18
久代幸人が朱沼茂の部屋の前で取り押さえられた夜が明けても事件は終わってはいなかった。
むしろそこから捜査はいったん別の方向へねじれ始めた。
朝になって麓の警察から本部の捜査主任が宿に上がってきた。
その主任は九能弦十郎とは別の系統の人物で証拠の積み上げをなにより重んじる慎重な男だった。
主任は九能の報告を聞きながらも机の上の証拠を一つずつ厳しい目で点検していった。
「九能さん。あなたの見立ては筋が通っている」
主任は低く言った。
「久代幸人が囲炉裏の火箸を使った可能性。久代が深夜に朱沼の部屋へ向かった事実。久代が偽の書き込みを持っていた事実。すべて筋は通る」
「ええ」
「だがこれだけでは久代を二件の殺人の犯人として立件するには足りない」
その言葉に九能はしばらく黙っていた。
主任の言うことは捜査の現実として正しかった。
久代が朱沼の部屋に何かを置こうとしたのは確かだった。
しかし久代はそれを「拾った手帳を朱沼に返そうとしただけだ」と言い張り始めていた。
「あの夜俺は眠れずに廊下を歩いていた。そのとき廊下に多胡さんの手帳の切れ端が落ちているのを見つけた。朱沼さんのものかと思って返そうとしただけだ」
久代は麓へ移送される前の聴取でそう供述を変えていた。
囲炉裏の火箸を両手で持っていた三嶋の写真についても久代は言い逃れた。
「火箸を持っていたのは囲炉裏の火が消えそうだったから直そうとしただけだ。宿の人に聞いてもらえばいい」
その供述は弱かった。
しかし弱いというだけでそれを崩す決定的な証拠が足りなかった。
火箸からは久代の指紋も出たが宿の女将の指紋も中居の指紋もほかの参加者の指紋もいくつも出た。
久代がそれを狙って火箸を「ふだんの宿の道具」にまぎれこませた、という沙耶香の読みは正しかった。
しかしその「狙い」そのものは証拠にはならなかった。
「九能さん」
主任は低く言った。
「逆を考えてみてくれ」
「逆」
「この事件でいちばん動機がはっきりしているのは誰だ」
九能はその問いの意味をすぐに理解した。
主任の目は机の上の別の書類を見ていた。
そこには朱沼茂の名前があった。
「数年前の介護事業所の事件。内部告発をしてつぶされた朱沼茂。被害を表に出そうとした側の中心人物」
主任は淡々と続けた。
「その朱沼が今回のツアーで数年前の事件の関係者と次々に再会した。多胡美咲。城岬隆。どちらも朱沼にとっては因縁のある相手だ」
「主任」
「特に城岬隆は朱沼の内部告発を最初につぶした側の管理職だ。朱沼が城岬を恨んでいた動機ははっきりしている」
その言葉に九能の眉がわずかに動いた。
「それは久代が仕込もうとした絵そのものだ」
九能は低く言った。
「久代は朱沼を犯人に仕立てようとしていた。いま主任が言った筋はまさに久代が描いた筋です」
「わかっている」
主任は静かに言った。
「だが私が言いたいのはこういうことだ。久代が描いた筋であろうとなかろうと客観的な動機の強さで言えば朱沼の方が久代より上だ。そして朱沼にはアリバイがない」
その一言が小部屋の空気を重くした。
朱沼茂には多胡美咲が殺された夜も城岬隆が殺された夜もはっきりとしたアリバイがなかった。
それぞれの夜朱沼は自分の部屋でひとり眠っていたと供述していた。
それを証明できる者は誰もいなかった。
「九能さん。あなたは朱沼を信じている。それはわかる」
主任は低く言った。
「だが捜査は心証では動かない。久代を立件する決定的な証拠がない以上いまの段階でいちばん動機が強くアリバイのない朱沼を最重要参考人から外すわけにはいかない」
その言葉に九能はしばらく沈黙した。
主任の言うことは捜査の手続きとして間違っていなかった。
久代が真犯人であることを九能も沙耶香も心の底では確信していた。
しかし「確信」と「立件できる証拠」は別のものだった。
そしてその隙間に久代が周到に仕込んだ「朱沼を犯人に見せる絵」がぴたりとはまり込んでいた。
久代幸人は取り押さえられた。
しかし久代の仕込んだ罠だけは取り押さえられたあとも生き続けていた。
その日の昼九能は捜査拠点の小部屋に沙耶香と三嶋を呼んだ。
九能の顔はこれまでで最も険しかった。
「篠原さん。三嶋さん。正直に申し上げます」
九能は低く言った。
「いまの段階で捜査の本流は久代ではなく朱沼さんの方に傾きかけています」
その言葉に沙耶香は思わず身を乗り出した。
「警部さん。それは」
「久代が取り押さえられたのは事実です。久代が朱沼さんの部屋に偽の証拠を置こうとしたのも事実です」
九能は続けた。
「しかし久代はそれを言い逃れた。そして客観的な動機の強さとアリバイの有無で言えば朱沼さんの方が不利なんです」
「でも朱沼さんは」
「ええ。私も朱沼さんが犯人だとは思っていません」
九能の声は低かった。
「ただ私の心証だけでは捜査は動かない。本部の主任は手続きとして正しいことを言っている。このままでは朱沼さんが最重要参考人として麓へ任意同行を求められる」
その言葉に小部屋の空気が深く沈んだ。
久代幸人が描いた「朱沼を犯人にする絵」が久代が取り押さえられたあとになってかえって現実になりかけていた。
それはあまりに皮肉な逆転だった。
「警部さん」
沙耶香は低く言った。
「久代さんを真犯人として立件するには。何が足りないんですか」
九能はしばらく考え込んだ。
それから低く答えた。
「決定的なのはふたつです」
九能は指を立てた。
「ひとつ。久代が多胡さんを林に呼び出した手紙の現物。もし久代が差出人不明の手紙で多胡さんを呼び出していたならその手紙が見つかれば久代と林の現場が直接つながる」
「ええ」
「ふたつ。城岬さんの地酒に仕込まれた薬の出どころ。その薬を久代が手に入れたという証拠。それが見つかれば久代と密室の現場が直接つながる」
九能はひと呼吸おいた。
「このふたつのどちらかが見つからなければ久代の言い逃れを崩せない。そして朱沼さんへの疑いを晴らせない」
その言葉に沙耶香はしばらく黙っていた。
そして自分の中の白いノートを開いた。
これまでの線をもう一度ゆっくりたどった。
多胡美咲を林に呼び出した手紙。
その手紙はいまどこにあるのか。
多胡美咲は林に行く前にその手紙をどこに置いていたのか。
そのとき沙耶香の頭の中でサービスエリアでの多胡美咲の姿がもう一度よみがえった。
地酒のラベルを何かと照合するように深刻な顔で読んでいたあの姿。
ビジネス手帳を旅行のあいだもずっと開いていたあの姿。
多胡美咲はその差出人不明の手紙の内容をたぶんずっと手帳のどこかに書き写していた。
あるいは手紙そのものを手帳にはさんで持ち歩いていた。
「警部さん」
沙耶香は低く言った。
「多胡さんの手帳です」
「手帳」
「久代さんが朱沼さんの部屋に置こうとしたのは多胡さんの手帳の切れ端でした。でも切れ端ということは元の手帳の本体がどこかにあるはずです」
九能の目がぐっと深くなった。
「多胡さんの手帳の本体はいまどこにあるんですか」
九能はしばらく考え込んだ。
それから低く答えた。
「多胡さんの遺品の中にはなかった。林の現場にもなかった」
「ということは」
「久代が持ち去った可能性が高い」
その言葉に沙耶香はぐっと考え込んだ。
久代幸人は多胡美咲を殺したあと彼女の手帳を持ち去った。
そしてその手帳の一部を切り取って朱沼の筆跡に似せて書き換え朱沼の部屋に仕込もうとした。
つまり多胡美咲の手帳の本体はいまも久代の持ち物のどこかにあるはずだった。
「警部さん」
沙耶香は低く言った。
「久代さんの持ち物を。もう一度。隅々まで。調べてください」
「ええ」
「もし多胡さんの手帳の本体が久代さんの持ち物から出てくれば」
「久代と林の現場が直接つながる」
九能の声が低くなった。
「そしてその手帳の中に差出人不明の手紙のことが書かれていればなお強い」
その言葉に小部屋の空気がぴんと張った。
久代幸人が取り押さえられたあともなお生き続けていた「朱沼を犯人にする絵」。
それを崩す鍵が多胡美咲の手帳の本体にあるかもしれなかった。
しかしそのとき亀井時生が小部屋に駆け込んできた。
その顔は珍しく青ざめていた。
「警部。大変です」
「どうした」
「朱沼さんが。宿から。いなくなりました」
その言葉に小部屋の空気が凍りついた。
「いなくなった」
九能の声が鋭くなった。
「ええ。さっき朝の散策の許可が出たので参加者の皆さんが宿の周りを歩いていたんですが。朱沼さんだけが戻ってこないんです」
亀井はメモ帳を握りしめたまま続けた。
「女将さんの話では朱沼さんは林の方へひとりで歩いていったきり戻ってこないと」
林。
その言葉に沙耶香の背筋にぞくりとしたものが走った。
多胡美咲が殺された林。
そこへ朱沼茂がひとりで向かったまま戻ってこない。
「警部さん」
沙耶香は低く言った。
その声に抑えきれない不安がにじんでいた。
「朱沼さんは。まさか」
九能はもう答えなかった。
すぐに立ち上がっていた。
「亀井。捜索だ。すぐに人を集めろ」
「は。はい」
「篠原さん。三嶋さん。あなたたちはここにいてください」
「警部さん。私も」
「いや」
九能は低く。しかしはっきりと言った。
「朱沼さんが自分から林へ向かったのか。それとも何者かに呼び出されたのか。それがわかるまであなたたちを林へは連れていけない」
その言葉に沙耶香はぐっと唇を噛んだ。
久代幸人は取り押さえられた。
それなのに朱沼茂が林へ消えた。
もし久代に共犯者がいたとしたら。
あるいは久代が取り押さえられる前にすでに何かの仕込みを終えていたとしたら。
朱沼茂を「犯人として自死させる」という久代の最後の絵が久代の手を離れたあとも動き続けているとしたら。
その嫌な予感が沙耶香の中で深く座り始めていた。
九能と亀井と捜査員たちが宿の玄関から林の方へ急いで出ていった。
その背中を沙耶香は不安な目で見送った。
横で三嶋がカメラを握りしめたまま低く言った。
「沙耶香さん」
「ん」
「これ。まだ。終わってないんですね」
「ええ」
沙耶香は低く答えた。
「むしろこれからかもしれない」
朝の白川郷の光が宿の玄関を満たしていた。
その明るい光の向こうに林の暗い緑が見えた。
その林の中へ朱沼茂がひとり消えていた。
長い長い物語の本当の闇はまだ閉じてはいなかった。
久代幸人が描いた「正義」の絵はその久代自身が取り押さえられたあともなお白川郷の林の中で動き続けていた。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿はこうしてまだ閉じることなく別の深い闇の方へとねじれ始めていた。
そしてその闇の奥で夢野りりのあの短いセリフがまだしずかに最後の鍵として待っていた。
これは私の正義じゃない。
そのひと言が久代幸人の「正義」の最後の仕掛けとぶつかる日はまだ来ていなかった。




