10
翌朝の白川郷は、昨日よりも、ひと回り、深い霧の中に、沈んでいた。
谷の底から、ゆっくりと、白い霧が、立ち上がっている。
合掌造りの大屋根の急な角度の、いちばん上のところだけが、その霧の上に、ぽつ、ぽつ、と、黒い影として、浮かんでいた。
宿の窓から、その光景を見ながら、沙耶香は、ふと、旅情ライターの自分の中の、ふだんのペンの手を、思い出していた。
この霧の中の合掌造りの屋根の光景は、ふだんなら、間違いなく、春の特集の、いちばん大事な一枚の写真の、添え書きに使う風景だった。
しかし、いまの彼女には、その風景を、ふだんの旅情の言葉で、書きとめる余裕は、もう、なかった。
その同じ霧の中で、すでに、ふたつの命が、止まっていた。
朝の宿の中は、しんと、沈んでいた。
参加者たちは、それぞれの部屋で、ほとんど、眠れなかったらしかった。
朝食は、また、女将の判断で、ごく簡素な、部屋ごとのお膳に、切り替えられていた。
沙耶香と三嶋は、朝食のあと、すぐに、九能の捜査拠点の小部屋へ、呼ばれた。
小部屋の中では、すでに、九能と亀井が、机の上に、ゆうべよりも、ずっと多くの書類を、広げて、待っていた。
机の端には、三嶋から預かった、カメラと、その中の写真を、紙に焼き出したらしい、何十枚かの束も、丁寧に、積まれていた。
「篠原さん。三嶋さん」
九能は、ふだんよりも、ひと回り、低く、沈んだ声で、ふたりを、迎えた。
「警部さん」
「ゆうべは、ほとんど、お休みになれなかったでしょう」
「ええ、まあ」
「私たちも、ほとんど、眠っていません」
九能の目元には、確かに、ふだんよりも、深い、疲れの色が、滲んでいた。
それでも、その目の奥の光だけは、まったく、にぶっていなかった。
「まず、ひとつ、ご報告があります」
九能は、机の上の、いちばん上の書類を、ゆっくり、こちらに、向けた。
「数年前の、東京郊外の、ある介護事業所での、寄付金の搾取の事件」
「ええ」
「朱沼さんが、ゆうべ、お話しくださった、あの事件について、夜のうちに、本部の方に、照会を、かけました」
沙耶香は、思わず、机の上の書類に、目を、寄せた。
書類には、数年前の、ある福祉事業所の名前と、その事業所が起こした、寄付金の搾取に関する、いくつかの記録が、丁寧に、まとめられていた。
「この事件は」
九能は、低く、続けた。
「当時、ある程度、表に出て、何人かが、罪に、問われています」
「ええ」
「ただし、朱沼さんが、ゆうべ、おっしゃっていた通り」
「ええ」
「表に出て、罪に問われたのは、当時の事業所の、上の方の人たちの、ほんの『一部』に、過ぎませんでした」
その「一部」のひと言を、九能は、ゆうべの朱沼茂と、まったく同じ重さで、口にした。
「警部さん」
「ええ」
「多胡美咲さんと、城岬隆さんは」
「ええ」
沙耶香は、ひと呼吸、置いてから、たずねた。
「この、数年前の事件の、関連者、だったんですか」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、机の上の、別の書類を、ゆっくり、こちらに、向けた。
その書類には、当時の事業所の、関係者の、一覧らしきものが、まとめられていた。
その一覧の中の、いくつかの名前の上に、亀井の字で、丁寧に、丸が、引かれていた。
そのうちの、ふたつの丸の中に、はっきりと、見覚えのある名前が、あった。
『多胡美咲』。
『城岬隆』。
沙耶香は、ぐっ、と、息を、呑んだ。
「ふたりとも」
九能は、低く、言った。
「当時の事業所の、関係者でした」
「ええ」
「多胡美咲さんは、当時、その事業所の、経理の、補佐をしていた人物です」
「経理の、補佐」
「ええ。寄付金の、ふだんの帳簿の管理に、いちばん近い場所に、いた人のひとりです」
その「経理の補佐」という肩書きを聞いて、沙耶香は、ふと、サービスエリアでの、多胡美咲の姿を、思い出した。
地酒のラベルを、何かと、照合するように、深刻な顔で、読んでいた、あの姿。
ビジネス手帳を、旅行のあいだも、ずっと、開いていた、あの姿。
「経理の補佐」だった人なら、たぶん、ふだんから、数字や、名前や、記録を、何かと、照合する癖が、身体に、染み付いていたはずだった。
「城岬隆さんは」
九能は、続けた。
「当時、その事業所の、ある別の部門の、管理職の、ひとりでした」
「管理職」
「ええ。寄付金の流れを、上の方の人たちのために、丁寧に、処理していた側の、ひとりです」
「処理していた側」
「ええ」
その「処理していた側」という言葉が、いまの状況の中で、ぐっと、重く、響いた。
つまり、城岬隆は、数年前の事件の、加害の側に、より近い場所に、いた人物だった。
「警部さん」
「ええ」
「では、ふたりとも、数年前の事件の、加害の側の、関連者だった、ということですか」
九能は、しばらく、沈黙した。
それから、ゆっくり、首を、振った。
「いえ。そこは、まだ、決めつけたくない」
「と、いいますと」
「多胡美咲さんは、確かに、経理の補佐として、寄付金の帳簿の、いちばん近い場所に、いました」
「ええ」
「ただし、本部の記録によれば、彼女は、当時の事件の、いちばん最後のところで、ある『内部の協力者』として、外の支援団体の方に、いくつかの、大事な記録を、渡していた可能性が、ある」
沙耶香は、思わず、顔を、上げた。
「内部の、協力者」
「ええ」
「つまり、多胡さんは、加害の側に、いながら、最後のところで、被害の側の、外の支援団体の方に、情報を、渡していた、ということですか」
「その可能性が、ある、ということです」
九能の声は、慎重だった。
「ただし、それは、まだ、確証のない、ひとつの線です」
「ええ」
「もし、それが、本当なら」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「多胡美咲さんは、数年前の事件の、いちばん複雑な場所に、いた人物、ということになります」
「複雑な、場所」
「ええ。加害の側に、いながら、最後のところで、被害の側に、情報を、渡した人物」
その「いちばん複雑な場所にいた人物」というひと言が、いまの沙耶香の中で、ふっと、別の重さで、立ち上がった。
朱沼茂が、ゆうべ、語っていた、あの内部告発。
その内部告発が、つぶされる、いちばん最後のところで、誰かが、外の支援団体の方に、情報を、渡していた、ということ。
もし、その「誰か」が、多胡美咲だったとしたら。
朱沼茂と、多胡美咲のあいだには、たぶん、こちらの知らない、深い、つながりがあったことになる。
「警部さん」
「ええ」
「多胡さんと、朱沼さんは」
沙耶香は、低く、たずねた。
「数年前の事件の中で、もしかして、同じ側に、いた、ということに、なりますか」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「あなたは、やはり、いちばん深いところを、まっすぐに、見る」
「ええ」
「その通りです」
九能は、低く、続けた。
「もし、多胡さんが、最後のところで、外の支援団体の方に、情報を渡した『内部の協力者』だったとしたら」
「ええ」
「朱沼さんの、内部告発と、多胡さんの、内部協力は、たぶん、同じ方向を、向いていた」
「ええ」
「ふたりは、数年前の事件の中で、同じ『被害を、表に出そうとした側』に、いた、可能性が、ある」
その言葉に、沙耶香の中の、ある図が、ぐっと、別のかたちに、組み変わった。
これまで、自分は、多胡美咲を、漠然と、数年前の事件の「加害の側」の、関連者だと、思い込みかけていた。
しかし、もし、多胡美咲が、最後のところで、被害を表に出そうとした側に、いたのだとしたら。
そして、その多胡美咲が、いま、いちばん最初に、殺されたのだとしたら。
その「殺した側」は、たぶん、数年前の事件の、本当の加害の側の、誰かなのではないか。
その図が、ぐっと、別のかたちに、組み変わった。
「警部さん」
「ええ」
「では、城岬さんは」
「城岬隆さんは」
九能は、ゆっくり、続けた。
「当時、寄付金の流れを、上の方の人たちのために、処理していた側の、管理職でした」
「ええ」
「つまり、城岬さんは、数年前の事件の、加害の側に、より近い場所に、いた人物です」
「ええ」
「ところが、その城岬さんも、いま、殺された」
「ええ」
「被害を表に出そうとした側の、多胡さんと」
「ええ」
「加害の側に、より近い場所に、いた、城岬さんが」
「ええ」
「両方、続けて、殺された」
九能の声は、低かった。
「つまり、この事件の、犯人は」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「数年前の事件の、被害の側か、加害の側か、という、単純な、ひとつの線だけでは、説明が、つかない」
「ええ」
「被害を表に出そうとした側の、多胡さんも、殺している」
「ええ」
「加害の側に近い、城岬さんも、殺している」
「ええ」
「つまり、犯人は、数年前の事件の、被害の側でも、加害の側でも、ない、もっと、別の場所に、いる」
沙耶香は、その言葉の上で、ぐっと、息を、整えた。
被害の側でも、加害の側でも、ない、もっと、別の場所。
その「別の場所」に、いる人物の顔が、いまの彼女の中で、また、薄く、しかし、はっきりと、座り始めていた。
久代幸人。
サービスエリアで、参加者の顔を、視界の端で、ひとりずつ、確かめていた、あの若い男。
「警部さん」
「ええ」
「ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「久代幸人さんは」
沙耶香は、低く、たずねた。
「数年前の事件の、関係者の、一覧の中に、いますか」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、机の上の、当時の関係者の一覧の書類を、もう一度、ゆっくり、こちらに、向けた。
その一覧の中の、いくつもの名前を、沙耶香は、ひとつずつ、目で、追った。
『多胡美咲』に、丸。
『城岬隆』に、丸。
そして、その一覧の、いちばん下の方に、ひとつだけ、ほかの名前とは、別の種類の、薄い丸が、引かれている名前が、あった。
その名前は、『久代幸人』では、なかった。
その名前は、まだ、沙耶香の知らない、別の名前だった。
しかし、その名前の脇に、亀井の字で、ごく小さく、こう、書き添えられていた。
『この人物の、当時の若い部下のひとりが、のちに、姓を変えている可能性あり。要照会』。
沙耶香は、その一行の上で、ぐっと、目を、止めた。
「警部さん」
「ええ」
「この、いちばん下の名前の、当時の若い部下、というのは」
「いまの段階では、まだ、はっきりしません」
九能は、低く、答えた。
「ただし、当時、その事業所の、いちばん上の方の人物の、若い部下のひとりが、その後、姓を変えて、別の名前で、ふだんの暮らしを、続けている可能性が、ある」
「姓を、変えて」
「ええ」
「その、姓を変えた若い部下が、いまの、このツアーの参加者の中に、いる、ということですか」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくり、こちらの目を、見返した。
「篠原さん」
「ええ」
「いまの段階で、私が、口にできるのは、ここまでです」
「ええ」
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「あなたの中に、すでに、ある顔が、薄く、浮かんでいるなら」
「ええ」
「その顔を、いまは、まだ、口に、出さないでください」
「ええ」
「口に出すのは、いちばん、あとです」
その言葉は、ゆうべ、林の現場で、亀井に、九能が、低く、言っていた言葉と、まったく、同じだった。
現場で、最初に口にした「もしかして」が、いちばん、捜査を、遠回りにさせる。
その原則を、九能は、いま、沙耶香にも、まっすぐ、ていねいに、向けていた。
沙耶香は、深く、うなずいた。
そして、自分の中の、久代幸人の顔の、薄い影を、いまは、まだ、口に、出さなかった。
「ところで」
九能は、ふと、机の上の、別の束の方に、視線を、移した。
それは、三嶋から預かった、写真を焼き出した、何十枚かの束だった。
「三嶋さんの写真を、夜のうちに、亀井と、ふたりで、ひと通り、点検しました」
「あ、はい」
三嶋が、ぱっ、と、顔を上げた。
「その中に、ひとつ、気になる、写り込みが、ありました」
九能は、その束の中から、一枚を、ゆっくり、抜き出した。
そして、机の上に、ていねいに、置いた。
その写真は、昨日の夕方、三嶋が、ロビーの囲炉裏の脇の、太い梁の方に、レンズを向けて、撮った一枚だった。
写真の中央には、囲炉裏の脇の、太い梁と、その上の、古い掛け額が、写っていた。
人の顔は、写っていなかった。
しかし、その写真の、いちばん隅の方、囲炉裏の脇の、薪を入れておく、小さな木の箱の、すこし陰になったところに、何か、細長いものが、ふた本、ぽつん、と、立てかけられているのが、ごく薄く、写り込んでいた。
「これ、ですか」
三嶋は、思わず、その写真に、顔を、近づけた。
「あ、これ、僕、ぜんぜん、気づいてなかった」
「ええ」
「囲炉裏の、薪の箱の、陰のところ」
「ええ」
九能の指が、その細長いふた本の上を、軽く、示した。
「この、細長いもの、ふた本」
「ええ」
「林の、苔のふた筋のこすれ跡の、幅と、長さに、近い」
沙耶香は、思わず、その写真に、目を、寄せた。
確かに、その細長いふた本は、ふだんの薪の中に、まぎれていても、おかしくないような、地味な、円柱状のものだった。
しかし、よく見ると、その表面は、ふだんの、白川郷の薪の、ざらりとした木肌とは、すこし、ちがった。
もっと、なめらかで、表面に、わずかに、つや、のある、別の種類の、細長い棒だった。
「これは」
九能は、低く、言った。
「ふだんの、薪では、ありません」
「ええ」
「もっと、なめらかで、つやのある、別の種類の、細長い棒、ふた本」
「ええ」
「林の、苔のふた筋のこすれ跡と、宿の、心張り棒の横の面のこすれ跡の、両方を、つけることが、できる、細長いもの」
その言葉に、亀井が、慌てて、メモ帳の上に、ひと行、書きつけた。
『三嶋さんの写真 → 囲炉裏の薪の箱の陰に、細長い棒、ふた本。要、現物確認』。
「三嶋さん」
九能は、ふと、三嶋の方を、見た。
「あ、は、はい」
「あなたの、この一枚が」
「ええ」
「たぶん、今回の捜査の、いちばん奥の井戸口の、ひとつめの、はっきりした、入口です」
その言葉に、三嶋は、ぱっ、と、頬を、赤くした。
「あ、いや、僕、ほんとに、無意識で」
「ええ。聞いています」
九能の口の端が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「あなたは、ふだんは、まったく、無自覚に、撮る」
「ええ、すみません」
「謝ることでは、ない」
九能は、低く、続けた。
「その、無自覚さこそが、あなたの、いちばんの、強みです」
「あ、それ、嬉しい部類の、やつ、ですか」
「嬉しい部類です」
「あ、よかった」
その短いやりとりの中の、ふだんの相棒の温度が、捜査拠点の小部屋の、ぴんと張った緊張の中に、ほんのわずかだけ、やわらかい呼吸を、入れた。
横で、沙耶香が、ふっと、ひとつ、笑った。
その笑みは、緊張の中の、ささやかな、ひと呼吸の合図だった。
「篠原さん」
九能は、その笑みを、ちらりと、見てから、ふだんの低い声に、戻った。
「ええ」
「この、細長い棒、ふた本」
「ええ」
「いまの段階で、囲炉裏の薪の箱の陰に、まだ、置かれているかどうかは、わかりません」
「ええ」
「ゆうべから、今朝にかけて、犯人が、もう一度、回収している、可能性も、ある」
「ええ」
「ただし、もし、まだ、置かれているなら」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「それが、今回の事件の、いちばん大事な、ひとつめの、現物の証拠に、なる」
九能は、すぐに、亀井に、低く、指示を出した。
「亀井」
「は、はい」
「いますぐ、地元の駐在のかたと、いっしょに、ロビーの囲炉裏の、薪の箱の陰を、丁寧に、確認してくれ」
「は、はい」
「ただし」
「は、はい」
「絶対に、素手で、触るな」
「は、はい」
「もし、あったら、写真と、現物の両方を、ていねいに、押さえる」
「は、はい」
亀井は、慌てて、メモ帳を抱えて、ぎこちなく、立ち上がった。
その立ち上がりの途中で、また、片方の靴ひもが、わずかに、ほどけかけていた。
それを、本人は、まだ、気づいていない。
「亀井」
九能は、ふと、低く、声をかけた。
「は、はい」
「靴ひも」
「あ、はい」
亀井は、ようやく、自分の靴ひもの、ほどけかけに、気づいた。
慌てて、しゃがみ込んで、結び直す。
その様子に、三嶋が、横で、ふっと、小さく、笑った。
「亀井さん」
「あ、はい」
「僕も、よく、それ、やります」
「あ、ほんとですか」
「ええ。ほんとです」
「なんか、ちょっと、安心しました」
「いやー、安心しちゃ、だめですよ、お互い」
「あ、そうですね」
そのふたりの、ドジ者同士の、ささやかなやりとりに、九能と、沙耶香が、ほぼ、同時に、ふっと、小さく、笑った。
緊張の中の、その小さな笑いが、捜査拠点の小部屋の空気を、ほんのわずかだけ、やわらかく、ほどいた。
そのあと、亀井は、ようやく、靴ひもを結び直して、地元の駐在のかたと、いっしょに、ロビーの方へ、向かった。
しばらくして、ロビーの方から、亀井の、すこし、上ずった声が、戻ってきた。
「警部!」
「どうした」
「あ、ありました!」
「落ち着け、亀井」
「は、はい。あの、囲炉裏の、薪の箱の、陰のところに、細長い棒、ふた本、まだ、置かれて、ました!」
その報告に、捜査拠点の小部屋の空気が、ぴんと、張った。
九能は、ゆっくりと、立ち上がった。
「篠原さん。三嶋さん」
「ええ」
「いまから、その現物を、確認に、行きます」
「ええ」
「あなたたちにも、いまの段階で、見ておいてほしい」
九能の声には、はっきりとした、信頼の温度が、混じっていた。
沙耶香と、三嶋は、深く、うなずいて、立ち上がった。
ロビーの囲炉裏の脇の、薪の箱の陰のところに、確かに、細長い棒が、ふた本、ぽつん、と、立てかけられていた。
その棒は、ふだんの、白川郷の薪とは、明らかに、ちがった。
なめらかで、つやのある、別の種類の、細長い棒。
その表面に、ごく薄く、林の、湿った土の色と、何か、別の、薬っぽい匂いの、両方が、残っていた。
九能は、その棒を、素手では、触らずに、しばらく、しゃがみ込んで、しずかに、見つめた。
「これは」
九能は、低く、つぶやいた。
「ふだんの薪では、ない」
「ええ」
沙耶香も、その棒を、しずかに、見つめた。
その棒の、なめらかな表面と、つやのある質感に、彼女は、ふと、ある種の、見覚えのような感覚を、覚えた。
それは、ふだんの、家庭の中の、ある道具の、感触に、近かった。
しかし、それが、何の道具なのかは、いまの段階では、まだ、はっきりとは、思い出せなかった。
「警部さん」
「ええ」
「この棒、何か、特定の道具の、一部のような、気がするんです」
「ほう」
「ふだんの、家庭の中の、ある道具」
「ええ」
「ただ、それが、何か、いまは、まだ、はっきりとは、思い出せなくて」
「篠原さん」
九能は、低く、言った。
「思い出せるまで、待ちましょう」
「ええ」
「あなたの中で、それが、思い出せたとき」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「たぶん、今回の事件の、いちばん奥の井戸口が、もう、ひとつ、はっきりと、開く」
その言葉を、沙耶香は、しっかりと、自分の中に、受け取った。
朝の霧は、まだ、谷の底から、ゆっくりと、立ち上がっていた。
その霧の中で、囲炉裏の薪の箱の陰の、細長い棒、ふた本が、いま、はっきりと、現物の証拠として、こちらの前に、立ち上がっていた。
その棒が、何の道具の、一部なのか。
その答えが、思い出せたとき、たぶん、犯人の顔が、もう、ひとつ、はっきりと、こちらの前に、浮かび上がる。
そう、沙耶香は、自分の中で、しずかに、確信していた。
長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥の井戸口が、もう、すぐ、そこまで、こちらに、近づいていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、もうひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、囲炉裏の脇で、ひっそりと、踏み出されていた。




