9
城岬隆の部屋の引き戸が外されてから、宿のいちばん奥の廊下は、急に、別の場所の空気に変わった。
それまで、ふだんの旅情の宿の、しっとりとした薄暗さだった廊下の奥が、いまは、捜査の現場の、ぴんと張った緊張の中に、ひとつずつ、整え直されていった。
九能弦十郎は、部屋の戸口の手前で、いったん、立ち止まった。
足元から、現場の中に、余計なものを、ひとつも、持ち込まないための、いつもの呼吸の置き方だった。
その横で、亀井時生も、先輩の所作をまねて、戸口の前で、ぴたりと、止まった。
ただ、止まり方が、まだ、すこし、ぎこちなかった。
「亀井」
九能は、低く、声をかけた。
「は、はい」
「足、そこで、止めたままで、いい」
「は、はい」
「現場の中には、まず、私が、入る」
「は、はい」
九能は、戸口の脇の柱に、軽く片手を添えながら、城岬隆の部屋の中に、ゆっくりと、自分の足を、踏み込んだ。
部屋の中の灯りは、すでに、駐在のかたが、入口の脇のスイッチを、丁寧に、点けてくれていた。
合掌造りの宿の角部屋は、ほかの部屋よりも、ひと回り、天井が低かった。
太い梁が、頭のすぐ上のところで、しっかりと、組まれている。
その梁の下に、布団がひと組、すでに敷かれていて、その布団の脇の畳の上に、城岬隆が、横向きに、倒れていた。
城岬隆の身体のまわりには、争ったような、激しい乱れの跡は、ほとんど、見えなかった。
布団の角は、わずかに、めくれていた。
枕の位置が、ほんの少しだけ、ずれていた。
それだけだった。
ふだんなら、人が、急に倒れたなら、もっと、まわりの物が、乱れているはずだった。
その「乱れの少なさ」が、かえって、九能の中に、ひとつの引っかかりを、残した。
「亀井」
「は、はい」
「窓の方の、心張り棒のところ、見えるか」
「あ、はい。戸口から、見えます」
「あの心張り棒の、つっかえ方、よく、見ておけ」
亀井は、戸口の外から、首を、ぐっと伸ばすようにして、部屋の中の引き戸の溝の方を、見た。
引き戸の内側の、いちばん下のところに、古い、木製の心張り棒が、しっかりと、つっかえている。
その棒の片方の端は、引き戸の框の、内側の浅い溝に、ぴたりと、はまっていた。
もう片方の端は、畳の上の、敷居に近いところの、わずかな段差に、しっかりと、つっかえていた。
「亀井」
「は、はい」
「ふつう、この心張り棒は、どうやって、かける?」
「えっと、内側から、棒を、框と、敷居のところに、はさんで、つっかえさせます」
「ああ。内側から、はさむ」
「は、はい」
「では、外から、これを、かけることは、できるか」
亀井は、しばらく、考え込んだ。
「えっと、ふつうに考えたら、無理、です」
「ふつうに考えたら、な」
九能は、その心張り棒の、つっかえている角度を、しゃがみ込んで、しずかに、確かめた。
棒の表面に、わずかに、こすれたような跡が、ある。
そのこすれ跡が、ひと所だけ、ふだんの心張り棒の使い方では、つかないはずの場所に、残っていた。
棒の、いちばん上の方の、框にはまる側の、わずかに横の面のところ。
そこに、ごく細い、線のような、こすれ跡が、ひと筋、残っていた。
「亀井。来てごらん」
「あ、はい」
亀井は、ようやく、九能の指示で、現場の中に、慎重に、一歩、入った。
そして、九能の脇に、しゃがみ込んだ。
「ここ、見えるか」
「あ、はい。こすれた、線、ですよね」
「ああ。これは、心張り棒の、ふだんの使い方では、つかない場所だ」
「と、いいますと」
「ふだん、内側から、心張り棒をはさむときには、棒の、両方の端の、はまるところだけが、こすれる」
「はい」
「ところが、この棒は、いちばん上の、框の側の、横の面のところに、ひと筋、こすれ跡が、残っている」
九能の指が、そのこすれ跡の上を、わずかに、触れずに、なぞった。
「これは、この棒の、横の面に、何か、細いものが、引っかけられて、外から、強く、引かれた跡だ」
亀井の目が、ぱっ、と、丸くなった。
「えっ、外から、引かれた」
「ああ」
「つ、つまり」
「亀井、まだ、結論は、言うな」
「は、はい」
「ただ、いまの段階で、言えるのは」
九能は、ゆっくり、立ち上がった。
「この心張り棒は、内側から、ふつうに、はさまれただけでは、ない可能性がある」
「は、はい」
「外から、何か、細いものを使って、最後に、つっかえさせた、可能性が、ある」
亀井は、その言葉を、メモ帳の上に、慌てて、書きつけた。
『心張り棒、横の面に、こすれ跡。外から、引いた可能性』。
その字の力の入れ方の中に、林の現場の、苔のふた筋のこすれ跡と、同じ種類の、ある「細いもの」の気配が、いま、もう一度、立ち上がっていた。
九能は、その心張り棒の話の上で、すぐには、結論を、急がなかった。
代わりに、視線を、城岬隆の身体のまわりに、もう一度、戻した。
城岬隆の手の指は、林の多胡美咲のときとは、すこし、ちがった。
多胡美咲の指は、地面の苔の上に、ふた筋の、平行に近い跡を、残していた。
城岬隆の指は、自分の胸のあたりの、布団の角を、わずかに、握り込んだまま、止まっていた。
その握り込んだ布団の角のあたりに、ごく薄く、何か、湿ったような、別の匂いが、残っていた。
九能の鼻先が、ふっと、その匂いの方向に、自然と、曲がった。
「亀井」
「は、はい」
「ここの布団の角、匂いを、覚えておけ」
「あ、はい」
「林の、多胡さんの、口元の匂いと、似ている」
亀井は、慌てて、その布団の角に、自分の鼻先を、近づけた。
そして、しばらくして、ぐっ、と、唾を、飲み込んだ。
「あ、これ、お酒と、それと、なんか、薬っぽい、匂い、です」
「ああ」
「林の、多胡さんのときと、同じ」
「同じ種類の、ものだ」
九能の声は、低かった。
「ふたりとも、たぶん、同じ種類の、何かを、口にしている」
その言葉に、亀井は、メモ帳の上に、もう一行、書きつけた。
『城岬の布団の角の匂い、多胡の口元の匂いと、同じ種類』。
第一の被害者と、第二の被害者が、同じ種類の、何かを、口にしている。
その事実が、林の中と、宿の中という、まったく別の場所の、ふたつの死を、はっきりと、ひとつの線で、つなぎ始めていた。
九能は、その線の上で、しばらく、しずかに、考え込んだ。
そのあと、ようやく、戸口の外の、廊下の方を、振り返った。
廊下の奥の、すこし離れたところに、宿の女将と、地元の駐在のかたが、しずかに、控えていた。
そのさらに後ろの、廊下のいちばん手前の方に、沙耶香と、三嶋の姿が、あった。
ふたりは、九能から、無言の合図を、待っていた。
九能は、その視線に、ひと呼吸だけ、目で、応じた。
それから、低く、亀井に、ひと言。
「亀井」
「は、はい」
「篠原さんと、三嶋さんに、ここまで、来ていただいてくれ」
「あ、はい」
「ただし、部屋の中には、入っていただかない」
「は、はい」
「廊下のいちばん手前の、引き戸の外から、見ていただくだけだ」
亀井は、慌てて、廊下の手前の方へ、ぎこちなく、駆けていった。
その途中で、また、片方の靴ひもが、わずかに、ほどけかけていた。
しかし、いまは、誰も、それを、指摘しなかった。
沙耶香と、三嶋は、亀井に案内されて、廊下の奥の、城岬隆の部屋の、戸口の外まで、ゆっくりと、進んだ。
部屋の中の、灯りの中の様子は、戸口の外からでも、ある程度、見えた。
しかし、九能の指示で、ふたりは、戸口の手前の、廊下の板の上から、それ以上、足を、踏み込まなかった。
「篠原さん」
九能は、部屋の中から、低く、声をかけた。
「ええ」
「城岬さんは、密室の中で、お亡くなりになっていた」
「ええ」
「引き戸は、内側から、心張り棒。窓は、内側から、施錠」
「ええ」
「ただし、その心張り棒に、ひとつ、ふだんとは違う、こすれ跡が、ある」
九能は、その心張り棒の、横の面の、ひと筋のこすれ跡のことを、廊下の外の沙耶香にも、ていねいに、伝えた。
沙耶香は、その話を聞きながら、頭の中で、すぐに、林の現場の、苔のふた筋のこすれ跡を、重ねた。
「警部さん」
「ええ」
「林の、苔のふた筋のこすれ跡と、いまの、心張り棒の、横の面のこすれ跡」
「ええ」
「どちらも、何か、細いものを、使った跡、ということですか」
九能の目が、廊下の外の沙耶香の方に向いて、わずかに、深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「あなたは、やはり、見ているところが、ちがう」
「ええ」
「その通りです。林の現場と、いまの密室の現場の、両方に、何か、細いものを、使った跡が、ある」
「ええ」
「同じ種類の、細いもの、かもしれない」
九能の声は、低かった。
「もし、同じ種類の、細いものなら、林の中の、多胡さんの死と、宿の中の、城岬さんの死は、同じ手の動きで、つながっている」
その言葉に、廊下の外の沙耶香も、深く、うなずいた。
「三嶋さん」
九能は、ふと、視線を、三嶋の方に、移した。
「あ、は、はい」
「あなたに、お願いがある」
「ええ」
「あなた、昨日から、宿の中を、ずいぶん、写真に、撮っていらっしゃるでしょう」
「あ、はい。ロビーとか、囲炉裏とか、廊下とか、いろいろ」
「その写真、全部、見せていただけますか」
「いいですけど、人の顔は、あんまり、正面からは」
「ええ。それで、構わない」
九能は、しずかに、続けた。
「人の顔ではなく、宿の中の、廊下や、梁や、窓や、灯りや、そういう景色の中に、ふと、写り込んでしまっている、ささやかな何かを、見せていただきたい」
「ささやかな、何か」
「ええ」
「たとえば」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「たとえば、宿の中の、ふだんは、誰も、気に留めないような場所に、置かれていた、ある『細いもの』が、あなたの写真の、どこかの隅に、ふと、写り込んでいないか」
その言葉に、三嶋は、ぱっ、と、自分のカメラを、軽く、抱きしめた。
「あ、それ、もしかして」
「ええ」
「僕、たぶん、撮ってるかも、しれません」
三嶋の声は、ふだんの間延びした調子の中に、ふっと、別の、しっかりした音色が、混じった。
「いや、撮ってる、というか、無意識に、写ってる、かも」
「ええ」
「僕、よく、そういうの、あるんです」
「ええ。聞いています」
九能の口の端が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「篠原さんから、前に、伺っていました」
「あ、沙耶香さん、また、僕のこと」
「褒めてたのよ」
沙耶香が、横から、低く、ひと言、添えた。
「あなたの写真は、何百枚のうちの、必ず、数枚が、事件の、いちばん奥の井戸口に、つながる、って」
「あー、それ、嬉しい部類の、やつですよね」
「嬉しい部類」
「あ、よかった」
その短いやりとりの中の、ふだんの相棒の温度が、廊下の奥の、ぴんと張った緊張の中に、ほんのわずかだけ、やわらかい呼吸を、入れた。
九能は、その様子を、廊下の外から、ふと、目を細めて、見ていた。
そのあと、低く、亀井に、ひと言。
「亀井」
「は、はい」
「のちほど、三嶋さんの写真を、全部、お預かりして、丁寧に、見させてもらおう」
「は、はい」
「特に、宿の中の、廊下の隅や、納戸の周りや、囲炉裏の脇や、そういう場所に、ふと、写り込んだ、細いものが、ないか」
「は、はい」
亀井は、メモ帳の上に、丁寧に、書きつけた。
『三嶋さんの写真、全数、点検。細いものの写り込み、要確認』。
その日の夜のうちに、城岬隆の部屋の現場は、麓からの鑑識のかたがたによって、ていねいに、押さえられていった。
心張り棒の、横の面のこすれ跡。
窓の、内側の施錠の状態。
布団の角の、あの湿ったような匂い。
城岬隆の指の、わずかな握り込みのかたち。
そのひとつひとつが、丁寧に、写真と、記録に、収められていった。
その作業を、九能は、ひとつひとつ、しずかに、見届けていた。
そのあいだ、沙耶香と三嶋は、いったん、廊下の手前の方へ、下がっていた。
その下がった廊下の途中で、沙耶香は、ふと、自分の中の白いノートに、また、ひとつ、線を引いた。
『林の苔のふた筋、宿の心張り棒の横の面のこすれ、同じ種類の細いものの可能性』。
そして、その下に、もう一行。
『城岬隆と多胡美咲、同じ種類のものを口にしている。ふたりとも、数年前の事件の、関連者』。
その二行を書きつけてから、沙耶香は、しばらく、ノートの上の、自分の字を、目で、追った。
数年前の、東京郊外の介護事業所の、寄付金の搾取の事件。
朱沼茂が、内部告発をして、つぶされた、あの事件。
その事件の、関連者だったかもしれない、多胡美咲と、城岬隆が、いま、ふたり、続けて、亡くなった。
そして、朱沼茂自身は、いま、まだ、宿の中で、生きている。
その対比が、いまの自分の中で、はっきりと、立ち上がっていた。
『これは、私の正義じゃない』。
夢野りりの、あの短いセリフが、また、頭の中で、立ち上がってきた。
そのひと言が、いまの状況の中で、もう一段、別の、深い意味で、響いた。
多胡美咲と、城岬隆が、もし、数年前の事件の、加害の側の、関連者だったとしたら。
そして、いま、その関連者が、ひとり、またひとり、と、消されているとしたら。
その「消している側」は、もしかしたら、数年前の事件の、被害の側の、誰かなのではないか。
その誰かは、自分の中で、「これは、正義だ」と、思い込んでいるのではないか。
あるいは、別の誰かが、被害の側の顔をして、別の「正義」を、語っているのではないか。
その疑問の、いちばん奥のところに、まだ、はっきりしない、ひとつの影が、座っていた。
その影が、誰なのか。
いまの段階では、まだ、わからなかった。
しかし、その影の、いちばん近いところに、ひとり、人当たりの良すぎる、若い男の顔が、ふっと、浮かんでいた。
久代幸人。
サービスエリアで、参加者の顔を、視界の端で、ひとりずつ、確かめていた、あの若い男。
聞き取りのあとに、年配のご夫婦に向かって、不自然なくらい明るく、「お巡りさん、優しい方でしたね」と、ひと言、加えた、あの男。
その男の顔が、いまの沙耶香の中で、いちばん、薄く、しかし、はっきりと、座り始めていた。
ただし、まだ、それは、確証のない、ひとつの影に、過ぎなかった。
沙耶香は、その影を、すぐには、ノートに、書かなかった。
書く前に、もうひと呼吸だけ、自分の中の、いちばんやわらかいところに、その影を、しずかに、置いておいた。
夜は、ゆっくりと、いちばん深いところを、過ぎていった。
外では、谷の上の風が、また、低く、合掌造りの大屋根の角度の上を、なで上げては、なで下ろしていた。
その風の音の中で、城岬隆の部屋の現場の、ていねいな記録の作業が、しずかに、続いていた。
その作業の音を、廊下の手前の方から、沙耶香は、しばらく、聴いていた。
横で、三嶋が、自分のカメラの中の、何百枚もの写真を、液晶の小さな画面の上で、ひとつずつ、ゆっくりと、繰り始めていた。
その液晶の、薄い光の中に、ふだんの白川郷の旅情の景色が、一枚、また一枚と、流れていく。
その流れの中に、たぶん、これからの捜査の、いちばん奥の井戸口に、つながる、数枚が、しずかに、混じっていた。
三嶋本人は、まだ、そのうちのどれが、その数枚なのか、まったく、気づいていなかった。
しかし、その「気づいていない」ことそのものが、いつものことだった。
長い長い夜の、いちばん深いところで、二つめの密室の、しずかな記録が、ひとつずつ、整え直されていった。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、二つめの闇の、いちばん最初の検証が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、いちばん奥の角部屋で、ひっそりと、進められていた。
長い長い物語の、本当の闇の、いちばん深いところが、もう、すぐ、そこまで、こちらに、近づいていた。




