17
久代幸人が宿の玄関の方へ連れていかれたあと宿の中の時間はゆっくりと別の速度で流れ始めた。
廊下の奥の薄暗いあかりの中で九能弦十郎はしばらく動かなかった。
その目はまだ何かを考えていた。
ひとつの事件が終わりに近づいたときの刑事の目ではなかった。
まだ語られていない何かを探している目だった。
「警部さん」
沙耶香はようやく自分の部屋の襖を開けて廊下に出た。
もう警察の時間を邪魔する場面ではなくなっていた。
「篠原さん」
九能は静かにこちらを振り返った。
「久代さんはほとんどの真実を語りました」
「ええ」
「ただひとつだけまだ語っていないことがある気がします」
その言葉に沙耶香は深くうなずいた。
彼女もまた同じことを感じていた。
「久代さんは多胡さんを林に呼び出した手口は語りました」
沙耶香は低く言った。
「でも多胡さんが林の中で最後に久代さんに何を言ったのか。それだけはひと言も話していません」
九能の目が深くなった。
「篠原さん」
「ええ」
「あなたもそこに気づいていましたか」
「ええ」
ふたりはしばらく廊下の奥の薄暗いあかりの中で向き合っていた。
その沈黙の中で亀井時生がメモ帳を抱えたまま近づいてきた。
「あの警部。篠原さん」
亀井の声はいつもより少しだけ低かった。
「いま久代を麓に送る前にもう一度確認したんですけど」
「どうした」
「久代がひとつだけ自分から言いたいことがあると」
その言葉に九能と沙耶香は同時に顔を上げた。
「言いたいこと」
「ええ。多胡さんのことでまだ話していないことがあると」
亀井はメモ帳を握りしめたまま続けた。
「ただそれを警部にじゃなくて篠原さんに聞いてほしいと」
その言葉に沙耶香は思わず九能の方を見た。
「私に」
「ええ」
九能はしばらく考え込んだ。
それから低く言った。
「篠原さん」
「ええ」
「久代さんがなぜあなたに聞いてほしいと言ったのか。私にはわかりません」
「ええ」
「ただこれは捜査の枠の外の話かもしれない」
九能はひと呼吸おいた。
「あなたがライターだから聞いてほしいということかもしれない」
その言葉に沙耶香はしばらく黙っていた。
ライターだから聞いてほしい。
その意味を彼女は自分の中でゆっくりたどった。
久代幸人はたぶん自分の語る最後の真実を警察の調書ではなく誰かの言葉として残してほしいと思っている。
そう沙耶香は感じた。
「行きます」
沙耶香は短く答えた。
「ただし」
九能は低く言った。
「ひとりでは行かせません」
「ええ」
「私と亀井が同じ部屋のすぐ近くで控えます」
「ええ」
「あなたが危ない目に遭うことは絶対にさせない」
その言葉の中に九能のはっきりとした心配がこもっていた。
久代幸人はすでに取り押さえられていた。
しかしそれでも九能は沙耶香をひとりで久代の前に置くことを許さなかった。
久代幸人は宿の玄関に近い小部屋に移されていた。
そこは麓への移送の車が来るまでのあいだ久代を留め置くために使われていた。
部屋の入口には捜査員がふたり立っていた。
その小部屋の中で久代幸人は両手を前で押さえられたまま畳の上に座っていた。
その顔はもう冷たい正義の顔ではなかった。
ただ深い疲れと涙のあとの乾いた静けさだけが残っていた。
沙耶香はその久代の前にゆっくり腰を下ろした。
九能と亀井は部屋の入口に近いところに静かに控えた。
「久代さん」
沙耶香は低く声をかけた。
「私に話したいことがあると聞きました」
久代はしばらく答えなかった。
それから低く口を開いた。
「あんたはライターだそうですね」
「ええ」
「ツアーのあいだずっと手帳に何か書いていた」
「ええ」
「俺のことも書くんですか」
その問いに沙耶香はすぐには答えなかった。
久代の目をまっすぐに見返してからゆっくり答えた。
「書きます」
「全部」
「全部です」
沙耶香の声は低かった。
「あなたが何をしたか。なぜそれをしたか。そしてあなたが最後まで自分に問わなかったことも」
その言葉に久代の目がわずかに揺れた。
「俺が最後まで自分に問わなかったこと」
「ええ」
「これは本当に正義なのかという問いです」
久代はしばらく黙っていた。
それから低く言った。
「多胡が」
久代の声がわずかに震えた。
「林の中で最後に俺にひと言言ったんです」
沙耶香は静かに久代の次の言葉を待った。
部屋の中の空気がぴんと張った。
入口に控えた九能と亀井も息を殺していた。
「多胡は」
久代は続けた。
「俺が誰なのか最後に気づいたんです」
「気づいた」
「ええ。俺があの上司の若い部下だったことを。そして久代和子の孫だったことを」
その言葉に沙耶香の胸の奥がぐっと締まった。
「多胡さんはあなたのおばあさまのことを知っていたんですか」
「ええ」
久代の声は低かった。
「多胡は経理の補佐でした。ばあちゃんの貯金がどの口座を通ってどこへ消えたかいちばん近くで見ていた人間でした」
「ええ」
「だから多胡はばあちゃんの名前もばあちゃんの被害のこともぜんぶ知っていました」
久代はひと呼吸おいた。
「多胡は林の中で俺が久代和子の孫だと気づいたときこう言ったんです」
その言葉の前で久代は一度深く息を吸った。
そしてゆっくりと多胡美咲の最後の言葉を口にした。
「『あなたのおばあさんの記録を最後に外に渡したのは私です。あなたのおばあさんはほかの人を救いました』と」
その言葉の上で部屋の中の空気が深く沈んだ。
沙耶香は思わず息を呑んだ。
多胡美咲は林の中で自分を殺そうとしている久代幸人に向かって最後にその言葉を告げていた。
あなたのおばあさんの記録を最後に外に渡したのは私です。
あなたのおばあさんはほかの人を救いました。
それは久代幸人がいちばん知りたかったはずの言葉だった。
朱沼茂が廊下の奥で告げたのとまったく同じ真実を多胡美咲は林の中でいちばん最初に久代に告げていた。
「久代さん」
沙耶香は低く言った。
「多胡さんは最後にあなたにその言葉を告げていた」
「ええ」
「それを聞いてあなたはどう思ったんですか」
久代はしばらく答えなかった。
それから低く絞り出すように言った。
「俺は」
久代の声が震えた。
「信じなかった」
「信じなかった」
「ええ。多胡が命乞いのために嘘をついていると思った」
久代の目からまた涙がこぼれた。
「多胡が自分の命を助けてもらうためにばあちゃんのことを利用して嘘をついていると思いました」
「ええ」
「だから俺は多胡の言葉を最後まで信じなかった」
その言葉の上で沙耶香の胸の奥で何か熱いものがこみ上げてきた。
多胡美咲は林の中で自分を殺そうとしている相手に向かって最後に本当のことを告げていた。
それは命乞いの嘘ではなかった。
経理の補佐としていちばん近くで久代の祖母の被害を見ていた人間が最後にその魂のいちばん深いところから告げた真実だった。
しかし久代幸人はそれを命乞いの嘘だと思い込み最後まで信じなかった。
そして多胡美咲を殺した。
「久代さん」
沙耶香は低く言った。
その声にこれまで抑えてきたある熱がわずかに滲み始めていた。
「多胡さんは林の中で命乞いをしていたんじゃない」
「ええ」
「多胡さんは最後にあなたに本当のことを伝えようとしていたんです」
久代はしばらく答えなかった。
ただ涙を流し続けた。
「いまならわかります」
久代は低く言った。
「いまならわかるんです。あれは命乞いじゃなかった」
「ええ」
「多胡は最後に俺に本当のことを伝えようとしていた」
久代の声がぐっとつまった。
「でも俺はそれを信じなかった」
「ええ」
「そして多胡を殺した」
その言葉の上で部屋の中の空気が深く沈んだ。
久代幸人のいちばん奥のところにいまはじめて自分のしてきたことのいちばん深い後悔が降りてきていた。
朱沼茂の真実を多胡美咲の真実を久代幸人はふたりからまったく同じ言葉で告げられていた。
あなたのおばあさんはほかの人を救った。
その同じ真実を久代幸人は二度告げられていた。
しかし彼は一度目はそれを命乞いの嘘だと思い込み信じなかった。
そして二度目にようやくそれを信じた。
その一度目と二度目のあいだにふたつの命が失われていた。
「久代さん」
沙耶香は低く言った。
「あなたがもし林の中で多胡さんの言葉を信じていたら」
その言葉に久代の目がぐっと揺れた。
「あなたはここまで来なかったかもしれない」
「ええ」
「多胡さんは最後にあなたを救おうとしていたのかもしれません」
その言葉の上で久代幸人は声を出さずに深く涙を流し続けた。
部屋の中の空気が長い沈黙の中に沈んでいった。
沙耶香はその沈黙の中で自分の胸の奥の熱いものをぐっと抑えていた。
まだいまではなかった。
久代幸人に自分の言葉をまっすぐにぶつける時はまだいまではなかった。
その時はもうすぐ来る。
しかしいまはまだ久代幸人のいちばん深い後悔を最後まで聞き届ける時だった。
「久代さん」
沙耶香は低く言った。
「あなたの話は全部聞きました」
「ええ」
「全部書きます」
「ええ」
「多胡さんが最後にあなたに告げた言葉もちゃんと書きます」
その言葉に久代はしばらく答えなかった。
それから低くひと言。
「ありがとうございます」
その「ありがとう」のひと言の中に久代幸人のいちばん奥のところのひとかけらの人間らしさが滲んでいた。
しかしその人間らしさが滲んだとしても彼のしてきたことの重さは決して消えなかった。
ふたつの命を奪いひとりの人を犯人に仕立てようとしたその重さは彼の涙では決して洗い流せなかった。
そのことを沙耶香は自分の胸の奥ではっきりと抱えていた。
部屋の外で麓への移送の車が宿の前に着いた音がした。
捜査員たちが久代幸人を移送の準備のためにゆっくりと立たせた。
久代幸人は最後にもう一度沙耶香の方を振り返った。
その目の中にもう冷たい正義の光はなかった。
ただ深い後悔とある種の空虚さだけが座っていた。
その久代幸人の顔を沙耶香はまっすぐに見返した。
そして自分の胸の奥の熱いものをぐっと抑えた。
いまではない。
その時はもうすぐ来る。
久代幸人が捜査員たちに付き添われて部屋の外へゆっくりと歩いていく。
その背中を沙耶香はしずかに見送った。
その背中の向こうに宿の玄関の明るい朝の光が差し込んでいた。
長い長い夜がようやく明けようとしていた。
その朝の光の中で夢野りりのあの短いセリフがもう一度沙耶香の頭の中で静かに立ち上がった。
「これは私の正義じゃない」。
久代幸人が最後まで自分に向けることのできなかったその問い。
多胡美咲が林の中で最後に久代に告げようとしたひとつの真実。
朱沼茂が何度も自分に向け続けたひとつの問い。
そのすべてがいまひとつの長い物語のいちばん最後のところでしずかにひとつになろうとしていた。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿のいちばん最後のひと足がこうして白川郷の合掌造りの宿の玄関の明るい朝の光の中でひっそりと踏み出されようとしていた。
そしてその朝の光の中で沙耶香が久代幸人に自分の言葉をまっすぐにぶつける時がもうすぐそこまで来ていた。




