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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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13/17

13

 その夜、宿の中の警戒は、表向きには、昨夜と、ほとんど、変わらなかった。

 九能弦十郎の、はっきりとした指示だった。

 久代幸人に、こちらが、朱沼茂を、守ろうとしている、ということを、絶対に、気づかれてはならない。

 だから、宿の中の警戒は、ふだんの宿の、ふだんの警戒のかたちのまま、しずかに、保たれていた。

 地元の駐在のかたが、ひとり、夜のあいだの見回りを、続けている。

 麓からの応援の捜査員が、ひとり、宿の通用口の方に、配置されている。

 その「ふだんの警戒」のかたちは、昨夜と、同じだった。

 しかし、その「ふだんの警戒」の中に、ひとつだけ、昨夜とは、ちがう、しずかな仕掛けが、加えられていた。

 朱沼茂の部屋の、すぐ隣の、納戸らしき小さな空間。

 その納戸の中に、九能の判断で、麓からの応援の捜査員が、ひとり、夜どおし、しずかに、控えることになっていた。

 その捜査員は、納戸の中で、息を殺して、朱沼茂の部屋の、廊下側と、窓側の、両方の気配を、しずかに、見張る。

 もし、朱沼茂の部屋に、誰かが、近づいてきたら、すぐに、動けるように。

 その仕掛けだけは、昨夜とは、ちがう、はっきりとした、守りの態勢だった。

 朱沼茂本人には、その仕掛けのことは、ごく簡潔に、九能から、伝えられていた。

「朱沼さん。念のため、今夜は、あなたのお部屋の、すぐ近くに、私どもの人間を、ひとり、控えさせます」

「ええ」

「ご不快かもしれませんが、ご了承ください」

「いえ」

 朱沼は、しずかに、答えた。

「むしろ、ありがたいです」

 その「ありがたい」のひと言の中に、朱沼茂の、いまの、しずかな覚悟が、滲んでいた。

 朱沼は、自分が、いちばん、疑われやすい立場にいることを、わかっていた。

 同時に、自分が、これから、いちばん、危ない立場に置かれるかもしれないことも、たぶん、心の底で、感じていた。

 その上で、彼は、警察の守りを、まっすぐに、受け入れていた。

 沙耶香と三嶋は、その夜、いったん、自分たちの部屋に、戻った。

 しかし、ふたりとも、ほとんど、眠る気には、なれなかった。

 沙耶香は、自分の部屋の、布団の上に、座ったまま、白いノートを、開いていた。

 三嶋は、向かいの部屋で、自分のカメラの中の、何百枚もの写真を、もう一度、液晶の小さな画面の上で、ひとつずつ、繰り直していた。

 夜の合掌造りの宿の中は、しんと、沈んでいた。

 廊下の奥の方からは、ときどき、地元の駐在のかたの、ゆっくりとした、見回りの足音が、聞こえた。

 その足音が、廊下のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の前を、何度か、ゆっくりと、行き来していた。

 夜が、すこしずつ、深まっていった。

 沙耶香が、白いノートの上の、これまでの線を、もう一度、ゆっくりと、たどっていたとき。

 向かいの部屋の方から、こつ、こつ、と、二度、壁を叩く音が、聞こえた。

 三嶋からの、合図だった。

 沙耶香は、すぐに、自分の部屋の壁を、こつ、こつ、と、二度、叩き返した。

 それから、襖を、ほんの少しだけ、開けて、向かいの三嶋の部屋の方を、見た。

 三嶋が、襖の隙間から、こちらに、しずかに、手招きしていた。

 その顔つきが、ふだんの、ぼんやりとした調子とは、ちがう、ひとつの、しっかりとした、発見の顔だった。

 沙耶香は、しずかに、廊下に出て、向かいの三嶋の部屋に、移った。

 三嶋の部屋の中で、ふたりは、できるだけ、声を、落とした。

「沙耶香さん」

「ん?」

「見つけました」

 三嶋は、自分のカメラの液晶の画面を、こちらに、向けた。

 その画面の中に、一枚の写真が、表示されていた。

 その写真は、昨日の、夕方のいちばん早い時間、ツアーが、宿に着いて、しばらくしたあとに、三嶋が、ロビーの方を、何気なく、撮った一枚だった。

 写真の中央には、ロビーの囲炉裏と、その脇のテレビが、写っていた。

 人の顔は、ほとんど、写っていなかった。

 しかし、その写真の、いちばん隅の方、ロビーの、いちばん奥の、廊下に通じる引き戸の、すこし陰になったところに、ひとり、人の影が、写り込んでいた。

 その人の影は、引き戸の陰のところで、何か、細長いものを、両手で、しずかに、持っていた。

「これ、誰だと思います?」

 三嶋は、低く、たずねた。

 沙耶香は、その写真に、顔を、近づけた。

 引き戸の陰の、人の影。

 その顔は、写真の中では、半分、陰になっていた。

 しかし、その身体つきと、肩の線と、髪のかたちは、はっきりと、見覚えのあるものだった。

 久代幸人だった。

「久代さん」

 沙耶香は、低く、口にした。

「ええ」

 三嶋は、ひと呼吸、置いた。

「で、この、久代さんが、両手で、持ってる、細長いもの」

 その細長いものを、沙耶香は、ゆっくりと、目で、追った。

 なめらかで、つやのある、金属の、ふた本、ひと組の棒。

 それは、まぎれもなく、囲炉裏の、火箸だった。

「火箸」

 沙耶香は、ぐっと、息を、呑んだ。

「ええ」

 三嶋は、低く、続けた。

「久代さんが、ツアーが宿に着いて、しばらくしたあとの、夕方のいちばん早い時間に、ロビーの、引き戸の陰のところで、囲炉裏の火箸を、両手で、しずかに、持ってる」

「ええ」

「これ、ふつうの、お客さんの、しぐさじゃ、ない、ですよね」

 その言葉に、沙耶香は、深く、うなずいた。

 ふつうの旅行客が、宿に着いて、しばらくしたあとに、わざわざ、ロビーの引き戸の陰のところで、囲炉裏の火箸を、両手で、しずかに、持つ。

 そんなしぐさを、する理由は、ない。

 ふだんなら、囲炉裏の火箸は、囲炉裏の脇の、ふだんの場所に、置かれているはずだった。

 それを、わざわざ、引き戸の陰のところで、両手で、持っている。

 それは、明らかに、その火箸を、ふだんの場所から、別の場所へ、移そうとしている、しぐさだった。

 あるいは、その火箸を、何かのために、自分の手で、確かめている、しぐさだった。

「三嶋くん」

「ええ」

「この写真、いつ撮ったか、正確に、わかる?」

「ええ。カメラの記録に、時刻が、残ってます」

 三嶋は、カメラの画面を、操作して、その写真の、撮影時刻を、表示した。

 その時刻は、ツアーが、宿に着いて、しばらくしたあとの、夕方のいちばん早い時間だった。

 つまり、まだ、多胡美咲も、城岬隆も、亡くなる、ずっと前の時間だった。

「これ、第一の事件の、ずっと前ですよね」

「ええ」

「久代さん、第一の事件の、ずっと前から、もう、火箸を、両手で、持って、確かめてた」

 その事実が、いまの沙耶香の中で、ぞっとするほど、はっきりと、立ち上がった。

 久代幸人は、第一の事件の、ずっと前から、すでに、囲炉裏の火箸を、自分の凶器の候補として、両手で、確かめていた。

 それは、今回の連続殺人が、その場の、衝動的なものではなく、最初から、丁寧に、計画されたものであることを、はっきりと、しめしていた。

「三嶋くん」

「ええ」

「これ、すぐに、警部さんに、見せる」

「ええ」

「あなた、また、決定的な一枚を、撮ってた」

「いやー、僕、ほんとに、無意識で」

「ええ。知ってる」

「あの、これ、嬉しい部類の」

「嬉しい部類」

「あ、よかった」

 その短いやりとりの中の、ふだんの相棒の温度が、夜の、ぴんと張った緊張の中に、ほんのわずかだけ、やわらかい呼吸を、入れた。

 ふたりは、しずかに、廊下に出て、九能の捜査拠点の小部屋へ、向かった。

 夜の合掌造りの宿の廊下の板が、足の運びごとに、軽く、きしんだ。

 そのきしみの音を、できるだけ、抑えながら、ふたりは、廊下を、ゆっくりと、進んだ。

 捜査拠点の小部屋の前で、沙耶香は、ひと呼吸、置いてから、低く、声をかけた。

「警部さん。少し、よろしいですか」

「ええ、どうぞ」

 九能の低い声が、障子の向こうから、戻ってきた。

 ふたりが、小部屋の中に入ると、九能と、亀井が、机の上に、また、いくつもの書類を、広げて、待っていた。

「三嶋くんが、また、一枚」

 沙耶香は、低く、切り出した。

 三嶋は、自分のカメラの液晶の画面を、九能の前に、ていねいに、向けた。

 九能は、その画面の中の、一枚の写真を、しずかに、見つめた。

 ロビーの、引き戸の陰のところで、囲炉裏の火箸を、両手で、しずかに、持っている、久代幸人の影。

 そして、その写真の、撮影時刻。

 第一の事件の、ずっと前の、夕方のいちばん早い時間。

 九能は、しばらく、その写真の上で、止まった。

 それから、低く、ひと言。

「三嶋さん」

「あ、は、はい」

「あなたは」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「やはり、ふだんは、まったく、無自覚に、撮る」

「ええ、すみません」

「謝ることでは、ない」

 九能の口の端が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。

「あなたの、この一枚で」

 九能は、低く、続けた。

「久代幸人さんが、第一の事件の、ずっと前から、囲炉裏の火箸を、自分の手で、確かめていた、という事実が、はっきり、写った」

「ええ」

「これは、今回の連続殺人が、その場の衝動ではなく、最初から、丁寧に、計画されたものである、という、いちばん、はっきりした証拠の、ひとつに、なる」

 九能の声は、低かった。

 亀井も、その横で、メモ帳の上に、慌てて、書きつけていた。

『三嶋さんの写真 → 第一の事件の前に、久代が囲炉裏の火箸を両手で確認。計画性の証拠』。

「警部さん」

 沙耶香は、低く、言った。

「これで、久代さんが、火箸を、使った、という線が」

「ええ」

「ぐっと、重く、なりました」

「ええ」

 九能は、深く、うなずいた。

「ただし」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「これでも、まだ、久代さんが、犯人だ、と、決めつけるには、足りない」

「と、いいますと」

「この写真は、久代さんが、火箸を、両手で、持っていた、という事実を、写しているだけだ」

「ええ」

「久代さんが、その火箸で、多胡さんや、城岬さんを、どうしたか、という、直接の証拠には、まだ、なっていない」

 九能の、その慎重な進め方を、沙耶香も、深く、受け取った。

「警部さん」

「ええ」

「久代さんが、火箸を、両手で、持っていた、その『目的』は」

 沙耶香は、低く、たずねた。

「いまの段階で、どう、お考えですか」

 九能は、しばらく、答えなかった。

 それから、机の上の、写真を、もう一度、見た。

「篠原さん」

「ええ」

「久代さんが、この写真の中で、火箸を、両手で、しずかに、持っているのは」

「ええ」

「たぶん、その火箸の、長さと、重さと、しなり具合を、自分の手で、確かめていたのだと、思います」

「確かめていた」

「ええ」

「林の、湿った土の中に、刺したときに、苔の上に、どんな跡が、残るか」

「ええ」

「宿の、心張り棒の横の面に、引っかけたときに、外から、どれだけの力で、引けるか」

「ええ」

「そういうことを、自分の手で、ひとつずつ、確かめていた」

 九能の声は、低かった。

「つまり、久代さんは、第一の事件の、ずっと前から、林の現場と、宿の密室の、両方の手口を、すでに、頭の中で、組み立てていた」

 その言葉に、沙耶香の、背筋に、ぞくり、としたものが、走った。

 久代幸人は、第一の事件の、ずっと前から、林の現場と、宿の密室の、両方の手口を、すでに、頭の中で、組み立てていた。

 それは、今回の連続殺人が、最初から、ひとつの、長い、丁寧な計画として、組み立てられていたことを、はっきりと、しめしていた。

「警部さん」

 沙耶香は、低く、言った。

「久代さんは、最初から」

「ええ」

「多胡さんと、城岬さんと、それから、朱沼さんを」

 沙耶香は、ひと呼吸、置いた。

「三人とも、消すつもりで、このツアーに、参加していた、ということですか」

 九能は、しばらく、答えなかった。

 それから、ゆっくりと、こちらの目を、見返した。

「篠原さん」

「ええ」

「それが、いまの段階で、いちばん、整合する、ひとつの線です」

「ええ」

「ただし、まだ、わからないことが、ある」

「城岬さんを、殺した理由」

「ええ」

 九能は、深く、うなずいた。

「久代さんが、もし、自分の上司を、罪に問わせた側を、消そうとしているなら」

「ええ」

「被害を表に出そうとした側の、多胡さんと、朱沼さんを、消すのは、その理屈に、合う」

「ええ」

「でも、加害の側に近い、城岬さんを、消すのは、その理屈に、合わない」

 その九能の指摘に、沙耶香も、ぐっと、考え込んだ。

 城岬隆を、殺した理由。

 その理由が、わからないかぎり、久代幸人の、本当の「正義」の、いちばん奥のところは、見えてこない。

 そのとき、沙耶香の中で、ふと、ひとつの、新しい考えが、立ち上がった。

「警部さん」

「ええ」

「ひとつ、考えたんですけど」

「どうぞ」

「久代さんが、城岬さんを、殺した理由」

 沙耶香は、ひと呼吸、置いた。

「もしかして、城岬さんが、久代さんの、計画の、邪魔になったから、では、ないでしょうか」

 九能の目が、わずかに、深くなった。

「邪魔に」

「ええ」

「城岬さんは、当時、寄付金の流れを、処理していた側の、管理職でした」

「ええ」

「つまり、城岬さんは、数年前の事件の、いちばん深いところの、お金の流れを、いちばん、よく、知っていた人物の、ひとりです」

「ええ」

「そして、城岬さんは、久代さんの、当時の上司の、ふだんの動きも、いちばん、近くで、見ていた人物の、ひとりかもしれません」

 沙耶香の声は、低かった。

「もし、城岬さんが」

 沙耶香は、ひと呼吸、置いた。

「久代さんの、当時の上司が、本当は、どこまで、深く、関わっていたか、を、知っていたとしたら」

 九能の目が、ぐっと、深くなった。

「ええ」

「久代さんが、信じ込んでいる『自分の上司は、悪くなかった』という思い込みを」

「ええ」

「城岬さんは、真っ向から、崩すことの、できる人物だった、かもしれません」

 その言葉に、捜査拠点の小部屋の空気が、ぴんと、張った。

 久代幸人が、もし、「自分の上司は、悪くなかった」と、信じ込んでいたとしたら。

 そして、城岬隆が、「久代の上司こそが、いちばん深く関わっていた」という真実を、知っていたとしたら。

 久代幸人にとって、城岬隆は、自分の「正義」の、いちばんの土台を、真っ向から、崩すことのできる、危険な人物だった。

 だから、久代幸人は、城岬隆を、殺した。

 その図が、いまの沙耶香の中で、ぐっと、はっきりと、立ち上がった。

「篠原さん」

 九能は、低く、言った。

「あなたの、その考えは」

「ええ」

「いまの段階で、いちばん、深く、整合する」

 九能の声は、低かった。

「久代さんは、自分の『正義』を、守るために」

「ええ」

「自分の『正義』の土台を、崩すことのできる、城岬さんを、消した」

「ええ」

「そして、自分の『正義』の、いちばんの標的である、朱沼さんを、最後に、消そうとしている」

 その言葉の上で、夢野りりの、あの短いセリフが、また、沙耶香の頭の中で、立ち上がってきた。

『これは、私の正義じゃない』。

 そのひと言が、いまの状況の中で、もう一段、深い意味で、響いた。

 久代幸人は、自分の「正義」を、守るために、人を、消している。

 自分の「正義」の土台を、崩す人物を、消し、自分の「正義」の標的を、消そうとしている。

 それは、ひとつの、ねじれた「正義」だった。

 自分の「これは、正義だ」を、一度も、疑ったことのない、人間の「正義」。

 朱沼茂が、「これは、私の正義じゃない」と、何度も、自分の中で、繰り返してきたのとは、まったく、逆の場所にいる、人間の「正義」。

 その対比が、いまの沙耶香の中で、ぞっとするほど、はっきりと、立ち上がった。

「警部さん」

 沙耶香は、低く、しかし、はっきりと、言った。

「朱沼さんを、絶対に、守らなければ」

「ええ」

 九能は、深く、うなずいた。

「今夜、朱沼さんのお部屋の、すぐ隣の納戸に、私どもの人間を、ひとり、控えさせています」

「ええ」

「久代さんが、もし、今夜、動くなら」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「私どもは、すぐに、動けます」

 その言葉に、沙耶香は、深く、うなずいた。

 しかし、その同じ瞬間に、彼女の中で、ふと、ひとつの、嫌な予感が、立ち上がった。

 久代幸人は、第一の事件の、ずっと前から、林の現場と、宿の密室の、両方の手口を、頭の中で、組み立てていた。

 そんな、丁寧な計画を、組み立てる人間が、今夜、こんなに、はやく、動くだろうか。

 久代幸人は、たぶん、こちらが、自分を、疑い始めていることを、まだ、はっきりとは、知らない。

 しかし、こんなに、丁寧な計画を、組み立てる人間なら、たぶん、最後の標的である、朱沼茂を、消すための、最後の仕込みも、すでに、丁寧に、進めているはずだった。

 そして、その「最後の仕込み」の中には、たぶん、朱沼茂を、「犯人」に、仕立てるための、何かの「証拠」を、仕込む動きも、含まれているはずだった。

「警部さん」

 沙耶香は、低く、言った。

「久代さんは、今夜、すぐには、動かないかも、しれません」

「と、いいますと」

「久代さんは、たぶん、朱沼さんを、ただ、消すのではなく」

 沙耶香は、ひと呼吸、置いた。

「朱沼さんを、『犯人』に、仕立てた上で、消そうとしています」

「ええ」

「そのためには、朱沼さんを、消す前に、朱沼さんが、犯人だ、という『証拠』を、どこかに、仕込む、必要が、あります」

「ええ」

「その『証拠』の仕込みが、まだ、終わっていないなら」

 沙耶香は、低く、続けた。

「久代さんは、今夜は、まだ、朱沼さんを、消さないかも、しれません」

 九能の目が、わずかに、深くなった。

「篠原さん」

「ええ」

「あなたの、その読みは」

「ええ」

「鋭い」

 九能は、低く、言った。

「久代さんが、もし、朱沼さんを、『犯人』に、仕立てるための『証拠』を、まだ、仕込んでいる途中なら」

「ええ」

「私どもは、その『証拠』の仕込みの、現場を、押さえることが、できるかもしれない」

 その言葉に、捜査拠点の小部屋の空気が、ぴんと、張った。

 久代幸人が、朱沼茂を、「犯人」に、仕立てるための「証拠」を、仕込もうとしている。

 その「仕込みの現場」を、押さえることができれば、久代幸人が、犯人である、という、いちばん、はっきりした証拠に、なる。

「警部さん」

 沙耶香は、低く、言った。

「久代さんが、その『証拠』を、どこに、仕込もうとするか」

「ええ」

「それが、わかれば」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「私どもは、そこで、待つことが、できる」

「ええ」

「久代さんが、その『証拠』を、いちばん、仕込みたい場所は」

 沙耶香は、低く、続けた。

「たぶん、朱沼さんの、いちばん、近くです」

「朱沼さんの、近く」

「ええ」

「朱沼さんの、お部屋か、朱沼さんの、持ち物か、朱沼さんの、いちばん、ふだんの動線の中」

 九能の目が、ぐっと、深くなった。

「篠原さん」

「ええ」

「それだ」

 九能は、低く、はっきりと、言った。

「久代さんは、たぶん、朱沼さんのお部屋か、朱沼さんの持ち物の中に」

「ええ」

「囲炉裏の火箸か、あるいは、別の『犯人らしい証拠』を、こっそり、仕込もうとしている」

「ええ」

「そして、その仕込みの現場を、私どもが、押さえることができれば」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「今回の事件は、ぐっと、終わりに、近づく」

 その言葉の上で、夜の合掌造りの宿の、いちばん深いところで、長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、もう、はっきりと、こちらの前に、立ち上がり始めていた。

 囲炉裏の、火箸。

 久代幸人の、計画性。

 城岬隆を、殺した、本当の理由。

 そして、朱沼茂を、「犯人」に、仕立てるための「証拠」の、仕込み。

 そのすべてが、いま、ひとつの、深い闇の方へ、しずかに、収束し始めていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、もうひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の奥の、しずかな書院造りの小部屋で、ひっそりと、踏み出されていた。

 長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、もう、すぐ、そこまで、こちらに、近づいていた。

 そして、その闇のいちばん奥のところで、夢野りりの、あの短いセリフが、まだ、しずかに、こちらの、最後の鍵として、待っていた。

『これは、私の正義じゃない』。

 そのひと言が、いつか、久代幸人の、ねじれた「正義」と、まっすぐに、ぶつかる日が、もう、すぐ、そこまで、来ていた。



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