目標
目を閉じたまま、センパイの気配を感じている。
昨夜の記憶が、まだ体の中で鮮やかに残っている。でも今は、静かに横たわったまま。ベッドがわずかに揺れる。まつげの隙間から、センパイの表情を盗み見る。スマートフォンを見つめる瞳が揺れ、指が震えている。私には見えない言葉が、センパイを苦しめている。
ゆっくりと寝返りを打つふりをする。髪が枕に広がる。視線を感じる。研究室でも、時々見かける不安げな表情。長袖の下に隠された手首の痕。私には見せようとしない、私には見えていない何かがある。
私たちの関係は、この春に始まったばかり。研究室での会話、夜遅くまでのデータ整理、コーヒーだってもう何百回も入れた。そんな日常の積み重ねが、今、新しい形を見つけようとしている。
センパイの様子が変わる。画面を見つめる表情が、さらに暗く沈む。無意識に手首に触れる仕草に、胸が締め付けられる。センパイを苦しめているものの正体は分からない。でも、きっと私にも何かできるはず。
寝たふりを続ける。問いかけても、答えてくれないだろう。そっと、また寝返りを打つ。センパイの温もりに、少しだけ近づく。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、少しずつ部屋を明るくしていく。いつか全てを話してくれるはず。
今は、この穏やかな呼吸を装いながら、センパイの側にいることしかできない。でも、それでいい。昨夜の温もりは、確かに私たちの間に存在している。それは、誰にも否定できない現実。
「私がいます」
心の中でそっと囁く。
***
車窓を叩く雨が強くなってきた。
隣のセンパイが、スマートフォンの画面を見つめている。その表情の陰りを、私は見逃さない。画面に映るメッセージの内容は読めないけれど、送信者が誰なのかは明らかだった。センパイを傷つける人。
「大丈夫ですか?」
そっと声をかける。センパイの「ちょっと疲れただけ」という言葉に、嘘が混じっているのがわかる。長袖の下の手首。あの痕が、まだ完全には消えていない。
数時間前まで、あの手を握っていた。温かな掌の感触が、まだ残っている。耳元で聞いた寝息の音。その記憶が、今の不安をより一層強くする。
雨の中での別れ際。傘を差しながら、センパイの後ろ姿を見送る。どこか遠くへ行ってしまいそうな背中。本当は一緒に帰りたかった。でも、そうは言ってくれなかった。この雨の中、きっとあの人が待っている――そんな予感が、不安を掻き立てる。いや、不安だけだろうか。
ホームに向かう足が、突然止まる。このまま帰っていいのだろうか。センパイの表情が、頭から離れない。あの不安げな瞳。朝の光の中で見た、穏やかな寝顔とは違う何か。
改札を出る。雨は更に強くなっている。
濡れた髪が頬に張り付く。でも、それも気にならない。
タクシーを拾おうとするが、この雨では難しい。センパイのアパートまでの道のりを、頭の中で描く。普段なら15分。でも走れば、もしかしたら。
走り出す。
傘も差さず、ただひたすらに。
足下が跳ねる水溜まりも、構わない。
前を行く人の黒い傘の影。その向こうに、長い黒髪が見えた気がして、更に足を速める。雨に濡れた街灯が、不気味な影を作り出す。
胸の奥で、朝の記憶が鼓動と共に打ち付ける。カーテンの隙間から差し込んでいた光。柔らかな寝息。
アパートの階段を駆け上がる。
息が切れる。
でも、立ち止まれない。
インターホンに手をかける。
指が震える。
******
桜のつぼみが、夜風に揺られている。
論文投稿を終えた。センパイと二人、最後まで見直した文章の一つ一つが、まだ頭の中で残響している。何度も議論を重ねた図表、推敲を重ねた考察。そして、センパイと自分の名前が並んだ論文が世界に発表される。私たちの共著論文。
声が漏れる。
「あ、もうこんな時間」
このスマートフォンのギャラリーには、私たちの思い出が詰まっている。
クリスマスのイルミネーション。あの夜、ようやくセンパイを自分のものにできた喜びに震えていた記憶。初詣で引いたおみくじを見比べる楽しそうな表情。「大吉だよ」と嬉しそうに見せてくれたセンパイの笑顔。バレンタインに渡した不格好なチョコレートを、「手作り?」と驚きながら照れて受け取ってくれた瞬間。ライブハウスでの興奮、あの時はじめて見せてくれた無邪気な表情。スキー場のリフトで見せた、少し怖がる仕草が愛おしくて思わずそっと手を握った。水族館でイルカを見る横顔を、夢中になっているすきにこっそり撮影。河川敷で見つけた菜の花に、「きれいだね」と子供のように無邪気な笑顔を見せてくれた日。
どの写真にも、プロのような技術はない。ピントが甘かったり、構図が歪んでいたり。でも、そこには私たちの確かな時間が流れている。写真を撮る時、私の手はいつも少し震えている。センパイの自然な表情を切り取ることへの緊張と、喜びと。
「センパイ、お茶入れましょうか?」
データに向き合うセンパイの横顔を見つめながら、そっと声をかける。こうして二人でいられる。なんて幸せなんだろう。
コーヒーを淹れながら、立ち上る湯気に見入る。豆を挽く音、お湯を注ぐ時の香り、カップを渡す時の指先の触れ合い。こんな些細な瞬間の積み重ねが、私たちの関係を形作っているのだと思う。この何気ない時間が、どれほど愛おしいか。




