19
朱沼茂が林へ消えてから一刻ほどが過ぎていた。
九能弦十郎と亀井時生そして麓からの捜査員たちは林の中をくまなく探していた。
しかし朱沼茂の姿はどこにも見当たらなかった。
春の白川郷の林は朝のうちはまだ薄い霧の名残りを抱えていた。
杉の老木のあいだを縫う細い道はいくつにも枝分かれしていた。
その枝分かれのどれを朱沼茂がたどったのか地面の足跡だけでははっきりしなかった。
前の夜からの捜査で林の地面はすでに多くの足で踏み荒らされていた。
多胡美咲が倒れていたあの空き地の周りも捜査員たちの靴跡で埋め尽くされていた。
そのせいで朱沼茂の新しい足跡を見分けるのは難しかった。
「警部」
亀井が息を切らせて九能のところへ駆け戻ってきた。
「林の奥の沢の方まで見ましたが朱沼さんは見つかりません」
「ほかの道は」
「集落へ抜ける細い道と展望台へ続く道がありますが両方とも別の班が見ています」
九能はしばらく考え込んだ。
林の中の枝分かれの数を頭の中で数えていた。
朱沼茂がもし自分の意思で身を隠したのなら見つけるのは難しかった。
朱沼茂がもし何者かに連れ去られたのならさらに難しかった。
「亀井」
「は。はい」
「朱沼さんは自分から林へ向かったのか。それとも誰かに呼ばれたのか。それを知っている者はいないか」
「女将さんの話では朱沼さんは朝の散策の許可が出たあとひとりで林の方へ歩いていったそうです」
「ひとりで」
「ええ。ただ」
亀井はそこで言葉を止めた。
「ただ。なんだ」
「女将さんが言うには朱沼さんは林へ向かう前に宿の玄関で誰かと立ち話をしていたそうです」
「誰だ」
「それが。女将さんもはっきりとは見ていなくて。後ろ姿だけだったと」
九能の眉が動いた。
「男か。女か」
「たぶん男性だったと。でも顔は見ていないと」
その証言は弱かった。
後ろ姿だけ。顔は見ていない。
久代幸人はすでに麓へ移送されていた。
ならば朱沼茂と立ち話をしていた男は久代ではなかった。
別の誰かが朱沼茂を林へ向かわせた可能性があった。
しかしその「別の誰か」が誰なのかを示す証言は何もなかった。
九能はその弱い証言の前でしばらく動けなかった。
捜査の現場ではこういう瞬間がいちばん苦しかった。
何かが動いているのははっきりわかる。
しかしその何かを示す確かな手がかりが何もない。
「亀井」
九能は低く言った。
「女将さんにもう一度詳しく聞いてくれ。立ち話をしていた男の背格好。服装。声。何でもいい」
「は。はい」
亀井はメモ帳を握りしめたまま宿の方へ駆け戻っていった。
その背中を見送りながら九能は林の枝分かれの道をもう一度見回した。
朱沼茂はどこへ消えたのか。
その問いの答えがどこにもなかった。
宿に残された沙耶香と三嶋は捜査拠点の小部屋でじっと知らせを待っていた。
待つことしかできなかった。
九能から林へは連れていけないと言われていた。
その言いつけを沙耶香は守っていた。
しかし待つあいだも彼女の頭の中ではいくつもの線が回り続けていた。
朱沼茂を林へ向かわせた男。
その男が久代でないとすれば誰なのか。
久代幸人に共犯者がいたのか。
それともこれは久代とはまったく別の動きなのか。
「沙耶香さん」
三嶋が低く声をかけてきた。
「ん」
「僕。さっきから。考えてるんですけど」
「何を」
「朱沼さんと立ち話をしてた男。その人。もしかして。僕の写真に。写ってないかな」
その言葉に沙耶香は思わず三嶋の方を見た。
「朝の散策の前。玄関のあたり。僕。何枚か。撮ってた気がするんです」
三嶋はカメラの液晶を操作し始めた。
朝の散策の許可が出たあと参加者たちが宿の玄関に集まったときの写真。
三嶋はいつものように無自覚に何枚かを撮っていた。
ふたりは液晶の小さな画面をのぞき込んだ。
一枚目。玄関の暖簾と参加者たちの後ろ姿。
二枚目。年配のご夫婦と女性の二人連れ。
三枚目。家族連れの父親と子どもたち。
四枚目。玄関の脇の春の野花。
そして五枚目。
その五枚目に玄関の隅で誰かと立ち話をしている朱沼茂の姿が写っていた。
朱沼茂の正面はこちらを向いていた。
しかし相手の男は後ろ姿だった。
その後ろ姿の男はコートを着ていた。
背は高くも低くもなかった。
髪は短く刈り上げられていた。
「これ」
三嶋は低く言った。
「朱沼さんと立ち話してる。この後ろ姿の男」
沙耶香はその後ろ姿をじっと見つめた。
しかし顔は写っていなかった。
服装も白川郷の朝の散策にはふつうの格好だった。
背格好も特徴がなかった。
その後ろ姿だけからは誰なのか特定できなかった。
「三嶋くん。この男。誰か。わかる」
「いえ。後ろ姿だけだと。ちょっと」
三嶋は首を振った。
「ただ。この男。参加者の誰かじゃない気がするんです」
「なぜ」
「参加者の人たちって。僕。もう。みんな。後ろ姿でも。だいたい。わかるんですよ。何日も。一緒にいたから」
三嶋はめずらしく真剣な顔をしていた。
「でも。この男の後ろ姿。僕の記憶の中の。参加者の誰とも。一致しないんです」
その言葉に沙耶香の背筋にぞくりとしたものが走った。
参加者の誰とも一致しない後ろ姿の男。
その男が朱沼茂と立ち話をして朱沼を林へ向かわせた。
それは久代幸人の共犯者なのか。
それとも宿の外から来た別の人物なのか。
「すぐに警部さんに見せる」
沙耶香は低く言った。
しかしそのとき小部屋の外で慌ただしい足音がした。
亀井が女将への聞き込みから戻ってきた音だった。
「篠原さん。三嶋さん」
亀井は息を切らせていた。
「警部はまだ林ですが。女将さんから。もう少し詳しい話が」
「どんな」
「朱沼さんと立ち話をしていた男。女将さんがもう一度思い出してくれました」
亀井はメモ帳を開いた。
「背格好はふつう。コートを着ていた。ここまでは前と同じです。でも」
「でも」
「女将さんが言うにはその男は朱沼さんに何かを手渡していたそうです」
その言葉に沙耶香はぐっと身を乗り出した。
「何かを。手渡していた」
「ええ。小さな。紙のようなものを。封筒か。手紙か。はっきりとはわからないけど。何か白い紙のようなものを朱沼さんに渡していたと」
白い紙。封筒。手紙。
その言葉に沙耶香の頭の中で何かが繋がりかけた。
久代幸人は多胡美咲を差出人不明の手紙で林に呼び出した。
そして今度は誰かが朱沼茂に白い紙のようなものを手渡して林へ向かわせた。
同じ手口。
同じ呼び出し方。
「亀井さん」
沙耶香は低く言った。
「これを。警部さんに。すぐに」
そう言いながら沙耶香は三嶋のカメラの五枚目の写真を亀井に見せた。
朱沼茂と立ち話をする後ろ姿の男の写真。
亀井はその写真をのぞき込んだ。
そしてしばらく考え込んだ。
「この後ろ姿。僕も。誰かはわかりません」
亀井は低く言った。
「ただ。これを。林の警部に。届けます」
亀井はその写真をカメラごと借りて再び林の方へ駆けていこうとした。
しかしそのとき小部屋の入口に女将の鈴木みさが立った。
その顔は青ざめていた。
「あの。篠原さま」
女将の声は震えていた。
「いま。中居の土田が。林の方で。何か。見つけたと」
その言葉に小部屋の空気が凍りついた。
「何を。見つけたんですか」
沙耶香は低く尋ねた。
女将はしばらく答えられなかった。
それからようやく絞り出すように言った。
「林の。沢の。近くで。朱沼さまの。帽子が」
朱沼茂の帽子。
つばのある柔らかいあの帽子。
東京駅の集合場所で朱沼茂がかぶっていたあの帽子だった。
その帽子だけが林の沢の近くに落ちていた。
「朱沼さんは」
沙耶香は低く尋ねた。
「ご本人は」
女将は首を振った。
「帽子だけで。ご本人の姿は。どこにも」
その言葉に小部屋の空気が深く沈んだ。
朱沼茂の帽子だけが林の沢の近くに落ちていた。
しかし朱沼茂本人の姿はどこにもなかった。
それは多胡美咲のときと同じ林だった。
そして帽子だけが残されているという状況は何者かが朱沼茂をその場所から連れ去ったか、あるいは朱沼茂の身に何かが起きたことを示していた。
沙耶香は立ち上がりかけた。
しかし九能の言いつけを思い出してその場にとどまった。
待つことしかできない。
その苦しさが彼女の胸の奥でぐっとせり上がってきた。
久代幸人は取り押さえられた。
それなのに事件はまだ動いていた。
朱沼茂が消えた。
その帽子だけが林に残された。
後ろ姿だけの男が朱沼に白い紙を手渡していた。
しかしその男が誰なのかを示す証拠は何もなかった。
捜査は完全に行き詰まっていた。
何かが動いているのははっきりわかる。
しかしその何かを示す確かな手がかりが何もない。
その苦しい霧の中で沙耶香はじっと知らせを待ち続けた。
亀井が三嶋のカメラを持って林の方へ駆けていった。
その背中が宿の玄関の明るい光の中へ消えていった。
その光の向こうに林の暗い緑が広がっていた。
その林の中のどこかに朱沼茂がいるはずだった。
生きているのか。
それとも。
その問いの答えはまだどこにもなかった。
長い長い物語の本当の闇は閉じるどころかさらに深い方へとねじれ始めていた。
久代幸人を取り押さえたことで終わるはずだった事件が朱沼茂の失踪という新たな闇の方へと進み始めていた。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿はこうして捜査のいちばん難しい霧の中へと入り込んでいった。
その霧の中で夢野りりのあの短いセリフだけがまだしずかに最後の鍵として待っていた。
これは私の正義じゃない。
そのひと言が事件の本当の闇とぶつかる日はまだ遠かった。




