↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/32

人形

 研究室の日常は変わらずに過ぎていった。


 窓際の席で資料を開きながら、また画面を確認してしまう。先輩からのメッセージは「ごめんなさい」という一文だけ。それっきり、新たな言葉は届いていない。


 後輩は、いつもと変わらない様子で作業を続けている。机に伸びる夕陽の影が、少しずつ長くなっていく。


「センパイ」

資料を覗き込むように近づく。いつもと同じ距離なのに、空気が違う。


「このデータ、不思議な傾向が出てるんです」

画面には、予想を裏切るグラフが描かれている。

「ここの条件を変えてみません?」


 議論に没頭していると、あの夜は遠い記憶のように薄れる。でも、時々、手首に残る痕を無意識に触ってしまう。


「もう、ほとんど消えましたね」

後輩のさりげない声。


 返事が見つからない。傷跡の話題は、まだ重い。


「あ、そうだ。先生が呼んでました。一緒に行きませんか?」


 ***


「実は、かなり反響があったんですよ」

ずらりと本が並んだ居室で、教授が言う。

「新しい視点だと。詳細を知りたいという問い合わせも来てます」


「いえ、そんな……」


「謙遜することはないですよ」

教授がコーヒーを啜る。

「二人三脚でよく頑張りましたね」


 後輩の頬がわずかに染まる。学部生のときからのテーマが、後輩の参加で大きく進展した。文献調査からデータの整理まで、共に積み重ねてきた時間。


「きちんと論文にまとめましょう」


「不足分の追加を……」

「補強する所が……」

言葉が重なり、目が合う。


「焦る必要はありませんよ」

教授が微笑む。

「でも、クオリティの高いものにしていきましょう」


 研究室に戻り、投稿誌の候補を検討する。

「いつもの学術誌かな」

この分野の主要な論文誌。


「それ……、私の英語じゃ……」

後輩が眉を寄せる。


「大丈夫。二人でやろう」

自然と声が出る。

「文章は書くから。その分、図表を多めに頼めるかな」


 後輩の表情が、ほころぶ。


「どうせ、先生に真っ赤になるまで添削されるんだろうけどね」


 笑いが広がる。ふと気づく。ここには演出も演技も必要ない。


「センパイ」

後輩が身を乗り出す。

「私たちの共著論文が、世界中の大学や研究者のもとに届くんですね」


 世界に問う自分たちの考え。想像もしなかった挑戦に、共に歩み出す。


 やがて夕暮れが早まり、研究室の窓から見える銀杏並木が色づき始めた。温かいコーヒーを飲みながらデータを眺める時間が増える。肌寒い日が続くようになり、後輩は薄手のカーディガンを羽織るようになった。


 重なる日々の中で、キャンパスの木々は次々と色を変えていく。論文の構成を練り直しながら、新しいデータと向き合う。研究室の窓を叩く雨音を聞きながら、夜遅くまでグラフと向かい合う日も増えていった。


 日に日に空気が冷たくなり、木枯らしが吹き始めた。実験室に向かう道すがら、落ち葉の舞う中を歩きながら、後輩が小さく震えて「寒くなりましたね」とつぶやく。並んで歩く足並みが、いつの間にか自然な距離を見つけていた。


 ***


 書籍を買いに出かけたターミナル駅。早くも日が沈み始め、冷たい風が吹き抜けていく。人々は厚手のコートに身を包み、足早に通り過ぎていた。


「ねえ」


 思いがけない声に振り返ると、白いマフラーの元カノが立っていた。スーツの上にグレーのコート。


「今、帰り。キミは?」


 寒風を避け、カフェに滑り込む。暖かな空気が全身を包み、冷えた体がほぐれていく。ガラス窓には街の明かりが映り、外の喧騒が遠く感じられた。


「仕事は?」


「順調」

コーヒーが二つ、運ばれてくる。

「でも、先輩とは別れた」


 身を乗り出す。


「最初は完璧に見えた」

砂糖もミルクも入れず、彼女はカップを持ち上げる。

「頼れるし、優しいし。でも、近くで見てると、違った」


「仕事ができる人だと思ってた。でも、私より経験あるから、当たり前」

一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。

「私も仕事を覚えて、同じ場面に直面するようになって」


 立ち上る湯気が彼女の顔を照らしている。

「他部署とのやり取りとか、お客さんの扱いとか、けっこう強引なところが」


「それに、既婚者、でしょ?」

湯気の向こうで、小さなため息。

「新しい環境で不安だった。それで、そんな人に、すがってただけかも」


「そっか」

一旦受け止め、少し考えて返す。

「仕事、できるようになったんだ」


「そう。一人前っていうか、自分で判断できるように」

顔を上げ、真っ直ぐな目を向けてくる。

「キミも、変わったね」


「え?」

「雰囲気とか」


「そうかな……」


「モデル、続けてるの? それとも研究がうまくいってるからかな?」

「……わかった。やっぱり、彼女できたんでしょ」


 答えに窮する。説明のしようがない関係を、どう言葉にすればいいのか。

「複雑なんだ」

テーブルの上で、苦い香りが立ち上る。ゆっくりと、言葉を紡ぎ始める。

「サークルの先輩なんだけど」


 カフェの温もりの中で、あの夜までの経緯を話し始める。撮影のこと。支配的になっていく関係。雨の夜の出来事。語るたびに、元カノは時に眉を寄せ、時に目を落とす。


「へえ」

小さく笑う。冷めたカップをそっと置く。

「去勢された人形みたいな存在だったのかも」


「なっ」

声が出る。


「ごめん、言い過ぎた」

慌てて手を振る。

「でも、そこまで愛されるって、すごいことだと思う」


「愛される?」

「うん。歪んでるかもしれないけど、それだけ特別な存在になれたってことでしょ」


 言葉を失う。


「私なんて、手近な世間知らずの女だっただけ」

もう冷たくなったコーヒーを見つめている。

「キミは、その人は家庭も仕事も失うリスクを負ってる、価値を感じてるはず、なんて言ってくれたけど。結局ね」


「それって……」

なんと言えばよいのか。返す言葉が見つからない。


「で、今、その先輩とは?」

「あの夜以来、会ってない」


「そっか。会わないの?」

カフェの暖かな光の中で、懐かしい笑みを浮かべる。

「会えばいいのに」


 少し迷った後、続ける。

「でも、後輩の……」


「大事にしてあげなきゃね」

「自分の気持ちに正直に」


 コートを手に取りながら、立ち上がる。

「頑張ってね」

窓の外では、寒々しい夜空に冬の気配が漂っていた。

「キミらしく」


 ***


 店を出て、しばらく歩く。冷たい夜気の中、靴音が響く。「去勢された人形」――その言葉が、まだ耳の中で反響している。


 ショーウィンドウに映る長い黒髪が、冷たい風に揺れる。先輩の「好み」に合わせた外見だったのに、今では自分らしく思える。


 吐く息が白く夜空へと消えていく。


 人形だったのかもしれない。でも、人との関係には色々な形があっていい。「キミらしく」──誰かの期待に合わせて自分を変えなくていい。変わってもいい。


 通り過ぎる人々は厚手のコートに身を包み、店先には色とりどりの光が灯り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。