16
城岬隆を殺した本当の理由を久代幸人はまだ語り終えていなかった。
廊下の奥の薄暗いあかりの中で彼は捜査員たちに取り押さえられたまましばらく床の一点を見ていた。
「城岬は、ばあちゃんの金をいちばん深く処理していた人間です」
久代の声は低かった。
さきほどまでの冷たさとは少し違っていた。
涙のあとの乾いた声だった。
「もう少し詳しく聞かせてください」
九能弦十郎が静かに促した。
久代はひと呼吸おいてからゆっくり語り始めた。
「事件のあと俺はばあちゃんの金がどこへ消えたのか自分なりにずっと調べていました」
「ええ」
「警察の調べでも外の支援団体の調べでも表に出たのは上の人間の一部だけでした」
「ええ」
「でも俺はばあちゃんの貯金がいちばん最後にどの口座を通ってどこへ消えたのかその細かい流れだけはどうしても知りたかった」
久代の目にまたあの執着の光がわずかに戻った。
「そしてたどり着いたのが城岬隆という名前でした」
九能はその名前を静かに受け止めた。
「城岬は当時、寄付金の帳簿のいちばん細かい処理を任されていた管理職でした」
久代は続けた。
「ばあちゃんの貯金が最後に通った口座の振り替えの手続きをした人間が城岬だったんです」
「つまりあなたにとって城岬さんはおばあさまの金を自分の手で消した張本人だった」
「ええ」
久代は深くうなずいた。
「城岬は上の人間の指示で動いていただけだと言うかもしれません。でもばあちゃんの貯金を最後に自分の手で別の口座へ流したのは城岬の指でした」
その言葉に廊下の空気が重く沈んだ。
久代幸人にとって城岬隆は味方に近い側などではなかった。
祖母の金を最後に自分の手で消したもっとも許せない相手だった。
「久代さん」
九能は低く言った。
「では、あなたは最初から城岬さんも消すつもりだった」
「ええ」
「多胡さんも」
「ええ」
「そして朱沼さんも」
久代はしばらく答えなかった。
それから低く言った。
「朱沼は、消すだけじゃ足りなかった」
「足りなかった、とは」
九能の声がわずかに鋭くなった。
久代は床の一点を見たまま続けた。
「多胡と城岬はただ消せばよかった。あいつらはばあちゃんの金を奪った側の人間だから」
「ええ」
「でも朱沼は違う」
久代の声にまたあのねじれた熱が戻ってきた。
「朱沼は正義の顔をしていた。内部告発をして自分は正しいことをしたという顔をしていまものうのうと生きていた」
「ええ」
「だから朱沼だけはただ消すんじゃなくていちばん汚い犯人として世の中にさらした上で消したかった」
その言葉の上で廊下の奥の空気がぴんと張った。
久代幸人の計画の全体像がいまはっきりと立ち上がった。
多胡美咲と城岬隆を囲炉裏の火箸を使った手口で消す。
そしてその連続殺人の犯人として内部告発者である朱沼茂を仕立て上げる。
最後にその犯人が自ら命を絶ったというかたちに見せかけて朱沼を消す。
そうすれば久代は自分の手をほとんど汚さずに祖母の金を奪った側の人間を消しなおかつ正義の顔をしていた内部告発者を連続殺人犯として葬り去ることができる。
それが久代幸人の信じ込んでいた正義のいちばん奥のかたちだった。
「久代さん」
九能は静かに言った。
「あなたは多胡さんをどうやってあの林に呼び出したのですか」
久代はしばらく答えなかった。
それから低く言った。
「多胡はばあちゃんの金の流れをいちばん近くで見ていた経理の補佐でした」
「ええ」
「俺はツアーの前に多胡に一通の手紙を送りました」
「手紙」
「ええ。差出人の名前は書きませんでした。ただこう書きました。『あなたが最後に外の支援団体に渡した記録のことで話したいことがある。白川郷の宿の近くの林で夜中に待っている』と」
九能の目が深くなった。
「多胡さんはそれで夜中にひとりで林へ向かった」
「ええ」
久代の声は低かった。
「多胡は自分が最後に内部協力者として記録を渡したことをずっと誰にも言えずに抱えていました。だからその記録のことで話があると書けば必ずひとりで来ると思っていました」
その言葉に沙耶香の頭の中でサービスエリアでの多胡美咲の姿がもう一度よみがえった。
地酒のラベルを何かと照合するように深刻な顔で読んでいたあの姿。
ビジネス手帳を旅行のあいだもずっと開いていたあの姿。
多胡美咲はたぶんツアーに参加する前からその差出人不明の手紙のことをずっと頭の中で照合し続けていた。
誰が自分の過去を知っているのか。
誰が自分をこの白川郷に呼び出したのか。
その照合を彼女は旅のあいだじゅうひとりで続けていた。
「久代さん」
九能は低く言った。
「城岬さんはどうやって密室の中で」
久代はしばらく答えなかった。
それからゆっくり語り始めた。
城岬隆の密室の手口は思っていたよりも単純だった。
久代は城岬の部屋を夜中に訪ねた。
城岬は久代が自分と同じ数年前の事業所の関係者だと知っていた。
正確には城岬は久代があの上司の若い部下だったことを知っていた。
だから久代が夜中に部屋を訪ねてきても城岬は警戒しながらも引き戸を開けた。
久代は城岬の部屋に上がり込み地酒をすすめた。
その地酒の中にすでにある薬が仕込まれていた。
林の多胡美咲の口元と城岬の布団の角に残っていたあの薬っぽい匂いの正体だった。
城岬はその地酒を口にしてしばらくして意識を失った。
久代は城岬が動けなくなったのを見届けてから部屋を出た。
そして外から囲炉裏の火箸を使って引き戸の心張り棒をつっかえさせた。
火箸の先を引き戸の框のわずかな隙間から差し込み心張り棒を内側で立てて敷居の段差につっかえさせる。
その作業のときに火箸の横の面が心張り棒の横の面をこすった。
それが九能の見つけたあのひと筋のこすれ跡だった。
窓の施錠も同じ火箸を使って外からねじ式の錠を回した。
「城岬は地酒を飲んだあと自分で心張り棒をかけてひとりで死んだように見えるはずでした」
久代の声は低かった。
「実際には俺が外から火箸を使って密室を作りました」
その説明に九能は静かにうなずいた。
「篠原さんの気づいた通りだ」
九能は低く言った。
「囲炉裏の火箸が林の現場と密室の現場の両方をつなぐいちばん大事な道具だった」
その言葉に沙耶香は襖の隙間の向こうで深くうなずいた。
「久代さん」
九能は最後に低く尋ねた。
「あなたはふたりを殺しひとりを犯人に仕立てようとした。それであなたのおばあさまは戻ってくるのですか」
久代はしばらく答えなかった。
それから低く絞り出すように言った。
「戻ってきません」
「ええ」
「ばあちゃんは戻ってきません」
久代の声がまたわずかに震えた。
「でも俺は何もしないでいられなかった」
「ええ」
「ばあちゃんの金を奪った側がのうのうと生きているのに俺だけが何もしないでいられなかった」
その言葉の上で廊下の奥の空気が深く沈んだ。
久代幸人のいちばん奥のところには確かに本物の悲しみがあった。
しかしその悲しみがねじれてふたつの命を奪いひとりの人を犯人に仕立てる正義に変わっていった。
その変わり方のいちばん最初のところで久代幸人はたぶん一度も自分に問わなかった。
これは本当に正義なのかと。
これは本当におばあさまの望んだことなのかと。
朱沼茂が何度も自分に問い続けた「これは、私の正義じゃない」という問いを久代幸人は一度も自分に向けなかった。
その違いがふたりの人間をまったく別の場所に立たせていた。
「久代さん」
朱沼茂が低く声をかけた。
その声にはもう怒りも恐れもなかった。
ただ深い悲しみとある種の祈りのようなものがこもっていた。
「あなたのおばあさまは」
朱沼はひと呼吸おいた。
「あなたがこんなことをするためにあなたを育てたんじゃないと思います」
その言葉の上で久代幸人の目からもう一度涙がこぼれた。
久代はもう何も言わなかった。
ただ捜査員たちに取り押さえられたまま声を出さずに涙を流し続けた。
その久代幸人の姿を沙耶香は襖の隙間の向こうでじっと見ていた。
胸の奥で何か熱いものがこみ上げてきた。
それは久代幸人への怒りでもあり悲しみでもあった。
ふたつの命を奪いひとりの人を犯人に仕立てようとした久代幸人への深い怒り。
そして祖母を奪われその悲しみをねじれさせていった久代幸人へのひとかけらの悲しみ。
そのふたつがいま沙耶香の中でぐっとひとつになってこみ上げてきていた。
しかし彼女はまだ廊下には出なかった。
いまはまだ警察の時間だった。
久代幸人が麓の警察署へ移送される段取りが静かに整えられていった。
その移送の前に九能はもう一度久代幸人に向き合った。
「久代さん」
九能は低く言った。
「あなたを麓の警察署にお連れします」
「ええ」
「これからあなたは自分のしてきたこととまっすぐに向き合っていくことになります」
「ええ」
「それはあなたのおばあさまのためにもいちばん大事なことだと私は思います」
久代はしばらく答えなかった。
それから低くひと言。
「警部さん」
「ええ」
「ばあちゃんは本当にほかの人を救ったんですか」
その問いに九能はしばらく沈黙した。
それから低くしかしはっきりと答えた。
「ええ」
「あなたのおばあさまの被害の記録は確かにほかのご家族の被害を救ういちばん大事な証拠のひとつになりました」
「それは本当に」
「本当です」
九能はまっすぐに久代の目を見て言った。
「あなたのおばあさまはご自分では気づかないままほかのたくさんの人を救いました」
その言葉の上で久代幸人はもう一度深く涙を流した。
その涙の中にいまはじめて自分のしてきたことの本当の重さが静かに降りてきていた。
久代幸人は捜査員たちに付き添われてゆっくりと廊下を歩いていった。
その背中を朱沼茂が静かに見送っていた。
その背中を九能と亀井が静かに見送っていた。
そしてその背中を沙耶香と三嶋が襖の隙間の向こうから静かに見送っていた。
久代幸人が宿の玄関の方へ消えていったあと廊下の奥にはしばらく深い沈黙が残った。
その沈黙の中で夢野りりのあの短いセリフがもう一度沙耶香の頭の中で静かに立ち上がった。
「これは、私の正義じゃない」。
久代幸人は最後までその問いを自分に向けることができなかった。
その違いが彼をここまで連れてきてしまった。
そう沙耶香は自分の中で静かに思った。
長い長い物語の本当の闇のいちばん奥のところがいまようやくひとつこちらの前にその全貌をあらわした。
しかしまだ終わってはいなかった。
久代幸人はたしかにほとんどの真実を語った。
しかしひとつだけまだ語られていないことがあった。
それは多胡美咲が林の中でいちばん最後に久代幸人に向けて残したある言葉だった。
その言葉のことを久代幸人はまだ誰にも話していなかった。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿のいちばん最後のひと足がこうして白川郷の合掌造りの宿のいちばん奥の廊下でひっそりと踏み出されようとしていた。




