第十四話
……早くない?
私は冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、リビングを見た。
「だから、歩幅が大きければ速いってわけじゃねえんだよ」
「そう! そこが違うの!」
「でも、大きい方が一歩で進む距離は長いでしょ?」
「だから!」
「そこから説明してって言ってるじゃん!」
長谷川。
彩愛。
ジュン。
……。
うん。
早い。
麦茶をコップに注ぐ。
お風呂上がりのせいか、喉が渇いていた。
一口飲む。
冷たい。
おいしい。
「そもそも、脚を前に出せばいいって話じゃねえんだよ」
「そうそう!」
「じゃあ何?」
「接地!」
「……接地?」
「地面に足がつく時!」
「最初からそう言ってよ!」
「今言ったじゃん!」
……。
私はもう一口飲んだ。
喧嘩してる。
いや、喧嘩というか、言い合い。
それはいい。
長谷川と彩愛が言い合っているのは、もう何回も見た。
最初の二日くらいは、よくそんなに言い返すことがあるなと思っていたけど、今では別に驚かない。
どうせ、しばらくしたら終わる。
と思ったら、また別のことで始まる。
そこまでは分かってる。
問題は。
「ジュン、ストライドだけ伸ばしても意味ないから!」
「ストライドって歩幅だよね?」
「そう!」
「じゃあ、歩幅を大きくしながら脚も速く動かせばいいんじゃないの?」
「できるならな!」
「それが難しいんだって!」
「何で?」
「無理に前へ伸ばすと、着地が身体より前になりやすいだろ。ブレーキかかるんだよ」
「そう! だから前に出すんじゃなくて、ちゃんと地面を押して――」
「ちょっと待って」
ジュンが手を挙げた。
「今、二人で別の説明してない?」
「同じだろ」
「同じじゃん!」
「いや、長谷川くんはブレーキの話で、彩愛は地面を押す話でしょ?」
「繋がってんだよ!」
「そういうこと!」
「だったら繋げて説明してよ!」
……。
ジュン。
昨日の夜、帰ってきたばっかり。
まだ一日も経ってない。
私たちだって、ここへ来て一週間ちょっと。
なのに。
……何でそんなに馴染んでるの?
私は三人を見る。
長谷川はソファの右端。
彩愛はその隣。
ジュンは床のクッションに座っている。
テレビには陸上競技の映像。
たぶん、何かのスポーツ番組。
その映像を見て、ジュンが何か質問したんだろう。
そして、今。
二人から講義を受けている。
……。
しかも。
長谷川と彩愛が同じ側にいる。
珍し。
「じゃあさ」
ジュンが言った。
「何」
長谷川。
「何?」
彩愛。
「脚が長い人って、やっぱり有利なの?」
「場合による」
長谷川が答える。
「何それ」
「単純に脚の長さだけで決まるわけじゃねえし」
「身長高い選手が絶対速いわけでもないから!」
「でも、同じ回転数なら歩幅が大きい方が速いよね?」
「理屈ではな」
「ただ、その回転数を維持できるかって話!」
「……ああ」
ジュンが頷いた。
「なるほど」
「分かった?」
彩愛が聞く。
「うん。今のは」
「今のは!?」
「だって最初の説明、分かりにくかったし」
「何で!」
……。
私はコップを持ったまま、しばらく立っていた。
ジュンが笑う。
彩愛が何か言い返す。
長谷川が横から口を挟む。
またジュンが返す。
……。
いや。
やっぱり早くない?
昨日まで、ジュンはここにいなかったんだよね。
今日の夕飯から、もう普通に混ざってる。
何か、前から知り合いだったみたいに。
……。
私がおかしいのかな。
普通、こんなもん?
高校生って。
いや。
高校生になったの今日なんだけど。
ついこの前まで中学生だったんだけど。
……。
何なんだろ。
私はコップを持って、ソファの方へ歩いた。
長谷川たちとは少し離れたところ。
もう一つのソファ。
そこに座ろうとして、足を止める。
なお。
……。
あれ。
私はなおを見る。
本。
……。
スケッチブックは?
昨日まで、ずっと持ってなかった?
この一週間。
なおが何か描いているところは、何度も見た。
リビング。
廊下。
窓際。
テーブル。
何を描いているのか聞いたら、たいてい短く答えてくれる。
でも、今日は。
……。
そういえば、朝から見てない。
代わりに、ずっと本を読んでる。
夕飯の時も。
今も。
私はなおの隣へ座った。
「……なお」
「何?」
「何読んでるの?」
「幾何学」
「……幾何学?」
「うん」
……。
え。
何それ。
いや、言葉は知ってる。
数学だよね。
図形とかの。
多分。
私は本の表紙を見た。
漢字。
知らない単語。
何か図形が載っている。
……。
「……そんな難しそうなの、授業でやるの?」
「ううん」
「……え?」
「自分で読んでる」
……。
私はなおを見る。
本を見る。
もう一度なおを見る。
「……前まで中学生だったよね?」
「うん」
「……だよね?」
「うん」
「何でそんなの読んでるの?」
「面白いから」
……。
面白い。
幾何学が。
……。
まあ。
人の趣味に文句はないけど。
「……美術に関係あるの?」
「ある」
「へえ」
「透視図法とか」
「……とうし?」
「遠近法」
「ああ!」
それなら知ってる。
「遠くのものを小さく描くやつ?」
「うん」
「そういうのに使うんだ」
「それもある」
……。
それも?
「ほかにもあるの?」
「うん」
「例えば?」
なおが本を少し持ち上げた。
開いていたページを私の方へ向ける。
線。
点。
何かの図。
……。
うん。
全然分かんない。
「これ」
「……うん」
「平行な直線」
「うん」
「普通は交わらない」
「……そうだね」
「でも、射影平面では無限遠点を考える」
「……え?」
「平行な直線にも、共通の点がある」
……。
私は図を見る。
もう一度見る。
……。
「……ごめん、分かんない」
「……うん」
なおが頷いた。
……。
終わり?
「……なお」
「何?」
「それ、高校の授業より難しくない?」
「多分」
「多分!?」
なおが顔を上げた。
……。
何でそっちが不思議そうなの。
私は本を見た。
分厚い。
……。
しかも。
まだ半分くらい残ってる。
「……全部読むの?」
「うん」
「……すご」
なおが少し首を傾けた。
「……?」
……。
いや。
すごいでしょ。
普通に。
私は背もたれに身体を預けた。
……。
そういえば。
「なお、最近絵描いてないの?」
「描いてる」
「……あ、そうなんだ」
「うん」
「でも、スケッチブック持ってないよね」
「部屋にある」
「……そうなの?」
「うん」
……。
なるほど。
いや。
なるほど?
「明日から美術部?」
「うん」
「じゃあ、学校で描くんだ」
「うん」
「……楽しみ?」
「うん」
なおの口元が少し上がった。
……。
あ。
嬉しそう。
私は少し笑った。
……。
まあ、いいか。
本人が楽しそうだし。
私は麦茶をもう一口飲んだ。
その時、向こうから声がした。
「だから、そこまで言うなら実際に見てみればいいじゃん!」
彩愛。
「何を?」
ジュン。
「走ってるところ!」
「誰の?」
「私の!」
「何でお前なんだよ!」
長谷川。
「私が短距離だから!」
「それは知ってるわ!」
……。
私は三人を見る。
なおを見る。
……。
何なの。
この家。
いや。
本当に。
何でこんなに個性的な人ばっかりなんだろ。
……。
しかも、もう普通に暮らしてる。
私は少し笑った。
その時だった。
テレビから音が消えた。
続いて、照明が落ちた。
リビングが真っ暗になった。
*
暗い。
……。
え?
私はコップを持ったまま、固まった。
さっきまで明るかったリビング。
テレビ。
天井の照明。
キッチン。
全部消えた。
……。
停電?
いや。
何?
外は?
窓。
カーテンの向こう。
街灯の光が少し入っている。
でも、部屋は暗い。
……。
あ。
コップ。
持ってる。
こぼしてない。
よし。
私は膝の上のコップを見た。
見えない。
……。
いや、見えないって。
どうしよう。
スマートフォン。
ポケット。
……。
ある。
でも。
今、立った方がいい?
座ってた方がいい?
……。
別に、誰かに決めてもらうことじゃないか。
私は指先でコップの縁を確かめた。
冷たい。
……。
そういえば。
みんな、どうしてるんだろ。
さっきまで、あんなに騒いでたのに。
……。
何か。
急に静か。
私は顔を上げた。
*
照明が落ちる直前。
一橋はソファの前で立ち上がりかけていた。
右足が前。
左足はまだ床。
東江はクッションに座ったまま、上半身を一橋へ向けていた。
赤間は向こうのソファ。
武田はその隣。
テーブルの上には、俺が置いたリモコン。
武田の手にはコップ。
……。
暗い。
俺は身体を動かさなかった。
左脚はソファの前へ少し伸ばしてある。
右足は床。
今、慌てて立つ必要はない。
目が慣れるまで待てばいい。
窓から街灯の光が入っている。
カーテンの隙間。
薄い。
でも、何も見えないわけじゃない。
……。
ブレーカー?
いや。
テレビも照明も同時。
キッチンも消えた。
まず停電だろうな。
……。
一橋。
立ちかけてた。
あいつ、反射で動きそうだな。
足元。
クッション。
東江。
……。
まあ、大丈夫か。
俺は右足の位置を少し確かめた。
動かない。
左膝もそのまま。
……。
そういや。
中学の合宿でも停電あったな。
あの時、誰かが廊下で転んでた。
……。
まあいいや。
とりあえず。
スマホ。
テーブルの上。
右手を伸ばせば届く。
……。
先に東江が動くか。
俺は暗闇の中で、少し笑った。
*
消えた。
照明。
テレビ。
……。
停電。
私は立ち上がりかけていた身体を止めた。
右足。
床。
左足。
床。
膝。
足首。
……。
大丈夫。
でも、このまま動くのは危ない。
さっきジュンが座ってたクッション、足元にある。
踏んだら滑るかもしれない。
……。
いや。
動かなければいい。
私は腰を下ろした。
……。
明日。
練習。
絶対に変なところで怪我したくない。
停電で転んで足首捻ったとか、笑えない。
……。
長谷川。
左脚。
さっき伸ばしてた。
今、立ち上がらなければ大丈夫。
……。
でも、あいつ。
何かしようとするかも。
……。
いや。
分かってるか。
さっきからちゃんと動いてたし。
私は暗闇の中で目を凝らした。
窓。
外の光。
少し。
……。
長谷川、どこ?
右のソファ。
……。
大丈夫かな。
私は口を開きかけた。
……。
いや。
先に。
自分。
足元。
確認。
……。
うん。
大丈夫。
でも、停電ってどのくらい続くんだろ。
明日の練習着、まだ洗濯してないやつあったっけ。
……。
あ。
全部洗った。
よかった。
……。
寝る時間。
停電が長引いたら、どうしよう。
別に、暗くても寝られるけど。
……。
むしろ寝やすい?
いや。
それは違うか。
……。
とりあえず。
動かない。
それが一番。
*
……え。
真っ暗。
私は一瞬、目を閉じた。
開ける。
……。
暗い。
停電?
さっきまで、スポーツの話してたのに。
……。
そういえば。
今日、停電の予定なんてあったっけ。
いや。
ない。
あったら管理の人から連絡が来てるはず。
……。
スマートフォン。
どこ?
クッションの横。
……。
あ。
ある。
手で探せば届く。
私は指先を動かした。
……。
でも。
今、誰かが立ったら危ないよね。
この辺、クッションあるし。
彩愛もさっき立とうとしてた。
長谷川くんはソファ。
なおちゃんとハルちゃんは向こう。
……。
でも、明かりはいる。
スマートフォンに手を伸ばす。
……。
ハルちゃん、怖くないかな。
なおちゃんは?
……。
いや。
勝手に怖がってるって決めるのも違うか。
私はスマートフォンを握った。
……。
こういう時、誰かが全部決める必要はない。
明かりが必要なら、私がつければいい。
……。
でも。
何か。
ちょっと楽しいかも。
停電。
シェアハウス。
五人。
……。
いや、楽しいって言ったら怒られるかな。
私は少し笑いそうになった。
……。
駄目。
まずライト。
*
光が消えた。
天井の照明は、発光を停止する。
テレビも同時。
室内の照度が急激に低下する。
……。
停電。
視野の中心に、さっきまで見ていたテレビ画面の残像がある。
明るい部分。
暗い部分。
輪郭は不明瞭。
数秒で消えるはず。
……。
目。
瞳孔。
暗い環境では、瞳孔が開いて入射光量を増やす。
ただし、瞳孔の反応だけで暗所視が完成するわけではない。
網膜。
杆体細胞。
錐体細胞。
明るい場所では、錐体細胞が主に働いて色や細部を識別する。
暗い場所では、杆体細胞の寄与が大きくなる。
ただし、完全に暗順応するには時間が必要。
……。
今。
窓からの光。
街灯。
カーテン。
外の照度。
室内へ入る光は少ない。
でも、全くの暗闇ではない。
……。
面白い。
私は目を閉じた。
……。
暗い。
目を開ける。
……。
少し違う。
いや。
まだ早い。
暗順応の進行を確かめるには、もっと時間が必要。
……。
光。
絵画。
カラヴァッジョ。
強い明暗対比。
ただし、あれは光源の配置によって生まれる陰影であって、停電による均一な暗さとは違う。
今のリビング。
窓からの弱い光。
家具の輪郭。
人間の配置。
……。
描きたい。
……。
でも。
見えない。
……。
見えないものを描く。
それもできる。
記憶。
直前まで見ていた配置。
長谷川くん。
右のソファ。
彩愛ちゃん。
立ち上がりかけ。
ジュンちゃん。
クッション。
晴瑠奈ちゃん。
私の隣。
……。
全員、動いていなければ。
位置関係は変わらない。
ただし。
動いていないとは限らない。
……。
音。
布が擦れる音。
誰かが身体を動かした。
右側。
……。
彩愛ちゃん?
長谷川くん?
……。
分からない。
私は耳を澄ませた。
……。
あ。
この状況。
明るい時より、聴覚に注意が向く。
視覚情報が減少したため、ほかの感覚への注意配分が変わった。
……。
面白い。
……。
明日の美術部。
この光の状態。
描いてみたい。
暗い部屋。
窓から入る光。
人の輪郭。
……。
描きたい。
私は目を開けた。
まだ暗い。
……。
少し。
見える。
さっきより。
……。
うん。
面白い。
*
「……停電?」
私の声で、リビングの時間が再び動き出した。
「っぽいな」
....長谷川が答える。
「え、マジ!?」
彩愛。
「とりあえずライトつけるね」
ジュン。
スマートフォンの光が点いた。
白い光。
天井へ向けられる。
リビングが少し明るくなった。
……。
私は目を細めた。
さっきまで暗かったから、ちょっと眩しい。
「みんな大丈夫?」
ジュンが聞いた。
「大丈夫!」
彩愛。
「おう」
長谷川。
「……うん」
なお。
私はコップを持ったまま頷いた。
「……大丈夫」
……。
何か。
さっきまで、あんなに騒がしかったのに。
急に静か。
長谷川は座ったまま、スマートフォンを手に取った。
彩愛は足元を見ている。
ジュンはライトを天井に向けている。
なおは。
……。
窓を見てる。
……。
いや。
何で?
「……なお」
「何?」
「何見てるの?」
「光」
「……光?」
「うん」
……。
停電してるんだけど。
私はなおを見る。
なおは窓から目を離さない。
……。
何なの。
「赤間」
長谷川が呼んだ。
「何?」
「ブレーカー見てくるけど、そこ動かなくていいぞ」
「うん」
長谷川が立とうとする。
「長谷川!」
彩愛がすぐ言った。
「左!」
「分かってる」
長谷川は右足に体重を乗せて立ち上がった。
ジュンがライトを向ける。
「足元照らす?」
「おう、頼む」
……。
自然。
何か、全部自然。
長谷川が立つ。
彩愛が左膝を見る。
ジュンがライトを向ける。
なおは窓を見ている。
……。
私はコップを持ったまま、四人を見た。
……。
いや。
やっぱり。
馴染むの早すぎない?
昨日まで、ジュンはいなかった。
一週間ちょっと前まで、ほとんど他人だった。
なのに。
今。
長谷川が歩き出す前に、ジュンがライトを向ける。
彩愛は当然みたいに足元を確認する。
なおは。
……。
何か考えてる。
たぶん。
すごく。
……。
私は麦茶を一口飲んだ。
ぬるくなっていた。
……。
あ。
停電。
冷蔵庫。
……。
大丈夫かな。
プリン。
……。
いや。
今それ?
私は少し笑った。
……。
何なの。
この家。
ほんとに。
……。
まあ。
いいけど。
ジュンのライトが、長谷川の足元を照らしている。
彩愛が何か言う。
長谷川が言い返す。
なおは窓から目を離さない。
……。
私はコップをテーブルへ置いた。
停電がいつ直るのかは、まだ分からない。
でも。
とりあえず。
今は。
……。
何か、変な感じ。
私はソファへ座り直した。
四人を見た。
……。
やっぱり。
変だと思う。




