不安
ほとんど人気のない八月のキャンパス。しかし、毎日のように研究室に通っている。蝉の声の中、学会発表の準備が本格化していく。
来月の学会。教員との三人での泊まりがけの出張に向けて、後輩は連夜遅くまで残ってくれる。
スマートフォンが震える。
「次の撮影、いつにする?」
メッセージを開く手が、ほんの少し重い。
「すみません、学会発表が終わってからでもいいでしょうか」
「そう。頑張ってね」
いつもと変わらない言葉。なのに、冷たく響く。
「センパイ?」
後輩の声に、ハッとする。
「最近、疲れてます?」
さりげない気遣い。後輩は、自分を見てくれている。
夕暮れの研究室。プロジェクターに映るスライド。後輩に発表の練習を聞いてもらう。一枚一枚に、遠慮のない指摘が入る。スライドの構成が洗練されていく。
夜が更けていく。街灯が次々と灯る中、資料を片付ける手が止まる。
「こんなに付き合ってくれて、ありがとう」
後輩が柔らかく微笑む。
「センパイの研究、一緒に頑張れて嬉しいです」
***
疲れ切った体をベッドに投げ出す。明日の発表。期待と不安が混ざり合う。
学会準備のために撮影を延期してから、先輩からの連絡が急に増えた。こちらが返事をする間もなく、次のメッセージが重ねられる。
照明を消すと、スマートフォンの画面が浮かび上がる。先輩からのメッセージ。返信しようとして、打ちかけては消す。
目を閉じる。寝ないといけないのに、先輩のことばかり気になってしまう。
***
早朝の新幹線からは、稲穂の揺れる田園風景。教授は仕事の電話で通路に立ち、後輩が隣の席でスライドを見直している。紺のジャケットに膝丈のスカート。ハーフアップの黒髪が流れる。
「質問対応の補足スライド、これでいいと思います」
画面を見せてくる。真剣な眼差しに、安心感が広がる。
「ありがとう」
***
演壇に立つ。天井からの白い光が、自分を浮かび上がらせる。後輩との日々を重ねて組み立てた研究。フロアの視線が一点に集中する緊張を、前列で小さく頷く後輩の姿が和らげてくれる。
質疑応答を終え、ほっと息をつく。その時、会場後方で黒い影が動いたような気がした。長い黒髪に、どこか見覚えのあるシルエット。まさか。目を凝らす前に、影は消えていた。気のせいだろうか。でも、手首の痕が疼くような錯覚に襲われる。
「お疲れさまでした」
席に戻ると、後輩が冷たいペットボトルを差し出す。
「かっこよかったです」
その囁きに救われる。
休憩時間の会場を出入りする人の波。何度も会場後方に目が向く。そこには誰もいない。だが、誰かに見つめられているような感覚は消えない。
懇親会が始まり、日も暮れかける。立食パーティーの喧騒の中、他大学の発表者たちと言葉を交わす。後輩は控えめに隣に立ち、時折会話に加わる。
「もうそろそろ、戻りませんか?」
教授に一礼し、会場を後にする。エレベーターホールに向かう廊下。後輩の足音と自分の足音が、静かに響く。その二つの音の間に、もう一つ別の足音が紛れ込んでいるような錯覚。振り返っても、そこには誰もいない。
「少し、お話できますか?」
声に、いつもと違う響きを感じる。夜の空気が、急に重みを帯びる。
ラウンジは、深い静けさに包まれていた。所々のテーブルランプが柔らかく灯っている。スカートの裾を整えて着席する後輩の仕草は、少し硬い。
「実は、就職しないことにしたんです」
息を呑む。ランプの光の中、後輩の睫毛が伏せられ、また上がる。
「進学しようと思って」
「研究が楽しくなった?」
「いいえ」
テーブル越しの瞳に、決意の色が灯っている。可愛らしい印象が、艶のある女性のものへと変わっていく。
「センパイといる時間が欲しかったから」
後輩の手が、膝の上で握り締められている。
「私、ずっと言えなかったんです」
頬がわずかに紅潮している。唇が薄く開いている。
「センパイの研究を手伝って、毎日一緒にいるだけで、それでいいって思ってた」
朝から夜まで共にした日々。研究だけでなく、食事や休憩、ちょっとした雑談。自然な気遣い。そして、発表を終えた達成感と安堵感。
「でも、あの時」
声が掠れる。睫毛が濡れているように見える。
「センパイを傷つけてる人がいるんじゃないかって」
言葉が途切れる。後輩の指が、テーブルを越えて伸びてくる。そっと、シャツの袖をまくり上げ、消えかけた痕をなぞる。
「私なら、こんな傷、つけたりしない」
心臓を打つような囁き。ランプの灯りが、潤んだ瞳を照らしている。
「ずっとそばにいて、支えになりたい」
手首から手のひらへと指が滑り、そっと絡む。柔らかく、温かい。先輩とは違う、確かな感触。指先が震えている。優しく握り返さずにはいられなかった。
後輩の肩が波打つように揺れ、襟元から吐息が零れる。
「私の部屋に……」
声が闇に溶けていく。上目遣いの潤んだ瞳。
二人の影がラウンジの壁に映る。スカートを直す仕草、バッグを持ち直す動き。
エレベーターまでの足取りが、何度も止まりそうになる。これで良いのか。この一線を越えて良いのか。でも、後輩の手の温もりが、迷いを静かに溶かしていく。開いたドアの前で、もう一度そっと握り返してくる手。
扉が閉まる直前、ロビーの植栽の向こうで、長い黒髪が揺れた気がした。痕が疼くような錯覚。心の奥に、罪悪感が掠める。でも今は、この温もりが痛いほど鮮やかだった。
部屋に入ると、都会の夜景が窓一面に広がっていた。遠くの光が、星のように瞬いている。
「センパイ」
その声と共に、柔らかな体温が背中を包み込む。首筋に触れる吐息が、痛い。




