べるし」

「はい残念」

「何」

「そこ座ってくださーい」

「あるんじゃん!」

「うるせえ、冷める」

「素直じゃないね」

「朝飯没収」

「座ります」

 彩愛が即座に座った。

「早」

「食べ物は大事だから」

「昨日の掃除もそれくらい大事にしろよ」

「またそれ!」

 その声で、廊下の奥から物音がした。

 少しして、なおが出てくる。

「おはよう」

「おう」

「おはよ」

 なおがテーブルを見る。

「朝ごはん?」

「そう」

「彩芽ちゃんの分も?」

「勝手に増えた」

「最初から作ってたじゃん!」

「証拠は?」

「見てた!」

 なおが少し笑う。

「私も食べていい?」

「早速二人目来たな」

「昨日美味しかったから」

「お前ら味覚だけは素直だな」

「ダメ?」

「皿」

「分かった」

 なおはすぐに皿を出す。

 彩愛が指を差した。

「なおだけ簡単すぎる!」

「お前は昨日の借金残ってんだよ」

「掃除の?」

「そう」

「いつ返済終わるの」

「俺が飽きたら」

「横暴!」

「文句ある?」

「ある!」

「聞いてませーん」

「じゃあ聞くな!」

 少し遅れて晴瑠奈も起きてきた。

「おはよ」

 なおが言う。

「おはよう」

 彩愛も続く。

「おはよー」

「おはよ」

 鳴美も一応言う。

「おはよ」

「……」

 晴瑠奈は返さない。

 そのまま自分の朝食を取りに行った。

 鳴美は気にせず味噌汁をよそう。

 彩愛が小声で言う。

「無視されてんじゃん」

「聞こえてるぞ」

「事実じゃん」

「お前も昨日まで似たようなもんだっただろ」

「私は返してたし」

「うざ、とか?」

「会話じゃん」

「便利な会話だな」

     ◇

 朝食を食べ終わる。

 彩愛が立ち上がった。

「ごちそーさま」

「待て」

「何」

「皿」

「……」

「逃げんなよ」

「自分で食洗機入れればいいじゃん」

「お前も食っただろ」

「長谷川が作ったし」

「作ったやつに片づけまでさせんな」

「えー」

「えーじゃありません」

 なおは自分の皿を持って立つ。

「私は自分の分やるね」

「赤間を見習え」

「赤間は偉いねー」

「お前がやれ」

「分かったって」

 彩愛が渋々皿を持つ。

 晴瑠奈は既に自分のものを片づけ終えていた。

 鳴美は冷蔵庫を開ける。

 昨日買った食材が少し減っている。

 当然だ。

 三人で食ったのだから。

「……これさ」

 なおが振り返る。

「何?」

「毎回俺の金で食材買うの普通におかしくね?」

 彩愛がすぐ言う。

「じゃあ出すよ」

「お前は食う気満々だな」

「美味しかったし」

「清々しいな」

「共有費作れば?」

 なおが言う。

「米とか調味料とか、みんな使うものだけ」

「それだな」

 鳴美は冷蔵庫を見ながら考える。

「米、卵、味噌、油、牛乳……その辺は共有」

「スポドリも」

 彩愛が言う。

「お前用じゃん」

「みんな飲むでしょ」

「俺今ほぼ飲まねえし」

「治ったら飲むじゃん」

「未来の俺を勝手に会計へ入れんな」

「ケチ」

「共有費守ってるだけでーす」

 なおが口を挟む。

「一ヶ月いくらくらい?」

「とりあえず一人一万五千とかで回す?」

「足りなかったら増やす?」

「それでいいんじゃね」

 晴瑠奈も離れたところから一度だけこちらを見る。

「……それ、日用品も?」

「洗剤とかゴミ袋とかもそこからでいいだろ」

「ならいい」

「決定」

 鳴美はスマホに簡単にメモする。

 そして彩愛を見る。

「一橋」

「嫌」

「まだ何も言ってねえだろ」

「買い物でしょ」

「分かってんじゃん」

「嫌」

「朝飯食った人ー?」

「……」

「昨日の夜も食った人ー?」

「……」

「働いてない人ー?」

「行けばいいんでしょ!」

「はい、よくできました」

「ムカつく!」

     ◇

 二人で家を出た。

 まだ午前中。

 昨日ほど荷物もない。

 鳴美は買い物用の袋を片手に歩く。

 彩愛はその少し前。

「速い」

「何が?」

「歩くの」

「普通だけど」

「俺にとっては速い」

 彩愛が止まる。

 振り返る。

「……膝?」

「そう」

 それだけで、彩愛は少し歩幅を落とした。

 鳴美が横に並ぶ。

「優し」

「合わせてるだけ」

「一橋さん優しいねー」

「戻すよ?」

「何を」

「歩く速度」

「それは待て」

「じゃあ黙って」

「はいはい」

 しばらく歩く。

 彩愛が何度か鳴美の左脚を見る。

「何」

「怪我、何やったの」

 鳴美は前を向いたまま答えた。

「前十字」

「……え」

「左ACL」

 彩愛の足が一瞬止まる。

「マジ?」

「マジ」

「いつ?」

「去年の十月」

「手術は?」

「二月」

「……最近じゃん」

「まあな」

 彩愛が黙る。

 さっきまでとは空気が違った。

「サッカーで?」

「うん」

「接触?」

「ああ」

「……そっか」

 それ以上、すぐには続かなかった。

 鳴美が横を見る。

 彩愛は珍しく何も言わない。

「何その顔」

「いや」

「かわいそーって思った?」

「思ってない」

「嘘つけー」

「うるさい」

「一橋さん優しいねー」

「は!?」

「よしよししたろか?」

「いらん!」

「遠慮すんなって」

「マジでうざい!」

「戻った戻った」

「何が!」

 鳴美は笑う。

 彩愛はしばらく睨んでいた。

「……サッカー、まだやるんでしょ」

「やるよ」

「プロとかは?」

「まあ、そのルートはほぼ終わったかな」

 また彩愛が黙る。

「だからその顔やめろって」

「別に」

「優しいねえ」

「蹴るよ」

「怪我人だぞ俺」

「お前が煽るからでしょ!」

「ACL患者に暴力反対でーす」

「都合よく使うな!」

「使えるもんは使う」

「最低!」

 スーパーが見えてきた。

 鳴美は笑いながら入口へ向かう。

 彩愛もその横を歩く。

     ◇

 スーパーに入って十分。

 鳴美は既に一橋彩愛を見失っていた。

「……どこ行った?」

 さっきまで隣にいた。

 米を見ていたはずだ。

 振り返ったら消えていた。

「自由行動早すぎんだろ」

 二つ隣の通路。

 さらに奥。

 菓子売り場。

 いた。

 彩愛がポテトチップスを二袋持って見比べている。

「何してんのお前」

「どっちがいいと思う?」

「知らん」

「こっち期間限定」

「じゃあそれ」

「でもこっち大きい」

「好きな方買え」

 彩愛は少し考える。

「じゃあ両方」

「欲張り小学生」

「は?」

「お菓子二個持ってママんとこ戻ってくるやつじゃん」

「誰がママ」

「俺」

「キモ」

「じゃあ一個戻してきなさい」

「なんで!?」

「今日は一個までです」

「自分のお金で買うんだけど!」

「じゃあ好きにしろよ!」

「最初からそうしてる!」

「なら聞くな!」

「どっちがいいか聞いただけ!」

 彩愛は二袋とも鳴美のカゴへ入れる。

「あ」

「何」

「俺のカゴ入れんな」

「持つの面倒」

「自分で持ちなさい」

「重い」

「ポテチ二袋に負ける短距離選手初めて見た」

「種目違うし」

「今日からポテチ運搬三十メートルな」

「出ない」

「優勝候補」

「出ないって!」

 鳴美が二袋を彩愛に返す。

「はい」

「えー」

「自分のお菓子は自分で持ちましょうねー」

「うざ」

「店内で騒がないでくださーい」

「お前が言うな!」

 その後も彩愛は何度か消えた。

 飲み物。

 ヨーグルト。

 スポーツ用品に近い棚。

 鳴美が洗剤を選んで戻ると、カゴの中に見覚えのないスポーツ飲料が三本入っていた。

「……」

 ゼリー飲料も二つ。

 鳴美は横を見る。

 彩愛は知らん顔をしている。

「一橋」

「何」

「今何入れた?」

「何も」

「見えてんだよ」

「スポドリ」

「誰が飲むんですかー?」

「みんな」

「具体的に」

「私」

「終わり?」

「長谷川も」

「今ほぼ運動できませーん」

「治ったら飲む」

「また未来の俺を使ったな」

「赤間も飲むかも」

「本人確認取ってから言え」

「武田も」

「巻き込むな」

「じゃあ東江さん」

「まだ会ってねえよ!」

 彩愛がゼリーを指差す。

「これは共有でよくない?」

「誰が食う」

「お腹空いた人」

「最初に食うのお前だろ」

「早い者勝ち」

「それ共有じゃねえから!」

「細かいなあ」

「共有費ってそういうもんだろ」

「じゃあ一本だけ」

「スポドリ?」

「うん」

「……一本ならまあ」

「やった」

 彩愛がもう一本入れる。

「増やすな!」

「一本追加」

「今一本って言っただろ!」

「二人で飲めば共有」

「俺を共犯にすんな!」

 鳴美は一本を棚へ戻す。

 彩愛が取り返そうとする。

「ダメでーす」

「ケチ!」

「自分で買いなさーい」

「さっきポテチ二個買ってるし」

「知らんわ!」

 完全に小学生だった。

     ◇

 会計を終えて、スーパーを出る。

 鳴美が共有分の袋を持つ。

 彩愛にも一つ渡す。

「はい」

「重っ」

「陸上部が何言ってんの」

「短距離は買い物袋持つ競技じゃないし」

「スーパー袋三十メートル」

「またそれ?」

「今なら出場できます」

「出ません」

「優勝商品ポテチ」

「出る」

「出んのかよ!」

「ポテチなら」

「安い選手だなあ」

「うるさい」

 二人で歩き出す。

 帰りは少し遅い。

 鳴美に合わせている。

「また合わせてんの?」

「別に」

「優しいねえ」

「それもういい」

「照れんなって」

「置いてくよ」

「それはダメ」

「じゃあ黙って」

「嫌でーす」

「ガキ」

「お前もな」

「私は違うし」

「さっきお菓子二個持ってたやつが?」

「自分で買ったからいいの」

「スポドリこっそり共有費に入れたやつが?」

「一本は共有になったじゃん」

「俺が折れただけだろ」

「つまり勝ち」

「何の勝負だよ」

「知らない」

「最強だなお前」

 昨日会ったばかり。

 まだ二十四時間も経っていない。

 なのに。

「お前さ」

「何」

「昔からこんな感じ?」

「何が」

「ガキ」

「お前にだけは絶対言われたくない」

「俺は大人だから」

「どこが」

「生活力」

「口が小学生」

「お前もだろ」

「私は違う」

「ポテチ二袋」

「それは関係ない!」

 家が見えてくる。

 鳴美は袋を持ち直した。

 左膝は少し重い。

 けれど痛みはない。

 隣では、彩愛がまだ何か言っている。

「長谷川」

「ん?」

「今日の昼も作る?」

「お前さあ」

「何」

「もう寄生する気?」

「共有費払うし」

「料理代は?」

「……」

「交渉決裂」

「は?」

「あたりまえだろ」

「横暴!」

 二人の声が、朝の住宅街に響いた。

 まだ、出会って二日目にもなっていなかった。

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