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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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7

 朱沼茂は、ロビーの奥の囲炉裏のいちばん端の席から、ゆっくりと、立ち上がった。

 立ち上がるときの動作のひとつひとつが、ふだんの朱沼の歩幅の延長そのままで、まったく、慌てていなかった。

 膝の上の手ぬぐいを、丁寧に、ひと折りだけ、整えてからたたみ、湯のみの底にあった最後のひと口を、ゆっくり飲み干す。

 そのあと、湯のみを、囲炉裏の脇の盆の上に、ふだんと変わらない動きで、しずかに、戻した。

 彼が立ち上がる動作のあいだ、ロビーの中の他の参加者たちは、誰も、特別な視線を、彼に向けなかった。

 それでも、その「視線を向けない」かたちが、不思議なほど、皆、揃って、整いすぎていた。

 ふつうのツアー客なら、最後に呼ばれるお客に対して、もう一度、無意識に、ちらりとは、視線をやるはずだった。

 その「ちらり」が、誰の側からも、出ない。

 それは、参加者たちの心の底で、すでに、朱沼茂というひとが「ふつうのお客」とは別の場所に置かれている、ということを、しずかに、しめしていた。

 その整いすぎた「視線の不在」を、沙耶香は、ロビーの隅から、しっかりと、見ていた。

 朱沼は、廊下の方に向かう途中で、ふと、こちらに視線を、向けてくれた。

 沙耶香は、軽く、ひとつだけ、頭を下げた。

 朱沼も、それに、ふっ、と、笑みのような表情で、応えた。

 その笑みは、ふだんの彼の温和な笑みと、ほぼ、変わらなかった。

 ただ、その奥のところに、これから自分が話すべき長い長いひとくだりを、すでに、自分の中で、ほぼ整え終えているひとの、しずかな覚悟が、薄く、滲んでいた。

 朱沼の背中が、廊下の引き戸の向こうへ、しずかに、消えていった。

 そのあと、しばらくして、亀井時生が、こちらに、すこし慌てた足取りで、戻ってきた。

「篠原さん」

 亀井は、ロビーの中の参加者たちには、聞こえないように、低く、こちらだけに、声をかけた。

「ええ」

「あの、警部から、もしよろしければ、奥の聞き取りに、ご一緒いただけませんか、と」

「分かりました」

 短いやりとりだけで、沙耶香は、立ち上がった。

 その動きには、ふだんの旅情ライターのものとは別の、ひと呼吸だけ、深い気合いが入っていた。

 ロビーの中の三嶋に、軽く、視線で、合図を送る。

 三嶋も、軽く目を細めて、こちらに、ひとつだけ、うなずいた。

 ロビーの観察役は、自分が引き継ぐ、というその、ふだんの相棒の合図だった。

 沙耶香は、亀井の少し後ろに付いて、廊下を、ゆっくりと、奥へ進んだ。

 合掌造りの宿の廊下の板は、午後のうすあかりの中で、長年の手入れの艶を、しっとりと、湛えていた。

 足の運びごとに、その板が、軽く、きしむ。

 そのきしみの音が、いまの自分の歩幅と、いまの自分の中の覚悟と、いま向かう先で、朱沼茂が待っているしずかな時間と、ぴたりと、合っていた。

 奥の小部屋の障子の前で、亀井が、ひと呼吸、置いて、声をかけた。

「警部」

「ええ」

「篠原さんを、お連れしました」

「お通ししてくれ」

 九能の低い声が、障子の向こうから、ちゃんと、戻ってきた。

 亀井が、すこしぎこちなく、障子を引いてくれた。

 部屋の中に入ると、机をはさんで、奥の座椅子に、九能が、いつもの低い姿勢で腰を下ろしていた。

 そのななめ前の、横長の座椅子に、朱沼茂が、両手をきちんと膝に置いて、しずかに座っていた。

 机の脇の折り畳みの椅子に、亀井が、自分のメモ帳を、ふだんよりもさらに丁寧に、両手で抱えて、座り直した。

 沙耶香に、九能は、九能の斜め後ろの席を、軽く、視線で、勧めた。

 座っていいかどうかをたずねる視線を、机の向こうの朱沼茂にも、丁寧に、ひと呼吸、向ける。

 朱沼は、ゆっくりと、目を細めて、こちらにも、ひと度、軽く、頷いてくれた。

 その「いていい」の合図に、沙耶香は、深く、感謝の頭を、ひとつだけ、下げた。

 それから、座った。

 座る前に、自分の中の白いノートを、まず、机の隅の方に、ていねいに置いた。

 そのノートを、すぐには、開かない。

 これは、朱沼茂の話を、書き取るための場ではなかった。

 聞くこと、それ自体に、まず、いちばんの重みがある場だった。

 ノートの紙の白さが、いまの自分の中の、いちばんの目印だった。

「朱沼さん」

 九能が、ふだんよりも、半音だけ、ゆっくりとした調子で、低く、切り出した。

「はい」

「お一日中、お時間を、本当に申し訳ありません」

「いえ。私の方こそ、皆さまのご旅行を、こんなふうに、長引かせる形になって、申し訳ない」

 朱沼の口調は、ふだんと変わらず、ていねいだった。

 しかし、その「申し訳ない」のひと言の中に、ふだんの旅行客の社交辞令ではない、別の種類の重みが、すこし、混じっていた。

 九能は、そのひと言の中の、ほんのわずかな別の重みを、もちろん、聞き逃さなかった。

「朱沼さん」

「はい」

「いきなりで、たいへん申し訳ないのですが」

「ええ」

「ひとつ、お聞きしたい」

「ええ、どうぞ」

 九能は、机の上の自分の手の指を、しずかに、ふた呼吸、止めた。

 その間が、朱沼への、ひとつの敬意の置き方だった。

「あなたは、今朝のことを、もしかして、まったく『驚かれていない』ように、私には、見えました」

「ええ」

「その『驚いていない』お顔の理由を、まず、教えてくださいませんか」

 その問いかけ方は、刑事として、加害の側の人間に向ける問いの調子では、なかった。

 長い長い職業人生を背負ってきた老人に向けて、年下の刑事が、もうひと回り、覚悟の上で、まっすぐに頭を下げてから尋ねる、その種類の問いだった。

 朱沼茂は、ゆっくりと、目を、伏せた。

 頬の上のしわが、午後のうすあかりの中で、ひと回り、深く、見えた。

 そのままで、しばらく、彼は、答えなかった。

 机の上の自分の指のしわを、ふた、み呼吸の間、じっと、見つめていた。

 それから、ゆっくり、もう一度、顔を上げた。

「警部さん」

「ええ」

「正直に申し上げて、よろしいですか」

「もちろん」

「私は」

 朱沼は、低く、ゆっくり、はっきりした言葉で、続けた。

「数年前から、いつかは、こういう日が、来るかもしれない、と、思いながら、生きておりました」

 部屋の中の、しずかな空気が、ひと呼吸、ぐっと、深く、沈んだ。

 沙耶香の中の白いノートのページの上で、まだ何も書いていない、まっさらな白い部分が、ふと、自分のほうから、わずかに、震えた気がした。

 亀井は、自分のメモ帳の上で、ペン先を、いったん、止めた。

 書くべきか、いま、書かない方がよいか。

 その判断のあいだ、彼は、しばらく、九能の方の顔を、横目で確認した。

 九能は、ふっ、と、無言のまま、ひと呼吸だけ、その判断を、自分の側に、引き取った。

「亀井」

「は、はい」

「いまの朱沼さんのひと言、書いて構わない」

「はい」

「朱沼さんに、まず、お話を、ていねいに、続けていただこう」

 九能の声色は、ふだんよりも、もう一段、低く、しずかになっていた。

「朱沼さん」

「はい」

「もう少し、その『数年前から』のことを、お聞きしてもよろしいですか」

「ええ」

 朱沼は、ゆっくり、息を、整え直した。

 そのうえで、自分の人生のある期間の、ある重い部分を、ひとつずつ、ほどくように、語り始めた。

「数年前のことです」

 朱沼の声は、低く、しっかりしていた。

「私は、東京の郊外の、ある福祉の事業所に勤めておりました」

「事業所」

「ええ。介護のお仕事です。私は、生まれは、こちらの地方で、若い頃から東京で働いて、お子さまには、特に、恵まれない人生でしたから、自分の老後のためにも、いつかは人の役に立つお仕事を、と思って、五十を過ぎてから、思い切って、福祉の世界に、入りました」

「ええ」

「最初は、介護のスタッフのお仕事でした。お年寄りの、ふだんのお世話、ご家族の方のご相談、いろいろです。そういうお仕事は、私の中の、自分の人生の最後の方の、いちばん大事な仕事として、合っているように、思えました」

「ええ」

「ところが、その事業所そのものに、ある時期から、別の事業の話が、入ってきました」

 九能の目が、わずかに、深くなった。

「別の事業」

「ええ。表向きは、お年寄りのための、新しい施設を、地方に作ろう、という話でした」

「ええ」

「ある、人里離れた土地に、新しい、大規模な介護施設を、建てる、というのです。地元のお年寄りも、東京のお年寄りも、まとめて、お引き受けする、と」

「ええ」

「最初、私は、その話を、純粋に、いいお話だ、と思っていました」

「ええ」

「事業所の上の方の人たちが、その施設のための寄付を、ご家族さま方から、丁寧に募り始めました」

「寄付」

「ええ。お年寄りの新しい未来のために、と」

 朱沼の口元は、その「お年寄りの新しい未来のために」のひと言の上で、わずかに、苦く、ゆがんだ。

「ところが」

「ええ」

「あれは、寄付ではなかった」

 朱沼は、ゆっくり、息を整えた。

「寄付、というかたちで集められたお金の流れの中には、本当に新しい施設のために使われたぶんが、ほとんど、なかった、と、後から、分かって、まいりました」

「と、いいますと」

「事業所の中の、ある一握りの人たちの、別の事業の借金の補填や、別の、別の方々の口座に、もろもろの方法で、流されておりました」

「ええ」

「中には、お年寄りの、ささやかな貯金から、ご家族の同意のないままに、引き出されていたぶんも、混じっておりました」

「ええ」

「ご家族の方からの、いくつものお問い合わせが、表に出始めて、ようやく、私たち下のスタッフの目の前にも、その全体の絵が、ぼんやりと、浮かび上がってまいりました」

 朱沼の頬の血の色は、ふだんと変わらなかった。

 しかし、その目の中にだけ、たぶん、長いあいだ、彼が自分の中で、いっぺんも、人前で見せたことのない、深い種類の怒りが、わずかに、ともっていた。

「私は」

 朱沼は、続けた。

「下のスタッフのひとりとして、その当時、ある、ささやかな、内部告発のかたちを、取りました」

 九能の目が、もう一段、深くなった。

「内部告発」

「ええ」

「内容を、お聞きしてもよろしいですか」

「ええ」

「事業所の中の、ある人物が、寄付のお金の流れを、自分の管理する別の口座に、何度も、すりかえている、ということです」

「その『ある人物』のお名前は」

「いまは、まだ、私の口からは、申し上げません」

 朱沼の声は、はっきり、しかし、低かった。

「警部さん」

「ええ」

「申し訳ありませんが、その名前は、いまの段階では、私が口にすることで、まだ生きておられる、別の被害者のかた方の中の、何人かの方の、まわりの人間関係に、まったく、別の波紋を作ってしまいます」

「ええ」

「ですから、その『ある人物』の名前は、いまの段階では、私の口からは、伏せさせてください」

「分かりました」

 九能は、即答した。

 その「分かりました」の中に、捜査の側からの強引な聞き出しを、はっきりとしない、というしずかな約束が、ある。

 亀井も、その「いまは伏せる」の判断を、メモ帳の余白に、丁寧に、書き留めていた。

『朱沼茂の中で、ある『名前』は、いま、伏せられている。ただし、本人の中では、はっきりしている』。

「朱沼さん」

 九能は、続けた。

「その内部告発の、結果は、どうなりましたか」

「結論から申し上げますと」

 朱沼は、しずかに、答えた。

「途中で、つぶされました」

「と、いいますと」

「事業所の中の、上の方の人たちの中に、ご家族の方からのお問い合わせを、上手に処理できる立場の方が、おふた方、いらっしゃいました」

「ええ」

「そのおふた方が、私たち下のスタッフからの、ささやかな内部告発の文書を、ひと呼吸のうちに、ご家族の方々から見えないところで、すっと、片付けてしまわれました」

「ええ」

「同時に、私たち下のスタッフのほうにも、上の方からの『査察』というかたちで、人事の整理が、入りました」

「人事の整理」

「ええ。私の同僚の、内部告発に加わった何名かは、その後、別の事業所への異動、もしくは、自主退職、というかたちで、その事業所からは、消えました」

「あなたは」

「私は、いったん、当時の事業所には、残されました」

「残された、というのは」

「ええ。上の方の人たちが、私については、しばらくのあいだ、見せかけのために、残しておかれた、ということだと思います」

「ええ」

「『内部告発をした人間を、その後すぐに切ると、外から見て、報復しているように見える』ということだったのでしょう」

「ええ」

「私は、それから、しばらくのあいだ、表面上、ふだんのスタッフの一人として、勤め続けました」

「ええ」

「しかし、ふだんの仕事の現場では、もう、当時の、ふだんの介護の現場のお仕事は、ほとんど、私からは、外されておりました」

「ええ」

「数か月ほどしてから、ご家族の方からの、本格的なご相談が、ある外の支援団体の方を通して、もう一度、上がり始めました」

「ええ」

「そのころには、当時の事業所の上の方の人たちは、すでに、ほとんどの『流れ』の証拠を、丁寧に、なくしてしまわれていました」

「ええ」

「外の支援団体の方からの、もう一度の問い合わせと、警察への正式な被害相談の流れの中で、いくつかの罪状で、当時の上の方の人たちが、ご家族の方々の前に、ようやく、出ていくことになりました」

「ええ」

「ただし、出ていったのは、上の方の人たちのうちの、ほんの『一部』に、過ぎませんでした」

 朱沼茂の言葉は、ここで、ふっと、止まった。

 机の上の自分の指のしわを、また、ゆっくり、見つめる。

「『一部』に、過ぎなかった」

 九能は、低く、繰り返した。

「ええ」

 朱沼は、深く、頷いた。

「当時、いちばん深く、たぶん、いちばん多くのお金の流れを、丁寧に自分のものに変えていた、もうひとりの『ある人物』の名前は、その時の正式な事件の調書の中の、表側のところには、いっさい、上がりませんでした」

「ええ」

「その『ある人物』だけは、結果として、当時の事件の中では、何もしていない側の、ふだんの良心的なスタッフのひとりとして、表に、しずかに、残られた」

 朱沼の声には、ふだんの彼の温和さの中に、いま、はっきりと、ある種の冷たさが、混じっていた。

 その冷たさは、もう、ふだんの誰かに向ける怒りの種類のものではなかった。

 長い長い時間の中で、彼が、ひとり、自分の中で何度も、整えてきた、しずかな怒りだった。

「警部さん」

「ええ」

「私は、その『ある人物』のことだけは、ふだんの暮らしの中で、絶対に、忘れずに、生きてまいりました」

「ええ」

「ただし、その『ある人物』に対して、自分の手で何かをしよう、と思ったことは、一度も、ありません」

「ええ」

「私は、自分の中で、その『ある人物』のことを、ふだんの介護のお仕事の現場の中で、何度も、ふだんの自分自身のいさかいの中の、ひとつの『他山の石』として、置いてまいりました」

「他山の石」

「ええ」

「『私が、もしも、油断したら、私の中の、その『ある人物』に、いつかは、なりうる』」

「ええ」

「『私が、ふだんの善人の顔のままで、ひとさまから、お金を抜く側に、いつかは、なりうる』」

「ええ」

「『そうならないために、私は、私の中の、いちばん、ふだんの善人の顔のところに、いつも、その『ある人物』の影を、ひとつ、置いておかなければならない』」

 朱沼は、しずかに、目を、伏せた。

「そういう、ふうな、置き方を、私は、自分のために、続けてまいりました」

「ええ」

「ですから、警部さん」

 朱沼は、もう一度、ゆっくり、顔を上げた。

「私の中の、その『ある人物』への、いちばん深いところでの感情は、もう、ふだんの恨み、ではないのです」

「ええ」

「ただし、もしも、何かの、しずかな偶然の中で、その『ある人物』が、ふたたび、私の人生の側に、現れることがあれば、私は、その方の表情の中の、いちばん、ふだんの善人の顔の中の、ある一点が、いつか、また、別のかたちで、表に出てくるかもしれない、と、長いあいだ、心の底で、ひそかに、覚悟して、おりました」

 朱沼の言葉は、しずかに、机の上の空気の中に、降りていった。

 その言葉のあとに、九能は、しばらく、何も問わなかった。

 亀井も、ペン先を、机の上で、いったん、おろした。

 沙耶香は、自分の中の、白いノートの上の、まだまっさらな部分の上で、目を閉じた。

『これは、私の正義じゃない』。

 夢野りりの、あの短いセリフが、また、自分の頭の中で、すっ、と、立ち上がってきた。

 その立ち上がり方は、昨夜のロビーのテレビの前で聞いたときよりも、もう一段、深い場所からのものだった。

 朱沼茂、というひとは、まさに、自分自身に対して、いちばん深いところで、「これは、私の正義じゃない」と、何度も何度も、繰り返してきたひと、なのではないか。

 その「これは、私の正義じゃない」を、自分の中の戒めとして、ひとり、しずかに、ふだんの善人の顔のままで、これまで、生きてきたひと。

 そういうかたが、いま、自分の前にいる。

 その実感を、沙耶香は、しっかりと、自分の中の、いちばんやわらかい場所に、置いた。

 そして、ようやく、ゆっくり、目を開けた。

「朱沼さん」

 九能は、低く、声をかけた。

「もうひとつだけ、お聞きしてもいいですか」

「ええ」

「今回のこのツアーに、あなたが、参加されたきっかけは、なんでしたか」

 朱沼は、しばらく、答えなかった。

 それから、ゆっくり、口を、開いた。

「ある日、私の家のポストに、ふだんの宣伝のチラシに混じって、このツアーのチラシが、入っておりました」

「チラシ」

「ええ。白川郷の春の合掌造りの旅、という、ごくふつうのチラシです」

「ええ」

「私は、ふだんでしたら、そういうチラシを、丁寧に折り畳んで、すぐに、別のお年寄りのかた方の集まりの掲示板の方に、お回しするのが、習慣でした」

「ええ」

「ところが、その日だけは、なぜか、そのチラシを、自分の中で、しばらく、握ったままでおりました」

「ええ」

「裏面に、参加者のお名前を、本人の手で、書き込む欄が、ありました」

「ええ」

「その欄の上に、ふだんは絶対にしない、私のいま現在の本名を、ためらいながら、書き込んだのが、今回の参加の、最初のきっかけです」

 朱沼の言葉のあとで、九能は、しばらく、沈黙した。

「朱沼さん」

「ええ」

「そのチラシ、いま、お手元に、ございますか」

「ええ。たぶん、宿の自分のかばんの中に」

「のちほど、見せていただいてもよろしいですか」

「もちろん」

 九能は、頭を、軽く下げた。

「ご協力、本当にありがとうございます」

「いいえ」

 朱沼は、最後に、ゆっくり、頭を下げ返してから、しずかに、立ち上がった。

 立ち上がりかたの中に、いまの自分の中の覚悟を、ひとつ、また、ふっと、深く、整え直す動きが、ある。

「お疲れさまでした」

 九能は、丁寧に、声をかけた。

「ええ」

 朱沼は、奥の障子の向こうに、ゆっくりと、消えていった。

 そのあとで、九能は、しばらく、机の上の自分の手の指を、しずかに、見ていた。

 亀井は、メモ帳の上の、自分の字を、もう一度、最初から、ていねいに、読み直していた。

 沙耶香は、机の上の、自分の白いノートを、まだ、開かなかった。

 その白さの上に、まだ、ひと文字も、書いていなかった。

 書く前に、もうひと呼吸だけ、いまの朱沼の話を、自分の中の、いちばんやわらかいところに、しっかりと、収めておきたかった。

 部屋の中の、しずかな空気のなかで、沙耶香は、ようやく、ペンを取った。

 そして、白いノートの新しいページの、いちばん上のところに、たったひと行だけ、書きつけた。

『これは、私の正義じゃない、と、何度も、自分の中で、繰り返してきたひと。朱沼茂』。

 九能は、その彼女のペン先を、しばらく、横から、しずかに、見ていた。

 それから、低く、ひと言、つぶやいた。

「篠原さん」

「ええ」

「あなたの中のその一行で、たぶん、今回の事件の、いちばん深い場所が、ひとつ、見え始めた」

「ええ」

「ありがとう、ございます」

「いえ」

 ふたりのあいだの短いやりとりの中に、これからの長い長い数日の、いちばん最初の、深い握り直しが、しずかに、ひとつ、あった。

 部屋の外で、午後のうすあかりが、すこしずつ、夕暮れの方に、ゆっくり、傾いていた。

 合掌造りの大屋根の角度の向こうで、谷の上の空が、また、ひと色だけ、別の青に、変わり始めていた。

 その夕暮れの少し前の時間の中で、長い長い物語の、いちばん深いところへ向かう次の一歩が、もう、ひそかに、用意されていた。

 朱沼茂の、ふだんの善人の顔の奥にある「いまも、自分の中で、決して、自分の正義ではないもの」と、ふだんのツアー客の中に紛れている、別の「俺の正義」のあいだの、長い長い対比が、もう、しずかに、机の上に、置かれかけていた。

 そして、その夜のうちに、宿の中で、もう一つ、別の鍵のかかった音が、しずかに、待ち受けていることに、このときの誰も、まだ、はっきりとは、気づいていなかった。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの最初の一歩が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の奥の、しずかな書院造りの小部屋で、ひっそりと、踏み出された。

 長い長い物語の、本当の闇が、ようやく、ここから、こちらに近づき始めていた。



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