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朱沼茂の聞き取りが終わったあと、宿の中の時間は、ふだんの旅情の流れとは、まったく別の速度で、ゆっくりと、流れていった。
ふつうのツアーなら、この時間は、参加者たちが、自由に集落を散策し、夕暮れの合掌造りの大屋根を、思い思いに眺めながら、宿に戻ってくる、いちばん心のほどける時間のはずだった。
しかし、その日は、警察の指示で、参加者たちは、宿の敷地の外には出られなかった。
集落の散策の予定は、すべて、取りやめになっていた。
そのぶん、参加者たちは、宿の中の、ロビーや、囲炉裏端や、それぞれの部屋で、ふだんよりも、ずっと、長い時間を、過ごすことになった。
夕暮れの少し前、宿の中の空気は、奇妙に、しんと、沈んでいた。
囲炉裏の薪の音だけが、ぱちん、ぱちん、と、ふだんと変わらず、しずかに、燃え続けていた。
その薪の音の上に、それぞれの参加者の、それぞれの種類の沈黙が、薄く、層になって、重なっていた。
沙耶香と三嶋は、ロビーの隅の、いつものソファに、また、軽く距離を空けて、腰を下ろしていた。
「沙耶香さん」
三嶋が、低く、声をかけてきた。
「ん?」
「奥の聞き取り、どうでした」
「ここでは、まだ、話せない」
「ですよね」
「ただ、ひとつだけ」
「ええ」
「朱沼さん、というかたは、たぶん、いちばん『事件の側に、いてほしくない』かただった」
「それ、前から、沙耶香さん、言ってましたよね」
「ええ」
「でも、それが、当たってた、ってことですか」
「当たっていた、というよりも」
沙耶香は、ふっと、ロビーの奥の、いちばん端の席の方を、見た。
その席に、朱沼茂が、また、聞き取りのあとに戻ってきて、しずかに、湯のみを、両手で包み込むようにして、座っていた。
「あのかたは、たぶん、いちばん『事件の側に、ふだんから、いないように、ずっと、自分の中で、頑張ってきた』かただった」
「あー」
三嶋は、その意味を、すぐには、ぜんぶ、飲み込めなかったらしかった。
それでも、なんとなく、沙耶香の声色の中の、深い種類の敬意だけは、しっかりと、受け取ったようだった。
「沙耶香さん」
「ん?」
「僕、夕方の写真、撮りに行きたかったなあ」
「いまは、無理ね」
「ですよね。でも」
「でも?」
「宿の中だけでも、ちょっと、撮っといていいですか」
「いいわよ。ただし」
「ただし?」
「人の顔を、正面から、無遠慮には、撮らないで」
「もちろんです」
三嶋は、ふだんの調子で、首から下げたカメラのレンズキャップを、いつものクセで、指で、くるりと、回した。
そして、ロビーの中の、合掌造りの梁や、囲炉裏の灰の中の名残りの火や、窓の外の夕暮れの大屋根の角度や、そういう、人ではない景色の方に、ゆっくりと、レンズを向けていった。
そのシャッターの音が、ふだんよりも、すこし、控えめに、ロビーの空気の中に、混じった。
しかし、その控えめなシャッターの中に、たぶん、三嶋本人も、まだ、まったく気づいていない、何枚かの「人ではない景色の中に、ふと、写り込んでしまう、人の影」が、ひそかに、混じっていたはずだった。
それが、いつものことだった。
何百枚の中の、たった数枚。
三嶋本人は、まったく無自覚なまま、必ず、事件の、いちばん奥の井戸口に、つながる一手を、撮ってしまう。
その日のロビーの夕暮れの数枚の中にも、たぶん、そのうちの、いくつかが、すでに、しずかに、混じっていた。
夕食は、その夜は、昨夜のような広間での宴の形ではなく、女将の判断で、ごく簡素な、それぞれの部屋へのお膳の配膳に、切り替えられた。
事件のあとの宿として、参加者たちを、ひとつの広間に集めて、向かい合わせに座らせるのは、皆の心の負担が、大きすぎる、という、女将の、しずかな心遣いだった。
その心遣いを、参加者たちは、それぞれ、ありがたく受け止めていた。
九能と亀井は、その夜、宿の敷地の中の、いちばん玄関に近い小部屋に、捜査の拠点を、ひとつ、置かせてもらっていた。
麓の警察からの応援の捜査員たちも、何名か、宿の中と、宿の外の用水路の脇に、しずかに、配置されていた。
地元の駐在のかたも、ひとり、宿の中の、夜のあいだの見回りを、買って出てくれていた。
宿の中の警戒は、昨夜とは、まったく違う、ぴんと張った糸のような状態に、整えられていた。
沙耶香は、自分の部屋に戻る前に、いったん、九能の拠点の小部屋に、立ち寄った。
九能は、机の上に、宿の見取り図を広げて、亀井と、しずかに、何かを話し込んでいた。
「篠原さん」
九能は、ふと、顔を上げた。
「警部さん。少し、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
沙耶香は、しずかに、小部屋の中に、入った。
机の上の見取り図には、宿の中の客室の配置と、廊下の動線と、通用口の位置が、丁寧に、書き込まれていた。
そのいくつかの客室の枠の中に、亀井の字で、参加者の名前が、ひとりずつ、書き入れられている。
「篠原さん」
九能は、その見取り図の上の、ある一室を、指で、軽く、示した。
「ここが、城岬隆さんの、お部屋です」
「ええ」
「いちばん奥の、廊下のどん詰まりに近い、角の一室です」
その部屋は、見取り図の上で、ほかの客室と、わずかに、離れていた。
廊下のいちばん奥で、隣の部屋とのあいだに、納戸らしき小さな空間を、ひとつ、はさんでいた。
つまり、城岬隆の部屋は、宿の中で、もっとも、人の出入りの気配の、届きにくい場所だった。
「城岬さん、昨夜の夕食のとき、『明日、早くから歩きたい』と、おっしゃってましたね」
九能は、低く、確かめるように、言った。
「ええ」
「ただし、その『早くから』の中身は、誰にも、話さなかった」
「ええ」
「今日の聞き取りの中でも、城岬さんは、その『早くからの予定』の中身を、最後まで、はっきりとは、話されなかった」
九能の声色は、しずかだった。
「『朝、ひとりで、林の方を、歩きたかった』とだけ、おっしゃっていました」
「林の方を」
「ええ」
その「林」のひと言が、いまの状況の中では、もう、ふだんの林の散歩の話ではなくなっていた。
多胡美咲が、亡くなった、あの林。
そこを、城岬隆もまた、ひとりで歩くつもりだった、と言う。
「城岬さんは、多胡さんと、お知り合いだったんでしょうか」
沙耶香は、低く、たずねた。
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくり、机の上の見取り図の、城岬の部屋の枠を、もう一度、指で、軽く、たたいた。
「いまの段階では、城岬さんは、多胡さんとは、まったくの、初対面だ、とおっしゃっています」
「初対面」
「ええ」
「ただし」
「ええ」
「篠原さんが、昨夜の夕食のときに、見ていてくださったように」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「城岬さんと、多胡さんは、夕食のあいだじゅう、一度も、視線を、合わせなかった」
「ええ」
「初対面の人間同士なら、ふつう、何度かは、偶発的に、視線が交わるものです」
「ええ」
「あの『視線が、いっさい、合わない』というのは、初対面の人間同士の動きとしては、明らかに、不自然です」
「ええ」
「城岬さんと、多胡さんのあいだには、たぶん、こちらの知らない、何かの過去の、つながりがある」
九能のその見立てを、沙耶香も、まったく、同じように、感じていた。
「警部さん」
「ええ」
「今夜、城岬さんのお部屋には、何か、見張りを」
「いえ」
九能は、首を、ゆっくりと、振った。
「客室の中に、警察の人間を、無断で、貼り付けるわけにはいかない」
「ええ」
「ただし、廊下のいちばん奥の、城岬さんのお部屋に近い場所に、地元の駐在のかたに、夜のあいだの見回りを、いつもより、ひと回り、丁寧に、お願いしてある」
「ええ」
「それと、宿の通用口の方には、麓からの応援の捜査員を、ひとり、夜どおし、配置している」
九能の段取りは、昨夜の宿の警戒とは、まったく違う、はっきりとしたものだった。
しかし、その段取りの上でも、まだ、ひとつ、九能の中に、消えない、しずかな不安があった。
「篠原さん」
「ええ」
「正直に申し上げて」
「ええ」
「私は、今夜、もう一度、何かが、起きる気が、しています」
九能の声は、低く、しかし、はっきりしていた。
その「もう一度、何かが起きる気がする」のひと言を、沙耶香も、まったく、否定できなかった。
自分の中の口癖が、また、薄く、立ち上がってきていた。
事件は、いつも、こちらの方から、やってくる。
そして、今回のそれは、まだ、一つでは、終わらない、という予感が、もう、しずかに、彼女の中に、座り込んでいた。
「警部さん」
「ええ」
「私と、三嶋も、今夜、できるだけ、廊下の物音に、気を、配ります」
「ええ」
「ただし、昨夜の私のように」
沙耶香は、しずかに、続けた。
「夜中に、ひとりで、廊下の物音を、勝手に、追いかけることは、しません」
「ええ」
「もし、何か、ふだんと違う物音を、聞いたら、すぐに、警部さんか、亀井さんか、駐在のかたに、お知らせします」
「お願いします」
九能は、深く、頭を、下げた。
「篠原さん」
「ええ」
「昨夜のあなたの判断は、正しかった」
「ええ」
「ただし、今夜は、もしも、ふだんと違う物音を、聞いたら、ご自分で動かずに、すぐに、私たちを、起こしてください」
「ええ」
「あなたを、もう一度、危ない場所に、置きたくない」
その九能の言葉の中に、ふだんの刑事の指示の上にある、もう一段、別の温度の、人としての心配が、はっきりと、混じっていた。
その温度を、沙耶香は、しっかりと、受け取った。
「ありがとうございます、警部さん」
「いえ」
亀井も、その横で、自分のメモ帳の上に、丁寧に、ひと行、書きつけていた。
『今夜、要警戒。城岬隆。廊下いちばん奥の角部屋』。
その亀井の字の力の入れ方の中にも、いまの宿の中の、ぴんと張った糸のような緊張が、はっきりと、現れていた。
その夜、宿の中の灯りは、ふだんよりも、ひと回り、早く、落とされた。
参加者たちは、それぞれの部屋で、それぞれの種類の夜を、しずかに、過ごしていた。
沙耶香は、自分の部屋の布団の中で、灯りをひとつだけ残したまま、しばらく、廊下の方の気配を、しずかに、聴いていた。
廊下の奥の方からは、ときどき、地元の駐在のかたの、ゆっくりとした、見回りの足音が、聞こえた。
その足音は、ふだんの宿の中の足音とは違う、しっかりとした、警戒の中の、丁寧な足の運びだった。
その足音が、廊下のいちばん奥の、城岬隆の部屋の前を、何度か、ゆっくりと、行き来していた。
その足音を聞いているうちに、沙耶香は、いつのまにか、浅い眠りの中に、すこしずつ、沈んでいった。
夜の合掌造りの宿の中の、いちばん深い時間。
谷の上の風が、また、低く、合掌造りの大屋根の角度の上を、なで上げては、なで下ろしていた。
その風の音の中に、ふっと、別の音が、混じった。
最初は、風の音の続きのように、聞こえた。
しかし、その音は、明らかに、宿の中の、ある一室の方から、聞こえてきていた。
ごく、低い、何かが、軽く、倒れたような音。
それから、ひと呼吸の沈黙。
そして、その沈黙の上に、ごく小さな、引きずるような、別の音。
沙耶香は、その音で、浅い眠りから、ぱっ、と、目を覚ました。
布団の中で、しばらく、身体を、動かさずに、廊下の方の気配を、聴いた。
その音は、廊下のいちばん奥の、城岬隆の部屋の方から、聞こえてきていた。
沙耶香は、昨夜の自分との約束を、すぐに、思い出した。
ご自分で動かずに、すぐに、私たちを、起こしてください。
九能の、あの言葉が、まっすぐ、頭の中で、立ち上がった。
沙耶香は、布団を、すばやく、出た。
しかし、廊下には、出なかった。
代わりに、自分の部屋の壁を、二度、軽く、こつ、こつ、と、叩いた。
向かいの、三嶋の部屋への、合図だった。
ふだんから、ふたりのあいだで、決めてあった、夜の緊急の合図だった。
すぐに、向かいの三嶋の部屋から、同じように、こつ、こつ、と、二度、返ってきた。
それから、沙耶香は、部屋の中の、内線の受話器を、すばやく、取った。
宿の中の、九能の拠点の小部屋に、直接、つながる内線だった。
呼び出し音が、一度、鳴る前に、向こうが、出た。
「九能です」
「篠原です。城岬さんの、お部屋の方から、ふだんと違う、物音が」
沙耶香の声は、できるだけ、落ち着いて、しかし、はっきりしていた。
「いま、向かいます」
九能の声は、ひと言で、すぐ、切り替わった。
電話の向こうで、すでに、九能が立ち上がる気配と、亀井を起こす、低い声が、混じった。
沙耶香は、受話器を、置いてから、部屋の襖を、ほんの少しだけ、開けた。
廊下の奥の方に、すでに、地元の駐在のかたの、急ぎ足の足音が、響き始めていた。
その足音の方向が、まっすぐ、城岬隆の部屋の方へ、向かっていた。
廊下の奥の方で、駐在のかたの、低い、しかし、はっきりとした声が、響いた。
「城岬さん。城岬さん。お返事を」
その声に、城岬の部屋の中からは、何も、返ってこなかった。
廊下の奥の闇の中で、駐在のかたが、城岬の部屋の引き戸を、ノックする音が、何度か、続いた。
しかし、その引き戸は、開かなかった。
「鍵が」
駐在のかたの声が、ひと回り、固くなった。
「内側から、心張り棒が、かかっています」
その「内側から」のひと言が、廊下の闇の中に、ぴんと、張った。
沙耶香は、襖の隙間から、廊下の奥の方を、しずかに、見ていた。
その奥の闇の中に、九能と、亀井が、玄関側の廊下から、急ぎ足で、駆けつけてくるのが、見えた。
九能の足音は、迷いがなかった。
亀井の足音は、その後ろで、すこし、慌てて、しかし、必死に、ついていっていた。
廊下の奥で、九能の低い声が、駐在のかたに、何かを、確かめている。
しばらくして、九能の判断で、宿の女将が、合鍵を持って、呼ばれた。
しかし、合鍵を差し込んでも、引き戸は、開かなかった。
内側から、心張り棒が、しっかりと、つっかえている、ということだった。
「窓は」
九能の声が、低く、響いた。
「奥の窓も、内側から、施錠されています」
駐在のかたの声が、答える。
「裏手の通用口に近い、外の方から、城岬さんのお部屋の窓を、確かめてくれ」
九能の指示で、麓からの応援の捜査員のひとりが、宿の外の方へ、すぐに、向かった。
しばらくして、その捜査員から、宿の外の方からの、低い報告が、戻ってきた。
「城岬さんの部屋の、外側の窓も、内側から、しっかりと、閉まっています」
その報告に、廊下の奥の闇の中の空気が、もう一段、深く、張りつめた。
引き戸は、内側から、心張り棒。
窓は、内側から、施錠。
宿のいちばん奥の、人の気配の届きにくい角部屋。
それは、はっきりと、ひとつの「密室」の、かたちだった。
九能は、しばらく、廊下の奥の闇の中で、ひと呼吸、置いた。
それから、低く、はっきりと、決断した。
「やむを得ない。引き戸を、外す」
宿の女将と、男手のある捜査員たちで、合掌造りの古い引き戸を、慎重に、しかし、手早く、外しにかかった。
引き戸の上の、古い溝に、しっかりと、内側から、心張り棒が、つっかえているのが、外からも、薄く、見えた。
その心張り棒の、つっかえ方は、明らかに、内側から、誰かが、しっかりと、かけたものの形だった。
引き戸が、ようやく、ひとつ、外された。
その瞬間、城岬隆の部屋の中の、闇の中に、灯りが、差し込んだ。
部屋の中の、いちばん奥の、布団の脇の畳の上に、城岬隆が、横向きに、倒れていた。
その姿は、もう、息を、していなかった。
廊下の闇の中で、駐在のかたが、ひと呼吸だけ、息を、呑んだ。
九能は、その部屋の中の様子を、戸口から、しずかに、見渡した。
その目の中の光が、いつもの、現場の、いちばん深い種類の光に、変わっていた。
城岬隆の部屋もまた、内側から、引き戸の心張り棒と、窓の施錠で、完全に、閉ざされた、密室だった。
そして、その密室の中で、城岬隆は、もう、ふだんの城岬隆では、なくなっていた。
沙耶香は、自分の部屋の襖の隙間から、その廊下の奥の闇と、その奥の部屋の灯りの中の様子を、しずかに、見つめていた。
胸の前で、いつのまにか、自分の白いノートを、ぎゅっと、抱え直していた。
第一の被害者、多胡美咲は、林の中で、亡くなった。
第二の被害者、城岬隆は、宿の中で、密室の中で、亡くなった。
ふたりとも、たぶん、朱沼茂の語った「数年前の事件」の、関連者だった。
そして、夢野りりの、あの短いセリフが、また、頭の中で、立ち上がってきた。
『これは、私の正義じゃない』。
そのひと言が、いまの密室の闇の中で、もう一段、別の意味で、重く、響いた。
廊下の奥の闇の中で、九能が、ゆっくりと、こちらの方を、振り返った。
その視線が、廊下の長い闇の向こうから、まっすぐ、沙耶香の方へ、届いた。
その視線の中に、すでに、これからの、いちばん深い捜査の中に、もう一度、こちらの相棒として、入ってきてほしい、という、はっきりとした依頼が、ある。
沙耶香は、襖の隙間の向こうから、深く、ひとつ、うなずいた。
長い長い夜の、いちばん深いところで、ふたつめの密室が、いま、しずかに、口を開けていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、二つめの闇が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、いちばん奥の角部屋で、はっきりと、立ち上がっていった。
長い長い物語の、本当の闇が、ようやく、ここから、こちらに、深く、深く、近づき始めていた。




