プロローグ 男子、一名
二月も終わりに近い午後。
長谷川鳴美は、伊吹花高校の住宅支援室で、渡された資料をぱらぱらとめくっていた。
「学校まで徒歩十二分……リハビリ先まで電車一本。近くにスーパーもある」
「条件はいいわねえ」
隣で母が覗き込んでくる。
鳴美は左脚を軽く伸ばした。
松葉杖が取れて、まだ一週間と少し。歩けるようにはなったが、階段を何往復もしたい状態ではない。
「ここでよくね?」
父が眉を上げる。
「随分あっさりだな」
「もう他ほとんど埋まってんだろ?」
担当職員が少し申し訳なさそうに頷いた。
「はい。運動部の寮については、推薦入学の生徒さんを中心にかなり早い段階で決まりますので。男子の提携シェアハウスも現在は満室です」
「ほら」
鳴美が資料で父の腕を軽く叩いた。
「一般入試で決まったのが遅かった上に、手術だリハビリだ引っ越しだってやってたんだから、今さら贅沢言えねえって」
「お前が最初から一緒に引っ越すと言ってれば、こんな話にはならなかったんだけどな」
「それはそれ、これはこれ」
「都合のいい言葉ねえ」
母が笑う。
両親は、本当なら鳴美にも一緒に来てほしかった。
それでも鳴美が伊吹花に残りたいと言った以上、最後には認めてくれた。
十月に左膝の前十字靱帯を切った。
ユースへの昇格も、他所のセレクションも、十二月にはほぼ終わる。
なら仕方ない。
サッカーをやめる気はない。でも、プロだけが人生でもない。
そんな時に見つけた伊吹花高校が、妙に面白そうだった。
だから受けた。
受かった。
なら行く。
鳴美の中では、それだけだった。
「男女混合なのだけがちょっと気になるけどな」
資料を眺めながら鳴美が言う。
「まあ、部屋別なんだろ?」
「もちろんです。全室個室で施錠可能ですし、共有スペースにも規則があります。管理担当者も近隣に常駐しています」
「ならまあ」
母が担当者を見る。
「ちなみに、男の子って何人くらいいるんですか?」
担当者が資料を確認した。
「ああ、今年度ですか」
「はい」
「男性の入居予定者は、長谷川さんお一人になります」
静かになった。
鳴美が顔を上げる。
「…………は?」
父も顔を上げた。
「一人?」
「はい」
母が鳴美を見る。
「鳴美だけ?」
「俺に聞くなよ」
鳴美はもう一度担当者を見る。
「いや、待ってください。男女混合って聞いてたんですけど」
「はい。男女混合です」
「そこは合ってんすよ。比率の話です」
父が口元を押さえた。
母は普通に笑っていた。
「ちょ、笑うなって」
「だって」
「だってじゃねえよ」
担当者が慌てて付け加える。
「もちろん、他の入居予定の生徒さんと保護者の方には、男子生徒が一名入居することについて既に説明し、了承をいただいております」
鳴美の表情が少し変わった。
「向こう、いいって言ってるんですか?」
「はい」
「全員?」
「はい」
「……マジか」
鳴美は椅子にもたれた。
しばらく資料を見る。
条件はいい。
というより、今の鳴美にはかなり良い。
学校が近い。リハビリにも通いやすい。学校の管理下。費用も抑えられる。
そしてもう二月末だ。
これから公立の結果が出れば、伊吹花への進学を決める生徒も増える。当然、残っている住居も減る。
今ここを蹴って、もっと良い場所が出てくる保証はない。
「……まあ」
鳴美が頭を掻いた。
「向こうがいいって言ってんなら、いいか」
母が横から覗き込む。
「本当に?」
「今さら変えらんねえだろ。条件もここが一番いいし」
少し考えてから、鳴美は続けた。
「ていうか俺より、向こうの方が嫌じゃねえの? 男一人入ってくんの」
「それも含めて了承済みです」
「なら俺がゴネるのも変だろ」
父が鳴美を見る。
「問題を起こすなよ」
「俺を何だと思ってんだよ」
「お前は問題を起こさないんじゃなくて、問題にならない範囲でふざけるだろ」
「最高評価じゃん」
「褒めてない」
母が吹き出した。
鳴美はもう一度、入居案内を見る。
女子ばかりの家。
知らない同級生たち。
左膝はまだ思うように動かない。
家族とも離れる。
正直、面倒くさそうだった。
でも。
「まあ、なんとかなるだろ」
鳴美は申込書を引き寄せた。
その時の彼はまだ知らない。
その家で暮らす女たちが、揃いも揃って、とんでもなく面倒くさいことを。
そして――自分自身もまた、大概だということを。




