第一話
三月末。
長谷川鳴美が新居の玄関前まで段ボールを運んだところで、後ろから車のドアが閉まる音がした。
振り返る。
薄い桃色の髪をした女子が立っていた。
目が合った。
ほんの一秒。
女子の顔から、露骨に温度が消えた。
「……ああ」
小さく吐き捨てるような声。
「ホントにいるんだ」
「?」
「男子」
視線が鳴美を上から下まで流れる。
興味ではない。
確認して、嫌悪して、それで終わり。
「……マジで最悪」
鳴美が少し眉を上げた。
事前に男子が自分一人だと聞かされた時点で、こういう反応をする相手がいる可能性くらいは考えていた。
とはいえ、実際に真正面から言われると、それなりに来る。
「まあ、俺も一人だとは思ってなかったけど」
「別にあんたがどう思ってたか聞いてない」
「あ、そう」
そこで鳴美は、それ以上言わなかった。
声の調子で分かった。
これは軽口を返して遊んでいい種類の「嫌い」ではない。
女子は少し距離を取ったまま、短く言った。
「武田晴瑠奈」
「長谷川鳴美」
「知ってる。事前の資料に書いてあったから」
「俺も」
「じゃあそれでいい」
「おう」
晴瑠奈は一拍置いた。
「あと、必要ない時は話しかけないで」
「分かった」
返事があまりに早かったからか、晴瑠奈が一瞬だけ鳴美を見る。
「……何」
「いや、分かったって言っただけ」
「そう」
それで会話は終わった。
鳴美も別に追わない。
嫌なら嫌でいい。
同じ家に住むからといって、仲良くしなければならない決まりもない。
ただ――。
「先入る?」
「……」
「じゃあ俺入るわ」
「好きにすれば」
「さっきから全部好きにしていいな俺」
「喋らないでって言ったんだけど」
「あ、今のも入る?」
「入る」
「了解」
今度こそ黙った。
鳴美が鍵を開ける。
玄関に入る。
晴瑠奈も、その数歩後ろから入ってきた。
そして。
二人とも止まった。
「…………」
「…………」
リビング。
床にジャージ。
タオル。
スポーツバッグ。
ペットボトル。
脱ぎっぱなしの靴下。
ソファの上にはパーカーとショートパンツ。
テーブルには食べ終えたゼリー飲料の袋と、開いたままの菓子。
そして、その惨状のど真ん中で。
一橋彩愛が床に座り、開脚したまま前屈していた。
「あ」
彩愛が顔を上げる。
「今日だったんだ」
鳴美が部屋を見回した。
もう一度見る。
何かの見間違いではない。
「……武田」
「何」
「これ俺が喋っていいやつ?」
「…………」
晴瑠奈も部屋を見回す。
さっきまで鳴美に向けていた嫌悪が、ほんの少しだけ別方向へ逸れた。
「……汚っ」
「だよな」
「馴れ馴れしく同意求めないで」
「そこまで!?」
彩愛がストレッチしたまま二人を見る。
「そんな汚い?」
今度は鳴美と晴瑠奈が、ほぼ同時に彩愛を見た。
「汚い」
「汚えよ」
「えー」
鳴美が床に転がったペットボトルを拾う。
「これ全部お前?」
「全部ではないよ」
「じゃあ誰の?」
「……だいたい私」
「ほぼ全部じゃねえか」
「あとで片すつもりだったし」
「いつ?」
「走ったあと」
「今から走る気なの?」
「うん」
彩愛はあっさり立ち上がった。
自分の足元にあったタオルを拾う。
ペットボトルを二本持つ。
それだけ。
「じゃ、行ってくる」
「待て待て待て」
鳴美が思わず呼び止める。
「何」
「今ので片付けた判定にしようとしてる?」
「自分の周りやったじゃん」
「半径六十センチな」
「細か」
「細かくねえよ」
「練習あるから」
「便利だな陸上!」
「便利だよ」
そのまま彩愛は玄関へ向かう。
晴瑠奈が冷たい声で言った。
「……これ残して?」
「帰ったらやるって」
「絶対やらないでしょ」
「やるやる」
「その返事する人、大体やらないから」
「あはは」
笑って。
本当に出ていった。
玄関が閉まる。
残された二人。
鳴美は廊下の奥を見た。
しばらくの間、沈黙が続いた
鳴美が腕を捲る。
「よし」
晴瑠奈が睨む。
「何」
「掃除」
「……私、今日来たばっかなんだけど」
「俺もだよ」
「じゃあ勝手にやれば」
「そうする」
鳴美は本当に一人でゴミ袋を取りに行った。
晴瑠奈には頼まない。
手伝えとも言わない。
しばらくして戻ってくると、晴瑠奈はまだ同じ場所に立っていた。
鳴美は床のゴミを拾い始める。
「…………」
「…………」
数十秒後。
晴瑠奈が、床に落ちたタオルを指先で摘まんだ。
「これどこ」
鳴美はニヤッとしかけて――やめた。
「……洗濯物だろ。洗濯機、たぶんあっち」
掃除を始めて十分ほど経った頃だった。
鳴美が床に散らばったペットボトルをまとめ、晴瑠奈がソファの上の服を無言で畳んでいると、廊下の奥で扉が開いた。
黒髪の女子が一人、部屋から出てくる。
眠そうにも見える、静かな目。
手には空のマグカップ。
「あ」
晴瑠奈が顔を上げた。
さっきまで鳴美に向けていた刺々しさが、少しだけ消える。
「赤間さんだよね」
「うん。武田晴瑠奈ちゃん?」
「そう。よろしく」
「よろしく」
なおが次に鳴美を見る。
「長谷川鳴美くん」
「おう。よろしく」
「よろしく」
最低限。
でも感じが悪いわけではない。
なおはそのままキッチンへ向かい、水を入れ始めた。
鳴美がゴミ袋を持ったまま言う。
「ちょうどよかった」
「何?」
「手伝ってくれ」
「何を?」
「見りゃ分かるだろ」
なおがリビングを見る。
床。
ソファ。
テーブル。
そこそこ酷い。
「掃除?」
「そう」
「嫌」
「即答かよ」
なおは普通に水を飲む。
晴瑠奈が少し困ったように笑った。
「結構ひどいよ、これ」
「うん。ひどいと思う」
「じゃあ……」
「でも私が散らかしたものじゃないから」
鳴美が止まる。
「いや、共同生活だぞ?」
「私は今までほとんど自分の部屋にいたし」
「これからリビング使うだろ」
「使ったら、その時は自分が使った分を片づけるよ」
「そういうことじゃなくね?」
「そう?」
なおは本気で分かっていないというより、
自分の中では筋が通っているという顔をしていた。
晴瑠奈が床の服を一枚持ち上げる。
「これ一橋さんのだと思うけど」
「たぶんそう」
「……気にならない?」
「気にはなるよ」
「じゃあ片づけようとは」
「思わない」
鳴美が思わず笑った。
「お前すげえな」
「何が?」
「そこまで一貫してると逆に清々しいわ」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「じゃあ半分だけ受け取っとく」
なおはマグカップにもう一度水を入れる。
そして部屋へ戻ろうとした。
「待て待て」
「何?」
「マジで帰るの?」
「うん」
「俺ら掃除してんだけど」
「頑張って」
「他人事すぎんだろ」
なおは少しだけ考えてから、
「終わったら綺麗になるね」
「成果だけ享受すんな!」
そう言いつつも、鳴美はすぐゴミ袋へ視線を戻した。
なおは少しだけ眺めていたが、特に何も言わない。
「じゃあ、よろしく」
「何をだよ」
「掃除」
「お前も住人だろ!」
扉が閉まる。
鳴美がしばらくそれを見つめる。
「……この家、強いやつしかいねえの?」
赤間なおが部屋へ戻ってから、しばらく。
リビングはようやく、まともに歩けるくらいにはなっていた。
鳴美は床に落ちていたタオルを拾う。
「これも、、一橋?」
返事はない。
振り向くと、晴瑠奈は黙ってソファの上を片づけている。
「……一橋のでいい?」
「多分」
「おう」
それだけだった。
鳴美もだんだん分かってきた。
話しかけても、必要がなければ返ってこない。
返ってきても一言。
別に機嫌が悪いというより、自分と会話する気がないのだ。
「徹底してんなあ」
独り言にも反応はなかった。
洗面所へ移る。
リビングほどではないが、洗面台の上には細々と物が並んでいた。
小さな瓶。細長い容器。ポーチ。箱。
「これ邪魔だな」
鳴美は何気なく、一番手前の瓶へ手を伸ばす。
「触んないで」
鋭い声だった。
鳴美の手が止まる。
晴瑠奈が洗面所の入口に立っている。
「多分、東江さんのだから」
「東江?」
「本人いないし。勝手に触らないで」
「……あ」
そこで鳴美は気づいた。
「ああ、そりゃそうか。悪い」
すぐ手を引く。
晴瑠奈は何も返さない。
ただ、鳴美の手が離れたのを確認すると、視線を逸らした。
鳴美は化粧品を避けて洗面台を拭き始める。
「東江って、まだ会ってないやつか」
返事はない。
「一橋、赤間、武田……で、東江」
「……そう」
「今日いないの?」
「仕事」
「仕事?」
晴瑠奈は答えない。
鳴美が少し待つ。
「……いつ帰る?」
「入学式」
「マジか」
また沈黙。
鳴美は並んだ化粧品を見る。
本人はいない。
触るわけにもいかない。
「じゃあ、ここだけしばらくこのままだな」
晴瑠奈は無言。
「……まあいいか」
鳴美もそれ以上聞かなかった。
一橋彩愛。
赤間なお。
武田晴瑠奈。
東江ジュン。
自分を入れて五人。
うち一人は走りに逃げた。
一人は部屋に戻った。
一人は入学式まで帰ってこない。
そして一人は、自分と極力口を利く気がない。
「……濃いな」
晴瑠奈から返事はなかった。




