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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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14/17

14

 その夜、宿の中の灯りは、ふだんよりも、ひと回り、早く、落とされた。

 参加者たちは、それぞれの部屋で、それぞれの種類の、眠れない夜を、過ごしていた。

 宿の中の、ぴんと張った緊張は、表向きには、まったく、見えなかった。

 ただ、廊下の奥の、朱沼茂の部屋の、すぐ隣の納戸の中で、ひとり、麓からの応援の捜査員が、息を殺して、しずかに、控えていた。

 その捜査員の名は、宮下、といった。

 まだ、三十代の半ばの、寡黙な、しかし、目つきの鋭い男だった。

 宮下は、納戸の中の、わずかな隙間から、朱沼茂の部屋の、廊下側の引き戸と、窓側の障子の、両方の気配を、しずかに、見張っていた。

 その納戸は、合掌造りの宿の、古い造りの中で、ちょうど、朱沼茂の部屋と、廊下のあいだに、はさまれた、小さな空間だった。

 納戸の中からは、廊下を歩く足音も、朱沼茂の部屋の中の、わずかな寝返りの音も、両方が、薄く、聞こえた。

 九能弦十郎は、その夜、自分の捜査拠点の小部屋で、亀井時生と、ふたり、しずかに、起きていた。

 机の上には、宿の見取り図が、広げられていた。

 その見取り図の上に、朱沼茂の部屋と、納戸と、廊下の動線と、久代幸人の部屋の位置が、丁寧に、書き込まれていた。

 久代幸人の部屋は、朱沼茂の部屋とは、ちょうど、宿の反対側の、廊下のいちばん手前の方に、あった。

 つまり、久代幸人が、もし、夜中に、朱沼茂の部屋に、近づこうとすれば、宿の中の、長い廊下を、ひと通り、歩いて、いかなければ、ならなかった。

 その長い廊下のあいだには、地元の駐在のかたの、見回りの足音が、ときどき、響いていた。

「亀井」

 九能は、低く、声をかけた。

「は、はい」

「今夜、久代さんが、動くと、思うか」

 亀井は、しばらく、考え込んだ。

 それから、低く、答えた。

「えっと、僕は、たぶん、今夜は、動かない、と、思います」

「ほう。なぜ」

「あの、篠原さんが、おっしゃってたみたいに」

 亀井は、自分のメモ帳を、軽く、見返した。

「久代さんは、朱沼さんを、ただ消すんじゃなくて、犯人に、仕立てた上で、消そうとしてるんですよね」

「ああ」

「だとしたら、朱沼さんを、消す前に、朱沼さんが犯人だ、っていう証拠を、どこかに、仕込まないと、いけない」

「ああ」

「その証拠の仕込みが、まだ、終わってないなら、今夜は、まだ、朱沼さんを、消さない、はずです」

 九能は、亀井の、その答えの上で、ふっと、目を細めた。

「亀井」

「は、はい」

「お前さん、いい読みを、するように、なってきたな」

「あ、それ、嬉しい部類の」

「嬉しい部類だ」

「あ、よかった」

 亀井は、ぱっ、と、頬を、赤くした。

「ただし」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「久代さんが、今夜、朱沼さんを、消さない、というのと」

「ええ」

「久代さんが、今夜、何も、しない、というのは、別の話だ」

「あ」

「久代さんが、もし、朱沼さんを、犯人に、仕立てるための、証拠を、まだ、仕込んでいる途中なら」

 九能は、低く、続けた。

「今夜、その証拠を、仕込むために、動く、可能性が、ある」

 亀井は、はっ、として、メモ帳の上に、慌てて、書きつけた。

『今夜、久代が動くとすれば、朱沼を消すためではなく、偽証拠を仕込むため』。

「亀井」

「は、はい」

「久代さんが、もし、朱沼さんの部屋か、朱沼さんの持ち物の中に、偽の証拠を、仕込もうとして、動いたら」

「ええ」

「私どもは、その瞬間を、押さえる」

「ええ」

「ただし」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「久代さんが、その証拠を、仕込み終える、寸前まで、待つ」

「えっ、寸前まで、ですか」

「ああ」

「なぜ、ですか」

「もし、久代さんが、証拠を、仕込もうとした、その途中で、止めれば」

 九能は、低く、続けた。

「久代さんは、『ただ、廊下を、歩いていただけだ』『たまたま、朱沼さんの部屋の前に、いただけだ』と、言い逃れることが、できる」

「あ」

「だから、久代さんが、その証拠を、朱沼さんの持ち物の中に、はっきりと、仕込む、その瞬間まで、待つ」

「ええ」

「その瞬間を、押さえれば、久代さんは、言い逃れが、できない」

 九能の、その慎重な進め方を、亀井は、メモ帳の上に、丁寧に、書きつけた。

『証拠を仕込む寸前ではなく、仕込む瞬間を、押さえる。言い逃れを、させない』。

 その夜、宿の中の時間は、ゆっくりと、いちばん深いところへ、向かっていった。

 廊下の奥の、納戸の中で、宮下は、息を殺して、しずかに、見張り続けていた。

 朱沼茂の部屋の中からは、ときどき、ごく、わずかな、寝返りの音が、聞こえた。

 朱沼茂もまた、たぶん、ほとんど、眠れていなかった。

 夜の、一時を、すこし、過ぎたころ。

 宿の中の、いちばん深い、しずけさの中で、ふっと、ひとつ、別の音が、混じった。

 それは、廊下を、ごく、しずかに、歩く、足音だった。

 足袋ではなく、靴下越しに、しっかりと、板を、踏む音。

 歩幅は、男性のもの。

 そして、その足の運び方が、廊下のいちばん手前の方から、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の方へ、ゆっくりと、しかし、迷いなく、向かっていた。

 その足音を、納戸の中の宮下が、いちばん最初に、聞き取った。

 宮下は、すぐに、納戸の中の、小さな内線の受話器を、しずかに、取った。

 そして、ごく、低い声で、九能の捜査拠点の小部屋に、つないだ。

「宮下です。廊下を、ひとり、奥へ、向かっています」

 九能の捜査拠点の小部屋で、九能は、その内線を、ひと言で、受けた。

「足音は」

「男性。靴下越し。迷いなく、朱沼さんの部屋の方へ」

「わかった。動くな。仕込む瞬間まで、待て」

「了解」

 九能は、内線を、置いてから、すぐに、亀井に、低く、ひと言。

「亀井」

「は、はい」

「来た」

「は、はい」

「動くぞ。ただし、私の合図まで、絶対に、出るな」

「は、はい」

 九能と、亀井は、しずかに、立ち上がった。

 そして、捜査拠点の小部屋を出て、廊下の、いちばん手前の方の、ひと角の陰に、しずかに、身を寄せた。

 その廊下の角からは、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の方の、廊下が、ちょうど、薄暗く、見通せた。

 その薄暗い廊下の奥を、ひとつの、人の影が、ゆっくりと、しかし、迷いなく、歩いていた。

 その人の影は、宿のいちばん奥の、朱沼茂の部屋の、すこし手前のところで、ふと、足を、止めた。

 それから、廊下の壁際に、しずかに、身を寄せて、何かを、自分の手の中で、確かめていた。

 九能は、その影を、廊下の角の陰から、しずかに、見ていた。

 影が、確かめているのは、何か、細長い、布のような、包みだった。

 その包みの中に、たぶん、囲炉裏の火箸か、あるいは、別の「犯人らしい証拠」が、入っていた。

 影は、その包みを、自分の手の中で、ひと呼吸、確かめてから、朱沼茂の部屋の、引き戸の方へ、ゆっくりと、近づいていった。

 そのとき、沙耶香と、三嶋も、自分たちの部屋の、襖の隙間から、その廊下の奥の様子を、しずかに、見ていた。

 九能から、夜のあいだ、何かあれば、すぐに、知らせるように、と言われていた。

 そして、もし、廊下で、何かが、動き始めたら、絶対に、自分たちから、廊下に、出ないように、とも、言われていた。

 ふたりは、その言いつけを、守って、襖の隙間から、ただ、しずかに、見ていた。

 廊下の奥の影が、朱沼茂の部屋の、引き戸の前に、立った。

 そして、その引き戸を、ごく、しずかに、ほんの少しだけ、開けた。

 朱沼茂の部屋の中は、暗かった。

 影は、その暗い部屋の中に、しずかに、自分の手を、伸ばした。

 その手の中の、細長い包みを、朱沼茂の部屋の中の、何かの場所に、そっと、置こうとしている。

 たぶん、朱沼茂の、かばんの中か、あるいは、布団の脇の、何かの場所。

 その瞬間を、九能は、廊下の角の陰から、しずかに、見ていた。

 そして、影の手が、その包みを、朱沼茂の部屋の中に、はっきりと、置いた、その瞬間。

 九能は、低く、しかし、はっきりと、ひと言。

「いまだ」

 その合図とともに、廊下の、いくつもの場所から、しずかに、しかし、すばやく、人影が、動いた。

 納戸の中から、宮下が。

 廊下の角の陰から、九能と、亀井が。

 そして、宿の通用口の方から、もうひとりの応援の捜査員が。

 廊下の奥の影は、その動きに、ぱっ、と、振り返った。

 しかし、もう、遅かった。

 廊下の、いくつもの場所から、すばやく、近づいてきた捜査員たちに、その影は、たちまち、囲まれていた。

 廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、その影の顔が、はっきりと、見えた。

 久代幸人だった。

 その手には、まだ、細長い包みが、握られていた。

 そして、その包みの片方の端が、朱沼茂の部屋の中に、はっきりと、置かれかけたまま、止まっていた。

「久代幸人さん」

 九能は、低く、しかし、はっきりと、言った。

「あなたが、いま、朱沼さんのお部屋の中に、置こうとしているもの」

 九能の声は、しずかだった。

「それを、見せていただけますか」

 久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 その顔には、これまでの、人当たりの良い、明るい笑顔は、もう、なかった。

 ただ、ひと呼吸だけ、こちらを、まっすぐに、見返した、その目の中に、はっきりとした、ある冷たさが、座っていた。

 それは、自分の「正義」を、一度も、疑ったことのない、人間の、冷たさだった。

「警部さん」

 久代幸人は、ようやく、低く、口を、開いた。

 その声は、ふだんの、明るい声とは、まったく、別の声だった。

「これは」

 久代は、ひと呼吸、置いた。

「俺の、正義です」

 その、たったひと言を、久代幸人は、まっすぐに、廊下の闇の中に、放った。

 廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、その「俺の、正義です」のひと言が、ぴんと、張った。

 その瞬間。

 自分たちの部屋の、襖の隙間から、その光景を、しずかに、見ていた、沙耶香の中で。

 夢野りりの、あの短いセリフが、ぱっ、と、はっきりと、立ち上がった。

『これは、私の正義じゃない』。

 久代幸人の「これは、俺の、正義です」と。

 夢野りりの「これは、私の正義じゃない」が。

 いま、はっきりと、まっすぐに、ぶつかった。

 沙耶香の、胸の奥で、何か、熱いものが、ぐっと、こみ上げてきた。

 しかし、彼女は、その瞬間、まだ、廊下には、出なかった。

 九能から、絶対に、自分たちから、廊下に、出ないように、と、言われていた。

 その言いつけを、彼女は、ぎゅっと、唇を、噛んで、守った。

 廊下の奥で、捜査員たちが、久代幸人を、しずかに、しかし、しっかりと、取り押さえた。

 久代幸人は、抵抗しなかった。

 ただ、その手の中の、細長い包みを、捜査員のひとりが、ていねいに、取り上げた。

 その包みの中から、出てきたのは、囲炉裏の火箸では、なかった。

 それは、多胡美咲の、あの、ビジネス手帳の、一部だった。

 多胡美咲が、サービスエリアで、ずっと、開いていた、あの手帳。

 その手帳の、いくつかのページが、ていねいに、破り取られて、その包みの中に、入っていた。

 そして、その破り取られたページの上に、何か、朱沼茂の筆跡に、似せて、書かれた、いくつかの文字が、あった。

 それは、まるで、朱沼茂が、多胡美咲を、恨んでいた、という「証拠」のように、見せかけられた、偽の書き込みだった。

 九能は、その包みの中身を、しずかに、確かめた。

 そして、低く、ひと言。

「久代幸人さん」

「ええ」

「あなたは、多胡美咲さんの手帳の、一部を、朱沼さんの筆跡に、似せて、書き換えた上で」

 九能の声は、低かった。

「それを、朱沼さんのお部屋の中に、仕込もうと、していましたね」

 久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 それから、低く、ひと言。

「ええ」

「なぜ」

 九能は、低く、たずねた。

 久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 それから、ゆっくりと、顔を、上げた。

 その目の中に、まだ、あの、冷たい「正義」が、座っていた。

「朱沼が」

 久代幸人は、低く、言った。

「数年前、俺の、いちばん、大事な人を、壊したからです」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。

 久代幸人の「いちばん、大事な人」。

 それが、誰なのか。

 そして、その人を、朱沼茂が、どう「壊した」と、久代幸人が、信じ込んでいるのか。

 その答えの、いちばん奥のところに、まだ、はっきりしない、ひとつの、深い闇が、座っていた。

 その闇の、いちばん奥のところで、夢野りりの、あの短いセリフが、まだ、しずかに、こちらの、最後の鍵として、待っていた。

『これは、私の正義じゃない』。

 久代幸人の、ねじれた「正義」の、いちばん奥のところと。

 夢野りりの、あの短いセリフが。

 これから、まっすぐに、ぶつかる日が、もう、すぐ、そこまで、来ていた。

 廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、久代幸人は、捜査員たちに、しずかに、取り押さえられたまま、まだ、その冷たい「正義」の目を、こちらに、向けていた。

 そして、その久代幸人の、すぐ近くの、朱沼茂の部屋の引き戸が、ゆっくりと、内側から、開いた。

 その引き戸の向こうに、朱沼茂が、しずかに、立っていた。

 朱沼茂は、廊下の奥の、久代幸人の姿を、しずかに、見つめた。

 その目の中に、怒りも、恐れも、なかった。

 ただ、深い、深い、悲しみだけが、しずかに、座っていた。

「久代さん」

 朱沼茂は、低く、ひと言。

「あなたの、いちばん、大事な人、というのは」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「もしかして」

 朱沼の声は、しずかだった。

「あなたの、お母さん、ですか」

 その、たったひと言の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぴんと、張った。

 久代幸人の、冷たい「正義」の目が、その瞬間、ほんの一瞬だけ、ぐらり、と、揺れた。

 その揺れの中に、はじめて、久代幸人の、いちばん奥の、深い、深い、闇の入口が、ちらりと、見えた。

 長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、いま、ようやく、ひとつ、こちらの前に、口を、開けようとしていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、いちばん最後のひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、いちばん奥の廊下で、ひっそりと、踏み出されようとしていた。

 そして、その闇のいちばん奥のところに、久代幸人の「いちばん、大事な人」をめぐる、まだ語られていない、ひとつの、深い真実が、しずかに、待っていた。



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