狂気
今夜のスタジオ。
燭台の炎が私の内なる熱を、ゆらゆらと。
壁際の十字架が、私の罪を見つめている。
衣装を選ぶ指先から、体が火照り始める。
鏡の前で何度も。
全ては彼の視線を意識して。
見られることへの期待に、体が熱く、疼く。
ドアの開く音に、鼓動が跳ねる。
そして──。
息が止まる。
赤いドレスに身を包まれた彼。
レザーの手袋に包まれた腕の、官能的な曲線。
カメラを構える手が震える。
彼の目が這う。
露出した首筋、胸元の谷間、スリットから覗く脚。
背筋が震える。
支配しているはずなのに。
むしろ私の方が、囚われている。
「上着を、脱いで」
声が掠れる。
黒のレザーコルセットが彼の体を、優美に、残酷に。
理性が、溶けていく。
紐を締める手が止まらない。
きつく。
もっときつく。
吐息が熱い。
首筋に汗が滲む。
その仕草があまりにも──。
昂ぶりが、抑えきれない。
「息、できる?」
声が震える。
苦しそうな表情に興奮が走る。
罪悪感なのに。
手は紐を引き続ける。
指が震えるほど、美しい。
ファインダー越しの彼は。
汗に濡れた肌。
キャンドルの炎に照らされ。
官能的な陰影。
芸術? 欲望?
もう、区別がつかない。
呼吸が乱れる。
服装が乱れる。
心が乱れる。
冷静な撮影者の仮面が崩れ落ちて。
生々しい欲望が剥き出しに。
これは写真撮影という名の──。
「大丈夫っ?」
恐怖が走る。
意識を失いかけた彼。
ハサミで切る音。
紐が床に落ちる。
昂ぶりが、静かに鎮まっていく。
「でも、なんだか安心しました」
手が止まる。
汗に濡れた彼の表情。
穏やかな安堵。
それなのに、胸が締め付けられる。
「安心?」
「はい。先輩も安心しましたか?」
*
車の中。
涙が溢れる。
「ありがとう」
ハンドルに突っ伏したまま。
支配欲。
執着。
全ては、失うことへの不安。
「こんな私の気持ちまで」
声にならない声で。
「受け止めてくれて」
彼の優しさが、胸を引き裂く。
シートに染みる涙が、止まらない。
***
露天風呂前の鏡。
長い躊躇。
タオルで体を包み直す手が震える。
期待と不安と。
男性への警戒が、体に染みついている。
でも、彼なら。
大丈夫だと、言い聞かせる。
「入っていい?」
声を明るく保とうとする。
震えを悟られないように。
これは演技。
演じているから、できること。
湯船に足を伸ばす。
できるだけ自然に。
「元カノと、会ってるの?」
「冬休みからは全然……」
小さく息をつく。
「冗談よ」と取り繕う。
笑顔の練習なら、随分してきた。
安心と焦りが、ないまぜに。
月光に照らされた彼。
近づきたい。
でも、このままの距離がいい。
遠すぎず、近すぎず。
それなのに、体が勝手に。
「ねえ、ちょっとは喜んでくれてる?」
私、何を確かめようとしているの?
その時。
気づいた変化に。
頭が真っ白に。
突然の恐怖。
警戒心が戻る。
逃げるように湯船から。
震える手が顔を覆う。
カメラを通せば。
安全な距離を保てるのに。
レンズという壁があれば。
怖くないのに。
でも、違う。
カメラは言い訳。
近づきたい。
でも、怖い。
だから演出。
だから支配。
この矛盾から。
全てが生まれる。
恐怖と愛情が。
戦い続ける。
***
「写真、見せてしまいました」
何かが、壊れる。
「後輩が、彼女との撮影だと」
冷たい笑みが浮かぶ。
「私たちの関係って」
「そんな単純なものだと思う?」
もう、理性は効かない。
金具の音が不吉に。
革が軋んで。
シャッター音が狂気のように。
彼の両手首に。
深い痕が刻まれる。
*
手首の赤が、目に焼き付いて。
熱が覚めるにつれ。
重大さが迫る。
傷つけて。
喜びを感じて。
吐き気が。
床に崩れ落ちる。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
声にならない謝罪。
肩が震える。
涙は止まらない。
でも──。
手首の痕。
私が。
私だけが。
刻んだ印。
背筋に甘い戦慄。
「違う」
「こんなの違う」
頭を振る。
吐き気が、また。
データの中の彼。
苦痛に歪む表情さえ美しく。
革に縛られた手首が。
私の存在を主張。
「こんなことを」
モニターに映る私の顔。
嫌悪感に歪む。
なのに、痕の写真に目が離せない。
私の刻印。
私だけの。
永遠に消えない──。
「違う!」
叫び声が暗闇に響く。
削除ボタンに指をかける。
でも、押せない。
確認のつもり、開いた写真。
また、戦慄が。
「醜い」
「私は、醜い」
モニターを消しても。
闇の中で見える写真。
夜の街へ飛び出す。
「もう、終わりにしなきゃ」
カメラを。
ゴミ箱に近づく手が震える。
***
研究が忙しい、と。
言い訳? 本当?
不安が押しつぶす。
聞けない。
でも、確認せずには。
「まだ残ってるの?」
「写真、送って」
異常だと、わかってる。
でも、抑えられない。
「Beautiful!」
手首の痕跡。
私の支配の証。
まだ消えてない。
まだ、私のもの。
気づけば注文していた。
同じカメラ。
同じレンズ。
同じ狂気。
「醜い」
カメラを抱きしめる。
涙が溢れる。
闇が広がる。
***
古びたスタジオの階段。
天窓からの雨に濡れた光。
私の狂気を包み込む。
これから起こることへの期待に。
体が熱を帯びる。
屋上。
錆びた手すりに光る雨粒。
白いシャツが濡れて。
透けていく。
レンズ越しの彼は。
この上なく美しい。
所有したい。
永遠に。
私だけのものに。
冷たい鉄に、紐を。
彼の手首。
私の支配。
永遠の刻印。
シャッター音が、雨音に紛れる。
「動かないで」
濡れた髪が頬に張り付く。
まつげには雨の雫。
涙?
どちらでもいい。
全て美しい。
紐を強く締める。
痛みで歪む表情も。
濡れた唇も。
全てが私のもの。
雨に濡れて。
化粧が崩れても。
むしろ、この乱れこそが。
本当の私。
「これで、逃げられなくなった」
陶酔めいた声。
シャッターを切る。
もう芸術でも写真でもない。
これは、私の狂気の記録。
雨が音を立てて。
私たちを、世界から遮断するように。
*
夜な夜な、見返すデータ。
画面の中の彼は、私だけのもの。
私の狂気の結晶。
私の歪んだ愛の形。
送れない。
この写真を見たら。
彼は本当に、私を恐れる。
後輩の目には、絶対に触れさせない。
パスワードをかけて。
フォルダの奥深くに。
封印する。
私だけの、暗い至宝。
誰にも見せない。
でも、何度も見返してしまう。
真夜中。
モニターの前で独り。
「愛してる」
画面の中の彼に、狂おしく。
その声が、暗い部屋に虚しく。
彼の中で。
私以外の存在が。
確実に大きくなる。
それを知るたび。
より深い闇へと。
引きずり込まれる。
いつか、全てが壊れる。
だからこそ。
今この瞬間を。
この写真の中で。
彼は永遠に。
私のもの。
降り続ける雨。
私の中の狂気も。
降り続いていた。
「ごめんなさい」
画面の中の彼に。
何度も謝罪を。
でも、削除できない。
これが、私の愛なのだから。




