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バスは、東京の都心を抜けて、しばらくは高速道路の長い直線を走り続けた。
窓の外の景色が、見慣れた東京の郊外の住宅街から、次第に、整地された工業団地、田畑、低い山並みへと、少しずつ移り変わっていく。
旅情ライターとしての沙耶香の癖で、その景色の変わり目を、彼女は、それぞれ手帳に短く書き留めていた。
「都心を抜けた瞬間」。
ビルの群れの最後の影が、後方の窓ガラスからゆっくりと引いていく。
代わりに、空の面積が、急に大きくなる。
東京で見ていた空は、いつのまにか、ビルとビルのあいだの細い隙間でしかなかったのだ、と気づかされる瞬間が、そこにあった。
「最初の田畑が見えた瞬間」。
高速道路の左手に、刈り入れの済んだ田んぼが、まずひとひら、ふたひら、と続き出す。
その田んぼの土の色が、東京の街路樹の緑色とは、別の種類の濃い色をしている。
その色を見ただけで、自分が、東京というひとつの大きな部屋から、ようやく外に出たのだ、と身体のほうが先に分かる。
「最初に山らしい山が見えた瞬間」。
進行方向のずっと先、空の薄い水色の縁に、低く青い影がひと筋、横に伸びてくる。
最初はただの雲のように見えるが、しばらくしてから、それが、紛れもなく、山の連なりであることが分かる。
旅情の中で、いちばん心が動くのは、たぶん、この「山が、山として、ようやく見え始めた瞬間」だった。
そういう、ふつうのお客様が気にしないささやかな境目こそが、旅情の記事の中で、いちばん効いてくる場面だった。
ペンを動かしながら、彼女は、ふだんの仕事の感覚を、もう一度、自分の中に呼び戻していった。
今回の依頼は、ある旅行雑誌からの『春の合掌造り特集』のための取材だった。
ツアーそのものは、自費で参加している。
ツアー客のひとりとして紛れて取材することは、出版社の了承の上で、すでに段取りがついていた。
「あくまで、ツアー客のひとりとして」と、編集長から念を押されていたことを、沙耶香は、もう一度、頭の中で確認した。
特定の参加者を執拗に描写しない、団体の中の個人を勝手に取り上げない、旅情記事はあくまで「景色」と「土地のもてなし」が主役。
そういう約束ごとの上で、沙耶香はペンを構えている。
しかし、ペンの先で、彼女の意識のいちばん奥のほうでは、別の取材ノートの存在が、すでに、薄く動き始めていた。
その別の取材ノートには、まだ、なにも書かれていない。
ただ、白いままで、彼女の中の、もうひとつの机の上に、すっと置かれていた。
その白いノートが、彼女の旅情ライターとしての、ある種の職業病の証拠でもあった。
「沙耶香さん、字、書きすぎですよ」
ふと、横の三嶋が、覗き込むようにして言った。
沙耶香は、ペンの動きを止めずに、ほんの少し、首だけ傾けた。
「私の仕事のひとつ」
「いやでも、まだ、現地に着いてもいないんですよ」
三嶋の指の先が、車窓の方を指している。
「現地に着くまでが、旅情の半分」
「ああ、それ、いいフレーズですね。記事の見出しに使えるかも」
「もう、使ったことある」
ペン先が、ようやく、ひと呼吸、紙の上で止まった。
「あれ、本当ですか」
「ええ。三年前の、北陸の特集」
「あー、それ、覚えてます。あのとき、僕、東尋坊で危うく転落しかけて」
「あれは、あなたが、被写体に近づきすぎたせいでしょう」
「いやいや、あれは、風が、急に、ね」
そんな軽口を交わしているあいだに、バスはサービスエリアに入った。
休憩の時間だった。
参加者たちは、それぞれ、トイレに行ったり、売店をのぞいたり、自動販売機でコーヒーを買ったりしていた。
沙耶香も、軽く伸びをして、バスの外に出た。
サービスエリアの空気には、東京とは違う、淡い湿り気と、緑のにおいが、ほのかに混じっていた。
その空気の中を、参加者たちがゆっくり散らばっていく。
サービスエリアの建物の屋根越しに、すでに、山の輪郭が、ずっと近くまで迫ってきていた。
東京を出てから、まだ数時間しか経っていないのに、空気の質量が、ぐっと変わっていた。
息を深く吸い込むと、肺の底のほうに、薄く土と木の匂いが届く。
それは、白川郷へと続く道が、本当に近づいている、という身体の合図でもあった。
沙耶香は、その散らばり方を、自然にだが、丁寧に観察していた。
地味なベージュのコートの女性、多胡美咲は、売店の脇の小さなベンチに腰を下ろして、ビジネス手帳を開いていた。
旅行の最中でも、何かの仕事のメモをつけているらしい。
その姿勢から、観光に来た人特有の浮き浮きとした空気は、まったく感じられなかった。
仕事を続けながら、最低限の旅行を消化している、そういう動きだった。
背の高い無口な男、城岬隆は、自販機の前に立って、長く何かを選んでいた。
選ぶ、というよりも、自分の影が、ふと、ガラスのケースに映るのを、確かめているような立ち方だった。
ボタンを押す動作のあいだも、視線が、しきりに後方の人通りの方を流れていた。
その視線の動きには、ふつうの観光客の好奇心ではなく、明らかに、警戒の癖があった。
人当たりの良さそうな若い男、久代幸人は、参加者の中の年配のご夫婦に、にこやかに話しかけていた。
「白川郷、はじめてですか?」
と、にこやかに問いかける。
「いえいえ、私たち、もう三度目で」
その答えに、久代は、ぱっと目を見開いて見せた。
「ええっ、すごいですねえ」
その三度目、というささやかな自慢に、過剰なくらいの感心を、ていねいに乗せて返す。
軽い相槌の上手さ、お年寄りに気を遣う言葉選び、笑顔の角度。
そのすべてが、不思議なくらい、よく訓練されていた。
ふつうの仕事をしている若者が、こうも自然に、人当たりよく振る舞える、というのは、めずらしい。
温和な笑顔の朱沼茂は、自販機で買った缶コーヒーを両手で包むようにして、少し離れた花壇のところに立っていた。
満開とは言えないが、咲き始めの春の花を、しばらく、しゃがみ込むように眺めている。
その姿は、ごくふつうの、年配の旅行者の風景だった。
警戒も、計算もない、ただ春の花を、しずかに見ている、その姿だった。
四人の動きを、ひとり、また、ひとり、と頭の中で並べていくうちに、沙耶香はふと、奇妙な対比に気づいた。
多胡美咲、城岬隆、久代幸人、朱沼茂。
四人とも、ツアー客にしては、ふつうの「観光に来た人」の浮かれ方をしていない。
それぞれが、それぞれの仕方で、ここに来ていることに、ある種の「役目」のようなものを背負っている。
そう感じてしまうのは、自分の取材癖のせいかもしれなかった。
しかし、ふだんなら、十人いれば二、三人は、明らかに「旅行で気が緩んでいる人」の動きをしているはずだった。
今回のツアーには、その「気が緩んでいる人」の動きが、参加者の半分以上から、ほとんど感じられない。
「沙耶香さん」
三嶋が、隣にひょっこりと戻ってきた。
「サービスエリア、ぐるっと回ってきたんですけど、なんか、ちょっと、お土産売り場で気になる人いて」
「気になる人?」
沙耶香は、手帳に走らせていたペンを、いったん止めた。
「あのね、メガネのお姉さん、多胡さんでしたっけ」
「うん」
「あの人、お土産売り場の、地酒の棚の前で、五分くらい、ずっと立ってたんですよ」
ペン先の動きが、また、ぴたりと止まる。
「五分?」
「ええ。何度もラベルを見たり、置いたり、また見たり。それで、結局、何も買わずに、ベンチの方に戻ってきた」
「ふつうに迷ってただけかもよ」
沙耶香は、わざと、いちばん退屈な解釈を、まず口にした。
「いや、それがね、彼女、地酒のラベル、どれも、けっこう深刻な顔して、読んでたんですよ」
「深刻?」
「ええ。なんていうかな、これから誰かに会いに行くから、その人の好みに合うものを探してる、っていう買い方じゃなくて、ラベルの中の文字を、何かと照合してる、っていう感じの読み方で」
その表現の鋭さに、沙耶香は思わず三嶋を見返した。
ふだんは、ぼんやりとした調子の三嶋なのに、こういうときの観察は、いつも、肝心なところを撫でてくる。
ドジで間延びしている分、いざ何かを見たときの感覚が、変な形で残るのかもしれなかった。
「何かと照合してる、って、たとえば」
「うーん、僕はね、商品の名前と、何か別の事件の名前か、施設の名前か、人の名前みたいなのを、頭の中で照合してるみたいに見えました」
「思いつきにしては、ずいぶん具体的ね」
「すみません」
「ううん、いい思いつき。覚えておく」
そう答えながら、沙耶香は、自分の中の別のノートの白い部分に、ひとつだけ、線を引いた。
『多胡美咲 → 地酒のラベル → 何かを照合』。
ふつうの旅情の記事には、絶対に書かない種類の一行だった。
休憩が終わって、バスは、ふたたび、白川郷に向かって走り出した。
高速を降りてからは、地方の道に入る。
道幅は、いっきに狭まり、両側に立ち並ぶ家々の、屋根の様式も少しずつ変わってきた。
切妻屋根の上に、雪が滑り落ちるための急な角度のついた、地方独特の家。
その風景の向こうに、もうじき、合掌造りの集落が、見え始めるはずだった。
道は、ゆるやかに谷あいへと下りていく。
両側の杉木立が、車窓の高さよりも上のほうで、互いの梢を組み合わせ、空をところどころで隠していた。
その隙間から差し込む春のひかりが、バスのフロントガラスに、しま模様に落ちる。
そのしま模様の上を、対向車のたまの一台が、ゆっくり通り過ぎていく。
道の脇には、ところどころに、満開の桜が、ぽつぽつと立っていた。
地元の人だけが手入れしているらしい、こぢんまりとした桜だった。
東京の名所の桜の華やかさとは違う、ぐっとひっそりとした桜だった。
その下に、古びた石の道祖神が、ひとつ、ふたつ、肩を寄せ合うように残っている。
道祖神の表面の苔の色が、桜のうすべに色と、淡く重なっていた。
それを見ながら、沙耶香は、その桜のひとつひとつを、目で追って、ふっと深く息を吸い込んだ。
旅情ライターとして、ここから先の景色は、自分の中の「素」の部分に、たぶん、いちばん深く染み込んでくるはずだった。
「沙耶香さん、見て、見て、あの桜!」
三嶋が、もう、何度目かの「見て、見て」を発した。
カメラのレンズを、すでに窓の外に向けている。
「撮ってる?」
「もちろん、です」
シャッター音が、軽く、車内に響いた。
「あなた、走ってるバスの中から、よくちゃんとピント合うわね」
「練習の賜物ですよ」
「日頃の練習、ねえ」
そんなやりとりのあいだに、バスは、ついに、白川郷の集落の入口に近づいてきていた。
道の片側に、観光バスの駐車場が広がり、その向こうに、合掌造りの大きな屋根が、いくつもいくつも、寄り集まっているのが見えた。
茅葺きの屋根の角度が、想像していたよりも、ずっと急だった。
その急な角度の屋根が、淡い春の光の中で、しっとりと黒に近い色合いを湛えていた。
合掌造り、という名前の通り、屋根の左右の傾斜が、まるで両手のひらを合わせて祈っているような角度になっている。
ひと棟、ふた棟、と数えていくたびに、その「祈り」のかたちが、谷のあちらこちらに、ていねいに置かれているのが分かってくる。
世界遺産に登録されているという、その肩書きの重みよりも先に、ただただ、いまもひとが暮らしている家としての温度が、その大屋根のひとつひとつから、はっきりと伝わってきた。
「うわ、本気で来ましたねえ、白川郷」
「ええ」
「これ、絵になりますよ、絶対」
「ええ」
沙耶香も、思わず、息を呑んだ。
これまでも、写真や雑誌の特集で、この風景は、何度も見ていた。
しかし、自分の目で、実際に見るのは、はじめてだった。
合掌造りの集落そのものが、ひとつの大きな手のひらのようだった。
家々が、肩を寄せ合うようにして、谷の中に、ひしと収まっている。
その肩の寄せ方の中に、長い長い土地の歴史の重みが、はっきりと、目に見えるかたちで、残っていた。
バスは、駐車場の手前で、いったん停まった。
ここから先は、徒歩で集落の中へ入る形になる。
「皆さま、お待たせいたしました」
水原が、ふだんよりも、ほんの少し高い声で、参加者全員に向かって言った。
「これより、本日のお宿『合掌の宿 みさ屋』さままで、徒歩でご案内いたします。お足元、十分にお気をつけくださいませ」
『みさ屋』。
それが、今回のツアーの泊まる旅館の名前だった。
地元では、長く続く、由緒のある合掌造りの宿のひとつだった。
事前に渡されていた資料には、宿の女将『鈴木みさ』の名がそのまま屋号になっているらしい、と書かれていた。
ツアー参加者の十二名と、添乗員、そして、それぞれの荷物。
ぞろぞろと連なって、集落の中の細い道を歩いていく。
道の脇には、用水路が走り、その水音が、思いがけず、いい音色で耳に届いた。
水路の中の水は、谷の上のほうから引いてきた、雪解けの色合いを、まだわずかに残していた。
光の角度によって、水底の小石まで透けて見える。
その水路の脇に、土地のひとが植えた水仙が、ところどころ、淡い黄色を覗かせていた。
家々の軒先に、それぞれ、季節の野花や、地元の手工芸品が、さりげなく飾られている。
軒下の小さなベンチに、地元のおばあさんが、毛糸で何かを編みながら、ぽつんと座っていた。
その姿が、もう、絵葉書のような風景の一部だった。
旅情ライターとしての沙耶香の頭の中で、すでに、最初の何行かが、勝手に組み上がりはじめていた。
『春の白川郷は、まず、足元から旅人を迎える。集落の細い道に沿って流れる用水路の水音と、軒下のベンチに座るおばあさんの毛糸の輪と、その向こうに、いまもなお、生きている合掌造りの大屋根。』
ペンは握っていなかった。
ただ、その何行かは、足を運ぶたびに、頭の中で、ゆっくり、ゆっくり、降り積もっていく。
それが、彼女の仕事のいちばんの土台だった。
集落の中ほど、ひときわ大きな合掌造りの建物の前で、列が止まった。
軒先に、墨色の暖簾がかかっていて、白い字で『みさ屋』と染め抜かれている。
その暖簾の前に、ふっくらとした体つきの、和服の女性が、にこにこと、こちらに頭を下げていた。
「ようこそお越しくださいました」
「皆さま、こちらが、今回のお宿の女将、鈴木さまです」
水原が紹介すると、その女将――鈴木みさは、改めて、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、鈴木みさと申します。みさ屋の女将を務めております。短いお時間ではございますが、どうぞ、ごゆっくりとお過ごしくださいませ」
その声は、しっとりとして、低めの、よく通る声だった。
参加者の中には、その声を聞いた途端、思わず、ふっと肩の力を抜いた人がいた。
特に、年配のご夫婦が、にこやかに頭を下げる女将に対して、明らかに、安心しきった表情を見せていた。
旅館の女将としての、ひと目で「ここに泊まる」と決めさせるだけの落ち着きが、鈴木みさの全身にあった。
その後ろから、若い中居の女性が、ひとり、しずかに姿を見せた。
紺色の作務衣に、白い前掛け。
歳は、まだ二十代の半ばと見えた。
少し緊張した面持ちで、皆に向かって、ぺこりと頭を下げる。
「中居の土田と申します。よろしくお願いいたします」
その名札の上には『土田 茜』と、丁寧な字で書かれていた。
土田茜の声は、女将のそれよりも、明らかに高めで、すこし固かった。
しかし、その目の中には、お客様を迎えることに真面目に向き合っている、誠実な光があった。
「ようこそ」と、もう一度、はっきり頭を下げた仕草に、好感が持てた。
参加者たちは、それぞれ、女将と中居に小さく頭を下げ返しながら、宿の中へ入っていった。
合掌造りの宿の中は、想像していたよりも、ずっと広く、しかし、ずっと暗かった。
太い梁が、低い天井のあちこちで、しっかりと組まれている。
その梁の下に、囲炉裏のある広間、薄暗い廊下、奥の方へとつながる客室の入口が、ぽつぽつと並んでいた。
匂いは、東京の旅館とは、まったく違っていた。
煤と、木と、藁と、土と、湯気と、味噌のにおいの、複雑な層があった。
それは、長い時間が、家そのものに、しずかに染み込んでいる匂いだった。
「うわー、もう、この匂いだけで、絵が浮かぶなあ」
三嶋が、感心したような声を出した。
「同感」
「沙耶香さん、なんか書き始めそうな顔ですね」
「いまは、まだ、書かない」
沙耶香は、低く言って、息を整えた。
「あ、もう、何か浮かんでます?」
「浮かんでる」
ふだんなら、ここでメモを取り始めるところだった。
しかし、今日の沙耶香は、あえて、ノートをまだ開かなかった。
最初の入りこみで、自分の身体ぜんぶで、その匂いを覚えておきたかった。
参加者たちは、それぞれの部屋に案内されていった。
沙耶香と三嶋には、宿の二階のいちばん奥の、隣り合った二部屋が割り当てられていた。
部屋に通されてから、しばらくして、沙耶香は荷物を下ろし、軽く窓を開けた。
部屋の窓の外には、合掌造りの大きな屋根のひと角が、すぐ目の前に迫っていた。
その屋根の向こうに、谷の遠くの山並みが、淡くかすんで見えた。
風が、ほんのわずかに、囲炉裏の煙のような匂いを運んできた。
その匂いを、ゆっくり吸い込みながら、沙耶香はやっと、ノートを開いた。
そして、新しいページの上に、何も書かず、ただ、深く息を整えた。
旅情ライターとして、最初に書きはじめる前の、いちばん大事な数分間だった。
何時間か後、ちょうど夕食前の時間。
参加者たちは、いったん部屋を出て、宿のロビーの方へ集まりはじめていた。
ロビーには、土地の名物のお茶と、小さなお茶請けが、用意されていた。
参加者たちが、思い思いに、囲炉裏のまわりに集まって、お茶をいただいている。
その囲炉裏の脇の壁の上の方、太い梁の下に、宿の中では珍しいことに、小さなテレビが一台、置かれていた。
地元の天気予報や、観光案内の情報番組のために、女将がそこに据えているらしかった。
「あ、テレビ」
三嶋が、湯のみを手にしながら、ぼんやりと、テレビの方を見ていた。
ふだんなら、彼は、旅館の中のテレビなど、ほとんど見ない。
しかし、その瞬間、画面の中で、ふっと、見覚えのある顔が、流れていた。
夕方のニュースの合間に、ちょうど、別の局の連続ドラマの宣伝が、流れていたのだった。
その短い宣伝の中の、一カットだけ。
カメラが、ヒロインの女性の顔を、ぐっと寄って捉えていた。
その顔は、ふだんの、明るいアイドルの顔とは、少しちがう、ややかげのある、若い女の演技の顔だった。
「あれ、夢野りり、ちゃん?」
「えっ」
沙耶香も、釣られて、テレビの方を見た。
確かに、ほんの一秒か二秒、夢野りりが、ドラマの宣伝の中の、ある若い女の役で映っていた。
その瞬間、ナレーションの声に重なるかたちで、夢野りり本人の声で、ひと言、セリフが流れた。
「これは、私の正義じゃない」
短い、ふだんなら、その場で聞き流してしまうような、ひと言だった。
それでも、その声色には、夢野りりが、ふだんのアイドル活動とは別の場所で、ようやく自分の演技の中に手にした、ある種の重さが、はっきりと乗っていた。
宣伝はすぐに終わり、画面は、また別のCMに切り替わった。
その切り替わりに合わせて、囲炉裏の薪が、ぱちん、と一度だけ鳴った。
「沙耶香さん、いま、夢野さんでしたよね、絶対」
「ええ」
「えっ、ドラマ、出てたんですね、もう」
「みたい、ね」
「すごい。事務所、復帰、ちゃんと、進んでるんだなあ」
三嶋は、しみじみと言った。
その横で、沙耶香は、ふっと、湯のみを置いた。
『これは、私の正義じゃない』。
その一行だけが、なぜか、彼女の中で、奇妙にひっかかった。
それは、夢野りりの演技そのものへの感慨ではなかった。
別のもの、たとえば、これからの数日のあいだに、まだ起きていない事件の、何かの輪郭を、先に予告するような、ひと言の手触りだった。
その「ひっかかり」を、沙耶香は、すぐにはノートに書かなかった。
書く前に、頭の中の、いちばんやわらかい場所に、しっかりと、しまっておいた。
そのとき、ロビーの隅で、もうひとつ、別の小さな出来事があった。
参加者のひとり、温和な笑顔の朱沼茂が、テレビの音に気づいて、視線を、ふっと、画面の方に向けた。
その目に、ほんの一瞬だけ、笑顔とは別の感情の影が、よぎった。
それは、誰かを思い出した目の動き、というよりも、何か、自分の中の、ずっとしずまっていた古い記憶のひとつが、ふいに揺り起こされたような、目の動きだった。
しかし、その影は、ほんの一瞬で消えた。
朱沼茂は、すぐに、いつもの温和な笑顔に戻って、湯のみのお茶を、ひと口、ゆっくりと飲んだ。
その一瞬の影を、見ていたのは、たぶん、ロビー全体の中で、沙耶香だけだった。
三嶋は、まだ、復帰したばかりの夢野りりに、しみじみと感心している。
ほかの参加者たちは、めいめい、お茶請けの話と、夕食の献立の話と、明日の散策の予定の話を、軽くしている。
その「ふつう」の中に、ふたつの違和が、しずかに、しかし、確かに、紛れていた。
夢野りりの声で流れた『これは、私の正義じゃない』のひと言。
そして、朱沼茂の頬に、一瞬だけよぎった、笑顔ではない種類の影。
その二つが、ロビーの囲炉裏の温かい空気の中で、ほんのわずかに、別の音色を立てていた。
沙耶香は、もう一度、湯のみを取り上げた。
お茶の温度は、すっかり、ふだんの春の温度に落ち着いていた。
ふだんの春のお茶のあいだに、それでも、彼女の中の「事件の方から、やってくる」勘の角度だけが、もう、一段、深く、傾き始めていた。
夕食までは、まだ、すこし時間があった。
ロビーの囲炉裏の脇で、テレビは、また、別の天気予報を、しずかに流していた。
谷の上の空が、もうじき、夕暮れに向かって色を変えていく時間だった。
その夕暮れの少し前の時間の中に、これから始まる長い数日の、いちばん最初の、しずかな兆しが、ひっそりと、座り込んでいた。




