5
林への道は、宿を出てすぐの細い用水路を渡り、集落のいちばん外れに近いところから、ゆるい上りの土の道に変わっていた。
両側に、節くれだった杉の老木が、肩を寄せ合うように立ち並び、その梢の上のほうで、まだ、夜の空気の名残りを抱えたまま、朝のひかりを受け止めている。
足元の土は、しっとりと湿っていて、ところどころ、雪解けの水が、まだ、表面に薄く残っている。
その湿った土の上に、地元の朝のひとが、ふだんの草刈りや、薪集めのために通った、丁寧に踏み固められた細い帯のような道が、ひと筋だけ、続いていた。
その道を、九能弦十郎は、両肩のあたりに、わずかな緊張だけを残して、しずかに歩いていた。
警察車両は、宿の手前の、用水路の傍に停められたままだった。
ここから先の細い道には、警察のワゴンは入れない。
九能と、亀井時生と、もうふたりの応援の警官は、徒歩で、林の中へと、ひっそり入っていった。
宿の女将と添乗員、そして、地元の駐在の警察官のひとりが、その後ろから、ある程度の距離を置いて、案内役として、しずかについてきていた。
「警部、足元、お気をつけください」
亀井が、慌てたように、九能の半歩前を、自分から先回りした。
その動作だけは、見上げた根性だった。
ただ、その先回りのときに、亀井自身が、足元の小石を、ひとつ、踏み外しかけた。
ぐっ、と、片足だけ、土に深く沈み込む。
「亀井」
九能は、静かに、その若い刑事の名を呼んだ。
「は、はい」
「お前さんの方が、危ないな」
「す、すみません」
亀井は、慌てて、自分の靴の泥を、手で軽くはたいた。
そのあいだに、九能は、もう、ふだんの歩幅で、彼を追い越していった。
杉木立のあいだの空気は、宿の中の煤と藁の匂いとは、まったく別の、針葉樹の青い匂いに、すっと変わっていた。
その匂いの中に、しかし、もうひとつ、明らかに違う種類の匂いが、わずかに、混じり始めていた。
それは、湿った土の匂いでも、杉の匂いでも、雪解け水の匂いでもなかった。
ふだんの林の中には、絶対にない、生臭さに近い、わずかな鉄の匂い。
九能の鼻先が、ふっと、その匂いの方向に、自然と曲がった。
「こちらでございます」
地元の駐在の警察官が、低い声で言って、道の脇に立っていた、もうひとりの先客の駐在のかたに、軽く目礼した。
そのもうひとりの駐在は、林の中の細い小道のさらに脇の、雑草と苔の混じった、ややひらけた小さな空き地の入口で、両手を腰のあたりに置いて、しずかに立っていた。
その空き地の中ほどに、薄いベージュのコートが、淡く、土の上に、広がっていた。
そのコートは、昨日、東京駅の集合場所で、多胡美咲が着ていた、あのコートだった。
九能は、しばらく、その場で動かなかった。
呼吸ひとつ、整える。
それから、ゆっくりと、空き地のほうへ、自分の足を、踏み込んだ。
亀井が、慌てて、その後ろに従う。
しかし、亀井のほうは、その空き地の中ほどに横たわるその姿を、目に入れた瞬間、わずかに、半歩、足が後ろに引いた。
ふだんから、軽口や明るさで現場に入っていく彼の身体が、はじめて見るそのかたちの前で、ほんの少しだけ、止まった。
その若い刑事の動きを、九能は、横目で、ちゃんと確かめていた。
確かめてから、なにも言わずに、自分の歩を、もうひと足、進めた。
「篠原さんに、見てほしい光景じゃない」
九能の口から、ふっと、低く、その言葉が、ひとり言のように、漏れた。
それは、自分の中の、決まりごとのような言葉だった。
横で、地元の駐在の警察官が、その独り言を、軽く聞いた。
しかし、深く意味は問わずに、ただ、丁寧に頭を下げただけだった。
多胡美咲は、空き地の中ほどの、苔のうすく生えた地面の上に、横向きに、しずかに倒れていた。
両手は、自分の胸の前で、ぐっと、すこし、握り合わせるような形になっている。
しかし、それは、合掌、ではなかった。
両手のうちの片方の指は、わずかに、何かを掴もうとしたまま、止まっていた。
別の片方の手の指は、地面のほうへ、ゆっくりと、力なく、垂れていた。
その地面のほうへ伸びた指の先のあたりに、わずかに、苔の表面を、ひっかいたような跡が、ふた筋、薄く残っていた。
二筋、というのは、奇妙なかたちだった。
ふつう、最後に苦しんだ指の動きが残るとすれば、ひと筋か、もしくは乱雑な何筋かのはずだった。
ところが、その跡は、まるで、わざわざ二本だけ、ていねいに引いたかのように、平行に近いまっすぐな線で、苔の表面に刻まれていた。
九能は、その二筋の上で、しばらく目を止めた。
そのあと、視線を、ゆっくり、多胡美咲の頬のあたりに、戻した。
頬は、すでに、ふだんの女性の頬の色を、はっきりと失っていた。
それでも、その顔そのものに、激しい乱れの跡は、見えなかった。
口元は、半開きのままで、なにかをひと言、言いかけて、そのまま止まったように、わずかに開いている。
その口の中から、ほんの薄く、酒の匂いと、まだ消えきっていない別の薬っぽい匂いの両方が、混じり合ったまま、立ち上がっていた。
「警部」
亀井が、ようやく、ふつうの声色を半分だけ戻して、低く、後ろから声をかけた。
「これ、もしかして、もう、なんか、ものすごく恨まれてたとか、そういう」
その言葉に、九能は、しばらく、答えなかった。
ただ、しずかに、亀井の方を、目だけで見返した。
亀井は、その目に気づいて、慌てて、自分の口を、軽く押さえた。
「す、すみません。憶測でした」
「ええ、憶測です」
九能の声は、低かった。
「最初に、これを口にしてしまうと、自分の見るべきものが、その憶測のかたちに、寄っていく」
「は、はい」
「だから、現場では、まず、何にも、決めない」
「は、はい」
亀井は、ぐっ、と、ひとつ、唾を、飲み込んだ。
そのあと、九能の横で、まっすぐ、立ち直した。
亀井という若い刑事が、ドジで、軽口を叩く性分なのは、もう、宿の前で、誰の目にも明らかだった。
しかし、こうやって、九能から、低く、ひと言、釘を刺されるたびに、彼は、慌てた分だけ、しっかり、それを呑み込んでいくところがあった。
そういう、ちゃんと「育てがいのある」若い刑事を、九能は、いま、丁寧に、自分の隣に、置いていた。
その光景を、宿のロビーの窓越しから、沙耶香はもちろん、見ていない。
しかし、亀井のドジさと、九能の低い注意のあり方を、彼女は、もしその場で見ていたなら、たぶん、ふっと、自分の相棒の三嶋との関係を、軽く重ねただろう。
そういう「年上が、若い相棒の、いちばん良い部分を、丁寧に守ろうとする」関係の質感が、九能と亀井のあいだにも、わずかに、しかし、ちゃんと、あった。
九能は、いったん、亀井から視線を戻して、もう一度、ゆっくり、空き地全体を見回した。
林の中の地面には、明らかに、複数の足跡が、残されていた。
雪解けと、夜のあいだの霜と、明け方近くの薄い湿りが、地面の表面を、いちばん、足跡の残りやすい状態にしていた。
まず、ひとつ、明らかに女性のものらしいパンプス気味の靴の跡が、空き地の入口から、中ほどへと、まっすぐ、続いていた。
それは、たぶん、多胡美咲自身の足跡だった。
その隣に、もうひとつ別の足跡が、ややぼやけた形で、まじっている。
ぼやけた、というのは、何度か、行ったり来たり、足の運びを、ひと所で踏み直したかのような、混じり方をしていた。
その混じった足跡の主は、男性の革靴に近いものだった。
歩幅は、多胡美咲のそれよりも、ひと回り大きかった。
そして、もうひとつ。
林の道に近い、ちょうど杉の根の脇のあたりに、ごく薄く、女性のものでも、男性の革靴でもない、別の靴底の跡が、ぽつん、と残されていた。
それは、ふだんのウォーキングシューズに近い、しかし、ふだんの観光客のスニーカーのそれともすこし違う、しっかりと地面を踏むタイプの底だった。
九能の目が、その三つの足跡を、ゆっくりと、何度も、行き来した。
「亀井」
「は、はい」
「いいか」
「は、はい」
「この空き地に、人が、最低でも、三種類の足の運び方で、出入りしている、ということだ」
「三、三人、ですか」
「いや、三人とは、まだ言わない」
九能は、軽く、首を振った。
「三種類の足跡、というだけだ。同じ人が、わざと別の靴に履き替えて、出入りしている可能性もある」
「あ、はい、すみません」
亀井は、また、慌てて、自分のメモ帳を、慌てて開いた。
その所作のあいだに、彼の頭の中で、すでに、いくつもの「迷推理」が、勝手に、ぐるぐる、走り始めていた。
「警部、これ、もしかして、ですけど」
亀井の声が、めずらしく、少しだけ早口になった。
「いいから、まず、書け」
「は、はい」
「お前さんの『もしかして』は、ぜんぶ、書け。書いてから、あとで、見比べる。口に出すのは、いちばん、あとだ」
「は、はい」
「現場で、最初に口に出した『もしかして』が、いちばん、捜査を、遠回りにさせる」
その低い注意も、亀井は、丁寧に、メモ帳の端のほうに、自分の字で、書き込んでいた。
「現場で口に出すのは、最後。書くのは、その場で、ぜんぶ」。
その一行を、亀井は、自分の字で、ノートの端のところに、しっかりと、書きつけた。
その亀井の動きを、九能は、また、横目で確かめた。
このひとは、亀井がドジだから、亀井のために、自分の捜査の手をゆるめている、というのではなかった。
亀井に、現場の作法を、ちゃんと「自分のメモの上で覚えさせる」ために、ふだんよりも、もうひと呼吸、丁寧に、ひとつずつの動作を、見せていた。
九能の本当の優しさは、こういうところに出ていた。
事件の被害者にも、事件の関係者にも、若い後輩にも、自分の言葉と動作を、ひとつ、ひとつ、ていねいに、置いていく。
それが、長い長い職業人生の中で、彼が、自分のためだけではなく、まわりの人のために、決めてきた仕事の姿勢だった。
地元の駐在の警察官のひとりが、その様子を、横で、しずかに、敬意を持って見ていた。
その駐在は、ふだんの集落の中の、にこやかなお巡りさんとしてしか、いまの自分たちは知らない、ふだんの白川郷のお巡りさんだった。
その駐在が、九能の所作に、こんなに丁寧な敬意を払うのは、たぶん、地元の警察として、九能のような人を、知識として、しっかり知っていたからでもあった。
九能は、しばらくして、ようやく、しゃがみ込んだ。
多胡美咲の手の先の、苔の上の、あの二筋の跡を、もっと近くから、しずかに観察した。
近くで見ても、その二筋は、やはり、奇妙なほど、平行に近かった。
平行、というよりも、何かの「物の形」を、苔の上に、薄く写し取った跡のようにも、見えた。
「亀井」
「は、はい」
「これ、来てごらん」
「あ、はい」
亀井は、慌てて、九能の脇に、しゃがみ込んだ。
「ここ、見えるか」
「あ、はい。ふた筋の、線、ですよね」
「ああ。これは、苦しんで地面をかいた跡では、たぶん、ない」
「と、と、いいますと?」
「これは、何かの細長いものを、ここに、いったん置いたか、もしくは、ここから、急に、取り上げたかのときに、苔の表面に残った跡だ」
「な、なにか、細長いもの」
「ああ。長さは、たぶん、二十センチ前後。幅は、五ミリくらいか」
九能の指は、その筋の上を、わずかに、触れずに、なぞった。
「これだけ、平行に近い跡が、二本残るのは、円柱状の細長いものを、ここに、いったん寝かせて、別のものを、上に重ねたあと、まとめて、ここから、引きずるように、持ち去ったときの形に近い」
「えっと、つまり、なんですか」
亀井の頭の中で、勝手に組み上がりかけていた「強盗」「怨恨」「酔っぱらいの転倒」のすべての筋が、いったん、ぴたっと、停止した。
「亀井。ここに、犯人は、何かの『道具』を置いていた」
「あ、はい」
「そして、その道具を、ふたつ、それも、形のよく似た円柱状のものを、ふたつ、わざわざ、ここで、いったん組み合わせたあと、最後に、まとめて、林の外へ、持ち帰った可能性がある」
亀井の目が、ぱっ、と、丸くなった。
「えっ、警部、それ、もう、結構、踏み込んだ推測じゃ」
「ああ、踏み込んだ」
「いいんですか」
「ああ、踏み込んでいい」
「えっ」
九能は、しずかに、立ち上がった。
「ただし、これも、まだ『推測』だ」
「あ、はい」
「亀井、ここをまず、丁寧に、写真を撮らせろ」
「は、はい」
「鑑識のかた、来てらっしゃる?」
九能は、林の道の入口の方の、地元の駐在のかたに、低く尋ねた。
「もう間も無く、麓の方から、ご一行で」
「では、彼らが入ったら、いちばんに、この苔のふた筋を、ちゃんと、写真と、型で、押さえてもらいたい、と」
「ええ、承知しました」
九能の指示は、丁寧で、いつも、相手の仕事の段取りに、迷惑をかけない形に、整えられていた。
それを、地元の駐在は、深く、信頼の目で、受け止めていた。
それから、九能は、自分の視線を、もう一度、空き地の入口の、林の小道の方へ、移した。
林の中の小道の途中の、わずかに崩れた小石の段差の脇に、彼は、もう、ひとつ、注目していた。
そこには、ごく小さな、丸い泥のあとが、ぽつ、と、残っていた。
そのあとは、たぶん、小さな、男性の懐中時計か、もしくは、革のキーケースの底の角が、土に、わずかに、置かれてしまった跡のように、見えた。
人がここに、しばらく、しゃがんで、何かを膝の上で、いったん抱え直したか、あるいは、ポケットから、いったん取り出したか、そういう動きの跡だった。
その丸い泥のあとも、九能は、別の指示を出して、写真に押さえさせた。
「亀井」
「は、はい」
「お前さんが、書きたかった『もしかして』、いまの段階で、ぜんぶ、聞いておこう」
亀井は、ぱっ、と、自分のメモ帳を見返した。
「えっと、まず、ひとつめ、これは、もしかして、強盗の犯行で、被害者がたまたま、抵抗したパターンじゃないか、というのが、最初に思ったやつです」
「ふむ」
「二つ目が、これ、もしかして、男女のあいだの、深いもめごとの末の犯行じゃないか、というのが、被害者の手の形、見て、思いました」
「ふむ」
「三つ目が、もしかして、これ、被害者が、暗い中で、ひとりで歩いていて、なにか、自分でけがをして、たまたま、ここで倒れたんじゃないか、というのが、頭をよぎりました」
「ふむふむ」
「で、最後の、四つ目」
亀井は、わずかに、声の調子を、落とした。
「これ、もしかして、複数の犯人が、ここで、待ち伏せをして、なにか、計画的に、被害者を、ここに連れ込んで、亡き者にしたんじゃないか、っていうのが、いま、いちばん新しく、頭をよぎってます」
「亀井」
「は、はい」
「正解は、まだ、決まっていない」
九能は、はっきり、低く言った。
「だが、お前さんの四つ目だけが、ほかの三つよりも、現場の足跡と、苔の跡と、整合する」
亀井の頬が、ぱっ、と、わずかに赤くなった。
「いいか、亀井」
「は、はい」
「お前さんのドジさは、いまの段階では、捜査の助けに、なる」
「えっ、それ、けなされてるんですか、褒められてるんですか」
「褒めとる」
「は、はあ」
「いきなり『これが犯人の動機だ』とか『これが密室の方法だ』とか、最初に言わない。お前さんの四つ目までの並べ方は、捜査の現場の、いちばん最初の動きとして、悪くない」
「あ、ありがとうございます」
「ただし」
「は、はい」
「四つ目の『複数の犯人』というのは、まだ、外で口にするな」
「は、はい」
「ロビーに戻って、参加者の方々に対しても、林の中の話は、できるだけ、薄く、薄く、話す」
「は、はい」
「これは、お前さん自身の口を守るためでもある」
「は、はい」
「下手に若い刑事が、得意げに四つ目を口にすると、犯人側に、こちらの本当の見立てを、無料で、教えてあげることになる」
「す、すみません、気をつけます」
九能は、亀井の肩を、軽く、いちどだけ、叩いた。
その小さな動作には、もう、年若い後輩への、はっきりとした信頼の温度が、混じっていた。
亀井は、それで、ふっと、自分の中の落ち着きを、ようやく、ひと回り、取り戻した。
その様子を、林の道の入口の方から、地元の駐在のかたが、ふっと、しずかに笑って、見守っていた。
そのあと、九能は、もうしばらく、空き地の中を、ていねいに歩いた。
途中、林のはずれの、用水路に近いところで、もうひとつ、小さなものを、地面の表面から、見つけた。
それは、林の中には、絶対に落ちていないはずの、たぶん、宿の中で出される朴葉味噌のお膳の、湯のみに添えられていた、紙ナプキンの、ごく小さな破片だった。
紙の表面に、白川郷の合掌造りの絵が、ごく薄く、印刷されていた。
九能は、その紙片を、慎重に、ピンセットで拾い上げ、地元の駐在の協力で、写真と現物の両方を、丁寧に押さえた。
その作業を見ながら、亀井は、しずかに、メモ帳の上に、また、ひとつ、ふた行ほど、書きこんだ。
「宿の中の紙ナプキン → 林の中まで、運ばれている」
それは、犯人と、被害者と、宿の中のあいだに、何か、はっきりとした「動線」があったことを、しずかに、しめしていた。
一通りの初動の確認が終わった頃、麓の警察からの鑑識のかたがたが、ぞろぞろと、林の中へ入ってきた。
九能は、彼らに、現場の引き継ぎを、ていねいに済ませた。
それから、亀井と、地元の駐在のかたと、添乗員と、女将と一緒に、ふたたび、宿の方へ、ゆっくりと、戻っていった。
林の小道を、戻りながら、九能は、ふと、亀井に、もうひと言だけ、低く、言った。
「亀井」
「は、はい」
「あの紙ナプキン、忘れるなよ」
「あ、はい」
「あれが、これからの捜査の、いちばん遠くまで、伸びる糸になる」
亀井は、その「糸」のひと言を、頭の中で、丁寧に、ぴたっ、と、ひとつ、立たせた。
宿に戻る道の途中、九能は、もうひとつ、自分の中で、低く、つぶやいた。
「篠原さんと、三嶋さんと、また、組むことになるか」
その独り言は、亀井には、聞こえなかった。
しかし、その独り言の方向だけは、確かに、宿のロビーの方を、向いていた。
宿の暖簾の前に戻ったとき、ロビーの窓越しに、すでに、沙耶香と、三嶋が、九能たちを、しずかに、見ていた。
九能は、ふと、目を細めて、軽く、片手を上げた。
その動作は、警部の挨拶ではなく、すでに、ふだんの仕事仲間の挨拶のものだった。
沙耶香は、ロビーの窓越しに、ひとつだけ、深く、うなずいた。
その瞬間、宿のロビーと、林の中と、亀井のメモ帳と、九能の頭の中と、沙耶香の中の白いノートとが、もう、目に見えないかたちで、ひとつの長い長い捜査の最初の朝の上に、ぴたりと、つながっていた。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿の、はじめての捜査の朝が、こうして、白川郷の春の合掌造りの宿の前で、ようやく、本当の意味で、はじまっていた。




