4
夜明け前の宿は、まだ、深い闇のなかにあった。
合掌造りの大屋根の角度の向こうに、谷の上の空が、ようやく、ひと色だけ、青に近づきはじめている。
その青の縁の方に、いちばん早い朝の鳥が、ひと声だけ、低く鳴いた。
沙耶香は、その鳥の声で、半分目を覚ました。
布団の中で、しばらく目だけを開けて、天井の太い梁の影を、ぼんやりと眺めていた。
合掌造りの天井は、東京の旅館のそれと違って、太い梁の上のさらに上に、空間がいくつも積み重なっていて、その影の奥行きの深さが、いつもの朝の感覚を、すっと、別のものにずらしてくれる。
谷の朝の冷えた空気が、襖のごく細い隙間から、淡く流れ込んできていた。
その冷たさの中に、昨夜の囲炉裏の薪の煙の匂いが、まだ、ほんのわずかに残っていた。
その匂いを吸いながら、沙耶香はゆっくりと、布団の上で身を起こした。
頭の中の、最初に立ち上がってきた問いは、ふつうの旅情ライターの朝のものではなかった。
『あの足音は、戻ってきたか』。
夜中に廊下を歩いていった、あの靴下越しの足音。
宿の裏手の通用口を抜けていった、あの引き戸の音。
そのあと、宿の中の廊下に、二度と聞こえなかった、足音。
沙耶香は、念のため、しばらく、布団のなかで、廊下の気配に耳を澄ませていた。
宿は、しずかだった。
廊下の方から、まだ、誰の足音も、聞こえてこなかった。
ふつうの宿の朝は、まず、中居が廊下を、白足袋の足音で、しずかに歩く音から始まる。
その足音が、まだ、聞こえてこない、ということは、宿の中の朝のいちばんの始まりは、まだ、これからだ、ということでもあった。
沙耶香は、布団を出て、丹前を羽織った。
火鉢の脇の薄い行灯の灯りを、ひとつだけ点ける。
部屋の中の、いちばん古い種類の明かりだった。
そのうすぐらい灯りの下で、彼女は、昨夜のノートを、もう一度、開いた。
『多胡美咲 → 深夜、通用口より、外出』。
その一行は、書きつけたときよりも、すこし、字の濃さが、薄く感じられた。
夜が明けて、もしも、何でもないことだった、と分かったら、この一行は、書いた本人の中だけで、しずかに、消える種類の一行だった。
そうあってほしい、と沙耶香は、もう一度、自分に言い聞かせた。
しかし、心の底で、その「そうあってほしい」のすぐ後ろから、別の声が、低く、しかし、はっきり立ち上がっていた。
「事件は、いつも、私の方から、やってくる」。
その口癖の声色を、彼女は、ふっと、口の中だけで、もう一度、なぞった。
宿の朝の始まりの音は、思っていたよりも、ずっと、早く来た。
廊下の遠くから、軽い駆け足のような、白足袋の足音が、二人分、急ぎ気味に、近づいてきた。
その足音は、中居の土田茜の足音と、もうひとり、宿の女将の鈴木みさのものだった。
ふだんの宿の朝の、ふだんの足音ではなかった。
ふだんなら、女将は、もう少しゆっくりとした足取りで、朝の支度を見て回るはずだった。
廊下の音が、いっとき、玄関のあたりで、ぴたりと止まる。
そのあと、すぐに、宿の外の方へ、引き戸を開ける音と、外気の流れ込む気配が、廊下の奥まで、薄く、伝わってきた。
沙耶香は、丹前の前を合わせ直して、襖を、しずかに引いた。
廊下に出ると、向かい合いの三嶋の部屋の方から、もう、薄く明かりが漏れていた。
「三嶋くん、起きてる?」
沙耶香は、低く、声をかけた。
「起きてます。なんか、いま、玄関の方で、女将さん、すごい急いでた感じしたんで」
三嶋の声は、ふだんよりも、ひと回り、しっかりとしていた。
ドジな相棒だが、こういう朝の気配だけは、なぜか、いつも、ほぼ同時に察知する男だった。
「ちょっと、降りる」
「僕も、降ります」
短いやりとりだけで、ふたりは、廊下の奥の階段を、ゆっくり下りていった。
合掌造りの宿の階段は、急で、踏み板が、長年使い込まれて、足の運びに、自然と、ひとの形が残るような窪み方をしていた。
その窪みのひとつひとつを、慎重に踏みしめながら、沙耶香は降りていった。
階段の踏み板の凹みは、たぶん、何百人、いや、何千人もの旅人が、この宿の朝を、降りていった証拠だった。
その証拠のひとつとして、自分も、いま、降りていく。
そう思うと、ふだんの旅情の取材なら、その階段の凹みの話だけで、原稿用紙の数枚分は書ける素材だった。
しかし、いまの沙耶香の頭の中には、その階段の凹みを書き留めるだけの余裕は、もう、なかった。
ロビーの方では、すでに、女将と中居の姿は、消えていた。
宿の中の囲炉裏の薪は、夜のあいだに、いったん、ほとんど消えている。
囲炉裏の灰の上に、ごく薄い、白い湯気のような名残りだけが、立っていた。
その囲炉裏の前の長い縁台の端に、女性の二人連れの片方が、寝起きの薄手のショールを羽織ったまま、ぼんやりと座っていた。
その横で、年配のご夫婦の奥さまが、湯のみを両手で包み込みながら、ロビーのいちばん奥の方を、しんとした目で見ていた。
「篠原さん」
声をかけてきたのは、年配のご夫婦の奥さまだった。
声が、ふだんよりも、低く、押し殺されていた。
「あの、なんだか、外で、なにか」
「ええ、いま、降りてきたところで」
「女将さんが、ものすごい顔して、駆けていかれたのよ」
「ええ」
「中居の若い子も、いっしょに」
「ええ」
沙耶香は、深く、息を整えながら、玄関の方へ向かった。
玄関の引き戸は、半分だけ、開け放してあった。
そこから、谷の朝の冷えた空気と、地元の犬の遠吠えのような声と、いくつかの足音が、混じり合って、しずかに、廊下の中まで届いていた。
玄関の外の暖簾の脇に、宿の女将が、両手を、軽く前に組み合わせて、しずかに立っていた。
ふだんの、にこやかで、ふっくらとした女将ではなかった。
頬は、白く、引き締まり、目元は、まっすぐ、ある方向を見つめていた。
その方向には、すでに、何人かの集落の地元の人らしき男たちの背中があった。
宿の前の細い道の、すこし先の、用水路を渡って、林のほうへ続く、別の細い道。
その入口のあたりで、明らかに、ふつうではない種類の人だかりが、できかけていた。
「女将さん」
沙耶香が、低く声をかけると、鈴木みさは、こちらに、ゆっくりと顔を向けた。
「篠原さま」
その声は、ふだんの旅館の女将のものではなかった。
低く、ゆっくりと、そして、はっきりと、悲しい色を、含んだ声だった。
「先ほど、林の中で」
女将は、いったん、息を整えた。
「あの、ご一緒のツアーの、お客さまのおひとりの方が」
その先を、女将は、すぐには続けなかった。
代わりに、目元を、ほんの一瞬だけ、伏せた。
その伏せ方だけで、沙耶香は、もう、答えを聞いてしまっていた。
「お亡くなりに」
女将は、その一言を、ようやく、絞り出すように、口にした。
「林の中で、土地の年寄りが、朝のお散歩の途中で、お見つけになって。すぐに、宿の方に、お知らせくださって」
「お名前は」
「多胡さま、と」
その瞬間、沙耶香の足元から、何か、温度のある一枚のうすい紙が、ぴたっ、と、剥がされていった感じがした。
夜中の足音の主が、誰だったのか。
その答えに、向こうから、いちばん残酷なやり方で、たどり着いてしまった。
『多胡美咲 → 深夜、通用口より、外出』。
そのノートの一行が、いまの自分の頭の中で、いきなり、太く、はっきりした字に、変わって書き直された。
沙耶香は、女将の前で、しばらく、両足が、地面に深く根を下ろしたように、動けなくなった。
「沙耶香さん」
三嶋が、横で、低く、声をかけてきた。
「ええ」
「あの、僕、写真、撮りに行きたい、って、言ったら、駄目ですよね」
その声色には、いつもの、軽口の半分の調子はなかった。
ただ、ライターの相棒として、自分が何かできる位置にいたい、というぎこちない申し出だった。
「ええ。私たちが、近寄っていい場所じゃない」
「ですよね」
「ただ、宿の中で、私たちにできることは、ある」
「ある?」
「ええ。たとえば、宿の中の他の参加者の方たちが、これから、どんな表情をするか。誰が、どんな順番で、ロビーに降りてきて、どんなお茶の飲み方をするか。それは、見ておく」
「分かりました」
三嶋は、その指示を、丁寧に飲み込んだ。
その日の朝の早い時間のあいだに、すべての参加者がロビーに集まることになった。
警察への連絡は、女将と添乗員の水原の方で、ほぼ同時に、すでに済まされていた。
最寄りの警察署からの応援の車が来るまでに、まだ、しばらく時間がかかるとのことだった。
林の現場には、地元の駐在の警察官が、ひと先に、ふたり立っているらしかった。
集落の外から本格的な捜査陣が来るまで、現場は、その駐在のかたが、しずかに守ってくれている、と女将が、低く、教えてくれた。
ロビーの囲炉裏の薪は、土田茜が、震える手で、また、起こし直してくれていた。
火が、ぱちん、ぱちん、と、いつもより、ためらいがちに、燃え始める。
その火の周りに、ひとり、また、ひとり、と、参加者たちが集まってきた。
最初に降りてきたのは、年配のご夫婦の旦那さまの方だった。
その後ろに、女性の二人連れ。
それから、若い男性のひとり旅。
家族連れの父親と、子どもふたりと、その奥さま。
久代幸人。
そして、いちばん最後に、ゆっくり降りてきたのが、朱沼茂だった。
朱沼茂の表情は、昨夜の宴の終わりのときの、温和な笑みとは、明らかに、別のものに変わっていた。
頬の血の色が、ひと回り薄くなっている。
しかし、その目の中に、慌てた色は、ない。
ただ、何かを、すでに、半分くらい、覚悟していた人の、しずかな目だった。
その朱沼茂のすぐ後ろに、もうひとり、城岬隆がいた。
城岬の表情は、朱沼とは、また別の意味で、固かった。
頬の筋が、ぐっと締まり、目尻に、わずかな緊張のしわが、走っている。
それでも、その目の動きは、相変わらず、警戒の癖だけは、しっかりと、保ったままだった。
宿のロビーの空気は、囲炉裏のささやかな火明かりの下で、ぴんと、張り詰めていた。
水原が、参加者全員を前にして、深く頭を下げた。
「皆さま」
水原の声は、ふだんの、明るい添乗員のそれとは、もう、別の声だった。
「先ほど、皆さまのうちのおひとり、多胡美咲さまが、本日未明、宿の近くの林の中で、お亡くなりになっているのを、地元の方が、お見つけくださいました」
ロビーの中で、何人かの口から、押し殺された息の音が、漏れた。
その音の中に、女性の二人連れの片方の、ごく小さな「えっ」という声が、まじっていた。
水原は、頭を、もう一度、深く下げた。
「警察の応援の方が、すでに、向かわれております」
「私どもの方では、当面、警察のかたのご指示の通り、皆さまには、本日のあいだ、宿のなかで、お過ごしいただくお願いを、することになるかと存じます」
「申し訳ございません。皆さまのご予定の散策、ご案内できなくなりますこと、深くお詫び申し上げます」
参加者たちは、それぞれ、何度か、うなずきながら、その言葉を、丁寧に聞いていた。
ロビーの隅で、若い男性のひとり旅の青年だけが、ふっと、唇のあたりで、なにか言いかけて、すぐに、口を閉じた。
その動作だけで、彼が、たぶん、警察への通報をした方がいいのか、自分ひとりの予定はどうなるのか、何かを聞きたかった、というのが分かった。
沙耶香は、ロビーの隅から、その青年の動作も、しずかに観察していた。
ふだんの取材の癖と、ライターとしての職業意識が、ここに来て、また、別の意味で立ち上がりはじめていた。
その日のうちに、宿の前に、最初の警察車両が、ゆっくりと、近づいてきた。
集落の細い道は、ふだんは観光バスと地元の軽トラック程度しか、通らない道だった。
そこに、白い、別の種類のセダンと、続いて、ワゴン車が、列を成して、ゆっくりと入ってきた。
ワゴンの脇には、白地に紺の文字で、署名と、捜査一課らしい名のりが、控えめに書かれていた。
宿の前で、車が、しずかに、停まった。
セダンの後部座席のドアが開いて、最初に、ひとりの、背の低くがっしりとした男性が、降りてきた。
紺色のコートの襟を立てて、首の周りに、いつもよりも、丁寧にマフラーを巻いている。
その白髪まじりの頭の刈り上げの角度を、沙耶香は、ロビーの窓越しに、ひと目で見覚えていた。
九能弦十郎だった。
その後ろから、もうひとり、背の高い、まだ若い男が、慌てたように降りてきた。
背広の襟の片方が、わずかに、立ち上がったままになっている。
それを、本人が、車を降りてから、片手で、慌てて押さえつけ直した。
その所作のぎこちなさだけで、沙耶香は、その若い男が、ふだんから、軽くドジな種類の刑事であることを、なんとなく、見抜いてしまった。
九能は、宿の玄関の方へ、まっすぐに、歩いてきた。
その途中、しばらく、こちらのロビーの窓の方を、ふと、見上げた。
その視線が、ガラス越しに、ふっと、沙耶香の目と合った。
九能の口元が、ほんのわずかに、ゆるんだ。
それは、笑顔、というよりも、長年の捜査の現場で、ふと、思いがけない知己を見つけた、というときの、ささやかな、しかし、はっきりとした「あれ?」の動きだった。
九能は、玄関を入ってきてから、女将と添乗員に、深く頭を下げた。
そのあとで、まっすぐ、ロビーの方へ歩いてきて、沙耶香の前で、しずかに立ち止まった。
「篠原さん」
九能の声は、ふだんの、警部のそれだった。
「警部さん」
沙耶香は、その瞬間、不思議と、肩の力が、ほんのわずかだけ、ゆるんだ。
事件の現場に、九能弦十郎の声が、はっきりと、立ち上がる。
そのことが、これまでの自分の事件の経験のなかで、いちばん大きな安心の合図でもあった。
「おや」
九能は、軽く、首をかしげた。
「偶然……いや、必然?」
沙耶香は、思わず、口元で、笑った。
「ええ。お久しぶりです、警部さん」
「またお会いするとは、ですなあ」
九能は、ほんのわずかに、苦笑のような表情を、ゆるめた。
「前に、おっしゃってましたね」
「と、いいますと?」
「『事件の方からやってくる』と」
「ええ。今回も、その通りに、なってしまったみたいです」
「いえ、おっしゃる通りすぎて、こっちが、軽く、肝を冷やしましたよ」
九能の言葉の調子は、ふだんの低い静かさのなかに、ほんのわずかな、再会のあたたかさが、混じっていた。
その様子を、横で、ぽかんと見ていたのが、九能の後ろから、慌てて駆けてきた若い刑事だった。
「警部、あの、ええっと、こちらの方は」
若い刑事の声は、ふだんから、明るく、よく通る声らしかった。
しかし、その明るさの中に、まだ、現場での慣れの足りない、若さの音色が、はっきりと残っていた。
「亀井」
九能は、その若い刑事の名を、低く呼んだ。
「は、はい」
「こちらは、篠原沙耶香さん。ライターの方だ」
「ライター……あ、もしかして、あの本を書かれた」
「ええ、その本の方だ」
「あっ、わ、わたくし、刑事の亀井時生と申します。よろしくお願いいたします」
亀井時生は、慌てたお辞儀の途中で、背広の襟が、また、片方だけ立ち上がりかけた。
それを、自分の手で、急いで、押さえつけ直す。
しかし、押さえつけ方が、雑だったせいで、こんどは、ネクタイの結び目の方が、わずかにずれてしまった。
それを、本人は、まだ、気づいていない。
その様子に、沙耶香の隣で、三嶋が、ふっ、と、小さく息を吐いた。
そして、低く、しかし、はっきりした声で、つぶやいた。
「警部さん」
「ん?」
「これ、こちらの若い刑事さん、僕に、ちょっと、似てません?」
三嶋は、自分のことを言って、ぺこり、と頭を下げた。
その瞬間、亀井時生は、ぱっ、と顔を上げて、こちらを見た。
「あ、いえ、わたくし、似てないと思うんですけど」
「いやー、似てる似てる」
「いえ、わたくしは、もうちょっと、こう、シュッとしてる、というか」
「ええ、ええ、ご自分でそう思いたい気持ち、すごく、分かります」
三嶋の妙な共感の仕方に、亀井が、軽く頬を赤くしたのと、沙耶香が思わず吹き出しかけたのが、ほぼ同時だった。
九能は、その横で、無言のまま、ふっ、と、肩のあたりで、ひとつ、深く息を吐いた。
そして、すぐに、すべてを切り替えて、女将と添乗員に、低く言った。
「お騒がせします。早速で恐縮ですが、現場の方に、まず、向かいたい」
「ええ」
「篠原さん」
九能は、こちらに向き直った。
「あなたに、また、ひとつ、お願いを、することになります」
「ええ」
「いまの段階では、まず、ロビーの中の参加者の皆さまの様子を、ふだんのお客さまとしての立ち位置のままで、しずかに、見ていてください」
「分かりました」
「警察として、こちらの聞き取りに入る前に、ふつうの一参加者として、皆さまの最初の反応の中に、何が混じっているか、それを、あなたとカメラマンの三嶋さんの目で、見ておいてほしい」
九能の指示は、最初から、ふたりへの信頼の上で、軽く、しかし、はっきりと、置かれていた。
沙耶香は、深く、うなずいた。
その瞬間、宿の外で、すでに、新しい朝の光が、合掌造りの大屋根の角度の上に、はっきりと差し始めていた。
谷の上の空は、夜の青の縁から、まだ、ためらいがちに、白い昼の方へ、ゆっくりと、明け渡されつつあった。
その明け方の光のなかで、宿の中の囲炉裏の薪が、また、ぱちん、と、低く、音を立てた。
その音を聞きながら、沙耶香は、もう一度、自分の中の口癖を、しずかに、なぞった。
「事件の方から、私のところへ、やってくる」。
その口癖が、また、的中してしまっていた。
しかも、今度は、たぶん、自分の予感が、ほとんど、夜のうちに、当たっていた、というかたちで。
九能と亀井が、警官たちと連れ立って、林の方へ、しずかに出ていく。
その背中を、玄関の暖簾の脇から、沙耶香は、しばらく、見送っていた。
横で、三嶋が、いつもの間延びした声を、ようやく、ひとつだけ、低く、戻してきた。
「沙耶香さん」
「ん?」
「今回も、いきますか」
「行く」
短い答えだった。
しかし、その短さの中に、これからの長い長い数日の覚悟が、ぜんぶ、収まっていた。
宿の外の春の光は、まだ、ふだんの白川郷の旅情の光のままだった。
その同じ光のなかで、もう、ひとつの命が、止まっていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件の朝が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の前で、はっきりと、立ち上がっていった。
長い長い物語の、まだ、いちばん最初の朝だった。




