11
その日の昼を過ぎても、谷の霧は、なかなか、晴れなかった。
合掌造りの大屋根の急な角度の、いちばん上のところだけが、白い霧の上に、黒く、浮かんでいる。
その光景は、ふだんなら、旅情の特集の、いちばん幻想的な一枚に、なったはずだった。
しかし、その霧の白さは、いまの宿の中の、しんと沈んだ空気の中で、かえって、別の冷たさを、持っていた。
囲炉裏の脇の、薪の箱の陰から見つかった、細長い棒、ふた本は、麓からの鑑識のかたがたによって、丁寧に、押さえられていった。
写真と、現物の両方が、ていねいに、記録に、収められていく。
その作業を、九能弦十郎は、ひとつひとつ、しずかに、見届けていた。
沙耶香と三嶋は、その作業のあいだ、いったん、ロビーの隅の、いつものソファに、戻っていた。
ロビーの中には、まだ、参加者たちが、ばらばらに、腰を下ろしていた。
年配のご夫婦は、ふだんよりも、ずっと、寄り添うようにして、囲炉裏の火を、しずかに、見ていた。
女性の二人連れは、お互いに、ほとんど、口をきかずに、それぞれの膝の上のハンカチを、握りしめていた。
家族連れの父親は、子どもふたりを、自分の両脇に、しっかりと、抱え込むようにして、座っていた。
若い男性のひとり旅の青年は、ロビーの隅で、ひとり、自分のスマートフォンの、つながらない電波の表示を、何度も、確かめていた。
そして、その参加者たちの中で、ふたりだけ、ふだんと、ほとんど、変わらない様子の人物が、いた。
ひとりは、朱沼茂。
いちばん奥の、囲炉裏の端の席で、湯のみを、両手で包み込むようにして、しずかに、座っていた。
ふだんと変わらない、温和な、しかし、その奥に、ゆうべの聞き取りのあとの、深い覚悟を、滲ませた表情だった。
もうひとりは、久代幸人。
ロビーの入口に近い席で、相変わらず、年配のご夫婦の方に、ときどき、にこやかに、声をかけていた。
「大丈夫ですよ、警察の方も、ちゃんと、いてくださいますし」
久代の声は、明るく、よく通った。
「ええ、ええ。そうですわねえ」
年配のご夫婦の奥さまが、その声に、ほっとしたように、応じる。
その短いやりとりの中の、久代の「人を、安心させる」言葉の選び方が、いまの状況の中で、なお一段、奇妙に、自然すぎた。
ふつう、ふたりの参加者が、続けて亡くなったツアーの中で、ここまで、まわりを、明るく、安心させようとする若者は、めずらしい。
その「明るさ」そのものが、いまの沙耶香の中では、なお、警戒の対象に、入っていた。
「沙耶香さん」
三嶋が、低く、声をかけてきた。
「ん?」
「あの、久代さん」
「ええ」
「なんか、ずっと、まわりを、安心させようと、してますよね」
「ええ」
「あれ、いい人、なのかな。それとも」
三嶋は、そこで、ひと呼吸、言葉を、止めた。
「それとも?」
「いや、なんか、僕、うまく、言えないんですけど」
「うん」
「あの人、まわりを安心させてるんじゃなくて、まわりを、ある方向に、誘導してる、感じが、するんですよ」
その言葉に、沙耶香は、思わず、三嶋の方を、見返した。
ふだんは、ぼんやりとした調子の三嶋なのに、こういうときの観察は、いつも、肝心なところを、撫でてくる。
「誘導、って、たとえば」
「うーん」
三嶋は、しばらく、考え込んだ。
「たとえば、さっきから、久代さん、年配のご夫婦に、何度も、『警察の方が、いてくださるから、大丈夫』って、言ってるんですけど」
「ええ」
「その『大丈夫』のあとに、ちょいちょい、別のひと言を、足してるんですよ」
「別の、ひと言」
「ええ。『犯人は、たぶん、もう、この中には、いないでしょうから』って」
沙耶香の、背筋を、ひやりとしたものが、走った。
「『犯人は、もう、この中には、いない』」
「ええ」
「久代さん、それ、何度か、ふだんの会話に、まぎれこませて、言ってるんですよ」
「ええ」
「で、その『この中には、いない』のあとに、もうひとつ」
三嶋は、声を、さらに、低くした。
「『たぶん、外から、来た人間の、しわざでしょうね』って」
沙耶香は、ぐっと、息を、呑んだ。
それは、ただの、まわりを安心させる言葉では、なかった。
ツアーの参加者の中に、犯人は、いない。
犯人は、外から、来た人間だ。
その方向に、まわりの参加者たちの「思い込み」を、ゆっくりと、誘導しようとする言葉だった。
「三嶋くん」
「ええ」
「それ、いつから」
「えっと、たぶん、今朝、城岬さんのことが、皆に、知らされた、すぐあとから、です」
「すぐ、あと」
「ええ」
その「すぐあと」というのが、なお、引っかかった。
城岬隆の死が、密室の中での死だ、ということは、まだ、参加者たちには、詳しくは、知らされていなかった。
それなのに、久代幸人は、城岬の死が知らされた、すぐあとから、「犯人は、外から来た人間だ」という方向に、まわりを、誘導し始めていた。
まるで、城岬の死が、外部の人間のしわざに、見せかけられるべきだ、ということを、最初から、知っていたかのように。
沙耶香は、その「誘導」の動きを、自分の中の、白いノートに、すぐに、書きつけたかった。
しかし、ロビーの中で、参加者の目の前で、ノートを、開くわけには、いかなかった。
代わりに、彼女は、頭の中の、いちばんやわらかいところに、その一行を、しっかりと、刻みつけた。
『久代幸人 → 城岬の死の直後から、「犯人は外部の人間」という方向に、まわりを誘導』。
「三嶋くん」
「ええ」
「いまの話、あとで、警部さんに、ちゃんと、伝える」
「ええ」
「あなた、よく、気づいた」
「いやー、僕、ただ、ぼんやり、聞いてただけ、なんですけど」
「その、ぼんやりが、いいの」
「あ、それ、嬉しい部類の、やつ、ですか」
「嬉しい部類」
「あ、よかった」
その短いやりとりの中の、ふだんの相棒の温度が、ロビーの、しんと沈んだ空気の中に、ほんのわずかだけ、やわらかい呼吸を、入れた。
そのあと、九能が、ロビーの方に、ゆっくりと、姿を見せた。
囲炉裏の脇の、薪の箱の陰の、細長い棒の、現物の押さえが、ひと通り、終わったらしかった。
九能は、ロビーの参加者たちに、軽く、頭を下げてから、いちばん奥の、いつものソファの方へ、しずかに、近づいてきた。
「篠原さん。三嶋さん」
「警部さん」
沙耶香は、低く、応じてから、ロビーの中の、ほかの参加者たちに、聞こえないように、声を、さらに、落とした。
「いま、三嶋くんが、ひとつ、気づいたことが」
「ほう」
九能は、ソファの脇に、しずかに、腰を下ろした。
沙耶香は、三嶋から聞いた、久代幸人の「誘導」の話を、できるだけ、簡潔に、九能に、伝えた。
城岬の死の直後から、「犯人は、この中には、いない」「外から来た人間のしわざ」という方向に、まわりを、誘導していること。
その「誘導」が、城岬の死が、密室の中での死だ、ということを、まだ、参加者たちが知らないうちから、始まっていること。
九能は、その話を、しずかに、聞いていた。
聞き終わってから、しばらく、沈黙した。
それから、低く、ひと言。
「三嶋さん」
「あ、は、はい」
「あなたは、ふだんは、写真の中に、無自覚に、大事なものを、写し込む」
「ええ、すみません」
「今回は、写真ではなく、耳で、大事なものを、拾った」
「あ、耳で」
「ええ」
九能の口の端が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
「あなたは、目だけでなく、耳でも、肝心なところを、外さない人らしい」
「あ、それ、嬉しい部類の」
「嬉しい部類です」
「あ、よかった」
その短いやりとりのあと、九能は、ふだんの低い声に、戻った。
「篠原さん」
「ええ」
「久代さんの、その『誘導』は」
「ええ」
「ふたつの、可能性が、あります」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「ひとつは、久代さんが、ただ、まわりを、安心させたいだけの、善意の人で、たまたま、その言い方が、誘導のように、聞こえている、という可能性」
「ええ」
「もうひとつは」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「久代さんが、何らかの理由で、参加者たちの『思い込み』を、ある方向に、ゆっくりと、固めようとしている、という可能性」
「ええ」
「いまの段階では、まだ、どちらか、決められません」
九能の声は、慎重だった。
「ただし」
「ええ」
「もし、後者だとしたら」
九能は、低く、続けた。
「久代さんは、誰かを、『外から来た人間』として、参加者たちの中で、いちばん『犯人らしい人物』に、仕立てようとしている、可能性が、ある」
その言葉に、沙耶香の中で、ある図が、ぐっと、別のかたちに、組み変わった。
久代幸人が、もし、誰かを「犯人らしい人物」に、仕立てようとしているのだとしたら。
その「仕立てられる」相手は、誰なのか。
その問いの、いちばん近いところに、ひとり、温和な笑顔の、年配の男性の顔が、ふっと、浮かんだ。
朱沼茂。
数年前の事件の、内部告発者。
「これは、私の正義じゃない」と、何度も、自分の中で、繰り返してきた人。
その朱沼茂が、もし、久代幸人によって、「外から来た犯人」ならぬ、「ツアーの中の、いちばん怪しい人物」として、仕立てられようとしているのだとしたら。
その図が、ぐっと、別のかたちに、組み変わった。
「警部さん」
「ええ」
「久代さんは、もしかして」
沙耶香は、低く、たずねようとした。
しかし、九能は、その先を、ゆっくりと、手で、制した。
「篠原さん」
「ええ」
「いまの段階で、あなたの中に、ある顔が、浮かんでいるなら」
「ええ」
「その顔を、まだ、口に、出さないでください」
「ええ」
「口に出すのは、いちばん、あとです」
その原則を、九能は、また、まっすぐ、ていねいに、向けた。
沙耶香は、深く、うなずいた。
そして、自分の中の、朱沼茂と、久代幸人の、ふたつの顔の影を、いまは、まだ、口に、出さなかった。
その日の午後、九能の判断で、参加者たちへの、二度目の聞き取りが、行われることになった。
一度目の聞き取りは、林の中の、多胡美咲の死についての、ものだった。
二度目の聞き取りは、宿の中の、城岬隆の死についての、ものだった。
聞き取りの順番は、一度目と、ほぼ、同じだった。
最初に、年配のご夫婦。
つぎに、女性の二人連れ。
それから、家族連れの父親と、若い男性のひとり旅。
ふだんの旅行客の聞き取りは、二度目も、思った以上に、まっとうで、丁寧だった。
その「線の外側」の人たちの聞き取りも、九能は、まったく、手を抜かなかった。
その「線の外側」の人たちの、まっとうな聞き取りの中で、ある共通の、ひとつの証言が、浮かび上がってきた。
ゆうべ、夕食のあと、ロビーの囲炉裏の脇で、いちばん最後まで、起きていた人物が、ひとり、いた、ということだった。
その人物は、ほかの参加者たちが、それぞれの部屋に、戻ったあとも、ひとり、ロビーの囲炉裏の脇に、しばらく、座っていた。
その人物のことを、年配のご夫婦の奥さまが、ふと、思い出して、証言した。
「あの、夜、私、ちょっと、お手洗いに、起きたんですけどね」
奥さまの声は、低かった。
「ロビーの方に、ひとり、まだ、起きてらっしゃる方が、いてね」
「どなたか、わかりますか」
九能が、低く、たずねた。
「ええ。あの、若い、感じのいい方ですよ」
「若い、感じのいい方」
「ええ。久代さん、とおっしゃったかしら」
その証言に、聞き取りの場の空気が、ぴんと、張った。
「久代さんが、夜、ロビーの囲炉裏の脇に、ひとりで、起きていた」
「ええ。私が、お手洗いに起きたとき、まだ、座ってらしてね」
「何時ごろ、でしたか」
「ええっと、たぶん、夜の、一時か、二時くらい、だったかしら」
その「夜の一時か、二時」というのが、なお、重かった。
城岬隆の部屋の方から、ふだんと違う物音が、聞こえたのは、ちょうど、その時間帯だった。
久代幸人が、その時間に、ロビーの囲炉裏の脇に、ひとりで、起きていた。
そして、ロビーの囲炉裏の脇の、薪の箱の陰には、林の現場と、密室の現場の、両方のこすれ跡を、つけることのできる、細長い棒が、ふた本、置かれていた。
その三つの事実が、いま、ひとつの線の上に、しずかに、並び始めていた。
ただし、九能は、その線を、まだ、はっきりとは、口にしなかった。
聞き取りの中で、その奥さまの証言を、ていねいに、書き留めただけだった。
二度目の聞き取りの、いちばん最後の順番に、九能は、また、朱沼茂を、置いていた。
その「最後の順番」は、一度目のときと、同じだった。
しかし、その日の朱沼茂の聞き取りは、一度目とは、すこし、ちがう、深いものに、なった。
朱沼茂は、奥の書院造りの小部屋に、また、ゆっくりと、入ってきた。
そして、九能と、亀井と、そして、同席を許された沙耶香の前で、しずかに、腰を下ろした。
「朱沼さん」
九能は、低く、切り出した。
「はい」
「ゆうべ、お話しくださった、数年前の事件のこと」
「ええ」
「あの事件の中で」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「多胡美咲さんと、城岬隆さんのお名前を、あなたは、ご存じでしたか」
朱沼茂は、しばらく、答えなかった。
机の上の、自分の指のしわを、ゆっくり、見つめる。
それから、ゆっくり、顔を上げた。
「ええ」
朱沼の声は、低く、しかし、はっきりしていた。
「おふたりとも、当時の、私の、同じ事業所の、関係者でした」
その答えに、聞き取りの場の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。
「多胡さんは」
朱沼は、続けた。
「経理の補佐をしていた方です」
「ええ」
「そして、私が、内部告発をしたあと、いちばん最後のところで、外の支援団体の方に、いくつかの、大事な記録を、こっそり、渡してくださった方です」
沙耶香は、思わず、顔を、上げた。
九能の見立て通り、多胡美咲は、最後のところで、被害を表に出そうとした側に、いた人物だった。
そして、その事実を、朱沼茂は、最初から、知っていた。
「城岬さんは」
朱沼は、ひと呼吸、置いた。
「当時、寄付金の流れを、上の方の人たちのために、処理していた側の、管理職でした」
「ええ」
「私の、内部告発の文書を、いちばん最初に、つぶした側の、ひとりです」
その言葉の中に、ふだんの朱沼の温和さの奥の、深い種類の冷たさが、また、わずかに、滲んだ。
「朱沼さん」
九能は、低く、たずねた。
「では、あなたは、今回のツアーに、多胡さんと、城岬さんが、参加されている、ということを」
「いえ」
朱沼は、はっきり、首を、振った。
「今回のツアーに、おふたりが、参加されていることは、東京駅の集合場所で、お顔を、お見かけするまで、まったく、知りませんでした」
「集合場所で」
「ええ」
「お顔を見て、驚かれましたか」
「ええ。正直に申し上げて、ひどく、驚きました」
朱沼の声は、低かった。
「数年前の事件の、関係者のおふたりが、まさか、同じツアーの、同じ集合場所に、いる、とは」
「ええ」
「私は、その瞬間に」
朱沼は、ひと呼吸、置いた。
「『これは、ただの、偶然では、ないかもしれない』と、思いました」
その言葉に、聞き取りの場の空気が、ぴんと、張った。
「ただの、偶然では、ない、というのは」
九能が、低く、たずねた。
「ええ」
朱沼は、ゆっくり、続けた。
「誰かが、数年前の事件の、関係者を、わざと、同じツアーに、集めたのではないか、と」
「集めた」
「ええ」
「誰が、ですか」
朱沼は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくり、顔を上げた。
「それを、私は、いま、いちばん、知りたいのです」
その朱沼の言葉の中に、ふだんの温和さの奥の、もうひとつの、深い、まっすぐな目が、あった。
それは、自分が、数年前の事件の、内部告発者として、いまも、ひとり、背負い続けている、ある責任の目だった。
「警部さん」
朱沼は、低く、続けた。
「私は、たぶん、いまの状況の中で、いちばん、疑われる立場に、いる人間です」
「と、いいますと」
「私は、数年前の事件の、内部告発者です」
「ええ」
「多胡さんと、城岬さんという、当時の、被害を表に出そうとした側と、加害に近い側の、両方の関係者が、続けて、亡くなった」
「ええ」
「その状況の中で、私は、被害を表に出そうとした側の、いちばん中心にいた、人間のひとりです」
「ええ」
「もし、誰かが、数年前の事件の関係者を、ひとりずつ、消している、と考えるなら」
朱沼は、ひと呼吸、置いた。
「その『消している側』として、いちばん、疑われやすいのが、私です」
その朱沼の、まっすぐな、自己分析の言葉に、聞き取りの場の空気が、深く、沈んだ。
朱沼茂は、自分が、いちばん、疑われやすい立場にいることを、誰よりも、はっきりと、わかっていた。
そして、その上で、それでも、まっすぐに、自分の立ち位置を、語っていた。
「朱沼さん」
九能は、低く、言った。
「あなたは、なぜ、ご自分が、いちばん疑われやすい、ということを、こうやって、自分から、おっしゃるのですか」
朱沼は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくり、口を、開いた。
「私は」
朱沼の声は、低く、しかし、まっすぐだった。
「数年前の事件のとき、自分の内部告発を、つぶされました」
「ええ」
「あのとき、私は、自分が、正しいことをしている、と、信じていました」
「ええ」
「でも、結果として、私の内部告発は、何人もの、同僚を、職場から、追い出すことに、なりました」
「ええ」
「私の『正しさ』が、結果として、別の人の、ふだんの暮らしを、壊した」
朱沼の声の中に、また、あの、深い種類の自戒が、滲んだ。
「ですから、私は」
朱沼は、ひと呼吸、置いた。
「今回のことで、自分が、もし、何かを、疑われる立場にいるなら」
「ええ」
「その疑いから、逃げずに、まっすぐに、自分の立ち位置を、語ることだけは、しよう、と、決めていました」
「ええ」
「それが、数年前の、自分の『正しさ』への、せめてもの、けじめだと、思っています」
その朱沼の言葉を、沙耶香は、しっかりと、自分の中の、いちばんやわらかいところに、受け取った。
『これは、私の正義じゃない』。
夢野りりの、あの短いセリフが、また、頭の中で、立ち上がってきた。
そのひと言が、いまの朱沼茂の、まっすぐな、自己分析の言葉の上で、もう一段、深い意味で、響いた。
朱沼茂は、自分の「正義」が、かつて、別の人の暮らしを、壊したことを、誰よりも、はっきりと、わかっている人だった。
だからこそ、彼は、いま、自分の「正義」を、絶対に、人を消すための「正義」には、しない、と、心の底で、決めている人だった。
そういう人が、いま、いちばん、疑われやすい立場に、いる。
その対比が、いまの沙耶香の中で、はっきりと、立ち上がっていた。
そして、その対比のいちばん奥のところに、まだ、はっきりしない、もうひとつの影が、座っていた。
その影は、自分の「正義」を、まだ、一度も、疑ったことのない、誰か。
「これは、俺の正義だ」と、心の底で、信じ込んでいる、誰か。
その誰かの顔の、いちばん近いところに、ひとり、人当たりの良すぎる、若い男の顔が、ふっと、浮かんでいた。
久代幸人。
ただし、まだ、それは、確証のない、ひとつの影に、過ぎなかった。
朱沼茂の聞き取りが終わって、彼が、奥の障子の向こうに、しずかに消えたあと、九能は、しばらく、机の上の、自分の手の指を、見ていた。
それから、低く、ひと言、つぶやいた。
「篠原さん」
「ええ」
「朱沼さん、というかたは」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「自分の『正しさ』を、いちばん、疑える人だ」
「ええ」
「そういう人は」
九能の声は、低かった。
「人を、消すための『正義』には、絶対に、ならない」
「ええ」
「私も、そう思います」
沙耶香は、深く、うなずいた。
亀井も、その横で、メモ帳の上に、ひと行、丁寧に、書きつけていた。
『朱沼茂、自分の正しさを、いちばん疑える人。犯人の像とは、逆』。
その亀井の字の力の入れ方の中にも、いまの聞き取りの、深い種類の重みが、はっきりと、現れていた。
部屋の外で、午後のうすあかりが、すこしずつ、夕暮れの方に、傾いていた。
谷の霧は、まだ、完全には、晴れていなかった。
その霧の中で、長い長い物語の、いちばん深いところへ向かう、もうひと足が、もう、ひそかに、用意されていた。
久代幸人の「誘導」。
朱沼茂の、まっすぐな、自己分析。
そして、囲炉裏の薪の箱の陰の、細長い棒、ふた本。
そのすべてが、いま、ひとつの、深い闇の方へ、しずかに、収束し始めていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、もうひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の奥の、しずかな書院造りの小部屋で、ひっそりと、踏み出されていた。
長い長い物語の、本当の闇の、いちばん深いところが、もう、すぐ、そこまで、こちらに、近づいていた。




