12
その日の夕方、谷の霧は、ようやく、ゆっくりと、晴れ始めた。
合掌造りの大屋根の急な角度の、いちばん下のところまで、夕暮れの淡い光が、すこしずつ、戻ってきた。
宿の窓から、その光景を見ながら、沙耶香は、ふと、自分の頭の中で、ずっと、ひっかかり続けていた、ひとつの感覚を、もう一度、たぐり寄せようとしていた。
囲炉裏の薪の箱の陰の、細長い棒、ふた本。
その、なめらかで、つやのある表面の感触。
それが、何の道具の、一部なのか。
その答えが、まだ、彼女の中で、はっきりとは、思い出せずに、いた。
夕食前の時間、沙耶香は、自分の部屋に、いったん、戻った。
部屋の窓を開けると、夕暮れの谷の空気が、ひんやりと、流れ込んできた。
その空気の中に、宿の囲炉裏の薪の匂いと、外の春の草のにおいが、混じっていた。
沙耶香は、窓辺に座って、自分の中の、白いノートを、ゆっくりと、開いた。
ノートの上には、これまでの、いくつもの、線が、引かれていた。
『多胡美咲 → 地酒のラベル → 何かを照合』。
『多胡美咲 ←/→ 城岬隆 視線、合致なし』。
『城岬隆 → 早朝予定あり、ただし内容は秘す』。
『林の苔のふた筋、宿の心張り棒の横の面のこすれ、同じ種類の細いものの可能性』。
『城岬隆と多胡美咲、同じ種類のものを口にしている。ふたりとも、数年前の事件の、関連者』。
『久代幸人 → 城岬の死の直後から、「犯人は外部の人間」という方向に、まわりを誘導』。
その一行、一行を、沙耶香は、ゆっくりと、目で、追った。
そして、いちばん最後の、まだ、書きつけていない、空白の部分に、ペン先を、止めた。
囲炉裏の薪の箱の陰の、細長い棒、ふた本。
なめらかで、つやのある表面。
林の、湿った土の色と、薬っぽい匂いの、両方。
その棒が、何の道具の、一部なのか。
沙耶香は、目を、閉じた。
ふだんの、家庭の中の、ある道具。
その感触を、彼女は、自分の中の、いちばん、ふだんの暮らしの記憶の中から、たぐり寄せようとした。
なめらかで、つやのある、細長い棒。
ふだんの暮らしの中で、こういう感触の、細長い棒を、自分は、どこで、握ったことが、あるだろう。
その問いの上で、沙耶香の中の、いくつもの、ふだんの記憶が、ゆっくりと、流れていった。
台所の、菜箸。
物干しの、竿。
掃除の、柄。
そのどれも、すこし、ちがった。
もっと、別の、ある道具。
なめらかで、つやがあって、しかも、ふだんは、ふた本、ひと組で、使われるもの。
そこまで、たぐり寄せたとき、沙耶香の中で、ふっと、ひとつの記憶が、立ち上がった。
それは、ある、ふだんの、家庭の中の、道具の感触だった。
夕食のときに、使う、ある道具。
なめらかで、つやがあって、ふた本、ひと組で、使われ、しかも、林の、湿った土の中でも、宿の、心張り棒の横の面でも、両方の跡を、つけることのできる、しっかりとした、細長い、棒。
沙耶香は、ぱっ、と、目を、開けた。
そして、思わず、ひとり言を、口にした。
「火箸」
それは、囲炉裏の、火箸だった。
囲炉裏の、炭や、薪を、扱うための、鉄、もしくは、しっかりとした金属の、ふた本、ひと組の、火箸。
なめらかで、つやのある表面。
ふた本、ひと組。
しかも、林の、湿った土の中に、刺せば、苔の上に、ふた筋の跡を、残し、宿の、心張り棒の横の面に、引っかければ、外から、棒を、引くことの、できる、しっかりとした、細長い、金属の棒。
沙耶香の、背筋に、ぞくり、としたものが、走った。
その火箸が、なぜ、囲炉裏の、ふだんの場所では、なく、薪の箱の、陰のところに、わざわざ、立てかけられていたのか。
その答えが、いま、いっきに、彼女の中で、立ち上がった。
犯人は、その火箸を、ふた本、使った。
林の中で、多胡美咲の、何かを、その火箸で、扱い、宿の中で、城岬隆の、密室の、心張り棒を、その火箸で、外から、引いて、つっかえさせた。
そして、その火箸を、ふだんの囲炉裏の場所ではなく、薪の箱の陰に、わざと、立てかけて、ふだんの宿の道具の中に、まぎれこませた。
ふだんの宿の囲炉裏の火箸なら、誰が、いつ、握っても、おかしくない。
つまり、その火箸には、犯人だけでなく、宿の女将や、中居や、ほかの参加者の、いくつもの指の跡が、まぎれこむ。
火箸を、ふだんの宿の道具に、まぎれこませることで、犯人は、その道具を、自分だけの「凶器」ではなく、誰の指の跡もつきうる「ふだんの宿の道具」に、変えてしまう。
それは、ひとつの、巧妙な、隠し方だった。
沙耶香は、その気づきを、すぐに、白いノートに、書きつけた。
『細長い棒、ふた本 → 囲炉裏の火箸。ふだんの宿の道具に、まぎれこませて、隠した』。
そして、その下に、もう一行。
『犯人は、宿の囲炉裏の火箸を、使った。つまり、犯人は、宿の中の、ふだんの道具を、自然に使える立場の人間』。
その二行を、書きつけてから、沙耶香は、しばらく、ノートの上の、自分の字を、目で、追った。
宿の中の、ふだんの道具を、自然に使える立場の人間。
それは、宿の女将や、中居かもしれない。
あるいは、ふだんから、囲炉裏の脇に、長く座っている、参加者の誰かかもしれない。
その「囲炉裏の脇に、長く座っていた参加者」の顔が、いまの沙耶香の中で、また、ひとつ、薄く、しかし、はっきりと、座り始めていた。
久代幸人。
ゆうべ、夜の一時か、二時に、ロビーの囲炉裏の脇に、ひとりで、起きていた、あの若い男。
沙耶香は、すぐに、ノートを、閉じて、立ち上がった。
この気づきを、いますぐ、九能に、伝えなければ、ならなかった。
廊下に出て、九能の捜査拠点の小部屋へ、急ぎ足で、向かう。
合掌造りの宿の廊下の板が、夕暮れのうすあかりの中で、足の運びごとに、軽く、きしんだ。
そのきしみの音の上に、いまの自分の中の、ひとつの確信が、ぴたりと、合っていた。
捜査拠点の小部屋の前で、沙耶香は、ひと呼吸、置いてから、声をかけた。
「警部さん。少し、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
九能の低い声が、障子の向こうから、戻ってきた。
沙耶香が、小部屋の中に入ると、九能と、亀井が、机の上に、また、いくつもの書類を、広げていた。
その書類の中に、押さえたばかりの、囲炉裏の薪の箱の陰の、細長い棒、ふた本の、写真も、混じっていた。
「警部さん」
沙耶香は、低く、しかし、はっきりと、切り出した。
「あの、細長い棒、ふた本」
「ええ」
「わかりました」
九能の目が、ぱっ、と、こちらに向いた。
「なんですか」
「囲炉裏の、火箸です」
沙耶香は、その言葉を、まっすぐに、九能の前に、置いた。
九能は、しばらく、その言葉の上で、止まった。
それから、ゆっくりと、机の上の、棒の写真を、もう一度、見た。
「火箸」
「ええ」
「なめらかで、つやのある、金属の、ふた本、ひと組の棒。林の、湿った土の中に刺せば、苔の上に、ふた筋の跡を残し、宿の、心張り棒の横の面に、引っかければ、外から、棒を、引いて、つっかえさせることの、できる、道具」
沙耶香は、ひと呼吸ごとに、しっかりと、言葉を、置いていった。
「そして、ふだんの宿の囲炉裏の、ふだんの道具だから、誰の指の跡も、つきうる」
九能の目が、ぐっと、深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「それだ」
九能は、低く、はっきりと、言った。
「あなたの、その気づきで、いまの段階の、いちばん大事な、ひとつの線が、はっきり、つながった」
「ええ」
「犯人は、宿の囲炉裏の火箸を、使った」
「ええ」
「そして、それを、ふだんの宿の道具に、まぎれこませることで、自分だけの凶器ではなく、誰の指の跡もつきうる道具に、変えてしまった」
「ええ」
「巧妙な、隠し方だ」
九能の声は、低かった。
亀井も、その横で、メモ帳の上に、慌てて、書きつけていた。
『細長い棒、ふた本 = 囲炉裏の火箸。ふだんの宿の道具にまぎれこませて隠した。巧妙』。
「警部さん」
「ええ」
「ということは」
沙耶香は、ひと呼吸、置いた。
「犯人は、宿の囲炉裏の脇に、長く、自然に、座っていられる立場の人間、ということに、なります」
「ええ」
「宿の女将や、中居、あるいは、ふだんから、囲炉裏の脇に、長く座っていた、参加者の、誰か」
「ええ」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「ゆうべ、夜の一時か、二時に、ロビーの囲炉裏の脇に、ひとりで、起きていた人物が、いましたね」
「ええ」
「年配のご夫婦の奥さまの、証言の中の」
「久代幸人さん」
その名前を、沙耶香は、ようやく、はっきりと、口にした。
これまで、薄い影として、自分の中に、座っていた、その顔。
その顔が、いま、ひとつの線の上で、はっきりと、立ち上がった。
九能は、その名前の上で、しばらく、沈黙した。
それから、低く、ひと言。
「篠原さん」
「ええ」
「いまの段階で、あなたが、その名前を、口にしたのは」
「ええ」
「もう、ただの、思い込みでは、ない」
九能の声は、低かった。
「囲炉裏の火箸という、はっきりした、現物の線の上で、その名前が、立ち上がった」
「ええ」
「だから、いまは、その名前を、口にして、いい」
その言葉に、沙耶香は、深く、うなずいた。
これまで、九能は、何度も、「その顔を、まだ、口に出さないでください」と、言ってきた。
それは、確証のない思い込みを、最初に口にすることで、捜査が、遠回りになることを、避けるためだった。
しかし、いま、囲炉裏の火箸という、はっきりした、現物の線の上で、久代幸人の名前が、立ち上がった。
だから、いまは、その名前を、口にして、いい。
その判断の、ていねいな、切り替え方の中に、九能の、長い長い捜査の、流儀が、はっきりと、現れていた。
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「ええ」
「久代さんが、犯人だ、と、決めつけるのは、まだ、早い」
「ええ」
「囲炉裏の脇に、長く、座っていた、というだけでは、久代さんが、火箸を、使った、という証拠には、ならない」
「ええ」
「ふだんから、囲炉裏の脇に、長く座っていた人なら、ほかにも、いるかもしれない」
「ええ」
「だから、いまは、久代さんを、いちばん、重い線の上に、置きながら、それでも、ほかの可能性も、まだ、消さずに、進める」
九能の、その慎重な進め方を、沙耶香も、深く、受け取った。
「警部さん」
「ええ」
「久代幸人さんの、当時の事業所での、立ち位置は」
沙耶香は、低く、たずねた。
「いまの段階で、わかっていることが、あれば」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、机の上の、当時の関係者の一覧の書類を、もう一度、ゆっくり、こちらに、向けた。
その一覧の、いちばん下の方の、ある名前。
そこに、亀井の字で、ごく小さく、書き添えられていた、あの一行。
『この人物の、当時の若い部下のひとりが、のちに、姓を変えている可能性あり。要照会』。
「篠原さん」
九能は、低く、言った。
「この、いちばん下の名前」
「ええ」
「当時の事業所の、いちばん上の方の、人物の、ひとりです」
「ええ」
「表に出て、罪に問われた『一部』の、いちばん中心に、いた人物です」
「ええ」
「ただし、この人物には、当時、ひとり、若い部下が、いました」
「若い、部下」
「ええ」
「その若い部下は、当時、まだ、二十代の前半で、いちばん下の立場で、いちばん上の人物の、ふだんの指示を、いちばん近くで、受けていた人物です」
沙耶香の、背筋に、ぞくり、としたものが、走った。
「その、若い部下が」
「ええ」
「姓を変えて、いまの、このツアーの参加者の中に、いる、ということですか」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくりと、こちらの目を、見返した。
「夜のうちに、本部の方に、その若い部下の、その後の、足取りを、照会していました」
「ええ」
「さきほど、その結果の、ひとつめが、届きました」
九能は、机の上の、別の書類を、ゆっくり、こちらに、向けた。
その書類には、当時の若い部下の、名前と、その後の、いくつかの、足取りが、まとめられていた。
その若い部下は、数年前の事件のあと、しばらくして、自分の姓を、変えていた。
そして、その変えたあとの、新しい姓が、書類の、いちばん下のところに、書かれていた。
その姓を、沙耶香は、ゆっくりと、目で、追った。
そして、ぐっと、息を、呑んだ。
その姓は、『久代』だった。
「久代、幸人」
沙耶香は、その名前を、低く、口にした。
「ええ」
九能は、深く、うなずいた。
「久代幸人さんは、当時の事業所の、いちばん上の方の人物の、若い部下だった人物が、姓を変えた、その人物である可能性が、極めて、高い」
その言葉に、捜査拠点の小部屋の空気が、ぴんと、張った。
久代幸人は、数年前の事件の、被害の側でも、加害の側の「上の方」でも、なかった。
その、いちばん上の方の人物の、若い部下。
いちばん下の立場で、いちばん上の人物の、ふだんの指示を、いちばん近くで、受けていた、人物。
そして、その、いちばん上の方の人物は、数年前の事件で、表に出て、罪に問われた「一部」の、いちばん中心にいた人物だった。
つまり、久代幸人は、自分の、いちばん近くにいた「上司」が、罪に問われ、表に出ていくのを、いちばん近くで、見ていた人物、ということになる。
その図が、いまの沙耶香の中で、ぐっと、別のかたちに、組み変わった。
「警部さん」
「ええ」
「久代さんは」
沙耶香は、低く、たずねた。
「自分の、いちばん近くにいた上司が、罪に問われたことを、どう、思っていたんでしょう」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくり、机の上の、書類の上の、若い部下の名前を、指で、軽く、たたいた。
「篠原さん」
「ええ」
「それを、これから、はっきりさせなければ、ならない」
「ええ」
「ただし、いまの段階で、ひとつ、言えることが、ある」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんが、もし、自分の上司が、罪に問われたことを」
「ええ」
「『自分の上司は、悪くなかった。悪かったのは、内部告発をした、あいつらだ』と、思い込んでいたとしたら」
その言葉に、沙耶香の、背筋に、もう一度、ぞくり、としたものが、走った。
久代幸人が、もし、自分の上司を、悪くなかった、と、信じ込んでいたとしたら。
そして、その上司を、罪に問わせた「内部告発をした側」を、悪い側だ、と、思い込んでいたとしたら。
その「内部告発をした側」の、いちばん中心にいたのが、朱沼茂だった。
そして、その「被害を表に出そうとした側」の、最後の協力者が、多胡美咲だった。
「警部さん」
沙耶香は、低く、言った。
「久代さんは、もしかして」
「ええ」
「数年前の事件で、自分の上司を、罪に問わせた側を、悪い側だ、と、思い込んで」
「ええ」
「その側の関係者を、ひとりずつ、消そうとしている、ということですか」
九能は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくりと、こちらの目を、見返した。
「篠原さん」
「ええ」
「それが、いまの段階で、いちばん、整合する、ひとつの線です」
「ええ」
「ただし、まだ、ひとつ、わからないことが、ある」
「と、いいますと」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんが、もし、被害を表に出そうとした側を、消そうとしているなら」
「ええ」
「なぜ、城岬隆さんを、殺したのか」
「ええ」
「城岬隆さんは、当時、寄付金の流れを、処理していた側、つまり、久代さんの上司に、近い側の、人物です」
「ええ」
「久代さんの理屈で言えば、城岬さんは、消す相手ではなく、むしろ、味方に、近い側の人物のはずだ」
その九能の指摘に、沙耶香も、ぐっと、考え込んだ。
確かに、その通りだった。
久代幸人が、もし、自分の上司を、悪くなかった、と、信じ込んでいて、その上司を、罪に問わせた側を、消そうとしているなら。
被害を表に出そうとした側の、多胡美咲を、殺すのは、その理屈に、合う。
しかし、加害の側に近い、城岬隆を、殺すのは、その理屈に、合わない。
「警部さん」
「ええ」
「では、城岬隆さんを、殺した理由は」
九能は、しばらく、沈黙した。
それから、低く、ひと言。
「篠原さん」
「ええ」
「ここから先は」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんの、本当の『正義』の、いちばん奥のところを、見なければ、わからない」
その言葉に、沙耶香の中で、また、夢野りりの、あの短いセリフが、立ち上がってきた。
『これは、私の正義じゃない』。
そのひと言が、いまの状況の中で、もう一段、別の、深い意味で、響いた。
久代幸人の、本当の「正義」とは、何なのか。
彼は、何を、自分の「正義」だと、信じ込んでいるのか。
その「正義」の、いちばん奥のところに、城岬隆を、殺した理由が、隠れている。
そう、沙耶香は、自分の中で、しずかに、確信した。
「警部さん」
「ええ」
「久代さんの、本当の正義」
「ええ」
「それを、はっきりさせるには」
沙耶香は、低く、続けた。
「久代さんが、これから、誰を、どうしようとしているか、を、見るしか、ない気がします」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「その通りです」
九能は、低く、言った。
「久代さんが、もし、自分の上司を、罪に問わせた側を、消そうとしているなら」
「ええ」
「その側の、いちばん中心にいた人物を、最後に、消そうとするはずだ」
「ええ」
「その、いちばん中心にいた人物が」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「朱沼茂さん、です」
その名前の上で、捜査拠点の小部屋の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。
朱沼茂。
数年前の事件の、内部告発者。
被害を表に出そうとした側の、いちばん中心にいた人物。
そして、久代幸人が、もし、自分の上司を、罪に問わせた側を、消そうとしているなら、最後に、消そうとするはずの、人物。
「警部さん」
沙耶香は、低く、言った。
「では、これから、いちばん、危ないのは」
「ええ」
「朱沼さん、ですね」
九能は、深く、うなずいた。
「ええ」
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんが、もし、朱沼さんを、最後に、消そうとしているなら」
「ええ」
「ただ、消すだけでは、ない、かもしれない」
「と、いいますと」
九能の目が、わずかに、深くなった。
「久代さんは、城岬の死の直後から、『犯人は、外から来た人間だ』という方向に、まわりを、誘導していた」
「ええ」
「あの誘導は、たぶん、まわりの『思い込み』を、ある方向に、固めるための、仕込みだ」
「ええ」
「もし、久代さんが、最後に、朱沼さんを、消すつもりなら」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「朱沼さんを、ただ、消すのではなく」
「ええ」
「朱沼さんを、『犯人』に、仕立てた上で、消そうとしている、かもしれない」
その言葉に、沙耶香の、背筋に、ぞくり、としたものが、走った。
久代幸人が、もし、朱沼茂を、「犯人」に、仕立てた上で、消そうとしているなら。
それは、ただの、復讐ではなかった。
数年前の事件の、内部告発者である朱沼茂を、今回の、連続殺人の「犯人」に、仕立て上げ、その「犯人」が、最後に、自分で命を絶った、というかたちに、見せかける。
そうすれば、久代幸人は、自分の手を、まったく、汚さずに、数年前の事件の、内部告発者を、「連続殺人犯」として、世の中に、葬り去ることが、できる。
それは、久代幸人にとっての、いちばん、深い「正義」の、かたちなのかもしれなかった。
自分の上司を、罪に問わせた側を、ただ、消すだけでなく、その側の、いちばん中心にいた人物を、「悪人」に、仕立て上げて、消す。
それが、久代幸人の、信じ込んでいる「正義」の、いちばん奥のところ。
その図が、いまの沙耶香の中で、ぞっとするほど、はっきりと、立ち上がった。
「警部さん」
沙耶香は、低く、しかし、はっきりと、言った。
「朱沼さんを、守らなければ」
「ええ」
九能は、深く、うなずいた。
「いまから、朱沼さんの身辺を、いちばん、厚く、守ります」
「ええ」
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんに、こちらが、朱沼さんを、守ろうとしている、ということを、気づかれては、ならない」
「ええ」
「気づかれれば、久代さんは、別の方法を、考える」
「ええ」
「だから、いまは、ふだんの宿の中の、ふだんの警戒のかたちのまま、しずかに、朱沼さんを、守る」
九能の、その慎重な進め方を、沙耶香も、深く、受け取った。
夕暮れの谷の霧は、もう、ほとんど、晴れていた。
合掌造りの大屋根の急な角度の上に、夕暮れの淡い光が、しずかに、降りていた。
その光の中で、長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、もう、はっきりと、こちらの前に、立ち上がり始めていた。
囲炉裏の、火箸。
久代幸人の、正体。
そして、朱沼茂を、「犯人」に、仕立てた上で、消そうとする、久代幸人の、深い「正義」。
そのすべてが、いま、ひとつの、深い闇の方へ、しずかに、収束し始めていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、もうひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の奥の、しずかな書院造りの小部屋で、ひっそりと、踏み出されていた。
長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、もう、すぐ、そこまで、こちらに、近づいていた。
そして、その闇のいちばん奥のところで、夢野りりの、あの短いセリフが、まだ、しずかに、こちらの、最後の鍵として、待っていた。
『これは、私の正義じゃない』。
そのひと言が、いつか、久代幸人の、信じ込んでいる「正義」と、まっすぐに、ぶつかる日が、もう、すぐ、そこまで、来ていた。




