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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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6

 宿の玄関の暖簾の前で、九能は、いったん立ち止まった。

 土の道を歩いてきた靴の底を、丁寧に、宿の外の踏み石の上で、軽く何度か、整え直す。

 亀井も、その横で、先輩の所作を真似て、自分の靴底を、ぱた、ぱた、と、すこし慌てた感じで、地面に打ちつけた。

 宿の中に、林の現場の土を、ひと粒でも余分に、持ち込まない、というその所作だけで、九能弦十郎というひとの仕事の流儀が、すでに、玄関先に、はっきりと出ていた。

 暖簾をくぐると、宿のロビーには、まだ、囲炉裏の薪のしずかな火明かりが残っていた。

 参加者たちは、それぞれの席に、ばらばらに腰を下ろしたまま、誰も、本当のところは、何を話したらいいのかわからない、という顔つきで、囲炉裏の火を、半分眺めて、半分見ていなかった。

 その奥のテーブルの前で、添乗員の水原は、東京の本社らしき相手と、低い声で、長く電話のやり取りをしていた。

 その声色だけが、宿の中で、明らかに、ふだんの旅行の段取りの音とは、別のものに、変わっていた。

 九能は、ロビーに入る前に、一度、女将と添乗員に丁寧に頭を下げた。

 それから、いちばん奥の、囲炉裏のあかりの届きにくい、薄暗いほうのソファの方に、しずかに歩いていった。

 そのソファの脇に、沙耶香と三嶋が、すでに、軽く距離を空けて、腰を下ろしていた。

 ロビーの真ん中の参加者の塊からは、ちょうど、視線の通りにくい、よい配置だった。

「篠原さん。三嶋さん」

 九能は、ふだんよりも、半音だけ、低い声で、ふたりに、軽く会釈した。

「警部さん」

 沙耶香が、応じる声も、ふだんよりも、押さえて、ていねいだった。

 九能は、ソファのいちばん奥の、壁際に近い位置に、ゆっくり腰を下ろした。

 その脇の、ややきしむ椅子に、亀井時生が、慌てて自分のメモ帳を膝に置きながら、ぎこちなく腰を下ろした。

 ちょっと座り方が、まだ、刑事として板についていない、後輩の座り方だった。

 九能は、その亀井の座り方を、ふだんなら直してやるところを、いまの状況では、あえて、何も言わなかった。

 代わりに、ロビーの中の他の参加者たちの方を、ちらりと、一度だけ、確認した。

 囲炉裏のまわりの参加者たちは、こちらをわざと見ないように、それぞれの湯のみや、新聞や、自分の膝の上のハンカチを、目の前のことのように、丁寧に見つめていた。

 その「わざと、見ない」動きの中に、それぞれの参加者の、それぞれの距離感が、しずかに、出ていた。

 九能は、低く、声を整えてから、まず、沙耶香の方に、目を戻した。

「篠原さん」

「ええ」

「林の中の話、まだ、ロビーの皆さまには、詳しくは、伝えていません」

「ええ」

「申し訳ないのですが、これから、皆さまにお伝えしないといけないこともある一方で、私の方から、まず、あなたに、確かめておきたいことが、いくつかあって」

「もちろん」

「あなたの方から、林の話を、いまの段階で、皆さまに、口にしないでくださいますか」

「ええ。約束します」

 短いやりとりだけで、沙耶香は、九能の意図を、ほぼ、ぜんぶ、受け取った。

 これから、参加者ひとりひとりに、警察の側から、聞き取りが入る。

 その聞き取りの中に、すでに、林の現場の細かな話を、参加者の側に、こちらから流したくない。

 その下準備の、いちばん最初の確認だった。

「警部さん」

「ええ」

「いまの段階で、私の方からは、どこまでお話しすればよいでしょう」

「あなたが、見たこと、聞いたこと、感じたこと。すべて、教えてください」

「分かりました」

 沙耶香は、膝の上のノートを、ゆっくり、こちらに引き寄せた。

 ノートを開く前に、彼女は、まず、口の中で、ひとつ、深く、息を吐いた。

「夜中の、廊下の足音の話、いいですか」

「ええ。それが、いちばん、聞きたかった」

 九能の目が、わずかに、深くなった。

 亀井も、その横で、ぐっ、と、メモ帳の上のページを、新しいページに、開き直した。

 沙耶香は、しばらく、ノートの上の自分の字を、目で追った。

 そのうえで、ひとつ、ひとつ、丁寧に、言葉を、選んでいった。

「昨夜、夕食のあと、宿の中で、いったん、私は、自分の部屋に戻りました」

「ええ」

「布団に入ってから、ノートに何行か書きつけて、しばらくしてから、灯りを落としました」

「ええ」

「灯りを落としたあと、すぐではないですが、しばらくしてから、廊下の奥の方から、ひとり分の足音が聞こえました」

 九能の目の中の光が、すこし、強くなった。

「足音は、客室の方から出てきて、玄関ではなく、宿の裏手の通用口の方へ、向かっていく動きでした」

「ふむ」

「足袋ではなく、靴下越しの、板を踏む音。歩幅は、女性のもの。急いではいない。迷いもなく、ある場所に向かって歩く、はっきりとした歩幅でした」

「ふむふむ」

「通用口の前で、いったん、足音が止まり、ごく小さな引き戸の音と、外気の流れる気配が、廊下の方から、薄く、伝わってきました」

「そのあとは」

「廊下には、二度と、その足音は、戻ってきませんでした」

 九能は、その情報を、しっかりと、自分の頭の中の、ある場所に、すっと、収め直した。

「篠原さん」

「はい」

「そのとき、あなたは、廊下に出なかった」

「はい。出ませんでした」

「理由を、伺ってもいいですか」

 その問い方は、責める問い方ではなかった。

 ライターと刑事という、立場の違う二人の人間が、それぞれの仕事の節度を、お互いに確かめ合うための、ていねいな問いだった。

「事件は、まだ、起きていなかったからです」

 沙耶香は、低く答えた。

「夜中に、宿泊客のひとりの動きを、私が、ライターの観察癖だけを根拠に、勝手に追いかける、というのは、いまの自分の仕事の節度の外でした」

「ええ」

「もしも、私が、その夜のうちに、追いかけていれば、もしかしたら」

 その先を、沙耶香は、すぐに、言葉に、しなかった。

 囲炉裏の薪が、ちょうど、ひとつ、低く、ぱちっ、と鳴った。

 その音を、九能は、ふっと、聞き取った。

「篠原さん」

「ええ」

「そのご判断は、正しかった」

「警部さん」

「ええ」

「もしも、あなたが、夜中に、ひとりで通用口を出ていれば、いまの場合、あなた自身が、もうひとつ、別の被害に巻き込まれていた可能性が、低くなかった」

「ええ」

「あなたは、ふだんから、ご自分の立ち位置を、ちゃんと、守ってらっしゃる方だ」

「警部さんに、そう言っていただけると、ありがたいです」

「いえ」

 九能の目の中の光が、ほんの少しだけ、やわらかくなった。

「むしろ、こちらが、お礼を言うべき側です」

 横で、亀井が、ぱ、と、自分のメモ帳の角を、新しいページに折り返した。

 そして、その新しいページの上のところに、丁寧に、こう書きつけた。

「篠原さん証言 夜中の通用口の足音 多胡美咲、自発的な外出の可能性、極めて、高い」。

 その字の力の入れ方だけ見ても、亀井という若い刑事が、いま、ふだんの「ドジな所作」のもうひとつ奥のところで、ちゃんと、自分の仕事に、向き合っているのが、分かった。

 沙耶香は、その亀井の横顔を、ちらり、と、横目で見た。

 ふと、自分の相棒の三嶋の横顔と、ほんの一瞬だけ、重ねて、見た。

 そのあと、また、視線を、九能の方に、戻した。

「ええ」

 九能は、しばらく、自分の手帳の上の余白を、指のはらで、二度ほど、ぽん、ぽん、と軽くたたいた。

「いまの段階で、すでに、線が、ふたつ、つながりつつある」

「線が、ふたつ」

「ええ。ひとつめは、林の現場の細かいかたち。ふたつめは、宿の中の、人の動き」

「ええ」

「これを、いまから、いちばん最初の聞き取りの中で、丁寧に、参加者の皆さまに、ぶつけて、それぞれの反応を、見ていきます」

「ええ」

「篠原さん、三嶋さん」

「はい」

「もうひとつ、お願いしてもいいですか」

「もちろん」

「これからの聞き取りは、宿の奥の小部屋で、私と、亀井と、参加者ひとりずつ、というかたちで、進めます」

「ええ」

「その間、ロビーには、私の代わりに、地元の駐在のかたが、ひとり、しずかに、控えてくださる予定です」

「ええ」

「あなたたちには、ロビーの中の、聞き取りの順番待ちのときの、皆さまの動きを、ふだんの旅行客のおふたりとして、見ていただきたい」

「分かりました」

「特に、誰が、聞き取りに呼ばれる前に、誰と話すか、誰が、聞き取りから戻ってきたあとで、誰の方に、視線を、寄せるか」

「ええ」

「いまから始まる、宿の中の人と人のあいだの『目線の交わり方』そのものが、ひとつの、ものすごく大事な証拠です」

「ええ」

「あなたが、いちばん得意な仕事、と言ってよい」

 九能の口の端が、ほんの少しだけ、ふっ、と、ゆるんだ。

 それは、ふだんの捜査の言葉ではなくて、ふだんの知り合いに、軽い冗談を返すような口元だった。

 沙耶香も、それに気づいて、ふっ、と、わずかに笑った。

 その笑みは、緊張の中の、ささやかな、ひと呼吸の合図だった。

 横で、三嶋が、いつもよりすこし、ぎこちなく、首を縦に振った。

「了解です。沙耶香さんと、ふたりで、ちゃんと、見ます」

「お願いします」

 九能は、両方に、ていねいに頭を下げた。

 そのあと、亀井の方に向き直って、低く、ひと言。

「亀井」

「は、はい」

「最初に、城岬隆さんから」

「は、はい。城岬さん。お呼びしてきます」

 亀井は、慌てて、ロビーの奥の囲炉裏の方へ、ぎこちなく、立ち上がった。

 その立ち上がり方の、軽くぎこちないところで、彼の革靴の片方の靴ひもが、わずかに、ほどけかけていた。

 それを、本人は、もちろん、まだ、気づいていなかった。

 その亀井の背中を、九能は、横目でしっかり追いつつ、わずかに、また、ふっと、目を細めた。

 九能の口の端が、また、ほんの少しだけ、ゆるんだ。

 その「ゆるみ」は、ふだんの後輩の不器用さに対する、年上の責任者の、しずかな、温かいゆるしの動きだった。

 三嶋は、それを、横で、ちゃんと、目に焼きつけていた。

「沙耶香さん」

「ん?」

「あの警部さん、亀井さんに対しても、僕に対するときと、ほぼ、おんなじ顔、しますよね」

「気づいた?」

「ええ」

「あなたも、亀井さんも、同じ種類の人だから」

「同じ種類」

「ええ。ドジで、しかし、肝心のところで、絶対に外さない人」

「あ、それ、嬉しい部類のやつですか」

「嬉しい部類」

「あ、よかった」

 三嶋は、ふっと、ロビーの低い湯気の上で、ちょっとだけ、肩の力を、抜いた。

 その小さな肩の動きが、いまの沙耶香にとっての、なによりの、ふだんの相棒の安心の合図だった。

 聞き取りは、宿の奥の、ふだんは女将の私室として使われているらしい、ごく小さな書院造りの部屋で行われた。

 ガラスの嵌った障子の向こうに、合掌造りの大屋根の角度の一部が見える、しずかな部屋だった。

 机ひとつと、座椅子ふたつ、追加で運び入れた折り畳みの椅子がひとつ。

 その上に、警察からの簡素な書類ばさみと、ペンと、亀井のメモ帳が、整然と並べられた。

 最初に呼ばれたのは、城岬隆だった。

 城岬は、ロビーの中ほどから、ゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がる動作の中で、彼は、わざと、参加者の誰かと目を合わせる方向には、自分の顔を、まったく向けなかった。

 その代わり、廊下に通じる引き戸の方向に、はじめから、視線を、まっすぐに、固定していた。

 その動きを、ロビーのいちばん奥のソファから、沙耶香は、しっかりと、目で追った。

『城岬隆 → 立ち上がりのとき、参加者全員から、視線を切る』。

 沙耶香は、自分の白いノートの上に、また、ひとつ、線を引いた。

 聞き取りは、しずかに進んだ。

 奥の書院造りの部屋から、ロビーまでは、廊下と、ふたつの引き戸を隔てている。

 そのおかげで、聞き取りそのものの内容は、もちろん、こちらまでは聞こえてこなかった。

 しかし、廊下の引き戸が、ときどき、わずかに開閉する音と、亀井の足音が、その都度、こちらにまで、薄く、聞こえてきた。

 しばらくして、城岬隆は、奥の部屋から、ふだんよりも、ひと回り、固い顔つきで、ロビーに戻ってきた。

 ロビーに入ってきたとき、彼の視線は、まっすぐ、囲炉裏の薪の方を、見ていた。

 参加者の誰の顔も、見ない。

 特に、いちばん奥の朱沼茂の方には、絶対に視線を流さない、と決めているような目だった。

 朱沼茂は、その城岬の姿が戻ってきたのを、軽く、顔を上げて、見た。

 目は合わない。

 合わせようとしない城岬と、合わせる必要を感じていないらしい朱沼。

 そのふたつの種類の人間の、お互いに対する立ち位置の差が、ロビーの空気の中で、ひと呼吸だけ、はっきりと、見えた。

 その「ひと呼吸」を、沙耶香は、しっかりと、自分の中に、書きつけた。

 つぎに呼ばれたのは、久代幸人だった。

 久代は、呼ばれる前から、もう、自分の番が来ることを、ちゃんと、想定していたかのように、ゆっくりと、立ち上がった。

 立ち上がる前に、彼は、一度だけ、年配のご夫婦の方に、軽く笑顔を作って、

「ちょっと、行ってきますね」

 と、にっこり、声をかけた。

 その「ちょっと、行ってきますね」の言い方の、明るく、軽い感じが、いま、ふだんの旅行のときの口調とは、別の意味で、奇妙に、自然すぎた。

 警察に呼ばれているのに、まるで、自販機のところに、ジュースを買いに行くような、軽さだった。

 久代の動きを、沙耶香は、目で追った。

 立ち上がるとき、彼の視線は、参加者の誰の顔も、ちらりとさえも、見ていなかった。

 ただ、自分の足元の畳の縁を、ひと呼吸、確かめてから、すっ、と、廊下の方へ、歩いていった。

 その目の動きには、城岬隆のような「拒絶のための視線の切り方」とは、また、別の種類の、計算された冷たさがあった。

『久代幸人 → 立ち上がりのとき、参加者の顔を、まったく、見ない。年配の方への声かけは、ふだんと変わらず明るい。視線だけ、別の温度』。

 沙耶香は、白いノートに、もうひとつ、丁寧な線を、引いた。

 久代の聞き取りも、思ったよりも、すぐに終わった。

 戻ってきた久代の顔には、ふだんと、ほとんど変わらない、人懐っこい笑顔があった。

「いやー、お巡りさん、優しい方でしたね」

 久代は、ロビーに戻ってきた瞬間に、年配のご夫婦に向かって、また、明るく、ひと言、加えた。

 その短いひと言で、ロビーの中の参加者たちの肩が、また、ふっと、ほんのわずかに、緩んだ。

 久代は、たぶん、自然と、自分の周りの空気を、ふっ、ふっ、と、緩める動きを、上手にできる人だった。

 しかし、その「緩めの上手さ」そのものが、いまの沙耶香の中では、なお一段、警戒の対象に、入っていた。

 その久代の動きの直後に、いちばん奥の朱沼茂が、わずかに、自分の湯のみを、置き直した。

 ふだん、彼が湯のみを置くときの音は、ほとんど、聞こえない種類の音だった。

 しかし、今回だけは、湯のみが、ことっ、と、わずかに、はっきりとした音を立てた。

 その湯のみの音を、ロビーのいちばん奥の三嶋のレンズが、なんとなく、こちらに向けて構え直したシャッターの音の中に、ほんのわずかだけ、混ぜて、拾い直していた。

『朱沼茂 → 久代の戻ったタイミングで、湯のみの置き音、わずかに、変化』。

 沙耶香は、その一行も、白いノートに、しっかり、書きこんだ。

 夢野りりのドラマのセリフが、また、頭の中で、薄く、立ち上がってきた。

『これは、私の正義じゃない』。

 このひと言が、今夜、この事件の中で、もう一度、確かに、別の意味で、響いてくる予感が、彼女の中に、ふっ、と、起き上がりかけていた。

 聞き取りは、その後、年配のご夫婦、女性の二人連れ、家族連れの父親、と続いていった。

 ふつうの旅行客の聞き取りは、思った以上に、それぞれが、まっとうに、丁寧で、混乱の中でも、自分の見た範囲のことを、はっきり伝えようとしていた。

 このあたりのひとつひとつの聞き取りは、九能と亀井の側で、ほぼ「線の外側」のものとして、整理されつつあった。

 それでも、九能は、その「線の外側」の人たちの聞き取りも、まったく手を抜かなかった。

 九能のやり方は、彼の長年の刑事人生の中で、はっきりとした流儀になっていた。

 ふだんから、犯人候補ではない人たちにも、まっすぐに、まっとうな聞き取りを通すこと。

 そのまっとうさが、犯人候補の人物の、ふだんと違う動きを、いちばんはっきり、浮かび上がらせる。

 それが、九能のしずかな、しかし、徹底した、捜査の原則だった。

 聞き取りのすべてが、その日の午前のうちには、終わらなかった。

 朱沼茂の聞き取りは、その日の午後のいちばん最後の順番に、九能の判断で、しっかりと、置かれていた。

 その「最後の順番」だけは、明らかに、ふだんの淡々とした順番の中で、九能自身が、意図的に選んだものだった。

 朱沼の聞き取りが始まる前に、いったん、九能と亀井は、奥の小部屋から、ロビーに、軽く、姿を見せた。

 ロビーの隅から、沙耶香が、ちらり、と、視線を上げた。

 九能は、ふと、その視線に、ひと呼吸だけ、目で応じた。

 その視線の交わし方の中に、これからの、いちばん深い聞き取りに、こちらの相棒として、入ってきてほしい、という、無言の依頼があった。

 沙耶香は、深く、うなずいた。

 そして、自分のノートを、しずかに、閉じた。

 旅情ライターとしての自分の、ふだんの旅情の取材ノートではなく、もうひとつのほうの白いノートだけを、胸に抱え直した。

 そのノートの白いままのページの上で、いま、朱沼茂のための、いちばん深いひと行が、書き込まれる前の静けさを、彼女は、ひと呼吸、整えていた。

 ロビーの囲炉裏の薪が、ふっと、ひと呼吸だけ、別の音色で、ぱちん、と、鳴った。

 その音を合図に、長い長い昼の聞き取りの、いちばん深い時間が、ようやく、はじまろうとしていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、最初の本格的な聞き取りの場が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の奥の、しずかな書院造りの小部屋で、はっきりと、開かれかけていた。

 長い長い物語の、ひと足、深いほうへ、こちらが歩み出していく、その瞬間だった。



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