水の救済
だが――
その瞬間、階段の下から、慌ただしい足音が響いた。
マンションの管理人らしき中年男性が、非常階段の入り口から顔を出した。
叫び声を聞き、念のため巡回に来ていたのだ。
「どうした!? 誰か怪我か!?」
声は、粉の雲を切り裂くように届いた。
男性は、白く立ち込める霧に気づき、慌ててポケットからハンカチを取り出す。
同時に、階段の手すりに備え付けられていた、しっかり点検済みの非常用散水ホースのバルブを、反射的に捻った。
ホースの先端から、勢いよく水が噴き出す。
冷たい水流は、粉の雲を一瞬で吹き飛ばし、明の顔面を直撃した。
水が口と鼻に流れ込み、白い粉を洗い流す。
明は、反射的に水を飲み込みながらも、激しく咳き込み、ようやく空気を吸い込んだ。
肺に残った粉が、水で薄められ、吐き出される。
息が、戻ってきた。
肺の焼ける痛みが、ゆっくりと引いていく。
管理人は、ホースを止め、明に駆け寄る。
「大丈夫か!? 息はできるか!? 救急車呼ぶぞ!」
明は、びしょ濡れになりながら、壁に背を預けて座り込んだ。
口の中が粉の味で苦く、喉がまだヒリヒリと疼く。
服は水に濡れ、髪から滴が落ちる。
だが、生きている。
また、生き延びた。
遥は、震える手で自分の顔を覆い、階段の隅にしゃがみ込んだ。
指の間から、涙が零れ落ちる。
管理人が、二人を交互に見ながら、スマホを取り出す。
その指が、わずかに震えていた。
消火器の物理攻撃を、奇跡が受け止めた。
この介入はまたも「元からあった」ものだけ。
非常用ホースのバルブは、マンションの防火設備として、いつもそこにあった。
管理人の巡回タイミングも、叫び声がきっかけで「偶然」早まっただけ。
ただ、それだけ。
でも、それで十分だった。
木村明は、無傷ではないが、死んではいない。
粉の窒息から、水で救われた。
びしょ濡れの体に、昼の光が冷たく反射する。
精神は、さらに深く抉られている。
死に損ねるたび、悪魔の声が、頭の奥で、少しずつ、大きくなるはずだ。
階段の踊り場に、静けさが戻る。
水滴が、コンクリートに落ちる音だけが、小さく、繰り返し響いていた。




