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その朝、東京駅の八重洲口の集合場所には、すでに小さな人だかりができていた。
旅行会社の幟が一本、肩の高さに立てられている。
『春の白川郷 合掌造り民宿一泊二日ツアー』。
幟の下に、若い添乗員が、クリップボードを胸に抱えて立っていた。
添乗員の声は、よく通った。
参加者の名前を一人ずつ呼んでは、丁寧にチェックを入れている。
その横に、すでに集まっていた参加者たちが、それぞれの距離を保ったまま、ぱらぱらと立っていた。
「篠原さま、三嶋さま、お揃いですね」
「ええ、よろしくお願いします」
「お荷物、こちらにお預けくださっても」
「あ、はい、お願いします」
添乗員の女性の名札には、丁寧な字で『水原』と書かれている。
旅行会社の制服のスカーフが、まだ少しだけ春らしい薄紅色だった。
その色を見ながら、沙耶香はふと、もう何度この光景を取材したか、と思った。
集合場所、添乗員、参加者の最初の硬さ。
そのすべてを、これまでも、たぶん何十回となく文章にしてきた。
それでも、今日の集合場所には、いつもより、ほんの少しだけ、別の手触りがあった。
それは、参加者の人数のせいかもしれなかったし、季節のせいかもしれなかった。
ただ、はっきりと言えることは、ひとつだった。
「事件の方から、私のところへやってくる」
その自分の口癖が、いまの自分の中で、ひと夜のうちに何度も繰り返されていた。
前回の湯けむり温泉郷から、もう、ずいぶんと時間が経っていた。
その間に、本が一冊、世に出た。
それでも、自分の中の、あの旅情ライターとしての職業的な勘の角度は、何ひとつ、変わっていなかった。
「沙耶香さん、コーヒー、いります?」
横で、三嶋正が、紙コップを二つ提げて、戻ってきた。
「ありがとう」
「冷めないうちにどうぞ。バスまで、まだちょっと時間があるみたいです」
「水原さんから、何か言われた?」
「いや、特には。あ、でもね、今回のツアー、なんか、参加者の顔ぶれ、面白いですよ」
「面白い、って」
「えっとね、見て分かるかな。あの、いちばん奥の方の、メガネの女の人」
三嶋がさりげなく顎で指し示した先に、肩までの黒髪の女性が立っていた。
歳は三十代の半ば、というところだろうか。
地味なベージュのコートに、ローヒールのパンプス。
その手元に、明らかに観光客向けではない、ぶ厚いビジネス手帳が握られていた。
「ふつう、ツアーであの手のシステム手帳は、持ち歩かないよね」
「ですよね。あれ、絶対、仕事の道具です。仕事のメモを、旅行のあいだも続ける気の人」
「ライターと、同じ職業病かもしれないわよ、私たち」
「えー、それは、ちょっと、嫌な見方ですよ」
三嶋は、わざと、軽くおどけた。
それから、紙コップを器用に左手に持ち替えて、右手にカメラを構えなおした。
ふだんなら、被写体のいない景色にカメラを向けるところは、彼はあまりやらない。
しかし、その朝の三嶋は、何気なくレンズの方向だけを、参加者の方へ向けていた。
撮ったのか撮らなかったのかは、本人もはっきり意識していない。
「ちょっと、こっちの背の高い人も、変わってますよね」
「うん」
集団のいちばん端、コートの襟を立てた背の高い男が、ひとりだけ離れて立っていた。
歳は四十前後、髪は短く刈り上げ、頬には少し冷たい印象の翳りがあった。
ふだんなら、ツアーの集合場所で、こんなに完全に「集団に混ざらない」立ち方をする人は、めずらしい。
「あれ、添乗員さんに、無口に挨拶だけして、それきり一回もしゃべってないですよ、僕が見てる範囲では」
「観察力、いつもより冴えてるじゃない」
「いやー、人を見るのは仕事ですから」
「カメラマンの仕事は、人じゃなくて、絵を見る仕事でしょう」
「絵を見るためには、まず、人を見るんですよ、沙耶香さん」
軽口の応酬の中で、沙耶香はちらりと、その背の高い男の方を見た。
何気ない視線のはずだったが、向こうの男も、ふと、こちらに気づいたらしかった。
ほんの一瞬、視線が交わる。
それは、ふつうの旅行客同士の、軽い目線の交差ではなかった。
その男の目には、まるで、「誰か、自分のことを見ている人間がいるかどうか」を、定期的に確かめている人間の、冷たい視線の癖があった。
沙耶香は、すぐに視線をそらして、紙コップに口をつけた。
コーヒーは、ぬるくなりかけていた。
「水原さーん、すみません、ちょっとお聞きしていいですか」
集団の中ほどから、若い男の声が上がった。
明るくて、よく通る声だった。
「はい、なんでしょう」
「あの、白川郷って、これ、自由行動の時間も、いっぱいあるんでしたっけ」
「ええ、宿に入ってから、夕食までのお時間と、翌日の午前中は、お好きに散策していただけます」
「あー、いいですねえ。ちょっと、写真撮りに行きたくて」
「写真、いいですね。今、ちょうど、桜が」
「ですよねえ、桜ですよねえ」
三嶋は、その若い男の声を聞きながら、「沙耶香さん、ライバル登場ですよ、写真組」と、小声で言った。
「あなた、ライバルって、自分のこと、ちゃんとプロだと思ってる?」
「もちろん、ですよ。一応」
「一応?」
「一応!」
そのやりとりの最中、声を上げた若い男の顔が、ふっと沙耶香の視界に入った。
歳は二十代の後半か、三十そこそこ。
肩からは、いかにも観光用に持ってきた、小さな安物のフィルムカメラを下げている。
服装も、ジーンズに薄手のパーカー、それに、街中で買えそうな量産品のリュック。
人当たりの良さそうな、ふつうの旅行客の見た目だった。
しかし、その視線の動きだけが、沙耶香の中で、わずかに引っかかった。
水原と話している間、彼は、笑顔を作りながら、視界の端で、参加者ひとりひとりを順に確かめていた。
その確認の癖が、さきほどの背の高い男のものと、よく似ていた。
別人なのに、別の理由で、同じ「人を見る癖」を持っている。
そういう人物が、ふたり、同じツアーに集まっていた。
「沙耶香さん、どうしました?」
「いえ。なんでもない」
「あ、また、いやな予感、来てる感じです?」
「来てる」
「あー、やっぱり」
三嶋は、紙コップの中身を、ぐっとひと口で飲み干した。
「いやー、せっかくの白川郷ですから、今回は、本当に、ただの取材で済んでほしいんですけどね」
「私も、そう思ってる」
「思って、いるだけです?」
「思って、いるだけ」
ふたりの軽口の途中で、添乗員の水原が、参加者の方を向いて、明るく声を張った。
「皆さま、お揃いになりましたので、これから、バスに乗っていただきます。皆さま、こちらへ、どうぞ」
参加者たちが、それぞれの荷物を持って、すぐ脇に停められた大型バスへと、ゆっくり移動を始めた。
バスは、淡いクリーム色のボディに、青いラインが入った、ふつうの観光バスだった。
ドアの上に、簡単な手書きの紙が貼られている。
『白川郷 春の合掌造りツアー 一行さま』。
その文字を見ながら、沙耶香はもう一度、心の中で、自分の口癖を反芻した。
事件の方から、いつも、私のところへやってくる。
その口癖が、ただの冗談で済まなかったことは、もう、自分が誰よりよく知っている。
今日もまた、もしかしたら、そういう旅になるかもしれない。
そう思いながらも、まだ、その時点では、彼女は、できるだけ平凡な希望の方を、自分の中に残しておきたかった。
ふつうの春のツアーとして、ふつうの白川郷の景色を、ふつうに記事にして帰ってくる。
そういう、退屈な仕事の往復として、今回が終わってくれることを、沙耶香は、半分くらいは、本気で願っていた。
バスに乗り込みながら、添乗員の水原が、ひとりひとりに、笑顔で席を案内していく。
参加者の名簿は、すでに沙耶香も、出発前に旅行会社から渡されていた。
『多胡美咲』『城岬隆』『朱沼茂』『久代幸人』。
その他、ご年配の夫婦が一組、女性の二人連れが一組、若い男性のひとり旅がもう一名、家族連れが一組。
総勢、十二名のささやかなツアーだった。
その十二名のうち、すでに沙耶香の中で「観察対象」として残ってしまった人物が、最低でも、二人。
ひとりは、背の高い無口な男。
もうひとりは、人当たりの良さそうな、しかし視線の癖が冷たい、若い男。
名簿と顔を頭の中で重ねると、その背の高い男が『城岬隆』、若い男が『久代幸人』、地味なベージュコートの女性が『多胡美咲』らしい、と分かってきた。
残るひとり、『朱沼茂』は、最後の方でバスに乗り込んできた、五十前後と見える、温和そうな男性だった。
くたびれたグレーのコートに、つばのある柔らかい帽子。
挨拶のときの目元が、こちらの心配を一瞬で解いてくれるような、人懐っこい笑顔だった。
「すみません、最後で。間に合いました、よかった」
「お気をつけて、お乗りください」
水原が、丁寧に頭を下げる。
その朱沼茂を、座席に着くまで見送りながら、沙耶香は、ふと、自分の旅情ライターの勘の角度を、ひそかに修正していた。
この朱沼という人物には、はっきりと「事件の側に置きたくない」種類の温和さがあった。
しかし、こういう温和さこそが、事件の物語の中では、もっとも危うい立ち位置に置かれることが多い。
長年、いくつもの旅先で人を見てきた沙耶香の勘は、そう告げていた。
バスが、ゆっくり、東京駅の前を離れた。
窓の外を、見慣れた都心の風景が、後ろへ流れていく。
「沙耶香さん」
「ん?」
「あの、いまさらなんですけど、念のため」
「うん」
「ぼく、今回も、写真、いっぱい撮りますね」
「あなた、それしか能がないでしょう」
「あー、ひどい」
「あなた、いつも、何百枚も撮ったうちの数枚で、必ず、肝心のとこ、当ててくるじゃない」
「あ、それは、褒められてるんですね」
「褒めてる」
三嶋は、ふっと、にやけた顔をして、首から下げたカメラのレンズキャップを、いつものクセで指で回した。
その仕草のリズムを、沙耶香はもう、何年も見続けている。
バスのリズムと、レンズキャップのリズムが、なんとなく、軽く重なった。
その小さなリズムの中で、白川郷へ向かう一日が、ようやく、本格的に走り始めた。
「事件の方から、やってくる」というあの口癖を、自分の旅情ライターの仕事の地の文の中に、これからどう書き入れていくかは、まだ、彼女の中で、決まっていなかった。
ただ、ひとつだけ、決まっていることがあった。
その口癖が、もしまた今回も的中してしまったとしても、自分は、決して、その事件の側に飲み込まれて、ペンを置く側の人間にはならない、ということ。
そのことだけは、最後の本のあとがきの中で、彼女が、自分自身に、はっきり約束していたことだった。
窓の外を、東京の郊外の景色が、ゆっくりと流れ始めていた。
その流れの中に、まだ、見ぬ白川郷の合掌造りの屋根の景色が、これから、ひとつずつ、立ち上がってくるはずだった。
長い長い春の旅の、まだ、ほんの最初のひと走りだった。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん最初の一日が、こうして、しずかに、しずかに、白川郷へ向けて、走り始めていた。




