20
朱沼茂の帽子が見つかってから、さらに半日が過ぎていた。
林の捜索は昼を回っても続いていた。
しかし朱沼茂本人の姿は、どこにも見つからなかった。
麓からの応援の捜査員が増やされた。
地元の消防団の人たちも、捜索に加わってくれた。
それでも朱沼茂は、見つからなかった。
林の沢は、前の日からの雪解け水で水かさを増していた。
捜索はその下流の方まで広げられた。
しかし沢のどこにも、朱沼茂の姿はなかった。
九能弦十郎は、林の中の沢のほとりに立っていた。
水の流れを、じっと見ていた。
その顔は、この数日でいちばん険しかった。
泥だらけの靴で、亀井時生が近づいてきた。
沢の下流を三百メートル先まで見たが、何も出なかったという。
九能はそれを聞いてから、帽子の落ちていた場所を、もう一度しゃがみ込んで見た。
地面は、雪解け水でぬかるんでいた。
そのぬかるんだ地面の上に、帽子だけがぽつんと落ちていた。
しかし帽子の周りには、争ったような跡がなかった。
引きずられたような跡も、なかった。
九能はその帽子の落ち方を、長いあいだ見つめていた。
もし朱沼茂がここで誰かに襲われ、沢に落とされたのなら、地面に何かしらの乱れが残るはずだった。
ところがここには、何の乱れもなかった。
帽子だけが、きれいに落ちている。
まるで誰かが、そっと置いたような落ち方だった。
朱沼茂が自分で置いたのか。
それとも、朱沼茂を連れ去った何者かが置いたのか。
どちらもこの落ち方とは、矛盾しなかった。
結局この帽子だけからは、何も決められなかった。
帽子は見つかった。
しかしその帽子は、何も語ってくれなかった。
宿に戻った九能は、捜査拠点の小部屋で、沙耶香と三嶋に状況を伝えた。
その顔には、隠しきれない疲れが滲んでいた。
捜査は、完全に行き詰まっていた。
朱沼茂は見つからず、帽子だけが林に残されていた。
その帽子は、何も語らなかった。
朱沼茂に白い紙を手渡したという、後ろ姿の男。
その男が誰なのかも、わからなかった。
女将の証言も、三嶋の写真も、後ろ姿だけだった。
顔も背格好も、特徴がなかった。
久代幸人を立件する決定的な証拠も、見つからなかった。
多胡美咲を呼び出した手紙の現物は、出てこなかった。
城岬隆の地酒に仕込まれた薬の出どころも、わからなかった。
そして、多胡美咲の手帳の本体も、久代の持ち物からは出てこなかった。
その最後の話に、沙耶香は思わず顔を上げた。
手帳の本体が、久代の持ち物から出てこなかったという。
隅々まで調べても、本体はどこにもなかった。
出てきたのは、久代が朱沼の部屋に置こうとした切れ端だけだった。
久代がどこかに隠したのか。
それとも、久代以外の誰かが持っているのか。
それすら、わからなかった。
その話に、小部屋の空気が重く沈んだ。
久代幸人を取り押さえてからこちら、捜査は一歩も前へ進んでいなかった。
決定的な証拠は、どれも見つからなかった。
朱沼茂は、消えたままだった。
後ろ姿の男の正体も、わからなかった。
何もかもが、霧の中にあった。
久代幸人は、麓で黙秘を続けているという。
朝の供述を変えてから、何も話さなくなっていた。
多胡美咲の手紙のことも、城岬隆の薬のことも、朱沼茂の失踪のことも、ひと言も話さない。
手帳の切れ端を朱沼に返そうとしただけだ。
そう言い張ったまま、久代は黙り込んでいた。
その黙秘の意味を、沙耶香はじっと考えた。
夜中の廊下で、これは俺の正義だと言いかけた男だった。
その男が、麓へ移送されたあと、一転して黙り込んでいる。
それは、なぜなのか。
沙耶香の中で、ひとつの考えが立ち上がってきた。
久代は取り押さえられる前まで、朱沼を犯人に仕立てようとしていた。
しかし久代自身が取り押さえられて、その計画は失敗したはずだった。
ところが、朱沼が林へ消えた。
帽子だけが、残された。
それはまるで、朱沼が犯人として自死したか、逃亡したように見える状況だった。
久代が取り押さえられたあとも、久代の描いた絵が、誰かの手で実行され続けている。
久代が黙秘に転じたのは、その絵がまだ動いていることを、久代自身が知っているからではないか。
沙耶香は、その読みを、低く九能に伝えた。
九能はしばらく沈黙してから、ゆっくりとうなずいた。
その読みが正しいなら、久代には共犯者がいる。
九能のその言葉が、小部屋の中に重く落ちた。
久代に共犯者がいて、その共犯者が、朱沼に白い紙を手渡した後ろ姿の男なのか。
その共犯者が、朱沼を犯人として葬り去る最後の絵を、久代の手を離れたあとも実行し続けているのか。
しかしそれもまだ、確証のない読みに過ぎなかった。
久代に共犯者がいるとしても、その共犯者が誰なのか、手がかりは何もなかった。
あるのは、後ろ姿の男だけだった。
顔もわからず、背格好もわからず、声も聞いていない。
久代に共犯者がいるかもしれない。
それなのに、それを示す手がかりは、後ろ姿の男ひとつだけだった。
そしてその男が誰なのかも、わからなかった。
捜査は、完全に当てを失っていた。
久代を立件する証拠もない。
朱沼の行方もわからない。
共犯者の正体もわからない。
すべてが霧の中で、当てもなく漂っていた。
その日の夕方、九能は宿の玄関の前に立っていた。
暮れていく谷の空を、じっと見ていた。
その横に、沙耶香が立った。
こういうときはどうするのかと、沙耶香は低く尋ねた。
九能はしばらく答えなかった。
それから、暮れていく谷の空を見たまま、低く言った。
「待つしかないときがある」
谷の上の空が、夕暮れの色に染まっていた。
合掌造りの大屋根の急な角度が、黒い影になって浮かんでいた。
九能はその屋根の影を見上げながら、続けた。
「手がかりがないときは、無理に動いても空回りするだけだ。そういうときは、いったん、すべての証言を最初から並べ直す」
ツアーが始まった日から、いまこの瞬間まで。
誰が、いつ、どこで、何を言い、何をしたか。
それを最初からひとつずつ並べ直す。
その中には必ず、最初は見落としていた小さなずれがある。
そのずれを見つけるまで、何度でも並べ直す。
それが、捜査のいちばん地味で、いちばん確実なやり方だった。
派手な追跡でも、劇的な発見でもなかった。
ただひたすら、すべての証言を最初から並べ直す。
その地味な作業の中にこそ、捜査の本体があった。
沙耶香も、その作業を手伝うことにした。
彼女のノートには、ツアーが始まった日からのすべての観察が残っていた。
ライターの目で見た記録は、警察の調書とは違う角度から、事件を捉えていた。
暮れていく谷の空の下で、ふたりは宿の中へ戻った。
その夜、捜査拠点の小部屋で、四人は机の上にすべてを並べた。
すべての証言。
すべての記録。
すべての写真。
東京駅の集合場所から、サービスエリアへ。
白川郷の集落から、合掌造りの宿へ。
林の中の多胡美咲の死。
密室の中の城岬隆の死。
久代幸人の取り押さえ。
そして、朱沼茂の失踪。
そのすべてを、最初から並べ直していった。
しかしその夜、いくら並べ直しても、まだ小さなずれは見つからなかった。
四人は深夜まで、机の上の証言と記録と写真を、ひとつずつ見つめ続けた。
朱沼茂の行方も、共犯者の正体も、久代を立件する証拠も、何ひとつ見つからなかった。
夜は、当てもなく深まっていった。
外では、谷の風が、合掌造りの大屋根の急な角度の上を、低くなで上げては、なで下ろしていた。
その風の音の中で、長い捜査の霧の夜が、当てもなく続いていった。
旅情ライター篠原沙耶香の新しい事件簿は、捜査のいちばん深い霧の中で、何の手がかりも得られないまま、当てもなく漂い続けていた。
その霧の向こうに、夢野りりのあの短いセリフだけが、まだしずかに、最後の鍵として隠れていた。
『これは、私の正義じゃない』。
そのひと言が事件の本当の闇とぶつかる日は、まだ遠かった。




