自分
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光で目覚める。枕に黒く広がる後輩の髪。昨夜の記憶が、少しずつ鮮明になっていく。優しい告白と、柔らかな体温。忘れかけていた感覚。
スマートフォンに、メッセージが残されていた。送信者は、先輩。
――発表お疲れさま。発表以外のことも、うまくいったみたいね。
でも私たちの関係は、そんな単純なものじゃない。次の撮影、楽しみにしてる。――
穏やかな寝顔を見つめる。この状況は、一般的な浮気ではないはず。でも、罪の意識が重くのしかかる。社内不倫に悩む元カノに、自分は何と言ったのだったか。
あの海辺の旅館、月明かりの中で浴衣姿の先輩は語った。私だけのものにしたい、支配したい、理想の形に作り変えたいと。それは詩的な表現や比喩などではなく、そのままの生々しい感情だったと、いまさら実感する。
過激になる衣装も演出も、レンズの向こう側の非日常なら、それでよかった。撮った作品を『私だけのもの』にするのも構わない。けれど、体に残される痕跡。学会での影。今も近くにいるのかも知れない。確実に日常を侵食し始めている。
隣で眠る後輩の寝顔。朝の穏やかな空気が、少しずつ濁っていく。
***
帰りの新幹線。窓を叩く雨が強まり、車窓が白く霞んでいく。
画面を見つめる目が、先輩からのメッセージに釘付けになる。横から後輩の目を感じる。
「大丈夫ですか?」
「うん、ちょっと疲れただけ」
後輩の目が、一瞬手首の痕に留まる。
「明日、研究室で」
傘の下での別れ際、後輩のためらいが雨音に溶けていく。
アパートまでの道のり。風に髪が濡れ、頬に張り付く。曲がり角を過ぎたところで、影が動いた。
玄関先に佇む先輩。喪服かと錯覚するほど黒い。雨に濡れた服が、生き物めいて蠢く。
「お帰り」
声が優しい。目が、笑っていない。遠雷が響き、空が割れた。
「部屋、お邪魔させてもらうわね」
断る言葉が見つからない。
カメラを取り出す先輩。
「特別な撮影、しましょう」
大きなバッグの底から取り出されたのは、光を帯びた銀色の装置と小さな鍵。その用途を理解した瞬間、背筋が凍る。これは、ある部分を完全に支配するための道具。他にも、見覚えのない拘束具の数々。
「楽しみにしてきたの」
激しさを増す雨音。部屋の空気が、少しずつ重くなっていく。
「見てたんですか?」
身震いする。
「ええ」
先輩の口角が上がり、目が細められる。
「発表の後のペットボトルも。ラウンジでの初々しいカップルも。全部」
窓を照らす稲光が、先輩の白い顔を浮かび上がらせる。
「なあに?」
言葉が出ない。雨音が激しさを増す。
「あなたは、自由よ」
先輩の声が大きくなる。
「でも、私の気持ちは受け止めてくれるって、約束したわよね?」
雷鳴が轟く。
「狂気と認めながら、それでも受け止めると」
喉が乾く。
「先輩は、苦しそうでした」
「正直に伝えたはず」
切なげな声音。
「支配したい、私だけの形に作り変えたいって。歪んだ願望を」
稲光が走る。その一瞬の光の中で、瞳が潤んでいるのが見えた。
「理性では止められないってわかってた。だから終わりにしようとした。なのに、あなたが……」
先輩が一歩近づく。その手には、見覚えのある革の紐。
「ねえ、もう一度言って」
襟元の乱れから、生々しい緊迫感が滲む。
「受け止めるって」
その笑みに狂気が混ざる。長いまつげの下で瞳が異様な輝きを放つ。
「私の作品になって」
カメラを持つ手が震えている。もう片方の手には革の紐。
無意識に壁際に後ずさる。
その時、インターホンが鳴り響く。思わず応答ボタンを押す。
画面に映る後輩の姿。水滴が伝う髪。
「センパイ、忘れ物です」
忘れ物なんてないはず。
「開けてください」
どうしても来てしまったという表情が、画面越しに伝わってくる。
先輩の整った眉が歪む。
「開けてください!」
昨夜の温もりと痛さが蘇る。
「開いてる……」
先輩が、一瞬凍りつく。
ドアが開く音。濡れた髪から水が落ちる。息を切らしながらも、その目が真っ直ぐに見据えている。
「邪魔しないで」
先輩の声が低く響く。窓を打つ雨が強さを増す。
「一晩一緒に過ごしたくらいで」
長いまつげが濡れたように光り、目元が不安定に揺れる。
「そんなの、豚でもやってることよ」
「センパイを、放してください」
遠雷が轟く中、強い後輩の声。
「放す?」
先輩が短く笑う。その笑みには不自然な力みが見える。窓ガラスが風で軋むような音を立てる。
「これは、演出なの。お互い合意した」
「だって、嫌なら、逃げられるでしょ?」
カメラを持つ手が、わずかに上がる。
「これが、あなたの『センパイ』の本当の姿」
雷光が部屋を不気味に照らす。
「センパイ? そうなの?」
一歩前に出る後輩。その視線に、心が揺らぐ。
「そうよね? これが本当のあなた」
先輩も一歩、迫る。その視線に、何かが壊れる。
「先輩……」
言葉が喉に詰まる。
「自分は……」
先輩の視線と後輩の視線の間。
「自分は、先輩の望む姿を演じて、認められたかったんです」
部屋の空気が凍りつく。外の雨音が、これまでにない激しさで響き始める。
「先輩との撮影は、確かに心地よかった。褒められて嬉しかった。自信もついた。なにより憧れていた先輩と一緒」
深く息を吸う。
「でも、それは本当の自分じゃない」
「本当の自分?」
先輩がカメラを下ろし、髪をかき上げる。その仕草に、いつもの優雅さはない。
「そんなもの、どこにも存在しないわよ」
激しい雷鳴。突然の停電。闇の中で先輩の声が低く響く。
「他人の目に映るもの。それが自分よ」
「……先輩は、撮影で『自然に』って」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「どういう意味だったんですか?」
「それは……」
一瞬、言葉が途切れる。息遣いが乱れている。
「作られた表情や、媚びた仕草じゃなく……」
声が詰まる。衣擦れの音。
「プロの演技は嫌、それはわかります。でも、結局自分も演じてた。先輩の望む姿、先輩の理想を」
「嘘よ!」
怒号と雷鳴が重なる。
「演じたんじゃなく、変わったの。私が、あなたをそう作り上げた」
なにかが倒れる音。声が近づく。息がかかるほど。暗闇の中、先輩の体温が生々しく感じられる。
「レンズの向こうなら。でも、先輩。これは現実なんです」
明かりが戻る。突然の明るさに、目が眩む。その光の中で――
先輩のむき出しの表情。支配欲と執着と、そして。
「私がいなければ、あなたは……」
言葉が途切れる。カメラを握る腕が揺れている。
「先輩のおかげで、確かに変わった。でも」
「でも?」
「先輩のレンズに映らない自分も、確かにここにいます」
先輩の体から力が抜けていく。カメラが床に落ちる音が、最後のシャッター音のように響く。
「違うの」
壁に寄りかかるように崩れ落ちる。
「あなたを縛りたかったわけじゃない」
「離れていくのが、怖かっただけ」
黒髪の隙間から、潤んだ瞳が覗く。
「あなただけが、私の理想を、受け入れてくれた。この歪みさえも」
指が、宙をさまよう。まるで、消えゆく幻影を掴もうとするように。
「いつか、こうなると……」
何かを掴もうと伸ばした腕が力を失い、指先から床へ触れた。
「もう、私……」
声が途切れる。床に落ちたカメラのレンズに、三人の姿が小さく映る。
「私は」
後輩が一歩近づき、静かに語りかける。
「毎日センパイと向き合って、その姿を見てきました」
「あなた、何もわかってないのに……」
弱々しい先輩の声。
「いいえ、わかってます」
その言葉に、先輩の瞳が揺れる。
「論文を手伝わせてもらって、毎日の積み重ねの中で、ずっと見てきました」
後輩の声が、静かに響く。
「前提条件の設定も、仮説の間違いも、データの解釈も、すべてが意味を持つって、センパイから教わりました」
研究室での日々が蘇る。後輩は目の前の結果に向き合い、そこから何かを見出そうとしていた。
「写真だって同じはずです。レンズは現実を写すもの。理想を押しつけるものじゃない」
後輩が、床に落ちたカメラを拾い上げる。
「欲しい結論に合わせて、現実を作ってはいけないんです」
「あなたは、レンズの向こうにセンパイを閉じ込めようとした」
カメラをこちらに構えてみせ、すぐに顔から外す。
「でも、センパイには、こんな黒い箱には収まりきれない魅力があります」
雨音が、少しずつ弱まっていく。
「わかってる、そんなこと、わかってるわよ……」
先輩の声が、掠れていく。
胸の中の記憶が、写真のように浮かび上がる。リクルートスーツの自分、ファインダー越しの先輩、研究室での後輩。
「先輩との時間は、大切な思い出です。でも――」
レンズの向こう側の理想の自分も、研究室の現実も、どちらも本物。
選ぶのは、自分自身。
「自分は、作品なんかじゃない」
窓の外で、雷鳴が遠ざかっていく。
先輩の手を取り、そっと握る。冷たい汗が滲んでいた。
雨は上がろうとしていた。街灯が、濡れた闇を優しく照らし始める。




