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フリー旅情ライター篠原沙耶香の事件簿〜白川郷ツアー連続殺人事件〜  作者: みなと劉


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 朱沼茂の帽子が見つかってから、さらに半日が過ぎていた。

 林の捜索は昼を回っても続いていた。

 しかし朱沼茂本人の姿は、どこにも見つからなかった。

 麓からの応援の捜査員が増やされた。

 地元の消防団の人たちも、捜索に加わってくれた。

 それでも朱沼茂は、見つからなかった。

 林の沢は、前の日からの雪解け水で水かさを増していた。

 捜索はその下流の方まで広げられた。

 しかし沢のどこにも、朱沼茂の姿はなかった。

 九能弦十郎は、林の中の沢のほとりに立っていた。

 水の流れを、じっと見ていた。

 その顔は、この数日でいちばん険しかった。

 泥だらけの靴で、亀井時生が近づいてきた。

 沢の下流を三百メートル先まで見たが、何も出なかったという。

 九能はそれを聞いてから、帽子の落ちていた場所を、もう一度しゃがみ込んで見た。

 地面は、雪解け水でぬかるんでいた。

 そのぬかるんだ地面の上に、帽子だけがぽつんと落ちていた。

 しかし帽子の周りには、争ったような跡がなかった。

 引きずられたような跡も、なかった。

 九能はその帽子の落ち方を、長いあいだ見つめていた。

 もし朱沼茂がここで誰かに襲われ、沢に落とされたのなら、地面に何かしらの乱れが残るはずだった。

 ところがここには、何の乱れもなかった。

 帽子だけが、きれいに落ちている。

 まるで誰かが、そっと置いたような落ち方だった。

 朱沼茂が自分で置いたのか。

 それとも、朱沼茂を連れ去った何者かが置いたのか。

 どちらもこの落ち方とは、矛盾しなかった。

 結局この帽子だけからは、何も決められなかった。

 帽子は見つかった。

 しかしその帽子は、何も語ってくれなかった。

 宿に戻った九能は、捜査拠点の小部屋で、沙耶香と三嶋に状況を伝えた。

 その顔には、隠しきれない疲れが滲んでいた。

 捜査は、完全に行き詰まっていた。

 朱沼茂は見つからず、帽子だけが林に残されていた。

 その帽子は、何も語らなかった。

 朱沼茂に白い紙を手渡したという、後ろ姿の男。

 その男が誰なのかも、わからなかった。

 女将の証言も、三嶋の写真も、後ろ姿だけだった。

 顔も背格好も、特徴がなかった。

 久代幸人を立件する決定的な証拠も、見つからなかった。

 多胡美咲を呼び出した手紙の現物は、出てこなかった。

 城岬隆の地酒に仕込まれた薬の出どころも、わからなかった。

 そして、多胡美咲の手帳の本体も、久代の持ち物からは出てこなかった。

 その最後の話に、沙耶香は思わず顔を上げた。

 手帳の本体が、久代の持ち物から出てこなかったという。

 隅々まで調べても、本体はどこにもなかった。

 出てきたのは、久代が朱沼の部屋に置こうとした切れ端だけだった。

 久代がどこかに隠したのか。

 それとも、久代以外の誰かが持っているのか。

 それすら、わからなかった。

 その話に、小部屋の空気が重く沈んだ。

 久代幸人を取り押さえてからこちら、捜査は一歩も前へ進んでいなかった。

 決定的な証拠は、どれも見つからなかった。

 朱沼茂は、消えたままだった。

 後ろ姿の男の正体も、わからなかった。

 何もかもが、霧の中にあった。

 久代幸人は、麓で黙秘を続けているという。

 朝の供述を変えてから、何も話さなくなっていた。

 多胡美咲の手紙のことも、城岬隆の薬のことも、朱沼茂の失踪のことも、ひと言も話さない。

 手帳の切れ端を朱沼に返そうとしただけだ。

 そう言い張ったまま、久代は黙り込んでいた。

 その黙秘の意味を、沙耶香はじっと考えた。

 夜中の廊下で、これは俺の正義だと言いかけた男だった。

 その男が、麓へ移送されたあと、一転して黙り込んでいる。

 それは、なぜなのか。

 沙耶香の中で、ひとつの考えが立ち上がってきた。

 久代は取り押さえられる前まで、朱沼を犯人に仕立てようとしていた。

 しかし久代自身が取り押さえられて、その計画は失敗したはずだった。

 ところが、朱沼が林へ消えた。

 帽子だけが、残された。

 それはまるで、朱沼が犯人として自死したか、逃亡したように見える状況だった。

 久代が取り押さえられたあとも、久代の描いた絵が、誰かの手で実行され続けている。

 久代が黙秘に転じたのは、その絵がまだ動いていることを、久代自身が知っているからではないか。

 沙耶香は、その読みを、低く九能に伝えた。

 九能はしばらく沈黙してから、ゆっくりとうなずいた。

 その読みが正しいなら、久代には共犯者がいる。

 九能のその言葉が、小部屋の中に重く落ちた。

 久代に共犯者がいて、その共犯者が、朱沼に白い紙を手渡した後ろ姿の男なのか。

 その共犯者が、朱沼を犯人として葬り去る最後の絵を、久代の手を離れたあとも実行し続けているのか。

 しかしそれもまだ、確証のない読みに過ぎなかった。

 久代に共犯者がいるとしても、その共犯者が誰なのか、手がかりは何もなかった。

 あるのは、後ろ姿の男だけだった。

 顔もわからず、背格好もわからず、声も聞いていない。

 久代に共犯者がいるかもしれない。

 それなのに、それを示す手がかりは、後ろ姿の男ひとつだけだった。

 そしてその男が誰なのかも、わからなかった。

 捜査は、完全に当てを失っていた。

 久代を立件する証拠もない。

 朱沼の行方もわからない。

 共犯者の正体もわからない。

 すべてが霧の中で、当てもなく漂っていた。

 その日の夕方、九能は宿の玄関の前に立っていた。

 暮れていく谷の空を、じっと見ていた。

 その横に、沙耶香が立った。

 こういうときはどうするのかと、沙耶香は低く尋ねた。

 九能はしばらく答えなかった。

 それから、暮れていく谷の空を見たまま、低く言った。

「待つしかないときがある」

 谷の上の空が、夕暮れの色に染まっていた。

 合掌造りの大屋根の急な角度が、黒い影になって浮かんでいた。

 九能はその屋根の影を見上げながら、続けた。

「手がかりがないときは、無理に動いても空回りするだけだ。そういうときは、いったん、すべての証言を最初から並べ直す」

 ツアーが始まった日から、いまこの瞬間まで。

 誰が、いつ、どこで、何を言い、何をしたか。

 それを最初からひとつずつ並べ直す。

 その中には必ず、最初は見落としていた小さなずれがある。

 そのずれを見つけるまで、何度でも並べ直す。

 それが、捜査のいちばん地味で、いちばん確実なやり方だった。

 派手な追跡でも、劇的な発見でもなかった。

 ただひたすら、すべての証言を最初から並べ直す。

 その地味な作業の中にこそ、捜査の本体があった。

 沙耶香も、その作業を手伝うことにした。

 彼女のノートには、ツアーが始まった日からのすべての観察が残っていた。

 ライターの目で見た記録は、警察の調書とは違う角度から、事件を捉えていた。

 暮れていく谷の空の下で、ふたりは宿の中へ戻った。

 その夜、捜査拠点の小部屋で、四人は机の上にすべてを並べた。

 すべての証言。

 すべての記録。

 すべての写真。

 東京駅の集合場所から、サービスエリアへ。

 白川郷の集落から、合掌造りの宿へ。

 林の中の多胡美咲の死。

 密室の中の城岬隆の死。

 久代幸人の取り押さえ。

 そして、朱沼茂の失踪。

 そのすべてを、最初から並べ直していった。

 しかしその夜、いくら並べ直しても、まだ小さなずれは見つからなかった。

 四人は深夜まで、机の上の証言と記録と写真を、ひとつずつ見つめ続けた。

 朱沼茂の行方も、共犯者の正体も、久代を立件する証拠も、何ひとつ見つからなかった。

 夜は、当てもなく深まっていった。

 外では、谷の風が、合掌造りの大屋根の急な角度の上を、低くなで上げては、なで下ろしていた。

 その風の音の中で、長い捜査の霧の夜が、当てもなく続いていった。

 旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿は、捜査のいちばん深い霧の中で、何の手がかりも得られないまま、当てもなく漂い続けていた。

 その霧の向こうに、夢野りりのあの短いセリフだけが、まだしずかに、最後の鍵として隠れていた。

『これは、私の正義じゃない』。

 そのひと言が事件の本当の闇とぶつかる日は、まだ遠かった。



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