人形
研究室の日常は変わらずに過ぎていった。
窓際の席で資料を開きながら、また画面を確認してしまう。先輩からのメッセージは「ごめんなさい」という一文だけ。それっきり、新たな言葉は届いていない。
後輩は、いつもと変わらない様子で作業を続けている。机に伸びる夕陽の影が、少しずつ長くなっていく。
「センパイ」
資料を覗き込むように近づく。いつもと同じ距離なのに、空気が違う。
「このデータ、不思議な傾向が出てるんです」
画面には、予想を裏切るグラフが描かれている。
「ここの条件を変えてみません?」
議論に没頭していると、あの夜は遠い記憶のように薄れる。でも、時々、手首に残る痕を無意識に触ってしまう。
「もう、ほとんど消えましたね」
後輩のさりげない声。
返事が見つからない。傷跡の話題は、まだ重い。
「あ、そうだ。先生が呼んでました。一緒に行きませんか?」
***
「実は、かなり反響があったんですよ」
ずらりと本が並んだ居室で、教授が言う。
「新しい視点だと。詳細を知りたいという問い合わせも来てます」
「いえ、そんな……」
「謙遜することはないですよ」
教授がコーヒーを啜る。
「二人三脚でよく頑張りましたね」
後輩の頬がわずかに染まる。学部生のときからのテーマが、後輩の参加で大きく進展した。文献調査からデータの整理まで、共に積み重ねてきた時間。
「きちんと論文にまとめましょう」
「不足分の追加を……」
「補強する所が……」
言葉が重なり、目が合う。
「焦る必要はありませんよ」
教授が微笑む。
「でも、クオリティの高いものにしていきましょう」
研究室に戻り、投稿誌の候補を検討する。
「いつもの学術誌かな」
この分野の主要な論文誌。
「それ……、私の英語じゃ……」
後輩が眉を寄せる。
「大丈夫。二人でやろう」
自然と声が出る。
「文章は書くから。その分、図表を多めに頼めるかな」
後輩の表情が、ほころぶ。
「どうせ、先生に真っ赤になるまで添削されるんだろうけどね」
笑いが広がる。ふと気づく。ここには演出も演技も必要ない。
「センパイ」
後輩が身を乗り出す。
「私たちの共著論文が、世界中の大学や研究者のもとに届くんですね」
世界に問う自分たちの考え。想像もしなかった挑戦に、共に歩み出す。
やがて夕暮れが早まり、研究室の窓から見える銀杏並木が色づき始めた。温かいコーヒーを飲みながらデータを眺める時間が増える。肌寒い日が続くようになり、後輩は薄手のカーディガンを羽織るようになった。
重なる日々の中で、キャンパスの木々は次々と色を変えていく。論文の構成を練り直しながら、新しいデータと向き合う。研究室の窓を叩く雨音を聞きながら、夜遅くまでグラフと向かい合う日も増えていった。
日に日に空気が冷たくなり、木枯らしが吹き始めた。実験室に向かう道すがら、落ち葉の舞う中を歩きながら、後輩が小さく震えて「寒くなりましたね」とつぶやく。並んで歩く足並みが、いつの間にか自然な距離を見つけていた。
***
書籍を買いに出かけたターミナル駅。早くも日が沈み始め、冷たい風が吹き抜けていく。人々は厚手のコートに身を包み、足早に通り過ぎていた。
「ねえ」
思いがけない声に振り返ると、白いマフラーの元カノが立っていた。スーツの上にグレーのコート。
「今、帰り。キミは?」
寒風を避け、カフェに滑り込む。暖かな空気が全身を包み、冷えた体がほぐれていく。ガラス窓には街の明かりが映り、外の喧騒が遠く感じられた。
「仕事は?」
「順調」
コーヒーが二つ、運ばれてくる。
「でも、先輩とは別れた」
身を乗り出す。
「最初は完璧に見えた」
砂糖もミルクも入れず、彼女はカップを持ち上げる。
「頼れるし、優しいし。でも、近くで見てると、違った」
「仕事ができる人だと思ってた。でも、私より経験あるから、当たり前」
一口飲んで、ゆっくりと息を吐く。
「私も仕事を覚えて、同じ場面に直面するようになって」
立ち上る湯気が彼女の顔を照らしている。
「他部署とのやり取りとか、お客さんの扱いとか、けっこう強引なところが」
「それに、既婚者、でしょ?」
湯気の向こうで、小さなため息。
「新しい環境で不安だった。それで、そんな人に、すがってただけかも」
「そっか」
一旦受け止め、少し考えて返す。
「仕事、できるようになったんだ」
「そう。一人前っていうか、自分で判断できるように」
顔を上げ、真っ直ぐな目を向けてくる。
「キミも、変わったね」
「え?」
「雰囲気とか」
「そうかな……」
「モデル、続けてるの? それとも研究がうまくいってるからかな?」
「……わかった。やっぱり、彼女できたんでしょ」
答えに窮する。説明のしようがない関係を、どう言葉にすればいいのか。
「複雑なんだ」
テーブルの上で、苦い香りが立ち上る。ゆっくりと、言葉を紡ぎ始める。
「サークルの先輩なんだけど」
カフェの温もりの中で、あの夜までの経緯を話し始める。撮影のこと。支配的になっていく関係。雨の夜の出来事。語るたびに、元カノは時に眉を寄せ、時に目を落とす。
「へえ」
小さく笑う。冷めたカップをそっと置く。
「去勢された人形みたいな存在だったのかも」
「なっ」
声が出る。
「ごめん、言い過ぎた」
慌てて手を振る。
「でも、そこまで愛されるって、すごいことだと思う」
「愛される?」
「うん。歪んでるかもしれないけど、それだけ特別な存在になれたってことでしょ」
言葉を失う。
「私なんて、手近な世間知らずの女だっただけ」
もう冷たくなったコーヒーを見つめている。
「キミは、その人は家庭も仕事も失うリスクを負ってる、価値を感じてるはず、なんて言ってくれたけど。結局ね」
「それって……」
なんと言えばよいのか。返す言葉が見つからない。
「で、今、その先輩とは?」
「あの夜以来、会ってない」
「そっか。会わないの?」
カフェの暖かな光の中で、懐かしい笑みを浮かべる。
「会えばいいのに」
少し迷った後、続ける。
「でも、後輩の……」
「大事にしてあげなきゃね」
「自分の気持ちに正直に」
コートを手に取りながら、立ち上がる。
「頑張ってね」
窓の外では、寒々しい夜空に冬の気配が漂っていた。
「キミらしく」
***
店を出て、しばらく歩く。冷たい夜気の中、靴音が響く。「去勢された人形」――その言葉が、まだ耳の中で反響している。
ショーウィンドウに映る長い黒髪が、冷たい風に揺れる。先輩の「好み」に合わせた外見だったのに、今では自分らしく思える。
吐く息が白く夜空へと消えていく。
人形だったのかもしれない。でも、人との関係には色々な形があっていい。「キミらしく」──誰かの期待に合わせて自分を変えなくていい。変わってもいい。
通り過ぎる人々は厚手のコートに身を包み、店先には色とりどりの光が灯り始めていた。




