表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/32

境界

 六月の雨が窓を叩き続けている。外の世界は曖昧な輪郭を帯び、雨粒の縦線が現実を閉じ込める格子のように見える。


 袖をまくると、まだ痕が残っている。辿ると、記憶が蘇る。


「まだ残ってるの?」

先輩からの返信。

「写真、送って」


 雨に照らされた手首を撮る。淡い痕跡。


「Beautiful!」


 メッセージの頻度が増えていく。


「今日は何着てるの?」

「研究室には何時まで?」


 些細な質問。でも、深夜の「今、何してる?」から、研究室の場所を確認する言葉まで。日常への侵食が、進んでいく。


「後輩と仲良さそうね」

画面を見つめる。背筋が凍る。

「研究室で、何話してるの?」


 知っているのだろうか。差し入れのおにぎり。夜遅くまでの研究の議論。そして、何より、あの眼差しを。


「今度は、もっと深く、刻み付けよっか」


 小さな戦慄が走る。


 ***


「ここ、ドラマの撮影にも使われるの」


 階段を上がると、天窓からの光が雨を通して差し込む小さなスタジオ。窓際の錆びた鉄柵が、工場の名残を留めている。


 先輩の姿が天窓の光に浮かび上がる。パンツスーツの上着を脱ぐ仕草。薄手のシルクブラウスが光を纏う。


「雨が強くなってきた」

どこか楽しげな声色。

「外で撮りましょうか」


 屋上への非常階段。錆びた手すりに雨の雫が光る。


「この白いシャツ」

カメラを構えながら、先輩が言う。

「雨に濡れると、面白い効果が出るはず」


 鉄柵に寄りかかる自分をレンズが捉える。初夏の雨がシャツを濡らしていく。布地が肌に張り付き、水滴が首筋を伝い落ちる。


「その表情、とてもいい」

シャッター音が雨音に重なる。


「手を上げて」

「この鉄柵に……」


 冷たい鉄が手首に触れ、先輩の指が何かを巻き付けていく。でも、抵抗する気はない。


「動かないで」


 濡れた髪が頬に張り付く。まつげの水滴で視界が歪む。シャッター音が雨音を掻き消していく。


「まだ足りない」


 手首の締め付けが強くなる。痛みと冷たい雨。でも体の芯は熱を帯びている。


「今度は、もっと深く残るはず」

「ねぇ、痛い?」


 目を閉じると、雨が頬を伝う。涙なのか、雨なのか、もうわからない。


「これで、逃げられなくなったわね」

先輩の吐息が白く揺らめく。雨がブラウスを濡らし、下着のラインが浮かび上がる。


「誰にも見せない。私だけのもの」


 シャッター音が鋭く響く。


 ***


 頭が重い。カーテンの隙間から差す光がまぶしすぎる。


 熱でぼんやりとした意識の中、雨の記憶が断片的に蘇る。冷たい雨。締め付けられる手首の熱さ。先輩の艶めく姿。重なり合う感覚に、体が熱を帯びる。


 研究室を休むメールを送り、目を閉じる。仮眠から覚めると、スマートフォンに後輩からのメッセージが残されていた。

「大丈夫ですか?」

「お見舞いに行きたいんですけど」


 返信しようとした瞬間、インターホンが鳴る。


「うわ、本当に熱いですね」

額に触れる手が冷たい。

「薬、買ってきました。おかゆも」


 長袖パジャマの袖がずれる。


「あっ」

買い物袋を置こうとした動きが止まる。手首の深い痕に目が釘付けになる。

「これ……」


「時計を、きつく締めすぎて」

慌てて袖を引く。


「両手に? しかもこの形……」

袖を掴まれる。

「前よりも、深くなってる」

声に力が入る。

「センパイ、もしかしてカノジョさんに何か……」


「え?」


「こういうの、DVっていうんですよ」

声が震えている。

「放っておけないです」


「違うよ。そうじゃないんだ」

慌てて否定する。


「だったら何なんですか?」

一歩近づいてくる。眉が寄り、唇が引き結ばれている。


 嘘をつくなら今だ。でも、後輩の目が、痛いほど真っ直ぐだった。


「撮影の時の…」

なんとか言葉を繋ぐ。目を落としたまま。

「そういう趣旨の撮影で、その、やりすぎてしまって……」


 顔を上げると、後輩の目が細くなっている。


「じゃあ、その写真、見せてもらえます?」

静かな声。でも、引く気配がない。


「それは……送ってもらってないんだ」


「それ、おかしくないですか?」

顎がわずかに上がる。納得していない目。


 沈黙の中、雨音が響く。


「そんな痕、付けるなんて」

声が低くなる。後輩の手が、膝の上で握りしめられている。

「センパイのこと、もっと優しく、大切にして欲しい……」


 後輩の手が膝を離れ、こちらに伸びてくる。指がそっと手首の痕を撫でる。


「私なら、こんな痕は残さない」


 後輩は帰っていった。置き手紙のように残された薬と、おかゆの入った袋。そして、重ねられた指の感触。窓の外では雨が降り続いている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
先輩は嫉妬深いんですね。 憧れの先輩が嫉妬する故の行為なので、苦痛が受け入れられるということか。。 そして、無意識にかもしれないけど、段々わざと嫉妬させようとしてきてるのでは?とも見える。 ノーマル…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ