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シャッターの隙間から  作者: 菱屋千里
「サイドストーリー」
28/32

狂気

今夜のスタジオ。


燭台の炎が私の内なる熱を、ゆらゆらと。

壁際の十字架が、私の罪を見つめている。


衣装を選ぶ指先から、体が火照り始める。

鏡の前で何度も。

全ては彼の視線を意識して。

見られることへの期待に、体が熱く、疼く。


ドアの開く音に、鼓動が跳ねる。

そして──。


息が止まる。


赤いドレスに身を包まれた彼。

レザーの手袋に包まれた腕の、官能的な曲線。


カメラを構える手が震える。


彼の目が這う。

露出した首筋、胸元の谷間、スリットから覗く脚。

背筋が震える。


支配しているはずなのに。

むしろ私の方が、囚われている。


「上着を、脱いで」

声が掠れる。

黒のレザーコルセットが彼の体を、優美に、残酷に。

理性が、溶けていく。


紐を締める手が止まらない。

きつく。

もっときつく。


吐息が熱い。

首筋に汗が滲む。

その仕草があまりにも──。

昂ぶりが、抑えきれない。


「息、できる?」


声が震える。

苦しそうな表情に興奮が走る。

罪悪感なのに。

手は紐を引き続ける。


指が震えるほど、美しい。

ファインダー越しの彼は。

汗に濡れた肌。

キャンドルの炎に照らされ。

官能的な陰影。

芸術? 欲望?

もう、区別がつかない。


呼吸が乱れる。

服装が乱れる。

心が乱れる。


冷静な撮影者の仮面が崩れ落ちて。

生々しい欲望が剥き出しに。

これは写真撮影という名の──。


「大丈夫っ?」


恐怖が走る。

意識を失いかけた彼。


ハサミで切る音。

紐が床に落ちる。

昂ぶりが、静かに鎮まっていく。


「でも、なんだか安心しました」


手が止まる。

汗に濡れた彼の表情。

穏やかな安堵。

それなのに、胸が締め付けられる。


「安心?」

「はい。先輩も安心しましたか?」


*


車の中。

涙が溢れる。


「ありがとう」


ハンドルに突っ伏したまま。


支配欲。

執着。

全ては、失うことへの不安。


「こんな私の気持ちまで」

声にならない声で。

「受け止めてくれて」


彼の優しさが、胸を引き裂く。

シートに染みる涙が、止まらない。


***


露天風呂前の鏡。

長い躊躇。


タオルで体を包み直す手が震える。

期待と不安と。

男性への警戒が、体に染みついている。


でも、彼なら。

大丈夫だと、言い聞かせる。


「入っていい?」


声を明るく保とうとする。

震えを悟られないように。

これは演技。

演じているから、できること。


湯船に足を伸ばす。

できるだけ自然に。


「元カノと、会ってるの?」

「冬休みからは全然……」


小さく息をつく。

「冗談よ」と取り繕う。

笑顔の練習なら、随分してきた。


安心と焦りが、ないまぜに。


月光に照らされた彼。

近づきたい。

でも、このままの距離がいい。

遠すぎず、近すぎず。


それなのに、体が勝手に。


「ねえ、ちょっとは喜んでくれてる?」


私、何を確かめようとしているの?


その時。

気づいた変化に。

頭が真っ白に。


突然の恐怖。

警戒心が戻る。

逃げるように湯船から。


震える手が顔を覆う。


カメラを通せば。

安全な距離を保てるのに。

レンズという壁があれば。

怖くないのに。


でも、違う。

カメラは言い訳。

近づきたい。

でも、怖い。


だから演出。

だから支配。

この矛盾から。

全てが生まれる。


恐怖と愛情が。

戦い続ける。


***


「写真、見せてしまいました」


何かが、壊れる。


「後輩が、彼女との撮影だと」


冷たい笑みが浮かぶ。


「私たちの関係って」

「そんな単純なものだと思う?」


もう、理性は効かない。

金具の音が不吉に。

革が軋んで。

シャッター音が狂気のように。


彼の両手首に。

深い痕が刻まれる。


*


手首の赤が、目に焼き付いて。

熱が覚めるにつれ。

重大さが迫る。


傷つけて。

喜びを感じて。

吐き気が。


床に崩れ落ちる。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」


声にならない謝罪。

肩が震える。

涙は止まらない。


でも──。


手首の痕。

私が。

私だけが。

刻んだ印。


背筋に甘い戦慄。


「違う」

「こんなの違う」


頭を振る。

吐き気が、また。


データの中の彼。

苦痛に歪む表情さえ美しく。

革に縛られた手首が。

私の存在を主張。


「こんなことを」


モニターに映る私の顔。

嫌悪感に歪む。

なのに、痕の写真に目が離せない。


私の刻印。

私だけの。

永遠に消えない──。


「違う!」


叫び声が暗闇に響く。


削除ボタンに指をかける。

でも、押せない。

確認のつもり、開いた写真。

また、戦慄が。


「醜い」

「私は、醜い」


モニターを消しても。

闇の中で見える写真。


夜の街へ飛び出す。

「もう、終わりにしなきゃ」


カメラを。

ゴミ箱に近づく手が震える。


***


研究が忙しい、と。

言い訳? 本当?

不安が押しつぶす。


聞けない。

でも、確認せずには。


「まだ残ってるの?」

「写真、送って」


異常だと、わかってる。

でも、抑えられない。


「Beautiful!」


手首の痕跡。

私の支配の証。

まだ消えてない。

まだ、私のもの。


気づけば注文していた。

同じカメラ。

同じレンズ。

同じ狂気。


「醜い」


カメラを抱きしめる。

涙が溢れる。

闇が広がる。


***


古びたスタジオの階段。

天窓からの雨に濡れた光。

私の狂気を包み込む。

これから起こることへの期待に。

体が熱を帯びる。


屋上。

錆びた手すりに光る雨粒。

白いシャツが濡れて。

透けていく。


レンズ越しの彼は。

この上なく美しい。


所有したい。

永遠に。

私だけのものに。


冷たい鉄に、紐を。

彼の手首。

私の支配。

永遠の刻印。


シャッター音が、雨音に紛れる。


「動かないで」


濡れた髪が頬に張り付く。

まつげには雨の雫。

涙?

どちらでもいい。

全て美しい。


紐を強く締める。

痛みで歪む表情も。

濡れた唇も。

全てが私のもの。


雨に濡れて。

化粧が崩れても。

むしろ、この乱れこそが。

本当の私。


「これで、逃げられなくなった」


陶酔めいた声。

シャッターを切る。

もう芸術でも写真でもない。

これは、私の狂気の記録。


雨が音を立てて。

私たちを、世界から遮断するように。


*


夜な夜な、見返すデータ。

画面の中の彼は、私だけのもの。

私の狂気の結晶。

私の歪んだ愛の形。


送れない。

この写真を見たら。

彼は本当に、私を恐れる。

後輩の目には、絶対に触れさせない。


パスワードをかけて。

フォルダの奥深くに。

封印する。


私だけの、暗い至宝。

誰にも見せない。

でも、何度も見返してしまう。


真夜中。

モニターの前で独り。


「愛してる」


画面の中の彼に、狂おしく。

その声が、暗い部屋に虚しく。


彼の中で。

私以外の存在が。

確実に大きくなる。


それを知るたび。

より深い闇へと。

引きずり込まれる。


いつか、全てが壊れる。

だからこそ。

今この瞬間を。


この写真の中で。

彼は永遠に。

私のもの。


降り続ける雨。

私の中の狂気も。

降り続いていた。


「ごめんなさい」


画面の中の彼に。

何度も謝罪を。


でも、削除できない。

これが、私の愛なのだから。

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