無敵の影
木村明は、非常階段の踊り場でびしょ濡れのまま壁に寄りかかり、咳き込みながら息を整えようとしていた。
喉の奥に残る粉の苦い残り香が、舌を刺すように広がる。
肺がヒリヒリと疼き、冷たい水滴が服から滴り落ちる。
管理人の声が遠くに響く――スマホを耳に当て、救急車を呼ぶ言葉が、ぼんやりとした霧のように届く。
遥は隅で膝を抱え、震えながら体を縮めている。
誰もが、一瞬の静けさの中に沈み込んでいた。
昼の光が、濡れたコンクリートに冷たく反射する。
だが、その静けさを、突然、切り裂いたのは――
低く唸るエンジン音だった。
マンションの裏手、非常階段の下に面した細い路地。
普段は配送車や軽トラしか通らない、狭くて見通しの悪い道。
そこから、巨大な荷台付きのトラックが、まるで意志を持った生き物のように、猛スピードで突っ込んできた。
運転手は、居眠りしていた。
長時間の連続運転、昨夜の徹夜仕事、コーヒーも切れて。
ハンドルを握った手が、緩く滑り、アクセルを踏み込んだまま。
トラックは、路地の角を曲がり損ね、
非常階段の基部――ちょうど明と管理人と遥がいる踊り場の真下――へ、直進で突っ込んだ。
コンクリートの柱が、軋むような音を立ててひび割れる。
鉄骨が、悲鳴のように曲がる。
トラックのフロントが、階段の最下段を直撃した。
衝撃波が、踊り場全体を震わせ、
明の体が、浮き上がる。
管理人のスマホが、手から滑り落ちる。
遥の悲鳴が、短く、鋭く上がる。
トラックさんは、無敵だ。
異世界転生の定番。
悪魔の最後の手段は、物理の極限。
この一撃で、明の体は粉砕され、魂は別の世界へ飛ばされる。
死は、確実。
いや、死ですらない。
ただの「転送」。




