ずれた軌道
だが――
その瞬間、マンションの非常階段自体、古い耐震補強工事の名残で、基部に仕込まれていた「免震ゴム」の層が、衝撃を吸収した。
トラックの勢いが、柱をへし折る寸前で、階段全体が、わずか数センチ、水平にずれた。
まるで巨大なスライドのように、静かに、しかし確実に。
踊り場がトラックの進行方向に対して横へ滑り、明の体は端に投げ出されながらも、荷台の角に、かすっただけ。
服の裾が裂け、背中がコンクリートの壁に軽くぶつかる。
それだけだった。
トラックは勢い余って階段の基部を抉り、反対側のフェンスを突き破って、路地の向こうの空き地へ突っ込んだ。
エンジンが唸りを上げ、止まる。
クラクションが、虚しく、繰り返し鳴り続ける。
明は、踊り場に転がったまま、息を吐いた。
体は打撲と擦り傷だけ。
骨は一本も折れていない。
内臓も、無事。
服が破れ、血が少し滲んでいるだけ。
管理人は壁に叩きつけられて気を失っているが、息はある。
遥は階段の隅で縮こまり、呆然としている。
トラックの運転手はシートベルトで固定されたまま目を覚まし、慌てて降りてくる。
「す、すみません!寝てたんです……!」
明は、空を見上げた。
昼の光が、まだ白く、高く広がっている。
雲一つなく、ただ青い。
まだ、生きている。
トラックに轢かれ、異世界へ飛ばされるはずだったのに。
免震ゴム。
このマンションが、数年前に耐震改修をした時、非常階段の基部に後付けで入れたもの。
誰も覚えていない、ただの「あった」設備。
それが、今日、このタイミングで、トラックの衝撃を、ほんの少し、逸らした。
悪魔の物理は、またしても完璧だった。
トラックさんは、無敵のはずなのに。
悪魔の最後の手段を、「元からあった」免震ゴム一枚で、かすり傷程度に変えてしまった。
木村明は、まだここにいる。
死に損ね、転生すら許されず、この世界で生き続けることを強いられている。
明は、ゆっくりと体を起こした。
背中の痛みが、鈍く響く。
喉のヒリヒリ、肺の残り香、服の裂け目から滲む血。
すべてが、まだ体に残っている。
何度も死にかけた。
何度も、死ねなかった。
飛び降り、首を絞められ、粉で窒息し、トラックに潰されそうになった。
なのに、不思議と、何度も生き残った。
ネットの柔らかさ、消火器の落下、ホースの水、免震ゴムのずれ。
どれも、この街に「元からあった」もの。
ただの偶然が重なり合って、彼をこの世界に留め続けた。
日々の充実感がない。
それは、変わらない。
灰色の膜が視界を覆い、同じ繰り返しが皮膚を腐食させる感覚は、今も胸の奥に沈んでいる。
でも――
明は、ゆっくりと息を吐いた。
生き残ったということは、まだ、ここにいる意味があるのかもしれない。
選ぶべき道は、死ではないはずだ。
何度も死に損ねた体が、何度も助けられた偶然が、静かにそう告げているように思えた。
空はまだ青い。
光はまだ白く、容赦なく照らしている。
明は壁に手をつき、立ち上がろうとした。
足が少し震える。
だが、立ち上がる。
生き続けることを、今は受け入れるしかない。
階段の踊り場に、クラクションの音が遠く響き続ける。
明はもう一度、空を見上げた。
この世界でまだ、何かが待っているのかもしれない。




