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第二話

夕方五時を回る頃には、どうにかリビングは人間が生活できる状態になっていた。

 床が見える。

 ソファに座れる。

 テーブルの上にも物を置ける。

 当たり前のことしか達成していないはずなのに、妙な達成感がある。

「……つっかれた」

 鳴美はソファに腰を下ろして、左脚を少し伸ばした。

 痛いわけではない。

 ただ、まだ長く立っていると膝の周りが重くなる。

 今日は引っ越しまでしている。ここで調子に乗って、次のリハビリで怒られるのも馬鹿らしい。

 軽く曲げ伸ばししていると、向かいで晴瑠奈が自分の荷物を抱えた。

 二階へ向かうらしい。

「武田」

 足が止まる。

「……何」

「お疲れ」

「……」

 そのまま階段を上がっていった。

「無視かよ」

 まあいい。

 今のところ、返事があるだけでも上等な方だ。

 鳴美が背もたれに身体を預けたところで、玄関が開いた。

「ただいまー」

 一橋彩愛だった。

 頬は赤く、額には汗が浮いている。

 鳴美は時計を見る。

「結構走ってたな」

「うん」

 彩愛がリビングへ入る。

 一歩。

 二歩。

 そこで止まった。

「おー」

「何だよ」

「綺麗じゃん」

「誰のせいで汚かったと思ってんだ」

「ありがと」

「軽っ」

 彩愛は笑いながらスポーツバッグを床へ置く。

 鳴美が即座に指を差した。

「はいアウト」

「何が?」

「今」

「何」

「床」

 彩愛が自分のバッグを見る。

「あ」

「三秒で再犯」

「別によくない?」

「よくないでーす」

「細か」

「本日の前科がありまーす」

「前科って何」

「リビング壊滅罪」

「そんな法律ないから」

「今できた」

「勝手に作んな」

「はい、部屋持ってけ」

「えー」

「えーじゃない」

 彩愛は渋々バッグを持ち上げる。

「じゃ、風呂入ってくる」

「帰って即?」

「汗やばいし」

「まあそれは入れ。臭くなる前に」

「まだ臭くないし!」

「確認してねえから知らん」

「最低」

「はいはい、早く行け」

「言われなくても行くし」

 彩愛は自室へ着替えを取りに行き、そのまま風呂場へ消えていった。

 しばらくしてシャワーの音が聞こえてくる。

「……帰ったら即風呂か」

 鳴美は立ち上がった。

 冷蔵庫を開ける。

「……ないな」

 飲み物。

 卵が三つ。

 誰のものか分からないヨーグルト。

 使いかけのドレッシング。

 夕飯と呼べるものはほとんどない。

 スマホで近所のスーパーを確認する。

 歩いて数分。

 ちょうどいい。

「赤間ー」

 返事はない。

「赤間なおさーん」

 少しして扉が開いた。

「何?」

「スーパー行くけど、なんかいる?」

「特にない」

「飯は?」

「まだ決めてない」

「じゃあなんか作るわ」

「何?」

「知らん。店見て決める」

「決まったら教えて」

「何で?」

「食べるかもしれないから」

「もう寄生する気?」

「まだ何もしてないよ」

「予告寄生じゃん」

 なおは少し考える。

「その言い方は嫌だな」

「じゃあ予約寄生」

「もっと嫌」

「じゃ、行ってくる」

「うん」

 扉が閉まる。

 鳴美は二階を見る。

 晴瑠奈にも聞くか迷って、やめた。

 必要ない時は話しかけるな。

 本人がそう言っている。

 今は必要ない。

 玄関を出る前、もう一度シャワーの音を聞いた。

「風呂も決めねえとなあ」

 掃除が終わっただけだ。

 五人で暮らすとなれば、問題はむしろこれからだった。

     ◇

 三十分ほどして戻ると、彩愛はもう風呂から上がっていた。

 大きめのTシャツに短パン。

 濡れた髪をタオルでわしゃわしゃ拭きながら、リビングの床に座っている。

「ただいまー」

「俺が帰ってきたんだけど」

「あ、そっか。おかえり」

「お前もう完全に主じゃん」

「先に住んでたし」

「二日くらいだろ」

 鳴美は買い物袋をキッチンへ置いた。

 米はある。

 肉と野菜も買ってきた。

 今日は適当に炒め物と味噌汁でいい。

 スマホでレシピを開く。

 作業台を空ける。

 包丁を置く場所も先に決める。

 母親から昔から言われていたことは守る。

 刃物は端に置くな。

 火をつけたまま離れるな。

 濡れた手で余計なものに触るな。

 面倒でも、危ないことはしない。

「長谷川、料理できんの?」

 彩愛が寄ってきた。

「一応」

「何作るの」

「野菜炒め」

「普通」

「じゃあお前だけ生野菜な」

「なんで」

「文句言ったから」

「文句じゃないし」

「はい、生キャベツ決定」

「嫌なんだけど」

「じゃあ静かに待て」

「偉そう」

「作ってる人が一番偉いんでーす」

「小学生?」

「お前にはちょうどいいだろ」

「は?」

 鳴美は笑いながら肉を切る。

「近い近い」

「見てるだけじゃん」

「包丁使ってる時に寄るなって」

「あ、ごめん」

 そこは素直に一歩下がった。

 鳴美は切り終えた包丁を、まな板の奥へ置く。

「それ何人分?」

「俺の分」

「多くない?」

「明日の分」

「余る?」

「余りませーん」

「まだ聞いただけじゃん」

「顔に書いてある」

「何て?」

「『ただ飯食いてえ』」

「書いてないし」

「見える」

「嘘つき」

 鳴美はフライパンへ肉を入れた。

 いい音がする。

 彩愛がまた少し近づく。

「味見する?」

「する」

「働いてない奴はダメでーす」

「は!?」

 鳴美は即答した。

「本日の家事貢献度、半径六十センチ」

「またそれ!?」

「歴史は消えないんでーす」

「私ちょっと片したじゃん!」

「ちょっとな」

「走るの忙しかったし」

「知らないでーす」

「ムカつく!」

「ざんねーん」

「ほんとガキ!」

「お前に言われたくねえ」

 彩愛が何か言い返そうとしたところで、廊下の奥から扉が開いた。

 なおが出てくる。

「いい匂いする」

「ほら、二匹目来た」

「二匹目?」

「ただ飯狙い」

「食べていい?」

「否定しろよ」

「食べたいのは本当だから」

「強いな」

 なおが鍋を見る。

「これ一人分増やすの大変?」

「別に」

「じゃあお願い」

「お前も掃除してないだろ」

「そうだね」

「反省ゼロ」

「散らかしてないから」

「その理論まだ生きてんのか」

 なおは少し首を傾げた。

「ダメ?」

「ダメでーす」

「じゃあ何したらいい?」

「皿出して」

「分かった」

 なおが素直に棚を開ける。

 彩愛が振り向いた。

「え、赤間にはそれだけ?」

「じゃあお前は箸」

「もっと簡単じゃん!」

「嫌なら皿洗い」

「箸出します!」

「よろしい」

「腹立つなあ!」

 鳴美は笑う。

 なおが三枚の皿を並べる。

「私も味見していい?」

「いいよ」

「ちょっと待って!」

 彩愛が振り返った。

「なんで赤間はいいの!?」

「今皿出したから」

「私も箸出した!」

「じゃあいいよ」

「何その上から目線!」

「味見したいんだろ?」

「したいけど!」

「じゃあ言えよ」

「……味見させてください」

「声が小さいなあ」

「うっざ!」

「はいどうぞ」

「最初から出せ!」

 鳴美は小皿に少しだけ取り分けた。

 彩愛が食べる。

 一瞬。

「……うま」

「知ってる」

「調子乗んな」

「今褒めたのお前じゃん」

「もうちょい濃くてもいいかも」

「ただ飯予定のやつが注文すんな」

「感想じゃん」

「黙って食え」

「味見の意味ないじゃん!」

 なおが横で小さく笑った。

 鳴美がそちらを見る。

「赤間も笑うんだな」

「笑うよ」

「もっと無表情系かと思ってた」

「失礼じゃない?」

「ちょっとだけ」

「自覚あるんだ」

「ある」

 まだ、なおには彩愛ほど遠慮なくはいけない。

 ただ、少しくらいなら返してくる。

 その程度には分かってきた。

     ◇

「そういや一橋」

「何?」

「お前、練習の日は毎回帰ったら即風呂?」

「大体」

「何時に帰る?」

「日による」

「またそれかよ」

「ほんとに日によるんだって」

「使えねえ情報だな」

「聞いといて何それ」

「七時とか八時?」

「部活始まったらそんくらい」

「で、飯はそのあと?」

「うん」

「毎回?」

「大体」

「日による、大体、知らない。その三個で人生回してる?」

「回ってるからよくない?」

「強い」

 鳴美は火を弱める。

「赤間は?」

「ご飯?」

「飯と風呂」

「ご飯は六時半から七時くらい。お風呂は空いてる時」

「一番曖昧なやつ来たな」

「別に順番いらなくない?」

「俺もそう思う」

「じゃあ何で聞いたの」

「被る時間だけ知りてえんだよ」

「なるほど」

「あと風呂入ってる時、洗面所どうする?」

 彩愛が箸を並べながら首を傾げる。

「どうするって?」

「脱衣所と近いだろ。誰か入ってる時に歯磨きとかで入っていいのか」

「あー」

 なおが先に答える。

「入らない方がいいと思う」

「だよな」

「急いでたら?」

 彩愛が言う。

「諦めろ」

「冷た」

「先に歯磨いとけ」

「間に合わなかったら?」

「廊下で反省会」

「何それ」

「『なぜ私は歯磨きの時間を逃したのか』」

「やだよ!」

「作文四百字」

「小学生じゃん!」

「原稿用紙貸すぞ」

「いらん!」

 なおがまた少し笑う。

「長谷川くん、一橋さんには結構ひどいね」

「こいつ大丈夫そうだから」

「何が!?」

「雑に扱っても」

「失礼すぎる!」

「でも嫌ならやめるぞ」

 彩愛が一瞬止まる。

「……別に嫌じゃないけど」

「じゃあ続行でーす」

「聞いた意味!」

「確認」

「ムカつく!」

 そこへ玄関が開いた。

「ただいま」

 晴瑠奈だった。

 コンビニ袋を持っている。

「おかえり」

 彩愛が言う。

「ただいま」

 晴瑠奈も普通に返す。

 鳴美が顔を上げた。

「武田」

 晴瑠奈の表情が少し硬くなる。

「……何」

「風呂、大体何時?」

「……」

「被ったら面倒だから。それだけ」

 少し間。

「七時から九時くらい」

「了解」

 鳴美はすぐ鍋へ視線を戻した。

「あと誰か風呂入ってる時は、洗面所も入らないってのでいい?」

「それは絶対」

「はいよ」

 それ以上は聞かない。

 晴瑠奈も何も言わず、少し離れた席へ座った。

     ◇

 夕食は結局、鳴美、彩愛、なおの三人が同じものを食べた。

 晴瑠奈はコンビニで買ってきたものを、少し離れたところで食べている。

「うま」

 彩愛がまた言った。

「知ってる」

「一回褒められたからって調子乗りすぎ」

「じゃあ返せ」

「何を?」

「その飯」

「もう食べた」

「吐け」

「最低!」

「お前が返せって言ったら?」

「言ってない!」

「じゃあ黙って食え」

「理不尽!」

 なおが隣で食べながら言う。

「毎日これなら結構助かる」

「毎日は作らねえよ」

「食費出しても?」

「毎日は嫌」

「週三?」

「交渉始めんな」

「週二」

「値切るな」

 彩愛も乗ってくる。

「じゃあ私も食費出す」

「お前は働け」

「何すればいいの?」

「まず散らかすな」

「そこから!?」

「ゼロ地点だからな」

「厳しすぎ」

「今日のお前見て言ってるからな」

 別に三人が仲良くなったわけではない。

 鳴美が飯を作れた。

 彩愛となおが、そこに乗った。

 ただそれだけだ。

 けれど、昼間よりは少しだけ。

 この家に人が住んでいる感じはした。

     ◇

 夜十時四十分。

 鳴美は自室のベッドに腰掛けていた。

 荷解きは八割ほど終わった。

 残りは明日でいい。

 軽くストレッチをして、左膝を曲げ伸ばしする。

 少し疲労感はあるが、痛みはない。

 今日は引っ越しに掃除までやった。初日にしては動いた方だ。

 夕食のあと、寝る時間についても大体確認した。

 十一時を過ぎたら必要以上に騒がない。

 廊下も静かにする。

 ドライヤーなんかの音が出るものも、できるだけそれまでに済ませる。

 細かく決めすぎても続かない。

 とりあえずは、それくらいでいい。

 鳴美はベッドへ倒れ込んだ。

「……初日にしちゃ上出来か」

 昼には足の踏み場もなかった。

 今は普通に歩ける。

 一橋は図々しい。

 赤間は合理的すぎる。

 武田はほぼ口を利いてくれない。

 東江はまだ顔すら知らない。

「先長えなあ」

 ぼんやり天井を見ていると。

「長谷川ー」

 廊下から声がした。

「なにー」

「ドライヤーどこー?」

 彩愛だ。

 鳴美は壁の時計を見る。

 十時四十分。

 まだセーフ。

「教えませーん」

「は!?」

「働いてない奴には教えませーん」

「まだ言ってんの!?」

「歴史は消えませーん」

「うざっ!」

「ざんねーん」

「何が!?」

「自分で探してくださーい」

「長谷川が片付けたんでしょ!」

「記憶にございませーん」

「絶対知ってるじゃん!」

「知りませーん」

「ガキ!」

「お前にだけは言われたくありませーん」

 鳴美は笑いながら身体を起こした。

 扉を開ける。

 彩愛が廊下に立っていた。

「で、どこ?」

「知らね」

「嘘」

「知らね」

「顔笑ってるし」

「生まれつき」

「さっきそんな顔してなかったじゃん」

「気のせいでーす」

「早く教えて」

「やだ」

「何で!」

「面白いから」

「最悪!」

「はいはい」

 そう言いながら、鳴美は彩愛の横を通り過ぎた。

「……何?」

「こっち」

「知ってんじゃん!」

「知らないけど、多分こっち」

「絶対知ってる!」

「証拠は?」

「うざ!」

「本日何回目でしょう」

「知らない!」

「ざんねーん、俺も数えてませーん」

「じゃあ聞くな!」

 二人で廊下を進む。

「最初から教えればいいじゃん」

「嫌でーす」

「性格悪」

「褒めんな」

「褒めてない!」

 洗面所まで来ると、鳴美は棚を指差した。

「そこ」

「やっぱ知ってんじゃん」

「今思い出した」

「絶対嘘」

「はい、十一時まであと二十分でーす。急いでくださーい」

「誰のせいで時間減ったと思ってんの!?」

「一橋彩愛さんでーす」

「お前だよ!」

 初日の夜。

 少なくとも十一時までは、この家はまだ少しうるさかった。

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