第十三話
入学式が終わって、教室へ戻った。
十一組は、朝よりずっと騒がしくなっていた。
前の席の子たちが連絡先を交換している。
窓際では、明日の時間割について話している子がいる。
後ろの方では、誰かがスマートフォンを見せながら笑っていた。
私は机の上のプリントを揃えた。
入学関係の書類。
時間割。
校内案内。
保護者向けのお知らせ。
……結構ある。
明日提出するものだけ、別のクリアファイルへ。
それ以外は鞄へ入れる。
「ジュンちゃん」
隣から声がした。
「何?」
「今日、もう帰るの?」
「うん。午後から仕事」
「えー、もう?」
「そう」
「大変だね」
「今日は打ち合わせだけだから」
「それでも大変じゃん」
私は笑った。
「まあ、慣れてるし」
スマートフォンを見る。
十二時八分。
事務所には十三時半。
電車。
移動時間。
途中で昼食を買っても間に合う。
「明日はいる?」
「いるよ。普通に授業」
「よかった!」
「何が?」
「いや、せっかく同じクラスになったのに、全然いなかったら寂しいじゃん」
……。
あ。
そういうこと。
「大丈夫。学校にもちゃんと来るよ」
「やった」
その子が笑った。
私も笑う。
……名前。
覚えてる。
大丈夫。
さっき自己紹介した。
間違えない。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日!」
鞄を持つ。
教室を出る。
廊下には、ほかのクラスの子たちもいた。
誰かがこちらを見る。
あ。
目が合った。
軽く会釈する。
向こうも会釈した。
……。
こういうの、まだちょっと変な感じ。
スタジオなら知ってる人ばかりだけど。
学校だと、誰が私を知ってるのか分からない。
階段を下りる。
スマートフォンが震えた。
佐伯さん。
『予定通り来られそう?』
『うん。十三時半には着くよ』
『了解。気をつけてね』
画面を閉じた。
校門を出る。
……。
あ。
お昼。
何食べよう。
駅前に何かあったっけ。
少し考えて、歩き出した。
*
スタプロの事務所に着いたのは、十三時二十二分だった。
「ただいまー」
「あ、ジュン!」
受付の奥から声がした。
「入学おめでとう!」
「ありがと!」
「どうだった? 学校」
「普通に楽しかったよ」
「友達できた?」
「まだ初日だよ?」
「ジュンならすぐできるでしょ」
「どうだろ」
笑いながら奥へ進む。
廊下の壁には、所属タレントのポスター。
新しいものもあれば、結構古いものもある。
私のもある。
……。
あ。
これ、まだ貼ってる。
去年のドラマ。
もう外してもよくない?
少し笑って通り過ぎる。
「ジュン!」
今度は別の声。
「おー、入学式どうだった?」
「楽しかった!」
「制服似合ってるじゃん」
「でしょ?」
「自分で言うんだ」
「だって似合ってるし」
「はいはい」
私は笑った。
この人、昨日も同じこと言ってた。
……いや。
昨日は髪だったか。
まあいいや。
会議室へ向かう。
途中、給湯室の前で佐伯さんと会った。
「あ、ジュン。早いね」
「電車がちょうどよかった」
「ご飯は?」
「食べたよ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「何食べた?」
「サンドイッチとスープ」
「よし」
「何その確認」
「昨日、移動中にお菓子だけで済ませようとしてたから」
「結局食べたじゃん」
「小川さんが買ってきたからね」
「……そうだったっけ」
「そうだったよ」
佐伯さんが笑った。
私も笑う。
「今日の資料、先に置いてあるから」
「分かった」
「あと、小川さんは十分くらいで来ると思う」
「また?」
「今日は遅刻じゃないから」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔」
……。
そんな顔してた?
佐伯さんが笑いながら給湯室へ入っていった。
私は会議室のドアを開ける。
テーブル。
椅子。
資料。
いつもの場所。
鞄を置いて座る。
台本を開いた。
今回のドラマ。
私は主演じゃない。
出番も、そこまで多くない。
でも、好きな役だった。
最初に台本を読んだ時から、ちょっと気になっていた。
十八ページ。
……ここ。
私はペンを取った。
台詞の横に、小さく印をつける。
前の場面では、まだ知らないはず。
なのに、この台詞だと知ってるように聞こえる。
……。
もう一回。
前のページへ戻る。
読む。
……うん。
やっぱり。
知ってるんじゃなくて、気づきかけてるのかな。
それなら、この言い方でも成立する。
でも。
少し違う気もする。
私は余白にメモを書いた。
『この時点でどこまで察している?』
次。
二十四ページ。
ここは好き。
何も言わずに立ち去るところ。
台詞がないからこそ、結構難しそう。
……楽しみ。
ページをめくる。
ノック。
「入るぞー」
小川さん。
「どうぞー」
「お、早いな」
「十三時半って言ったじゃん」
「まだ五分前だぞ」
「遅刻するよりいいでしょ」
「それはそう」
小川さんが向かいの椅子へ座った。
「入学式どうだった?」
「普通に楽しかった」
「友達できた?」
「それ今日三回目」
「誰に聞かれた?」
「いろんな人」
「じゃあ四回目だな」
「何で増やすの」
小川さんが笑う。
私も笑った。
「ちゃんと通えそうか?」
「うん」
「無理そうなら早めに言えよ」
「分かってる」
「仕事の方も調整するから」
「うん」
私は台本へ視線を戻した。
小川さんがそれを見る。
「もう読んでたのか」
「うん。ちょっと聞きたいところある」
「どこ?」
「十八ページ」
台本を開いて見せる。
小川さんが身を乗り出した。
私は印をつけた箇所を指す。
「ここ、この子ってもう気づいてるの?」
「何に?」
「お兄さんが嘘ついてること」
「ああ」
「前の場面だと、まだ分かってないように見えるんだけど」
「確かに」
「でもこの台詞だと、もう知ってるみたい」
小川さんがページを戻す。
少し読む。
「……ああ、なるほどな」
「監督さんに聞いてもいい?」
「もちろん」
「じゃああとで聞く」
私はメモに丸をつけた。
ノック。
佐伯さん。
それから、制作担当の二人。
今日の打ち合わせが始まった。
*
ジュンは、もう十八ページに付箋を貼っていた。
……早い。
俺は資料を開いた。
佐伯が進行表を配っている。
向かいの制作担当がノートパソコンを起動する。
ジュンは台本を閉じず、ペンを手に持ったまま待っていた。
こういう時、こいつは大体何か見つけている。
「じゃあ、先に脚本の確認から」
佐伯が言った。
「ジュン、気になってるところある?」
「ある」
即答。
……ほら。
「十八ページなんだけど」
ジュンが台本を開く。
兄が妹に嘘をつく場面。
妹は、それを信じたふりをする。
そういう場面のはずだった。
「ここで、私の役はもう嘘に気づいてますか?」
制作担当が少し考える。
「演出的には、完全には気づいていない想定です」
「じゃあ、この台詞は?」
ジュンが指を置く。
「『もういいよ』って、諦めてる感じにも読めるんですけど」
「ああ、確かに」
「まだ信じたいなら、もうちょっと違う気がして」
制作担当が台本を見る。
佐伯も覗き込む。
……。
俺はジュンを見る。
こいつ、こういうところは本当に細かい。
小さい頃からそうだった。
……いや。
小さい頃はもっと面倒だったな。
納得するまで帰ろうとしなかったし。
「監督にも確認します」
制作担当が言った。
「お願いします」
ジュンが頷く。
「もし気づいてない設定なら、私はそっちで考えたいです」
「分かりました」
次。
二十四ページ。
台詞のない場面。
ここでもジュンが一つ確認した。
立ち去る前、兄を振り返るかどうか。
その一瞬で、場面の印象が変わる。
……。
まあ、そうだろうな。
俺は演技の専門家じゃない。
でも、ジュンが何を気にしているかくらいは分かる。
制作担当がメモを取る。
佐伯も。
ジュンは返答を聞いてから、付箋を一枚外した。
……。
よし。
ここまでは順調。
「では、撮影日程の確認に移ります」
佐伯が新しい資料を配った。
俺は一枚受け取る。
……。
ああ。
ここか。
主演の俳優のスケジュール。
今回、向こうの事務所はかなり大きい。
もちろん、相手の予定に合わせる必要がある場面もある。
主演だし、出演シーンも多い。
それ自体は何もおかしくない。
ただ。
佐伯の言い方。
「主演の方の事務所さんが大きいので、こちらもできるだけ合わせる方向で――」
……。
あ。
ジュンのペンが止まった。
俺はその手元を見た。
……来るな。
「佐伯さん」
ジュンが言った。
「うん?」
「今の、どういう意味?」
……。
ほら。
俺は資料を一枚めくった。
佐伯が顔を上げる。
「どこ?」
「事務所が大きいから合わせるってところ」
「ああ。今回、主演の方のスケジュールがかなり詰まってるから」
「それは分かる」
ジュンが頷く。
「主演だし、撮影日数も多いですし」
「うん」
「でも、事務所が大きいことと、スケジュールを合わせることって別じゃないですか?」
……。
佐伯が一瞬止まった。
「まあ、そうだね」
「じゃあ、撮影の都合で合わせるって話ですよね?」
「そうだよ」
「だったら、そう言えばいいと思う」
……。
俺はジュンを見た。
こいつ、別に怒ってない。
いつもの顔。
ちょっと眉が上がってるくらい。
佐伯が資料へ目を落とす。
「ごめん。言い方がよくなかったね」
「ううん」
ジュンは首を振った。
「ただ、そこは分けたい」
……。
まあ、分かる。
言ってることは分かる。
でも。
佐伯も別に、向こうの事務所が偉いから従えって言ったわけじゃない。
……。
「ジュン」
俺は口を挟んだ。
「何?」
「今回の撮影日、実際に動かせそうなのはどこだ?」
ジュンが資料を見る。
「……ここと、ここ」
指を置く。
「でも二日目は学校があるから、午後からじゃないと無理」
「だな」
「三日目は大丈夫」
「じゃあそこは?」
「うん。合わせられる」
……。
よし。
「なら、三日目を中心に調整しよう」
俺が言う。
佐伯が頷く。
「そうですね」
制作担当もメモを取る。
……。
これで終わるか。
「でも」
ジュン。
……。
終わらなかった。
「向こうの事務所さんにも、こっちの希望はちゃんと伝えてくださいね」
佐伯が頷く。
「もちろん」
「遠慮して言わないとかは嫌だから」
「分かってるよ」
「本当に?」
……。
俺は思わず笑いそうになった。
佐伯がこっちを見る。
助けて、って顔。
……。
いや。
俺も分かるけど。
「ジュン」
「何?」
「佐伯はちゃんと伝える」
「うん」
「俺も確認する」
「うん」
「それでいいか?」
ジュンが少し考えた。
「……うん」
……。
よし。
佐伯が小さく息を吐いた。
俺は資料へ視線を戻す。
「じゃあ次」
言った。
「じゃあ次、衣装合わせの日程だけど――」
「あ、それ」
ジュンが顔を上げた。
……。
まだあったか。
「今回の衣装って、もう決まってます?」
佐伯が資料を確認する。
「候補は出てるけど、まだ最終決定じゃないね」
「そっか。じゃあ、衣装さんに一つ確認してもらってもいいですか?」
「もちろん。何?」
「二十四ページの階段のところ」
ジュンが台本を開いた。
……また二十四ページか。
「ここ、結構急いで下りるじゃないですか」
「うん」
「だから、スカートの丈と靴は先に確認したいです」
制作担当が頷く。
「ああ、なるほど」
「あと、もし滑りやすい靴底だったら、少し考えたいです。階段の幅もまだ分からないので」
「分かりました。衣装部と確認しておきます」
「ありがとうございます」
ジュンが頷いた。
……。
俺は台本を見る。
確かに、二十四ページ。
兄と口論したあと、階段を駆け下りる場面。
台詞のない、結構大事なところだ。
「衣装合わせの時に、実際に動いてみればいいんじゃないか?」
俺が言う。
「うん。それもやりたい」
ジュンが答える。
「でも、その日になって動きにくいって分かると、衣装さんも困るでしょ?」
「ああ、そりゃそうだな」
「だから、先に候補だけ知っておきたい」
佐伯がメモを取った。
「分かった。衣装さんから写真をもらえるか聞いてみるね」
「お願いします」
……。
よし。
今度こそ終わりか。
「あと」
……。
俺はジュンを見る。
ジュンは制作担当の方を向いていた。
「靴が決まったら、階段のリハーサルでも一度履いてみたいです」
「あ、それは大丈夫だと思います」
「よかった」
ジュンが笑った。
「ありがとうございます」
制作担当も笑う。
「こちらこそ。事前に言っていただけると助かります」
……。
俺は椅子の背にもたれた。
まあ。
こういう確認なら、いくらでもしてくれ。
佐伯が資料を一枚めくる。
「じゃあ、衣装合わせは土曜日の十時からで――」
「大丈夫」
ジュンが即答した。
「予定確認しなくていいの?」
「確認してあるよ」
スマートフォンを取り出す。
画面をこちらへ向けた。
土曜日。
十時、衣装合わせ。
十三時、移動。
十四時半、別件の打ち合わせ。
……。
もう入ってる。
「佐伯さんから昨日聞いてたから」
「……そうだったね」
佐伯が笑った。
俺も笑う。
「じゃあ土曜日、よろしくお願いします」
ジュンが言った。
制作担当が頷く。
「よろしくお願いします」
……。
俺は時計を見た。
予定より五分押し。
まあ、許容範囲だな。
ジュンはもう次のページを開いていた。
*
打ち合わせが終わったのは、十六時少し前だった。
佐伯さんが資料をまとめている。
私は台本を鞄へ入れた。
付箋。
メモ。
今日確認したところ。
……うん。
大丈夫。
「ジュン」
佐伯さんが声をかけてきた。
「何?」
「明日の電話、予定通り十六時半で大丈夫?」
「うん。学校終わってるから」
「分かった」
「あと、衣装の素材分かったら送ってね」
「もちろん」
「ありがと」
佐伯さんが笑う。
私も、笑った。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん」
会議室を出る。
廊下。
小川さんが追いかけてきた。
「ジュン」
「何?」
「今日の話、佐伯もちゃんと分かってるからな」
「うん」
「向こうの事務所に遠慮して、お前の希望を隠すようなことはしない」
「分かってるよ」
「ならいい」
……。
私は小川さんを見る。
「小川さん」
「ん?」
「私、佐伯さんのこと疑ってるわけじゃないよ」
「知ってる」
「でも、さっきちょっと違ったから」
「うん」
「だから聞いた」
小川さんが頷く。
「分かった」
……。
少し歩く。
「でもさ」
小川さんが言った。
「何?」
「佐伯も今日、結構頑張ってただろ」
「うん」
「明日、労ってやれよ」
「何それ」
「何でもいいから」
……。
私は少し考えた。
「じゃあ、何か買ってこようかな」
「お、いいじゃん」
「佐伯さん、何好きだっけ」
「甘いもの」
「広すぎない?」
「チョコ?」
「さっき私もそれ考えてた」
「じゃあチョコだな」
「適当!」
小川さんが笑った。
私も笑う。
階段の前で止まる。
「じゃあ、帰るね」
「おう。気をつけて」
「小川さんも仕事頑張って」
「はいよ」
私は手を振った。
小川さんも振り返す。
階段を下りる。
外へ出る。
……。
あ。
今日、まだ制服なんだった。
なんか一日長かったな。
私は鞄を持ち直した。
駅へ向かった。
*
電車が駅を出たところで、スマートフォンが震えた。
十一組のグループLINE。
明日の時間割について、誰かが質問している。
教室で朝のホームルーム。
一限は数学。
二限は英語。
……あれ。
私、明日の二限って別の教室じゃなかった?
鞄からプリントを出す。
確認。
……うん。
移動教室。
危な。
スマートフォンのスケジュールを開いた。
八時二十分、登校。
十六時半、佐伯さんと電話。
十九時、台本の確認。
明後日は午後から撮影。
土曜日は衣装合わせ。
……大丈夫。
明日の電話は、学校が終わってからでも間に合う。
佐伯さんには伝えてある。
画面を戻す。
シェアハウスの通知が来ていた。
十四件。
……多くない?
開く。
【シェアハウス】
長谷川:夕飯、鶏でいい?
彩愛:いい
なお:食べる
長谷川:了解
彩愛:多めに作って
長谷川:お前のだけ減らす
彩愛:は?
長谷川:昨日のプリン代
彩愛:名前書いてなかった!
長谷川:俺が買ったんだよ
彩愛:じゃあ書いて!
長谷川:返せ
彩愛:もう食べた笑
なお:返せないね
長谷川:知ってるわ
……。
何これ。
思わず笑った。
隣に座っていた女の人が、ちらっとこちらを見る。
……あ。
すみません。
口元を押さえる。
もう一度読む。
プリン。
昨日の?
私が帰ってきた時には、もうなかったやつかな。
それにしても。
長谷川くん、今日の夕飯まで持ち込むんだ。
しかも彩愛も全然引かない。
……。
なおちゃん。
そこ、言わなくても。
ふふ。
また笑いそうになった。
返信しようとして、指を止める。
……。
何て返そう。
別に私に聞いてるわけじゃないし。
あ。
でも夕飯は食べたい。
入力欄を開く。
『私も食べたい』
打つ。
……。
今から追加できるかな。
何人分作るつもりなんだろ。
長谷川くん、もう帰ってるのかな。
いや、さっきの時間ならまだ学校か。
……。
まあ、帰ってから聞こう。
送らずに消した。
画面を閉じる。
また通知。
小川さん。
『明日の学校、遅刻しないようにね』
……。
今それ?
『しないよ』
『ならよかった』
少し考える。
『小川さんも明日の会議遅刻しないでね』
送信。
すぐ既読。
『気をつけます』
ふふ。
この前五分遅刻したの、忘れてないからね。
スマートフォンを鞄へ入れる。
座り直したところで、制服の袖口が目に入った。
……あ。
少し汚れてる。
朝、どこかに引っかけたかな。
指で触る。
薄い。
これなら落ちそう。
帰ったら先に処理しよ。
洗濯機にそのまま入れると、ちょっと面倒なことになる。
今日の夕飯は鶏か。
楽しみ。
窓の外へ目を向けた。
あと三駅。
*
最後の音が消えた。
右手を離す。
左手も。
ペダルから足を上げる。
……。
もう一回。
最初の和音。
左手。
右手。
途中まではよかった。
でも。
……違う。
そこ、もう少し。
弾き直す。
今度は最後まで。
……。
うん。
これ。
鍵盤から手を離した。
電子ピアノの電源を落とす。
部屋が静かになった。
時計を見る。
十七時十二分。
……え。
もう?
帰ってきたの、三時前だったよね。
制服を着替えて。
学校でもらったプリントを机に置いて。
ちょっとだけ弾こうと思って。
……二時間。
まあ、いいか。
今日はもう予定ないし。
椅子を引いて立ち上がる。
机の上。
プリント。
明日提出するやつ。
家に置いておくやつ。
保護者の署名が必要なやつ。
……これ、どうしよう。
父に写真送ればいいかな。
でも原本に書かなきゃいけないんだよね。
……。
明日聞こう。
引き出しへしまった。
お腹が鳴る。
……。
夕飯。
スマートフォンを見る。
シェアハウスの通知。
長谷川が夕飯について何か送ってきている。
私は画面を開かず、バッグへ入れた。
コンビニ行こ。
財布。
鍵。
スマートフォン。
小さいバッグへ。
部屋を出る。
階段を下りる。
一階は静かだった。
リビングに誰もいない。
キッチンも。
まあ、まだ五時過ぎだし。
玄関で靴を履いた。
外へ出る。
少し風がある。
夕方。
まだ明るい。
コンビニまで歩いて五分。
近くて助かる。
角を曲がったところで、スマートフォンが震えた。
父。
『入学式はどうだったかな。新しいクラスには馴染めそう?』
……あ。
返信してなかった。
朝も連絡が来ていた。
終わったら教えてね、って。
道の端へ寄る。
『普通に終わったよ。何人かと話した』
送る。
すぐ既読。
『それはよかった。最初のうちは慣れないことも多いだろうけど、焦らずにね』
『うん』
『夕食はもう取った?』
『今から買う』
『そうか。出来合いのものでも構わないけど、できれば野菜も取るようにね。栄養が偏りやすいから』
……。
スマートフォンをポケットへ入れる。
コンビニの明かりが見えた。
自動ドア。
入る。
お弁当の棚。
唐揚げ。
ハンバーグ。
焼き魚。
……今日は唐揚げ。
取る。
裏の表示を見る。
……。
戻す。
焼き魚弁当を取る。
……。
いや。
何で?
唐揚げ食べたかったじゃん。
焼き魚を戻す。
唐揚げをもう一度取る。
かごへ入れた。
少し進む。
サラダ。
……。
通り過ぎる。
飲み物の棚。
水を取る。
戻る。
サラダを一つ取った。
かごへ。
……。
何でサラダ取ってんの、私。
まあ、食べるけど。
デザートの棚。
プリン。
小さいやつ。
……。
今日はこれも。
かごへ入れる。
こっちは迷わなかった。
レジへ向かう。
またスマートフォンが震える。
父。
『こちらの仕事も順調に進んでいるよ。今の予定なら秋にはそちらへ移れそうだ』
画面を見る。
秋。
……。
「次のお客様どうぞー」
「あ、はい」
スマートフォンをしまう。
会計。
袋を受け取った。
外へ出る。
帰り道。
もう一度スマートフォンを開く。
父から、もう一件。
『お母さんも入学式のことを気にしていたよ。時間がある時に連絡してあげると喜ぶと思う』
……あ。
お母さん。
母とのトークを開いた。
『入学式終わったよ』
朝撮った写真を送る。
校門の前。
制服。
ちょっと変な顔。
……まあいいや。
すぐ既読。
『晴瑠奈ちゃん、入学おめでとう!』
『制服すごく似合ってるね』
スタンプ。
私は少し笑った。
『ありがと』
送る。
またスタンプ。
……多いな。
画面を閉じようとして、別の通知に気づいた。
シェアハウス。
さっきのやつ。
開く。
【シェアハウス】
長谷川:夕飯、鶏でいい?
彩愛:いい
なお:食べる
長谷川:了解
彩愛:多めに作って
長谷川:お前のだけ減らす
彩愛:は?
長谷川:昨日のプリン代
彩愛:名前書いてなかった!
長谷川:俺が買ったんだよ
彩愛:じゃあ書いて!
長谷川:返せ
彩愛:もう食べた笑
なお:返せないね
長谷川:知ってるわ
……。
昨日のプリン。
ああ。
一橋が食べてたやつ。
長谷川のだったんだ。
……。
いや。
何でそれで今日の夕飯減らすの。
しかも絶対減らさないでしょ。
あいつ、料理はちゃんと作るし。
……多分。
画面を閉じる。
家まで、あと少し。
角を曲がる。
窓に明かりがついていた。
さっきは消えてたのに。
誰かいる。
ドアに手をかける
「……名前書かなかったところ?」
……。
ドア越しから声が聞こえた。
女の子。
……彩愛?
……。
違う。
ジュン。
「そう!」
この声が彩愛。
「でも彩愛が食べたんだよね」
「何で戻すの!?」
2人のやり取りが聞こえてくる。
....男子の笑い声も聞こえる。
長谷川だろう。
私は鍵を差し込み、扉を開ける。
靴を脱ぐ。
「ただいま」
リビングへ向かう。
「あ、武田!」
一橋がこっちを見る。
「おかえり!」
「……ただいま」
「おう」
長谷川。
それから。
「ハルちゃん、おかえり!」
ジュン。
……。
私は三人を見る。
長谷川。
一橋。
ジュン。
なおはソファの端で本を読んでいる。
……。
「何してんの?」
一橋がすぐこっちへ来た。
「聞いてよ!」
「嫌」
「早くない!?」
「絶対くだらないでしょ」
「くだらなくない!」
長谷川が笑った。
「くだらないです」
「長谷川!」
ジュンも笑ってる。
……。
さっきのLINE。
長谷川と一橋。
たまになお。
なのに今。
「……増えてない?」
思わず言った。
ジュンがこっちを見る。
「何が?」
「うるさい人」
長谷川が吹き出した。
「ほら東江!」
「長谷川くんも入ってるでしょ」
「俺は元からだから」
「何その理屈」
「先住民」
「差別じゃん」
「どこが!」
……。
私はコンビニの袋を持ち直した。
「……ご飯食べるから」
「おう。レンジ空いてるぞ」
長谷川。
「……うん」
「皿は上の棚な」
「分かった」
それだけ。
長谷川はまたジュンの方を向いた。
私はキッチンへ行く。
袋から弁当を出す。
唐揚げ。
サラダ。
水。
プリン。
電子レンジ。
温める。
表示は二分三十秒。
背後では、まだ三人が言い合っている。
スマートフォンが震えた。
父。
『夕食、ちゃんと取れそうかな?』
私は画面を見た。
目の前。
唐揚げ弁当。
サラダ。
水。
プリン。
『うん』
送る。
スマートフォンを伏せた。
電子レンジ。
二分十秒。
「だから長谷川くんも悪いじゃん!」
「何で俺が悪いんだよ!」
「彩愛だってそう思うよね?」
「うん!」
……。
私はサラダの蓋を開けた。
ドレッシング。
かける。
……。
あ。
かけすぎた。
もういい。
*
鶏を切り終えたところで、時計は五時二十五分を少し回っていた。
包丁を置く。
まな板を流す。
左足を一歩引いて、身体の向きを変える。
膝はそのまま。
フライパン。
油。
火。
少し待ってから鶏を並べた。
いい音。
「長谷川」
右から声。
一橋がキッチンの入口に立っている。
「何」
「まだ?」
「今から焼く」
「遅くない?」
「お前が早いんだろ」
「お腹空いた」
「知るか」
「冷たい」
「冷蔵庫かよ」
「そういう意味じゃない!」
俺は火を少し弱めた。
蓋を置く。
一橋が冷蔵庫を開ける。
なおはリビングのソファ。
膝に本を置いている。
さっきページをめくったと思ったら、もう次のページを開いていた。
……早くね?
まあ、いいか。
冷蔵庫の前で一橋が何か探している。
「一橋」
「何」
「人のもん勝手に食うなよ」
「食べないし!」
「昨日食っただろ」
「まだ言う!?」
「プリン返せ」
「もうない!」
「買ってこい!」
「名前書いてなかったじゃん!」
俺はフライパンを見る。
少し待つ。
蓋を開ける。
ひっくり返す。
……うん。
いい色。
その時。
玄関。
鍵の音。
「ただいまー」
東江。
「おう」
俺は返した。
制服。
学校の鞄。
もう一つ、仕事用らしいバッグ。
靴を脱いで、玄関の端に揃える。
こっちへ来る時、バッグが壁に当たりそうになって、東江が身体を半歩ずらした。
長い髪が肩を滑る。
「早かったな」
「そう?」
「もっと遅いかと思ってた」
「今日は打ち合わせだけだから」
「へえ」
東江がバッグを置く。
制服の袖口を少し見て、指で触った。
「ねえ、長谷川くん」
「何」
「夕飯って、今からでも一人増やせる?」
「お前?」
「うん」
「別にいいぞ」
「ほんと?」
「余分に作ってるし」
「やった。ありがと」
「おう」
東江が手を洗いに行く。
一橋が冷蔵庫を閉めた。
「ねえ長谷川」
「何」
「私の分減らしてないよね?」
「どうだろうな」
「は!?」
「プリン代」
「まだ言う!?」
東江が振り向いた。
「……プリン?」
あ。
一橋の肩がこっちから東江へ向いた。
……嫌な予感。
「ジュン! 聞いてよ!」
「やめとけ」
俺は言った。
「何で!」
「東江帰ってきたばっかだろ」
「聞くだけじゃん!」
「聞かせる内容が終わってんだよ」
「終わってない!」
東江が少し笑った。
「何があったの?」
……。
ほら。
一橋が話し始めた。
案の定、都合のいいところだけ。
「昨日さ、冷蔵庫にプリンあったの」
「うん」
「食べたの」
「うん」
「そしたら長谷川のだったんだって!」
「……ああ」
「でも名前書いてなかったんだよ!」
「いや、だからって食うなよ!」
「知らないし!」
東江が少し考えた。
「……それは彩愛が悪いんじゃない?」
「でしょ?」
俺は頷いた。
一橋がこっちを見る。
「え、ジュン!?」
「だって、人のものだったんでしょ?」
「名前書いてなかった!」
「でも彩愛が買ってないんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ誰かのじゃん」
「……」
よし。
決着。
俺はフライパンへ目を戻した。
火を弱める。
そろそろいいな。
「でも」
東江が言った。
「ん?」
「長谷川くんも、共有の冷蔵庫なら名前書いといた方がよかったんじゃない?」
……は?
「いや、そりゃそうだけど」
「でしょ?」
「でも食ったのは一橋だろ」
「うん。それは彩愛が悪い」
東江が頷く。
「じゃあ何で俺に言った?」
「次から気をつければいいじゃん」
「いや、お前」
「何?」
「一橋には何も言わねえの?」
「さっき言ったじゃん」
「それで終わり?」
「だってもう食べちゃったし」
……。
俺は東江を見る。
東江のつま先はキッチンの方を向いたまま。
でも顔はこっち。
口元が少し上がっている。
俺が黙ると、ほんの少し首を傾けた。
……。
ああ。
まだ言う気だな。
一橋は横で頷いている。
「そう!」
「お前は黙れ!」
「何で!」
東江が笑った。
俺はフライパンの火を止める。
蓋。
少し蒸らす。
……。
東江。
こっちを見てる。
よし。
俺も笑った。
*
あ。
長谷川が笑った。
……。
嫌な予感。
私は知ってる。
あの顔。
クッション取る時。
リモコン取る時。
私が何か言い間違えた時。
大体あの顔。
絶対ろくなこと考えてない。
しかも今。
見てる相手は。
ジュン。
……。
え。
何で?
「東江」
長谷川が言った。
「何?」
「じゃあさ」
「うん?」
「次から俺が名前書いとけば、一橋が勝手に食ってもいいってこと?」
「そんなこと言ってないよ」
「じゃあ一橋が悪いんだろ」
「そうだよ」
「なのに俺も悪い?」
「悪いっていうか、書いとけば防げたんじゃない?」
「お前それ、俺が悪いって言ってね?」
「言ってないじゃん」
「言ってるだろ」
「言ってないよ」
……。
長谷川が笑う。
ジュンも笑う。
……。
何これ。
さっきから。
二人とも楽しそう。
私のプリンの話だったよね?
「ねえジュン!」
「何?」
「私の味方してよ!」
「彩愛が悪いと思うよ」
「何で!?」
「プリン食べたから」
「名前書いてなかった!」
「でも彩愛が買ってないじゃん」
「……」
長谷川が笑った。
「ほら」
「長谷川は黙って!」
「東江さん正論でーす」
「お前は黙れ!」
ジュンも笑う。
……。
ああ。
もう。
何なの。
長谷川がフライパンを持ち上げた。
左足を動かさず、右足を少し引く。
……。
あ。
今の。
大丈夫。
私は長谷川の足元からフライパンへ視線を戻した。
いい匂い。
お腹空いた。
「ねえ長谷川」
「何」
「もう食べていい?」
「今盛ってんだろ」
「早く」
「うるせえ」
「遅い!」
「お前さっきからそれしか言ってねえぞ」
「だってお腹空いた!」
ジュンが笑った。
「彩愛、そんなに?」
「うん!」
「じゃあ先に一個もらえば?」
「ほら!」
私が言った。
長谷川がジュンを見る。
「お前もかよ」
「何が?」
「一橋を甘やかすな」
「一個くらいいいじゃん」
「お前な」
長谷川が笑ってる。
……。
あ。
また。
あの顔。
いや。
これ、さっきからずっとじゃん。
ジュン。
長谷川。
言い合ってる。
しかも、何か私の時より楽しそう。
……。
ムカつく。
「ねえ!」
私は割り込んだ。
二人がこっちを見る。
「何?」
長谷川。
「何?」
ジュン。
「私の話なんだけど!」
「プリン?」
ジュン。
「そう!」
「じゃあ買って返せばいいじゃん」
「何で!?」
長谷川が吹き出した。
……。
ああ。
もう。
やっぱ駄目だ。
ジュン、全然味方してくれない。
「赤間!」
私は振り返った。
「何?」
赤間が顔を上げる。
ソファ。
本。
……あれ。
さっきと違う本?
表紙。
何か図が描いてある。
まあ、いいや。
「ジュン変じゃない!?」
赤間が少し考えた。
「……変ではないと思う」
「ほら!」
ジュンが言う。
「でも」
赤間が続ける。
「長谷川くんに似てる」
「え?」
ジュンが止まった。
長谷川が笑う。
「ほらー!」
「何が!」
「赤間が言った」
「なおちゃん?」
「うん」
「どこが?」
「返し方」
赤間が二人を見る。
「二人とも、相手が続きを言うの待ってる」
……。
私は二人を見る。
ジュン。
長谷川。
……。
あ。
確かに。
何か言ったあと。
ちょっと笑って。
待ってる。
次の返事。
……。
何それ。
ずるい。
「じゃあ私も!」
言った。
二人がこっちを見る。
「何?」
長谷川。
「私も待つ!」
「何を!?」
「長谷川が何か言うの!」
「ずっと言ってんだろ!」
「じゃあ早く!」
「何を!?」
ジュンが吹き出した。
「彩愛、それ待ってないじゃん!」
「待ってる!」
「急かしてるだろ!」
長谷川も笑う。
……。
ああ。
もう。
ムカつく。
私はソファの背へ手を置いた。
少し立ち上がる。
足元。
床。
滑らない。
「長谷川!」
「何!」
「明日、プリン買ってくる!」
「最初からそうしろ!」
「でも名前は書いて!」
「書くわ!」
……。
よし。
これで終わり。
終わり。
……。
あれ。
終わり?
何か、もうちょっと言い返したい。
「ねえジュン!」
「何?」
「長谷川が悪いところもあるよね!?」
ジュンが少し考えた。
「……名前書かなかったところ?」
「そう!」
「でも彩愛が食べたんだよね」
「何で戻すの!?」
長谷川が笑った。
……。
ああ。
もう。
ほんとムカつく!
その時。
玄関から音がした。
鍵。
ドア。
「ただいま」
武田。
あ。
「武田!」
私は呼んだ。
「おかえり!」
「……ただいま」
長谷川。
「おう」
ジュン。
「ハルちゃん、おかえり!」
晴瑠奈が三人を見る。
……。
「何してんの?」
私はすぐ言った。
「聞いてよ!」
「嫌」
「早くない!?」
「絶対くだらないでしょ」
「くだらなくない!」
長谷川が笑った。
「くだらないです」
「長谷川!」
ジュンも笑った。
晴瑠奈がもう一度、三人を見る。
「……増えてない?」
……。
あ。
そういえば。
昨日まで。
私と長谷川。
今は。
ジュン。
……。
うん。
増えた。
「……増えたね」
私が言った。
長谷川が笑った。
「お前が呼んだんだろ!」
「そうだけど!」
ジュンが笑う。
「私、呼ばれたから来たんだけど」
「帰ってきただけだろ!」
「そうとも言う」
「それ以外ねえよ!」
晴瑠奈が息を吐いた。
「……もういい」
コンビニの袋を持って、キッチンへ向かう。
長谷川が声をかける。
「武田、レンジ空いてるぞ」
「……うん」
「皿は上の棚な」
「分かった」
それだけ。
長谷川はまたフライパンへ向き直った。
……。
あ。
そうだ。
夕飯。
私、まだ食べてない。
「ねえ長谷川」
「何」
「まだ?」
「お前らのせいだろ!」
ジュンが吹き出した。
私も笑った。
……。
ああ。
今日も、うるさい。
*
ハルちゃんは、コンビニのお弁当を電子レンジへ入れた。
長谷川くんが小皿の場所を教える。
ハルちゃんが頷く。
それだけ。
私はテーブルへ目を戻した。
なおちゃんは本を閉じている。
表紙に、何か立体の図。
……数学?
あとで聞こうかな。
長谷川くんが鶏を盛りつけている。
「東江、皿出してくれる?」
「いいよ」
「四枚」
「うん」
食器棚。
昨日教えてもらった場所。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
重ねて持とうとして、やめた。
テーブルまで二回に分けて運ぶ。
彩愛がお箸を並べていた。
「ジュン」
「何?」
「今日一緒に食べるんだよね?」
「うん」
「やった」
「何で?」
「何となく!」
……。
ふふ。
「私も」
「ほんと?」
「うん」
彩愛が笑った。
長谷川くんが皿を置く。
「はい」
「ありがと」
鶏。
照り焼き。
いい匂い。
彩愛が隣から覗いた。
「ジュンの方が多くない?」
「同じだろ」
長谷川くん。
「絶対多い!」
「じゃあ数えろよ」
「数える!」
「やめなよ彩愛」
私が言う。
「だって!」
「多かったら半分あげるから」
彩愛が止まった。
「……え」
「何?」
「いいの?」
「うん」
長谷川くんが笑った。
「よかったな一橋」
「うん!」
「東江の分も食えるぞ」
「そういう言い方やめて!」
私も笑った。
……。
また。
しょうもない。
席へ座る。
なおちゃんが向かい。
彩愛が隣。
長谷川くんが最後に座った。
ハルちゃんは電子レンジの前。
残り時間を見てる。
私は箸を持つ。
「いただきます」
言った。
長谷川くんも。
彩愛も。
なおちゃんも。
声が重なる。
鶏を一口。
……。
おいしい。
「長谷川くん」
「何?」
「おいしい」
「おう」
「料理上手いね」
「ありがと」
彩愛が横から言った。
「でしょ?」
「こいつ料理だけはできるんだよ」
「だけって何だよ!」
「他はうざい」
「お前な!」
また笑う。
私も笑った。
……。
何か、変な感じ。
朝は学校。
昼は事務所。
さっきまで電車。
で、今。
鶏を食べながらプリンの話。
……。
まあ、いいか。
「ねえ長谷川くん」
「何?」
「明日も夕飯作る?」
「いや、分かんね」
「そうなの?」
「毎日作ってるわけじゃねえし」
「あ、そうなんだ」
「今日はみんな早かったからな。俺も暇だったし」
「なるほど」
私はもう一口、鶏を食べた。
「明日から授業始まるし。一橋も部活だろ」
「うん!」
彩愛が頷いた。
「明日から本格的に!」
「何時に帰るんだ?」
「七時半くらい。早くて」
「ほら」
長谷川くんが私を見る。
「俺も明日何時に帰るか分かんねえし。今日みたいにはいかねえよ」
「……ああ、そっか」
確かに。
彩愛はスポーツ科。
なおちゃんは芸術科。
私は芸能科。
長谷川くんは普通科。
……。
みんな違うんだ。
「じゃあ、次作る時はオムライスがいい」
「何で予約制なんだよ」
「希望だよ」
「はいはい」
「私も!」
彩愛が手を挙げた。
「オムライス!」
「お前はまずプリン返せ」
「まだ言う!?」
私は笑った。
……。
この二人。
ほんとに。
何でこんなに喧嘩できるんだろ。
……。
いや。
私もさっきまでやってたけど。
「東江」
長谷川くんが言った。
「何?」
「お前、明日仕事?」
「明日は電話だけ」
「何時?」
「四時半。あと夜に台本読む」
「へえ」
「長谷川くんは?」
「俺はまだ決まってねえ」
「そっか」
私は頷いた。
そういえば明日は、ちゃんと授業があるんだよね。
今日みたいに昼から事務所へ行くわけじゃない。
十一組。
まだ、あんまり話してない子もいる。
……。
ちょっと楽しみ。
「ねえジュン!」
彩愛。
「何?」
「明日、学校で会える?」
「うん。昼休みなら」
「じゃあ会お!」
「いいよ」
「やった!」
長谷川くんが笑った。
「お前ら学科違うだろ」
「だから何!?」
「いや、別に」
「長谷川も来る?」
「いや、俺はいいわ」
「何で!」
「福山と飯食うし」
……。
福山。
誰だろ。
彩愛が少し首を傾げた。
「福山?」
「同じクラスのやつ」
「友達?」
「そう」
「へえ」
長谷川くんは鶏を一口食べた。
彩愛がもう一度聞く。
「じゃあ来ないの?」
「行かねえって」
「ちょっとくらいいいじゃん!」
「何で俺まで一緒に食わなきゃいけねえんだよ」
「別にいいじゃん!」
「お前らで食えよ」
長谷川くんがそう言って、ご飯へ戻った。
……。
あ。
そっか。
同じ家に住んでるからって、学校でもずっと一緒にいるわけじゃないんだ。
まあ、そうだよね。
私だって十一組の子と話したいし。
「じゃあ彩愛、どこで食べる?」
「どうしよ!」
「購買?」
「いいね!」
「でも混みそう」
長谷川くんが口を挟んだ。
「混むぞ、あそこ」
「何で知ってるの?」
「今日見た」
「へえ」
「昼前から結構並んでた」
彩愛が少し考えた。
「じゃあ早く行こ!」
「うん」
なおちゃんが顔を上げる。
「私も行っていい?」
「もちろん!」
彩愛が即答した。
私は少し笑う。
「なおちゃんも一緒に行こ」
「うん」
……。
ハルちゃん。
電子レンジからお弁当を取り出している。
私はそちらを見る。
「ハルちゃんも――」
言いかけて、止まった。
ハルちゃんはコンビニのお弁当を持って、テーブルの端に座った。
サラダ。
水。
プリン。
スマートフォンを伏せる。
……。
今、聞く?
いや。
別に。
明日になってからでもいいか。
私は鶏をもう一口食べた。
彩愛が長谷川くんに何か言っている。
長谷川くんが返す。
なおちゃんが静かに笑う。
ハルちゃんはお弁当を食べている。
……。
昨日、帰ってきた時。
この家、もう少し静かだった気がする。
……。
いや。
昨日も結構騒がしかったか。
でも。
今日は。
私も、かなり喋ってる。
「東江」
長谷川くんが言った。
「何?」
「明日、一橋と会うならプリン買わせろよ」
「何で私が!?」
「見張り」
「嫌だよ」
「逃げるから」
「逃げない!」
彩愛が叫んだ。
私は笑う。
「じゃあ長谷川くんが自分で買いに行けば?」
「何で俺が買うんだよ!」
「好きなの選べるじゃん」
「そういう問題じゃねえ!」
「じゃあ彩愛と一緒に行けば?」
「だから俺は福山と飯食うんだって!」
「プリン買うだけじゃん」
「お前さっきから何なんだよ!」
長谷川くんが笑った。
彩愛も笑う。
……。
あ。
また。
この顔。
長谷川くん。
ちょっと楽しそう。
「東江」
「何?」
「お前、結構面倒くせえな」
「長谷川くんもね」
彩愛が吹き出した。
なおちゃんも少し笑う。
ハルちゃんが、こっちをちらっと見た。
……。
あ。
目が合った。
私は笑ってみせる。
ハルちゃんは少しだけ眉を上げて、それからお弁当へ目を戻した。
……。
ふふ。
私は鶏をもう一口食べる。
おいしい。
明日は、みんな授業。
彩愛は部活。
なおちゃんも美術部。
私は夕方から仕事の電話。
長谷川くんは福山くんとお昼ご飯。
……。
それぞれ、か。
「ねえ彩愛」
「何?」
「明日、お昼何食べる?」
「まだ決めてない!」
「そっか」
「ジュンは?」
「私も」
「じゃあ一緒に選ぼ!」
「いいよ」
「やった!」
長谷川くんが箸を置いた。
「購買、売り切れも早いらしいぞ」
「え、そうなの?」
私が聞く。
「福山が言ってた」
「へえ」
「だから俺らは弁当」
彩愛が顔を上げた。
「長谷川が作るの?」
「いや、明日は買う」
「何で!」
「何でって何だよ!」
「料理できるじゃん!」
「できるけど毎日やる気はねえよ!」
私は吹き出した。
……。
ああ。
そうだ。
今日も、たまたまなんだよね。
長谷川くんが夕飯を作って。
彩愛が食べて。
なおちゃんがいて。
私も間に合って。
ハルちゃんは別のお弁当を食べてる。
明日はきっと、違う。
でも。
まあ。
それはそれで。
「ねえ、長谷川くん」
「何?」
「今度オムライス作る時、教えてね」
「まだ言うか」
「食べたいから」
「はいはい」
「約束?」
「作る時にLINEするってだけな」
「うん」
それでいい。
私は笑った。
彩愛がすぐに口を挟んだ。
「私にも!」
「グループに送るわ!」
「やった!」
「だから作るとは言ってねえぞ!」
なおちゃんが小さく笑った。
ハルちゃんも、一瞬だけ顔を上げた。
私は残りの鶏を口へ運んだ。
……。
やっぱりおいしい。
明日の購買、何があるんだろ。
佐伯さんとの電話までに、台本も少し読んでおきたい。
制服の袖の汚れも落とさなきゃ。
……あ。
そうだ。
プリン。
帰りに買ったんだった。
私は顔を上げた。
「ねえ長谷川くん」
「何?」
「プリン、私も食べたい」
「買ってこい!」
「買ってあるよ」
「あるのかよ!」
彩愛が吹き出した。
私も笑った。
すると、彩愛が急にこちらを見た。
「……ジュン」
「何?」
「一口ちょうだい」
「嫌」
「何で!?」
「私のだから」
長谷川くんが声を上げて笑った。
「ほらな!」
「何が!」
「東江もそう言ってんだろ!」
「ジュンは名前書いてないじゃん!」
「今ここで本人が言っただろ!」
私は笑いながら、鞄の中のプリンを思い出す。
……。
あれ。
私のプリン。
冷蔵庫に入れたっけ。
いや。
まだ鞄の中だ。
……しまった。
帰ったらすぐ入れるつもりだったのに。
私は椅子を引いた。
「ちょっと冷蔵庫入れてくる」
「俺のも取って」
「どれ?」
「奥のやつ」
「名前書いてある?」
「書いてるわ!」
……。
ふふ。
私は笑いながら立ち上がった。
明日の予定は、あとで確認しよう。
まずはプリン。
ちゃんと冷やさなきゃ。




