14
その夜、宿の中の灯りは、ふだんよりも、ひと回り、早く、落とされた。
参加者たちは、それぞれの部屋で、それぞれの種類の、眠れない夜を、過ごしていた。
宿の中の、ぴんと張った緊張は、表向きには、まったく、見えなかった。
ただ、廊下の奥の、朱沼茂の部屋の、すぐ隣の納戸の中で、ひとり、麓からの応援の捜査員が、息を殺して、しずかに、控えていた。
その捜査員の名は、宮下、といった。
まだ、三十代の半ばの、寡黙な、しかし、目つきの鋭い男だった。
宮下は、納戸の中の、わずかな隙間から、朱沼茂の部屋の、廊下側の引き戸と、窓側の障子の、両方の気配を、しずかに、見張っていた。
その納戸は、合掌造りの宿の、古い造りの中で、ちょうど、朱沼茂の部屋と、廊下のあいだに、はさまれた、小さな空間だった。
納戸の中からは、廊下を歩く足音も、朱沼茂の部屋の中の、わずかな寝返りの音も、両方が、薄く、聞こえた。
九能弦十郎は、その夜、自分の捜査拠点の小部屋で、亀井時生と、ふたり、しずかに、起きていた。
机の上には、宿の見取り図が、広げられていた。
その見取り図の上に、朱沼茂の部屋と、納戸と、廊下の動線と、久代幸人の部屋の位置が、丁寧に、書き込まれていた。
久代幸人の部屋は、朱沼茂の部屋とは、ちょうど、宿の反対側の、廊下のいちばん手前の方に、あった。
つまり、久代幸人が、もし、夜中に、朱沼茂の部屋に、近づこうとすれば、宿の中の、長い廊下を、ひと通り、歩いて、いかなければ、ならなかった。
その長い廊下のあいだには、地元の駐在のかたの、見回りの足音が、ときどき、響いていた。
「亀井」
九能は、低く、声をかけた。
「は、はい」
「今夜、久代さんが、動くと、思うか」
亀井は、しばらく、考え込んだ。
それから、低く、答えた。
「えっと、僕は、たぶん、今夜は、動かない、と、思います」
「ほう。なぜ」
「あの、篠原さんが、おっしゃってたみたいに」
亀井は、自分のメモ帳を、軽く、見返した。
「久代さんは、朱沼さんを、ただ消すんじゃなくて、犯人に、仕立てた上で、消そうとしてるんですよね」
「ああ」
「だとしたら、朱沼さんを、消す前に、朱沼さんが犯人だ、っていう証拠を、どこかに、仕込まないと、いけない」
「ああ」
「その証拠の仕込みが、まだ、終わってないなら、今夜は、まだ、朱沼さんを、消さない、はずです」
九能は、亀井の、その答えの上で、ふっと、目を細めた。
「亀井」
「は、はい」
「お前さん、いい読みを、するように、なってきたな」
「あ、それ、嬉しい部類の」
「嬉しい部類だ」
「あ、よかった」
亀井は、ぱっ、と、頬を、赤くした。
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんが、今夜、朱沼さんを、消さない、というのと」
「ええ」
「久代さんが、今夜、何も、しない、というのは、別の話だ」
「あ」
「久代さんが、もし、朱沼さんを、犯人に、仕立てるための、証拠を、まだ、仕込んでいる途中なら」
九能は、低く、続けた。
「今夜、その証拠を、仕込むために、動く、可能性が、ある」
亀井は、はっ、として、メモ帳の上に、慌てて、書きつけた。
『今夜、久代が動くとすれば、朱沼を消すためではなく、偽証拠を仕込むため』。
「亀井」
「は、はい」
「久代さんが、もし、朱沼さんの部屋か、朱沼さんの持ち物の中に、偽の証拠を、仕込もうとして、動いたら」
「ええ」
「私どもは、その瞬間を、押さえる」
「ええ」
「ただし」
九能は、ひと呼吸、置いた。
「久代さんが、その証拠を、仕込み終える、寸前まで、待つ」
「えっ、寸前まで、ですか」
「ああ」
「なぜ、ですか」
「もし、久代さんが、証拠を、仕込もうとした、その途中で、止めれば」
九能は、低く、続けた。
「久代さんは、『ただ、廊下を、歩いていただけだ』『たまたま、朱沼さんの部屋の前に、いただけだ』と、言い逃れることが、できる」
「あ」
「だから、久代さんが、その証拠を、朱沼さんの持ち物の中に、はっきりと、仕込む、その瞬間まで、待つ」
「ええ」
「その瞬間を、押さえれば、久代さんは、言い逃れが、できない」
九能の、その慎重な進め方を、亀井は、メモ帳の上に、丁寧に、書きつけた。
『証拠を仕込む寸前ではなく、仕込む瞬間を、押さえる。言い逃れを、させない』。
その夜、宿の中の時間は、ゆっくりと、いちばん深いところへ、向かっていった。
廊下の奥の、納戸の中で、宮下は、息を殺して、しずかに、見張り続けていた。
朱沼茂の部屋の中からは、ときどき、ごく、わずかな、寝返りの音が、聞こえた。
朱沼茂もまた、たぶん、ほとんど、眠れていなかった。
夜の、一時を、すこし、過ぎたころ。
宿の中の、いちばん深い、しずけさの中で、ふっと、ひとつ、別の音が、混じった。
それは、廊下を、ごく、しずかに、歩く、足音だった。
足袋ではなく、靴下越しに、しっかりと、板を、踏む音。
歩幅は、男性のもの。
そして、その足の運び方が、廊下のいちばん手前の方から、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の方へ、ゆっくりと、しかし、迷いなく、向かっていた。
その足音を、納戸の中の宮下が、いちばん最初に、聞き取った。
宮下は、すぐに、納戸の中の、小さな内線の受話器を、しずかに、取った。
そして、ごく、低い声で、九能の捜査拠点の小部屋に、つないだ。
「宮下です。廊下を、ひとり、奥へ、向かっています」
九能の捜査拠点の小部屋で、九能は、その内線を、ひと言で、受けた。
「足音は」
「男性。靴下越し。迷いなく、朱沼さんの部屋の方へ」
「わかった。動くな。仕込む瞬間まで、待て」
「了解」
九能は、内線を、置いてから、すぐに、亀井に、低く、ひと言。
「亀井」
「は、はい」
「来た」
「は、はい」
「動くぞ。ただし、私の合図まで、絶対に、出るな」
「は、はい」
九能と、亀井は、しずかに、立ち上がった。
そして、捜査拠点の小部屋を出て、廊下の、いちばん手前の方の、ひと角の陰に、しずかに、身を寄せた。
その廊下の角からは、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の方の、廊下が、ちょうど、薄暗く、見通せた。
その薄暗い廊下の奥を、ひとつの、人の影が、ゆっくりと、しかし、迷いなく、歩いていた。
その人の影は、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の、すこし手前のところで、ふと、足を、止めた。
それから、廊下の壁際に、しずかに、身を寄せて、何かを、自分の手の中で、確かめていた。
九能は、その影を、廊下の角の陰から、しずかに、見ていた。
影が、確かめているのは、何か、細長い、布のような、包みだった。
その包みの中に、たぶん、囲炉裏の火箸か、あるいは、別の「犯人らしい証拠」が、入っていた。
影は、その包みを、自分の手の中で、ひと呼吸、確かめてから、朱沼茂の部屋の、引き戸の方へ、ゆっくりと、近づいていった。
そのとき、沙耶香と、三嶋も、自分たちの部屋の、襖の隙間から、その廊下の奥の様子を、しずかに、見ていた。
九能から、夜のあいだ、何かあれば、すぐに、知らせるように、と言われていた。
そして、もし、廊下で、何かが、動き始めたら、絶対に、自分たちから、廊下に、出ないように、とも、言われていた。
ふたりは、その言いつけを、守って、襖の隙間から、ただ、しずかに、見ていた。
廊下の奥の影が、朱沼茂の部屋の、引き戸の前に、立った。
そして、その引き戸を、ごく、しずかに、ほんの少しだけ、開けた。
朱沼茂の部屋の中は、暗かった。
影は、その暗い部屋の中に、しずかに、自分の手を、伸ばした。
その手の中の、細長い包みを、朱沼茂の部屋の中の、何かの場所に、そっと、置こうとしている。
たぶん、朱沼茂の、かばんの中か、あるいは、布団の脇の、何かの場所。
その瞬間を、九能は、廊下の角の陰から、しずかに、見ていた。
そして、影の手が、その包みを、朱沼茂の部屋の中に、はっきりと、置いた、その瞬間。
九能は、低く、しかし、はっきりと、ひと言。
「いまだ」
その合図とともに、廊下の、いくつもの場所から、しずかに、しかし、すばやく、人影が、動いた。
納戸の中から、宮下が。
廊下の角の陰から、九能と、亀井が。
そして、宿の通用口の方から、もうひとりの応援の捜査員が。
廊下の奥の影は、その動きに、ぱっ、と、振り返った。
しかし、もう、遅かった。
廊下の、いくつもの場所から、すばやく、近づいてきた捜査員たちに、その影は、たちまち、囲まれていた。
廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、その影の顔が、はっきりと、見えた。
久代幸人だった。
その手には、まだ、細長い包みが、握られていた。
そして、その包みの片方の端が、朱沼茂の部屋の中に、はっきりと、置かれかけたまま、止まっていた。
「久代幸人さん」
九能は、低く、しかし、はっきりと、言った。
「あなたが、いま、朱沼さんのお部屋の中に、置こうとしているもの」
九能の声は、しずかだった。
「それを、見せていただけますか」
久代幸人は、しばらく、答えなかった。
その顔には、これまでの、人当たりの良い、明るい笑顔は、もう、なかった。
ただ、ひと呼吸だけ、こちらを、まっすぐに、見返した、その目の中に、はっきりとした、ある冷たさが、座っていた。
それは、自分の「正義」を、一度も、疑ったことのない、人間の、冷たさだった。
「警部さん」
久代幸人は、ようやく、低く、口を、開いた。
その声は、ふだんの、明るい声とは、まったく、別の声だった。
「これは」
久代は、ひと呼吸、置いた。
「俺の、正義です」
その、たったひと言を、久代幸人は、まっすぐに、廊下の闇の中に、放った。
廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、その「俺の、正義です」のひと言が、ぴんと、張った。
その瞬間。
自分たちの部屋の、襖の隙間から、その光景を、しずかに、見ていた、沙耶香の中で。
夢野りりの、あの短いセリフが、ぱっ、と、はっきりと、立ち上がった。
『これは、私の正義じゃない』。
久代幸人の「これは、俺の、正義です」と。
夢野りりの「これは、私の正義じゃない」が。
いま、はっきりと、まっすぐに、ぶつかった。
沙耶香の、胸の奥で、何か、熱いものが、ぐっと、こみ上げてきた。
しかし、彼女は、その瞬間、まだ、廊下には、出なかった。
九能から、絶対に、自分たちから、廊下に、出ないように、と、言われていた。
その言いつけを、彼女は、ぎゅっと、唇を、噛んで、守った。
廊下の奥で、捜査員たちが、久代幸人を、しずかに、しかし、しっかりと、取り押さえた。
久代幸人は、抵抗しなかった。
ただ、その手の中の、細長い包みを、捜査員のひとりが、ていねいに、取り上げた。
その包みの中から、出てきたのは、囲炉裏の火箸では、なかった。
それは、多胡美咲の、あの、ビジネス手帳の、一部だった。
多胡美咲が、サービスエリアで、ずっと、開いていた、あの手帳。
その手帳の、いくつかのページが、ていねいに、破り取られて、その包みの中に、入っていた。
そして、その破り取られたページの上に、何か、朱沼茂の筆跡に、似せて、書かれた、いくつかの文字が、あった。
それは、まるで、朱沼茂が、多胡美咲を、恨んでいた、という「証拠」のように、見せかけられた、偽の書き込みだった。
九能は、その包みの中身を、しずかに、確かめた。
そして、低く、ひと言。
「久代幸人さん」
「ええ」
「あなたは、多胡美咲さんの手帳の、一部を、朱沼さんの筆跡に、似せて、書き換えた上で」
九能の声は、低かった。
「それを、朱沼さんのお部屋の中に、仕込もうと、していましたね」
久代幸人は、しばらく、答えなかった。
それから、低く、ひと言。
「ええ」
「なぜ」
九能は、低く、たずねた。
久代幸人は、しばらく、答えなかった。
それから、ゆっくりと、顔を、上げた。
その目の中に、まだ、あの、冷たい「正義」が、座っていた。
「朱沼が」
久代幸人は、低く、言った。
「数年前、俺の、いちばん、大事な人を、壊したからです」
その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。
久代幸人の「いちばん、大事な人」。
それが、誰なのか。
そして、その人を、朱沼茂が、どう「壊した」と、久代幸人が、信じ込んでいるのか。
その答えの、いちばん奥のところに、まだ、はっきりしない、ひとつの、深い闇が、座っていた。
その闇の、いちばん奥のところで、夢野りりの、あの短いセリフが、まだ、しずかに、こちらの、最後の鍵として、待っていた。
『これは、私の正義じゃない』。
久代幸人の、ねじれた「正義」の、いちばん奥のところと。
夢野りりの、あの短いセリフが。
これから、まっすぐに、ぶつかる日が、もう、すぐ、そこまで、来ていた。
廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、久代幸人は、捜査員たちに、しずかに、取り押さえられたまま、まだ、その冷たい「正義」の目を、こちらに、向けていた。
そして、その久代幸人の、すぐ近くの、朱沼茂の部屋の引き戸が、ゆっくりと、内側から、開いた。
その引き戸の向こうに、朱沼茂が、しずかに、立っていた。
朱沼茂は、廊下の奥の、久代幸人の姿を、しずかに、見つめた。
その目の中に、怒りも、恐れも、なかった。
ただ、深い、深い、悲しみだけが、しずかに、座っていた。
「久代さん」
朱沼茂は、低く、ひと言。
「あなたの、いちばん、大事な人、というのは」
朱沼は、ひと呼吸、置いた。
「もしかして」
朱沼の声は、しずかだった。
「あなたの、お母さん、ですか」
その、たったひと言の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぴんと、張った。
久代幸人の、冷たい「正義」の目が、その瞬間、ほんの一瞬だけ、ぐらり、と、揺れた。
その揺れの中に、はじめて、久代幸人の、いちばん奥の、深い、深い、闇の入口が、ちらりと、見えた。
長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、いま、ようやく、ひとつ、こちらの前に、口を、開けようとしていた。
旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、いちばん最後のひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、いちばん奥の廊下で、ひっそりと、踏み出されようとしていた。
そして、その闇のいちばん奥のところに、久代幸人の「いちばん、大事な人」をめぐる、まだ語られていない、ひとつの、深い真実が、しずかに、待っていた。




