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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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3

 夕食の支度の整った広間に、参加者たちが、ぽつり、ぽつりと集まり始めた。

 広間は、囲炉裏のある食事処とは別の、いちばん奥まったところにある、ひと回り大きな板の間だった。

 天井の太い梁の下に、低い木の長机が二列、向かい合わせに据えられている。

 机の上には、土地の織物の敷物が広げられ、その上に、ひとり分ずつの膳が、ていねいに並べられていた。

 膳の中央には、刺し身ではない、地元の山菜のおひたしと、自家製の漬物の小鉢。

 その奥に、岩魚の塩焼きが、串に刺さったまま、しずかに香りを立てている。

 向こう側の鍋場では、すでに、囲炉裏の薪の上にかけられた小鍋が、ことこと、と音を立てていた。

 中に入っているのは、地元の味噌で仕立てた、白川郷ならではの朴葉の上の朴葉味噌焼きの、その小鉢サイズだった。

 その横の、ちいさな盃には、地酒が、すでに一杯目だけ、お注ぎしてある形になっている。

 蓋つきの白磁の盃の縁に、ほんのわずかに、薪の煙の匂いが染みていた。

 部屋の中の灯りは、頭の上の裸電球ひとつと、囲炉裏の火明かりだけだった。

 その火明かりが、参加者ひとりひとりの顔を、それぞれ、別の角度から、淡くなでた。

 東京の宴会場の煌々とした蛍光灯の下とは、まったく別の、ふだんと違う体温の落ち方が、皆の表情に、自然と忍び込んでいた。

 沙耶香と三嶋は、長机の片側の真ん中あたりに、並んで座らせてもらっていた。

 向かいには、年配のご夫婦と、もう少し奥に、女性の二人連れ。

 その隣に、若い男性のひとり旅。

 沙耶香たちの並びの少し離れたところに、多胡美咲。

 その斜め向かいに、城岬隆。

 久代幸人は、いちばん入口に近い席で、すでに、年配のご夫婦と、にこやかに何かを話していた。

 朱沼茂は、いちばん奥の角の席で、ひとり、目を細めて、囲炉裏の薪の灰の動きを、しずかに眺めていた。

 ふつうのツアーの宴会なら、もう少しはやい段階で、誰かが乾杯の音頭を取って、一気に空気がやわらかくなる時間だった。

 その日は、そのきっかけが、なかなか、誰の側からも、出てこなかった。

 それぞれの参加者が、それぞれの距離で、まずひと口の水を飲み、ひと口の漬物を口に入れる。

 その上で、ようやく、隣の人と短く言葉を交わす。

 そんな、礼儀正しすぎる始まり方が、しばらく続いた。

「皆さま、ようこそお越しくださいました」

 その静かさを、まず、ほどいてくれたのは、女将の鈴木みさだった。

 女将は、広間のいちばん奥に、ふたたび、しずかに正座をしてから、深く頭を下げた。

 その動作のあいだ、参加者全員の視線が、自然と、女将の方へ寄せられた。

「本日のお食事の一品、一品、地のものでご用意させていただきました。お口に合わぬところもございましょうが、どうぞ、ごゆっくり、お召し上がりくださいませ」

 女将のあと、ふと一拍だけ、間があった。

 その間を埋めるように、若い中居の土田茜が、両手を膝に置いて、ぺこりと頭を下げた。

 その仕草に、参加者たちの肩のあたりが、ふっとほどけた。

 それまでの礼儀正しさが、一気に、ふつうの宴会の温度へと、移っていった。

「では、皆さま、ご一緒に、いただきましょう」

 水原が、その流れを、丁寧に引き取った。

 参加者たちが、いっせいに、両手を合わせる。

「いただきます」

 その短い合掌のあいだに、囲炉裏の薪が、ぱちっ、と、一度、はっきりと音を立てた。

 まるで、囲炉裏も一緒に、合掌しているような音だった。

 その音を、沙耶香は、しっかりと、自分の中に、書き留めておいた。

 旅情ライターとしての本能だった。

 合掌造りの宿の最初の宴の、いちばん最初の音は、囲炉裏の薪の音だった。

 そう、いつかの記事の中の、いちばん最初のひと行に、ぴたりと収まる音だった。

 食事が始まってからの、最初のひとしきりは、ふつうの旅行先の温度に近かった。

 岩魚の焼き加減を褒める声、朴葉味噌の香りの良さに小さく笑う声、地酒のひと口めで「あら、おいしい」と漏らす声。

 その声のひとつひとつの中に、参加者たちの、ふだんよりも少しほどけた肩が、しずかに混ざっていた。

 年配のご夫婦は、にこにこと、地元の岩魚の話をしながら、お互いの皿を覗き合っている。

「お父さん、こっちの方が、頭の方、よく焼けてるわよ」

「ほう、じゃあ、交換するかい」

 その短い、なんでもないやりとりが、宿の広間の中の、ふだんの旅情の温度の、ひとつの基準を作っていた。

 旅情記事に書くべき大本の温度は、たぶん、こういうものだ、と沙耶香は思った。

 特別なことを書こうとしない。

 ただ、目の前のおふたりの、ふだんの会話を、そのまま書き写すだけで、白川郷の夜の温度は、たぶん、ちゃんと伝わる。

 その記事の構想を、頭の中で軽く転がしながら、沙耶香は、もう一度、視線を広間全体に這わせた。

 そのときに、彼女は、ひとつ、奇妙な情報のかたまりに気づいた。

 長机の片側に座っている多胡美咲と、その斜め向かいの城岬隆。

 このふたりが、何かのきっかけがあれば、ふと目を合わせるはずの位置に、互いに座っているのに、夕食の始まりからこの瞬間まで、ほぼ一度も、視線を合わせていなかった。

 それは、見ていないようでいて、確かに「見ない」と決めているふたりの動きだった。

 ふつう、見知らぬツアー客同士でも、何度か食事のあいだに、視線が偶発的に交差するものだった。

 互いに「あ、すみません」と、軽く目で挨拶を返し合う、その小さなやりとりが、自然と起きる。

 ところが、このふたりに関しては、その偶発の交差すら、生まれていなかった。

 それはむしろ、お互いに、相手を「視界の中で意識して避けている」、ということを示していた。

 沙耶香は、その「視線が、合わない」事実だけを、頭の中の白いノートに、丁寧に書きこんだ。

『多胡美咲 ←/→ 城岬隆 視線、合致なし』。

 これも、ふつうの旅情の記事には書かない種類の一行だった。

 そのとき、ふっと、別の方向から、声がかかってきた。

「あの、お隣の方、もしかして、ライターさんですか」

 声をかけてきたのは、向かいの女性の二人連れのうちの、ひとりだった。

 歳は四十代の前半、肩の張ったジャケットを羽織って、白川郷の旅とは少し違う雰囲気の女性だった。

 沙耶香は、軽く笑顔を作って、応じた。

「ええ。フリーで書いてます。今回、雑誌の春の合掌造り特集の取材で」

「やっぱり! さっきから、お手帳に、何か、ずいぶん書かれてらしたから」

 その女性は、隣の連れに、嬉しそうに振り向いた。

「ね、私の言った通り。あの方、絶対、お仕事の方だって」

 連れの女性は、苦笑いを浮かべながら、軽く頭を下げた。

「いやだ、もう、人のお食事を、勝手に観察して」

「ごめんなさい、ね」

「いえ、お気になさらず」

 沙耶香は、できるだけ自然に、笑顔の角度を返した。

 ライターとしての職業ぐせで、こういう場面の柔らかい受け流し方は、もう、自分の中で十分に練れていた。

「ご一緒の方は、カメラマンさんですか」

 その問いに、三嶋が、ぱっと顔を上げた。

「あ、はい、三嶋と申します。よろしくお願いします」

「あらー、お似合いの組み合わせ」

「いえいえ、仕事の組み合わせです」

 沙耶香は、軽く釘を刺すように、丁寧に訂正した。

 その「仕事の組み合わせです」の中の、軽く乾いた呼吸を、相手は、ちゃんと察してくれたらしかった。

 その後の話題は、ふつうの旅行談義に切り替わっていった。

 その女性たちは、東京の事務所勤めで、年に一度の、女ふたりの旅、なのだという。

 去年は和歌山に行き、今年は白川郷を選んだ。

「あの、白川郷の夜のライトアップって、こういう時期にもあるんですかね」

「ええ、私もそれを聞きたかったんですよ。あの、雪のときの写真しか、見たことがなくて」

「春は、ちょっと、ライトアップは、抑えめなんですって」

「あら、そうなの」

 その何でもない会話が、宴の温度を、もう一段、やわらかくしていった。

 沙耶香も、その温度のために、自然な相槌を、いくつか返した。

 軽く酌み交わされる地酒は、想像していたよりも、口当たりがやさしかった。

 ひと口ふくむと、舌の上で、谷の水の冷たさのあとに、お米の甘さが、薄く広がる。

 その甘さの中に、囲炉裏の薪の匂いも、ほんの少しだけ、混じっていた。

「沙耶香さん、これ、本当に、いいお酒ですよ」

 三嶋が、めずらしく、しみじみとした口調で言った。

「あなた、お酒、強かったっけ」

「いえ、強くないですけど、これは、おいしいんで」

「あなた、ふだん、おいしくないお酒の方が多いから、おいしいって言ってるんでしょう」

「あ、ばれた」

 その軽口のあいだに、向かいの女性ふたりが、控えめに笑ってくれた。

「お二人、本当に、息が合ってらっしゃるのね」

「いえ、息が合ってるのは、年季のせいです」

「あらー」

 その「年季のせい」のひと言で、宴の空気は、また、ほんのわずか、ほどけた。

 そのほどけ方の中で、沙耶香は、何気なく、視線を、いちばん奥の朱沼茂の方へ流した。

 朱沼茂は、相変わらず、自分の膳の上の小皿を、ひとつずつ、ていねいに、口に運んでいた。

 ひと口ごとに、しっかりと噛んで、ゆっくりと、お酒を、ひと口だけ、足す。

 ふつうの旅行客の食事のペースより、明らかに、ひと拍だけ、遅かった。

 それは、味を味わっている、というよりも、自分の中の何かのリズムを、ていねいに保っているような食べ方だった。

 囲炉裏の薪の音と、その朱沼の咀嚼のリズムが、なぜか、よく合っていた。

 その食べ方を見ていると、この朱沼茂、というひとは、どこかで長いあいだ、ひとりで自分の食事のリズムを守ってきた人なのだろうな、と思えた。

 家族と、ふだんからわいわい食べる食事ではなく、自分のためだけに、ひと品ずつ、ていねいに口に運ぶ食事を、長く続けてきた人。

 そういう「ひとりの夜の食卓」のリズムを、今夜、こうやって他人の囲炉裏の宴のなかでも、変えずに持ち込んでいる。

 そのことが、なぜか、沙耶香の中に、ふっと温かいものを残した。

 朱沼茂は、たぶん、悪いことのために、ここに来た人ではない。

 そう、もう一度、自分の中で、はっきりと書き留めた。

 向かいの城岬隆は、対照的に、食事の速度が、ふだんよりも速かった。

 岩魚の身を、骨から、すっと早く外す。

 朴葉味噌を、わずか二、三度、口に運ぶ。

 お酒は、最初の一杯目を空けたあとで、その上をすこし指で覆って、追加のお酌を、丁寧に断っていた。

「明日、ちょっと、早くから歩きたいので」

 その断り方の口調は、悪くなかった。

 ただ、その目の動きが、酒を控えるための断りではなく、何かを早めに切り上げて、自分の部屋に戻りたいための断りである、ということを、はっきりと示していた。

「明日、早くから」と、城岬は確かに口にした。

 しかし、その明日の朝の予定について、彼自身が、添乗員にも、誰にも、こちらから話を振ろうとはしなかった。

 ふつう、こうした宴の場で「明日、早起きする」と言えば、自然に、誰かが「あら、ご一緒できるところがあれば」と話を膨らませる。

 それを起こさせないように、彼は、声の調子だけで、軽く話の続きを閉じていた。

 その閉じ方を、沙耶香は、頭の中の白いノートに、もうひとつ書きこんだ。

『城岬隆 → 早朝予定あり、ただし内容は秘す』。

 宴の真ん中あたりで、添乗員の水原が、丁寧に明日の予定を、もう一度、皆に共有してくれた。

「明朝、宿のお食事のあと、九時半より、皆さまで、合掌集落のいちばん高台にある、展望台までのご散策を、ご案内させていただきます」

 参加者たちは、それぞれ、うなずく。

「途中、雪解け水のお水がきれいに見える、ある小さな林がございまして、こちらも、皆さまをご案内する予定でおります」

 その「林」のひと言で、沙耶香は、何気なく、また、ノートに線を引いた。

『集落の高台に向かう途中の、林』。

 旅情ライターとして、書くべき場所が、ひとつ、増えた。

 その場所が、翌朝、別の意味で、自分の人生のなかに、深く食い込んでくることを、このときの彼女は、まだ、もちろん、知らなかった。

 宴の終わりごろ、参加者たちはそれぞれ、丁寧に女将と中居に礼を言って、ロビーの方へ移り始めた。

 沙耶香も、三嶋の肩を軽く叩いて、立ち上がる支度をした。

 そのとき、いちばん奥の席で、朱沼茂が、しずかに立ち上がるのが見えた。

 彼は、ふっと、自分の盃を最後にゆっくり空けたあと、囲炉裏の方に向かって、深々と頭を下げた。

 ふつうの旅行客なら、そんなことは、しない動作だった。

 囲炉裏の薪に向かって、心の中で「ごちそうさまでした」と言うような頭の下げ方だった。

 その所作を、沙耶香は、しっかりと目に焼きつけた。

 朱沼茂という人は、たぶん、囲炉裏というものに、いちばん深い敬意を払うことが、自然にできる種類の人なのだろう、と思った。

 そういう人を、事件の側に置きたくない、という気持ちが、もう一段だけ、彼女の中で、強くなった。

 ロビーに移ったあとで、参加者たちは、それぞれ、二、三人ずつ、めいめいの方向に、ゆっくりと散らばっていった。

 ある人は、お風呂の支度をしに、自分の部屋に戻り、ある人は、ロビーの囲炉裏の前で、もうしばらく、ぼんやり座ったままでいた。

 囲炉裏のテレビは、消されていた。

『これは、私の正義じゃない』の声色は、もう、画面の中には残っていなかった。

 しかし、その声色の余韻は、沙耶香の頭の中で、ふっと、また、薄く、起き上がってきた。

 その声色のあとに、ノートの中で、勝手に、別の一行が、ゆっくり立ち上がった。

『正義じゃない、と、自分の口で言える人と、言えない人。今夜、ふたつの種類の人が、この宿の中に、混じっていた。』

 その一行を、ノートに書きつけたのは、宴のあと、自分の部屋に戻って、洗面のあと、布団に入る前の時間だった。

 そのまま、ペン先を止めて、しばらく、その一行の上で、沙耶香はじっとしていた。

 外では、谷の風が、低く、軒先のあたりを撫でていた。

 合掌造りの大屋根の角度を、なで上げて、なで下ろし、また、なで上げる、そういう種類の風の動きだった。

 部屋の中の灯りを、ひとつだけ残して、沙耶香は、ようやく、布団に身体を入れた。

 そのとき、廊下の奥のほうから、ごく小さな、足音が聞こえた。

 夜の合掌造りの宿の中で、廊下を歩く足音は、ふだん以上に、はっきりと響く。

 その足音は、明らかに、ひとり分のものだった。

 そして、その足の運び方が、客室から出てきて、玄関の方ではなく、宿の裏手の通用口の方へ向かっている動きだった。

 ふつうの旅行客が、夜中に、宿の裏手の通用口に向かう理由は、ほとんど、ない。

 煙草を吸いに外に出るとしても、玄関の脇に灰皿が用意されている。

 宿の中の自販機のジュースが欲しいなら、玄関に近い廊下の方に動くはずだった。

 裏手の通用口へ、わざわざ向かう足音。

 それは、見送りも、お見送りも、誰の目もない場所から、外へ出ようとしている足音だった。

 沙耶香は、布団の中で、しばらく、その足音を、目を開けたまま、聞いていた。

 足音は、足袋ではなく、靴下越しに、しっかりと板を踏む音だった。

 歩幅は、女性のもので、しかも、急いではいない。

 夜の宿の廊下を、迷いなく、ある場所に向かって歩いている、そういう歩幅だった。

 布団の中の身体を、わずかに起こした。

 しかし、廊下に出るのは、やめた。

 夜中の宿の中で、自分以外の宿泊客の動きに対して、軽率に動くのは、いまの自分の仕事の節度の外側だった。

 ライターの観察癖が、つかさどっていい範囲を、彼女は自分の中で、もう何度も、線を引き直していた。

 足音は、しばらくしてから、ぴたりと、止んだ。

 たぶん、通用口の前で、いったん立ち止まったのだ。

 それから、ごく小さな、引き戸を引く音と、外気の流れる小さな気配がひと吹き、廊下の方から伝ってきた。

 そして、それきり、宿の中の物音は、止まった。

 夜の宿の中の、いちばん深いところに、ひとつだけ、別の物語の輪郭が、しずかに、外へ出ていった。

 その輪郭の主が誰だったのか、沙耶香は、まだ、はっきりとは知らない。

 しかし、その足音の歩幅と、迷いのなさと、夜中に通用口を選ぶ判断の落ち着き方を考えれば、答えは、すでに、ほぼ、ひとつに絞られていた。

 頭の中で、宿の中のひとりひとりの参加者の顔と、その靴下の音とを、ていねいに照合した。

 そうして照合のいちばん最後の一行に、沙耶香は、ある名前を、ぽつりと、書き加えた。

『多胡美咲 → 深夜、通用口より、外出』。

 書きこんでから、沙耶香は、しばらく、ノートの上の自分の字を、目で追っていた。

 ここで起き上がって追いかけるか、追いかけずに、明日の朝を待つか。

 その二択の上で、彼女は、何度か、息を整えた。

 仕事として、ライターとして、いま自分が動くべきタイミングではない。

 そう、自分に、もう一度、はっきりと、言い聞かせた。

 事件は、まだ、起きていない。

 起きていない時点で、たとえ何かの予感があったとしても、いちライターが、宿泊客の夜の行動を勝手に追跡するのは、職業の倫理の外の話だった。

 何があったかは、明日の朝、確かめればいい。

 何もなければ、それでいい。

 そう、ひとつ深く息を吐いてから、彼女は、ようやく、ノートを閉じた。

 灯りを落としたあとも、彼女の中の頭の片隅は、ずっと、夜の通用口の引き戸の音を、聴き続けていた。

 しかし、その音のあと、宿の中の廊下には、二度と、その足音は戻ってこなかった。

 夜は、ゆっくりと、深まっていった。

 外では、谷の風が、合掌造りの大屋根の上を、何度も、なで上げては、なで下ろしていた。

 その風の音の中に、明日の朝、自分の旅情ライターとしての仕事が、もう一段、別の場所へと連れて行かれる予感だけが、しずかに、しかし、確かに、沈み込んでいた。

 長い夜の、すぐ先に、もう、別の景色が、用意され始めていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件の朝が、いま、その夜の闇の向こうで、ゆっくりと、目を覚まそうとしていた。



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