境界
六月の雨が窓を叩き続けている。外の世界は曖昧な輪郭を帯び、雨粒の縦線が現実を閉じ込める格子のように見える。
袖をまくると、まだ痕が残っている。辿ると、記憶が蘇る。
「まだ残ってるの?」
先輩からの返信。
「写真、送って」
雨に照らされた手首を撮る。淡い痕跡。
「Beautiful!」
メッセージの頻度が増えていく。
「今日は何着てるの?」
「研究室には何時まで?」
些細な質問。でも、深夜の「今、何してる?」から、研究室の場所を確認する言葉まで。日常への侵食が、進んでいく。
「後輩と仲良さそうね」
画面を見つめる。背筋が凍る。
「研究室で、何話してるの?」
知っているのだろうか。差し入れのおにぎり。夜遅くまでの研究の議論。そして、何より、あの眼差しを。
「今度は、もっと深く、刻み付けよっか」
小さな戦慄が走る。
***
「ここ、ドラマの撮影にも使われるの」
階段を上がると、天窓からの光が雨を通して差し込む小さなスタジオ。窓際の錆びた鉄柵が、工場の名残を留めている。
先輩の姿が天窓の光に浮かび上がる。パンツスーツの上着を脱ぐ仕草。薄手のシルクブラウスが光を纏う。
「雨が強くなってきた」
どこか楽しげな声色。
「外で撮りましょうか」
屋上への非常階段。錆びた手すりに雨の雫が光る。
「この白いシャツ」
カメラを構えながら、先輩が言う。
「雨に濡れると、面白い効果が出るはず」
鉄柵に寄りかかる自分をレンズが捉える。初夏の雨がシャツを濡らしていく。布地が肌に張り付き、水滴が首筋を伝い落ちる。
「その表情、とてもいい」
シャッター音が雨音に重なる。
「手を上げて」
「この鉄柵に……」
冷たい鉄が手首に触れ、先輩の指が何かを巻き付けていく。でも、抵抗する気はない。
「動かないで」
濡れた髪が頬に張り付く。まつげの水滴で視界が歪む。シャッター音が雨音を掻き消していく。
「まだ足りない」
手首の締め付けが強くなる。痛みと冷たい雨。でも体の芯は熱を帯びている。
「今度は、もっと深く残るはず」
「ねぇ、痛い?」
目を閉じると、雨が頬を伝う。涙なのか、雨なのか、もうわからない。
「これで、逃げられなくなったわね」
先輩の吐息が白く揺らめく。雨がブラウスを濡らし、下着のラインが浮かび上がる。
「誰にも見せない。私だけのもの」
シャッター音が鋭く響く。
***
頭が重い。カーテンの隙間から差す光がまぶしすぎる。
熱でぼんやりとした意識の中、雨の記憶が断片的に蘇る。冷たい雨。締め付けられる手首の熱さ。先輩の艶めく姿。重なり合う感覚に、体が熱を帯びる。
研究室を休むメールを送り、目を閉じる。仮眠から覚めると、スマートフォンに後輩からのメッセージが残されていた。
「大丈夫ですか?」
「お見舞いに行きたいんですけど」
返信しようとした瞬間、インターホンが鳴る。
「うわ、本当に熱いですね」
額に触れる手が冷たい。
「薬、買ってきました。おかゆも」
長袖パジャマの袖がずれる。
「あっ」
買い物袋を置こうとした動きが止まる。手首の深い痕に目が釘付けになる。
「これ……」
「時計を、きつく締めすぎて」
慌てて袖を引く。
「両手に? しかもこの形……」
袖を掴まれる。
「前よりも、深くなってる」
声に力が入る。
「センパイ、もしかしてカノジョさんに何か……」
「え?」
「こういうの、DVっていうんですよ」
声が震えている。
「放っておけないです」
「違うよ。そうじゃないんだ」
慌てて否定する。
「だったら何なんですか?」
一歩近づいてくる。眉が寄り、唇が引き結ばれている。
嘘をつくなら今だ。でも、後輩の目が、痛いほど真っ直ぐだった。
「撮影の時の…」
なんとか言葉を繋ぐ。目を落としたまま。
「そういう趣旨の撮影で、その、やりすぎてしまって……」
顔を上げると、後輩の目が細くなっている。
「じゃあ、その写真、見せてもらえます?」
静かな声。でも、引く気配がない。
「それは……送ってもらってないんだ」
「それ、おかしくないですか?」
顎がわずかに上がる。納得していない目。
沈黙の中、雨音が響く。
「そんな痕、付けるなんて」
声が低くなる。後輩の手が、膝の上で握りしめられている。
「センパイのこと、もっと優しく、大切にして欲しい……」
後輩の手が膝を離れ、こちらに伸びてくる。指がそっと手首の痕を撫でる。
「私なら、こんな痕は残さない」
後輩は帰っていった。置き手紙のように残された薬と、おかゆの入った袋。そして、重ねられた指の感触。窓の外では雨が降り続いている。




