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仮面

 梅雨が明けた七月。強い陽射しが、研究棟の出入り口を照らしている。思いがけない声に、足を止める。


「ここにいた」


 振り返ると、日傘を差した元カノ。ジャケットを腕に掛けている。


「この近くで取引先と打ち合わせがあって」

照り返しを避けるように、建物の陰へ移動する。

「少し、話せたりする?」


 中庭のベンチに腰を下ろす。木漏れ日が揺らめく。


「実は、相談があって」

日傘を閉じ、膝の上に置く。

「会社の先輩とのことで。……その先輩、既婚者なの」


 そんな言葉が出てくるとは。


「彼氏は? 銀行だったよね」


「この前、別れたの」

目を落とす。

「会っても楽しくなくなった」


「でも先輩とは毎日顔を合わせて、一緒に仕事して」

話しながら、頬がわずかに紅潮していく。


「でも、遊びで、とかよくあるじゃない」

畳んだ日傘を握る手に、あの派手な指輪はない。


「立場のある人なら簡単に浮気できないと思う」

慎重に言葉を選ぶ。

「その人は家庭も仕事も失うリスクを負ってる。それだけの価値を感じてるってことかも」


「そんな男やめとけ、とか言わないんだね」

表情が和らぐ。

「ちょっと楽になった」


「働き始めて、不安で必死で」

木漏れ日に目を細める。

「いつの間にか、依存してしまった」


「私……、キミには酷いこと言ったよね」

目を落とし、日傘の柄を撫でている。

「頼りがいがないって。でも、私が自立できてなかっただけかも」


 風に揺れる木々の音。


「あの頃も、不安で焦ってた」

遠くを見る目。

「みんなが前に進んでいく中で、自分だけ取り残されるような」


「だから誰かに、認めてもらいたくて」

言葉を切り、木漏れ日に目を細める。

「キミは優しかったのに、私はそれを物足りないと思ってしまった」


 不意に先輩とのことを考える。自分も、先輩に認めてもらいたくて、求められるままに応えている。


 ***


 後輩と夕食を共にする機会が増えていった。研究の話から、他愛もない会話へ。些細な日常が、自然と共有されていく。


 ある夜の帰り道。


「私も写真を撮るんです。風景とか」

後輩がスマホの画面を見せる。夕暮れの街並み。木漏れ日の中の自転車。雨上がりの路地。

「センパイみたいなアート作品じゃないんですけど」


 今の写真は、アートとは別の色を帯び始めている。胸が締め付けられる。


「そういえば」

歩きながら、後輩が言う。

「秋の学会、スーツ着用なんですよね」


 去年は向き合えなかった現実。

「……買いに行かなきゃ」


「よかったら、付き合います」

声が弾んでいる。

「センパイに似合うの、選びましょう」


 ***


 百貨店の紳士服売り場。就活用とは違う生地の質感を確かめる。落ち着いたネイビーのスーツが、目に留まった。


「このラインいいですね」

後輩が生地の柄に触れる。

「センパイなら着こなせます」


 試着室から出ると、鏡の中に見慣れない自分がいた。縛った黒髪が、スーツの襟首で思いがけない陰影を描いている。


「かっこいい」

後輩が目を見開く。

「よく似合ってます」


 鏡の中の黒髪の青年が、静かに微笑んでいた。

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