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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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15

 朱沼茂の、その、たったひと言が、廊下の奥の、薄暗いあかりの中に、しずかに、降りていった。

「あなたの、お母さん、ですか」。

 その問いの上で、久代幸人の、冷たい「正義」の目が、ほんの一瞬だけ、ぐらり、と、揺れた。

 その揺れは、ごく、わずかなものだった。

 しかし、これまで、一度も、揺れたことのなかった、久代幸人の、いちばん奥のところが、その瞬間、はじめて、ほんの少しだけ、揺れた。

 捜査員たちに、しずかに、取り押さえられたまま、久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 その目だけが、まっすぐに、廊下の奥の、朱沼茂の方を、見ていた。

「久代さん」

 九能弦十郎は、低く、声をかけた。

 その声は、ふだんの、刑事の声では、なかった。

 人を、追い詰めるための声ではなく、人の、いちばん奥の、深い闇の入口に、しずかに、寄り添うための声だった。

「いまから、私どもは、あなたを、麓の警察署に、お連れすることに、なります」

「ええ」

「ただし、その前に」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「もし、あなたが、お話しになりたいことが、あるなら」

「ええ」

「私は、いま、ここで、聞きます」

 その言葉に、久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、捜査員たちの、しずかな緊張だけが、ぴんと、張っていた。

 そのとき、朱沼茂が、ゆっくりと、廊下に、出てきた。

 そして、久代幸人の、すこし、手前のところで、しずかに、立ち止まった。

 朱沼茂の目の中に、怒りも、恐れも、なかった。

 ただ、深い、深い、悲しみだけが、しずかに、座っていた。

「久代さん」

 朱沼茂は、低く、もう一度、声をかけた。

「あなたの、お母さんは」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「久代、和子さん、ですか」

 その名前の上で、久代幸人の、冷たい目が、もう一度、ぐらり、と、大きく、揺れた。

「なぜ」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「なぜ、その名前を」

「数年前のことを」

 朱沼茂は、しずかに、続けた。

「私は、いまも、ひとつずつ、忘れずに、おぼえています」

「ええ」

「あの、寄付金の搾取の事件のとき」

 朱沼の声は、低かった。

「いちばん、深く、被害を受けたご家族の、おひとりが」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「久代、和子さん、という、おばあさまでした」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。

 久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 それから、低く、絞り出すように、言った。

「ばあちゃん、です」

「ええ」

「俺の、ばあちゃんです」

 久代幸人の、冷たい「正義」の目の中に、はじめて、ほんの少しだけ、別のものが、滲んだ。

 それは、子どものころから、自分を、いちばん近くで、育ててくれた、誰かを、思い出した目だった。

「久代さん」

 朱沼茂は、低く、続けた。

「久代和子さんは」

「ええ」

「あの事業所に、ご自分の、ささやかな貯金を、新しい施設のための寄付だと、信じて、預けられた、おひとりでした」

「ええ」

「そして、その貯金の、ほとんどが」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「ご本人の同意の、ないまま、別の流れに、乗せられて、消えてしまいました」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、滲みが、ぐっと、深くなった。

「ばあちゃんは」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「あの寄付のあと」

「ええ」

「自分の、ささやかな貯金が、ぜんぶ、消えてしまったことに、気づいて」

 久代の声が、わずかに、震えた。

「自分が、騙されたことを、自分のせいだ、自分が、馬鹿だったからだ、と、ひとりで、思い込んで」

「ええ」

「だんだんと、元気を、なくしていって」

 久代は、ひと呼吸、置いた。

「あの事件の、半年後に」

 久代の声が、ぐっと、つまった。

「亡くなりました」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぴんと、張った。

 久代幸人の、いちばん奥の、深い闇の入口が、いま、はっきりと、口を、開けた。

「ばあちゃんは」

 久代幸人は、低く、続けた。

「俺を、育ててくれた、人です」

「ええ」

「俺の、親は、俺が小さいころに、いなくなって」

「ええ」

「ばあちゃんが、ひとりで、俺を、育ててくれた」

 久代の声は、低かった。

「ばあちゃんの、ささやかな貯金は」

 久代は、ひと呼吸、置いた。

「俺の、これからのために、と、ずっと、ためてくれていた、お金でした」

「ええ」

「それが、あの事業所の、寄付のために、ぜんぶ、消えた」

「ええ」

「そして、ばあちゃんは、自分を、責めながら、亡くなった」

 久代幸人の、目の中に、いま、はっきりとした、深い、深い、悲しみと、怒りが、座っていた。

 その悲しみと、怒りは、本物だった。

 ねじれてはいたが、その、いちばん奥のところには、確かに、本物の、深い、深い、悲しみが、あった。

「久代さん」

 朱沼茂は、低く、言った。

「私は」

 朱沼の声は、しずかだった。

「あのとき、あなたの、おばあさまの、ご被害のことも」

「ええ」

「外の支援団体の方を通して、おぼえて、おりました」

「ええ」

「私が、内部告発をしたのは」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「あなたの、おばあさまのような、ご家族の、被害を、これ以上、増やさないため、でした」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、悲しみと、怒りが、ぐっと、ねじれた。

「嘘だ」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「嘘だ。あんたの、内部告発は」

 久代の声が、震えた。

「結局、つぶされた」

「ええ」

「つぶされて、何の、役にも、立たなかった」

「ええ」

「ばあちゃんの、お金は、戻ってこなかった」

「ええ」

「ばあちゃんは、死んだ」

 久代幸人の、目の中の、悲しみと、怒りが、ぐっと、ねじれて、ひとつの、冷たい「正義」に、変わっていった。

「あんたの、内部告発は」

 久代は、低く、続けた。

「ただ、自分が、正しいことをした、っていう、自己満足のためだけの、ものだった」

「ええ」

「あんたは、自分の、正義のために、ばあちゃんの、被害を、利用しただけだ」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。

 久代幸人の、ねじれた「正義」の、いちばん奥のところが、いま、はっきりと、こちらの前に、立ち上がった。

 朱沼茂の、内部告発を、「自己満足のためだけの、正義」だと、信じ込み。

 その「正義」が、結局、つぶされて、何の役にも立たず、自分の祖母の被害を、ただ「利用しただけ」だと、思い込み。

 その思い込みの上に、久代幸人は、自分の「正義」を、組み立てていた。

「だから」

 久代幸人は、低く、続けた。

「俺は、あんたを」

 久代の声が、ぐっと、つまった。

「あんたの、その、偽物の正義を」

「ええ」

「俺の、本物の正義で、終わらせようと、思った」

 その言葉の上で、自分たちの部屋の、襖の隙間から、その光景を、しずかに、見ていた、沙耶香の中で。

 夢野りりの、あの短いセリフが、もう一度、ぱっ、と、はっきりと、立ち上がった。

『これは、私の正義じゃない』。

 久代幸人の「俺の、本物の正義」と。

 夢野りりの「これは、私の正義じゃない」が。

 いま、もう一度、はっきりと、まっすぐに、ぶつかった。

 沙耶香の、胸の奥で、何か、熱いものが、ぐっと、こみ上げてきた。

 しかし、彼女は、その瞬間、まだ、廊下には、出なかった。

 九能から、まだ、廊下に、出ないように、と、言われていた。

 その言いつけを、彼女は、ぎゅっと、唇を、噛んで、守った。

「久代さん」

 朱沼茂は、低く、言った。

「あなたの、おばあさまのことは」

 朱沼の声は、しずかだった。

「本当に、お気の毒だったと、思います」

「ええ」

「あのとき、私の、内部告発が、つぶされて」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「あなたの、おばあさまの、被害を、救えなかったことを」

「ええ」

「私は、いまも、自分の、いちばん、深いところで、悔やんでいます」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、冷たい「正義」が、ほんの一瞬だけ、また、ぐらり、と、揺れた。

「ただ」

 朱沼茂は、低く、続けた。

「ひとつだけ」

 朱沼の声は、しずかだった。

「あなたに、知って、いただきたいことが、あります」

「ええ」

「私の、内部告発は」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「つぶされたあと」

「ええ」

「外の支援団体の方を通して」

 朱沼の声は、低かった。

「いくつかの、ご家族の方の、被害の、一部を、取り戻すことに」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「ほんの、わずかですが、つながりました」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、冷たい「正義」が、ぐらり、と、大きく、揺れた。

「嘘だ」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「嘘だ。ばあちゃんの、お金は、戻ってこなかった」

「ええ」

「あなたの、おばあさまの、お金は」

 朱沼茂は、低く、言った。

「残念ながら、戻ってきませんでした」

「ええ」

「ただ」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「あなたの、おばあさまの、被害のことを」

「ええ」

「外の支援団体の方が、いちばん、丁寧に、記録に、残してくださいました」

「ええ」

「そして、その記録が」

 朱沼の声は、しずかだった。

「のちに、ほかの、いくつかのご家族の、被害を、取り戻すための、いちばん大事な、証拠の、ひとつに、なりました」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、冷たい「正義」が、ぐらり、と、大きく、揺れ続けた。

「あなたの、おばあさまの、被害は」

 朱沼茂は、低く、続けた。

「戻ってはこなかったけれど」

「ええ」

「ほかの、いくつかのご家族の、被害を、救うための、いちばん大事な、力に、なりました」

「ええ」

「あなたの、おばあさまは」

 朱沼は、ひと呼吸、置いた。

「自分を、責めながら、亡くなったかもしれないけれど」

 朱沼の声が、わずかに、震えた。

「結果として、ほかの、たくさんのご家族を、救う、いちばん大事な、力に、なってくださったんです」

 その言葉の上で、久代幸人の、目の中の、冷たい「正義」が、ついに、ぐしゃり、と、崩れた。

 久代幸人の、目から、ひと筋、なみだが、こぼれた。

 それは、これまで、一度も、こぼれたことのなかった、なみだだった。

 自分の「正義」を、一度も、疑ったことのなかった、人間の、いちばん奥のところから、こぼれた、なみだだった。

「ばあちゃん、が」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「ばあちゃんが」

 久代の声が、ぐっと、つまった。

「ほかの、人を、救った」

「ええ」

 朱沼茂は、しずかに、うなずいた。

「あなたの、おばあさまは」

 朱沼の声は、しずかだった。

「ちゃんと、ほかの、人を、救いました」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中で、久代幸人は、捜査員たちに、取り押さえられたまま、しばらく、声を出さずに、なみだを、流し続けた。

 その久代幸人の、いちばん奥のところに、はじめて、自分の「正義」が、本当の「正義」では、なかったかもしれない、という、ひとつの、深い、深い、ひびが、入った。

 しかし、それは、まだ、ひとつの、ひびに、過ぎなかった。

 久代幸人は、すでに、ふたりの人を、殺していた。

 そして、ひとりの人を、犯人に、仕立てようと、していた。

 そのことの、重さは、たとえ、彼の「正義」に、ひびが入ったとしても、決して、消えるものでは、なかった。

「久代さん」

 九能弦十郎は、低く、言った。

「あなたの、おばあさまのことは」

 九能の声は、しずかだった。

「本当に、お気の毒だったと、思います」

「ええ」

「ただ」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「あなたが、ふたりの人を、殺し」

「ええ」

「ひとりの人を、犯人に、仕立てようと、したことは」

 九能の声は、低かった。

「あなたの、おばあさまの、被害とは」

 九能は、ひと呼吸、置いた。

「まったく、別の話です」

 その言葉の上で、久代幸人は、しばらく、答えなかった。

 ただ、なみだを、流し続けた。

「あなたの、おばあさまは」

 九能は、低く、続けた。

「ほかの、人を、救った」

「ええ」

「でも、あなたは」

 九能の声は、しずかだった。

「ほかの、人を、ふたり、殺した」

「ええ」

「そして、もうひとりの、人を、犯人に、仕立てようと、した」

「ええ」

「それは、あなたの、おばあさまの、いちばん、望まなかったことでは、ないですか」

 その言葉の上で、久代幸人の、なみだが、ぐっと、深くなった。

 久代幸人の、いちばん奥のところに、いま、はじめて、自分のしてきたことの、本当の重さが、しずかに、降りてきた。

 しかし、それは、まだ、はじまりに、過ぎなかった。

 これから、久代幸人は、自分のしてきたことの、本当の重さと、まっすぐに、向き合っていかなければ、ならなかった。

 そして、その向き合いの、いちばん最初のところで、まだ、語られていない、ひとつの、深い真実が、しずかに、待っていた。

 それは、城岬隆を、殺した、本当の理由だった。

 城岬隆は、当時、寄付金の流れを、処理していた側の、管理職だった。

 久代幸人の理屈で言えば、城岬隆は、消す相手ではなく、むしろ、味方に、近い側の、人物のはずだった。

 それなのに、久代幸人は、城岬隆を、殺した。

 その理由が、まだ、語られていなかった。

「久代さん」

 九能弦十郎は、低く、言った。

「もうひとつ、お聞きしたい」

「ええ」

「あなたは、なぜ、城岬隆さんを、殺したのですか」

 その問いの上で、久代幸人の、なみだが、ふと、止まった。

 そして、その目の中に、また、ほんの少しだけ、別の、冷たいものが、戻ってきた。

「城岬は」

 久代幸人は、低く、絞り出すように、言った。

「ばあちゃんの、お金を」

 久代の声が、ぐっと、つまった。

「いちばん、深く、処理していた、人間だからです」

 その言葉の上で、廊下の奥の、薄暗いあかりの中の空気が、ぐっと、深く、沈んだ。

 城岬隆を、殺した、本当の理由。

 その理由の、いちばん奥のところに、まだ、語られていない、ひとつの、深い真実が、しずかに、待っていた。

 長い長い物語の、本当の闇の、いちばん奥のところが、いま、ようやく、もうひとつ、こちらの前に、口を、開けようとしていた。

 旅情ライター篠原沙耶香の、新しい事件簿の、いちばん深いほうへの、いちばん最後のひと足が、こうして、白川郷の合掌造りの宿の、いちばん奥の廊下で、ひっそりと、踏み出されようとしていた。

 そして、その闇のいちばん奥のところで、夢野りりの、あの短いセリフが、まだ、しずかに、こちらの、最後の鍵として、待っていた。

『これは、私の正義じゃない』。

 久代幸人の、ねじれた「正義」の、いちばん奥のところと。

 夢野りりの、あの短いセリフが。

 これから、いちばん最後に、まっすぐに、ぶつかる日が、もう、すぐ、そこまで、来ていた。



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