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神と悪魔の小さな戦争  作者: 星狼


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11/12

ずれた軌道

だが――


その瞬間、マンションの非常階段自体、古い耐震補強工事の名残で、基部に仕込まれていた「免震ゴム」の層が、衝撃を吸収した。


トラックの勢いが、柱をへし折る寸前で、階段全体が、わずか数センチ、水平にずれた。

まるで巨大なスライドのように、静かに、しかし確実に。

踊り場がトラックの進行方向に対して横へ滑り、明の体は端に投げ出されながらも、荷台の角に、かすっただけ。

服の裾が裂け、背中がコンクリートの壁に軽くぶつかる。

それだけだった。


トラックは勢い余って階段の基部を抉り、反対側のフェンスを突き破って、路地の向こうの空き地へ突っ込んだ。

エンジンが唸りを上げ、止まる。

クラクションが、虚しく、繰り返し鳴り続ける。


明は、踊り場に転がったまま、息を吐いた。

体は打撲と擦り傷だけ。

骨は一本も折れていない。

内臓も、無事。

服が破れ、血が少し滲んでいるだけ。

管理人は壁に叩きつけられて気を失っているが、息はある。

遥は階段の隅で縮こまり、呆然としている。


トラックの運転手はシートベルトで固定されたまま目を覚まし、慌てて降りてくる。

「す、すみません!寝てたんです……!」


明は、空を見上げた。

昼の光が、まだ白く、高く広がっている。

雲一つなく、ただ青い。

まだ、生きている。

トラックに轢かれ、異世界へ飛ばされるはずだったのに。

免震ゴム。

このマンションが、数年前に耐震改修をした時、非常階段の基部に後付けで入れたもの。

誰も覚えていない、ただの「あった」設備。

それが、今日、このタイミングで、トラックの衝撃を、ほんの少し、逸らした。


悪魔の物理は、またしても完璧だった。

トラックさんは、無敵のはずなのに。

悪魔の最後の手段を、「元からあった」免震ゴム一枚で、かすり傷程度に変えてしまった。


木村明は、まだここにいる。

死に損ね、転生すら許されず、この世界で生き続けることを強いられている。


明は、ゆっくりと体を起こした。

背中の痛みが、鈍く響く。

喉のヒリヒリ、肺の残り香、服の裂け目から滲む血。

すべてが、まだ体に残っている。

何度も死にかけた。

何度も、死ねなかった。

飛び降り、首を絞められ、粉で窒息し、トラックに潰されそうになった。

なのに、不思議と、何度も生き残った。

ネットの柔らかさ、消火器の落下、ホースの水、免震ゴムのずれ。

どれも、この街に「元からあった」もの。

ただの偶然が重なり合って、彼をこの世界に留め続けた。


日々の充実感がない。

それは、変わらない。

灰色の膜が視界を覆い、同じ繰り返しが皮膚を腐食させる感覚は、今も胸の奥に沈んでいる。


でも――


明は、ゆっくりと息を吐いた。

生き残ったということは、まだ、ここにいる意味があるのかもしれない。

選ぶべき道は、死ではないはずだ。

何度も死に損ねた体が、何度も助けられた偶然が、静かにそう告げているように思えた。


空はまだ青い。

光はまだ白く、容赦なく照らしている。

明は壁に手をつき、立ち上がろうとした。

足が少し震える。

だが、立ち上がる。

生き続けることを、今は受け入れるしかない。


階段の踊り場に、クラクションの音が遠く響き続ける。

明はもう一度、空を見上げた。

この世界でまだ、何かが待っているのかもしれない。

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