波紋
桜の花びらが舞う四月の朝。研究室のドアを開けると、机の配置が変わっていた。新入生用のスペース、新しい予定表。大学院生としての最初の一日が始まろうとしていた。
「おはようございます」
振り返った瞬間、目を奪われた。外ハネに整えた髪が軽やかに揺れる。黒を基調としたモードな装いに、指先のダークネイルと耳元のシルバーピアスが映える。けれど、屈託のない笑顔。
「新しく配属になりました」
明るい声に、自然と表情が緩む。先輩の佇まいとは対照的な、はつらつとした空気。
「センパイの長い黒髪、すごく印象的で」
机の配置を確認しながら、後輩が言う。
「ときどき見かけて、気になってたんです」
「あ、ありがとう」
自分にとっての「先輩」と、後輩にとっての「センパイ」。
***
「今、相談いいですか?」
資料を広げる後輩の動作には無駄がない。質問の一つ一つには、下調べの跡が見える。鋭い指摘に、時として答えに窮することもある。
「センパイの卒論、トレースしてみたんですけど、傾向が違うんです」
PCの画面を指さす。
「でも、これって面白いと思って。どうしてかな」
データの不一致があるのに、目を輝かせている。そこから何が見えるのかと期待を膨らませる。自分にはない、問題への向き合い方だった。
説明する声が、いつの間にか大きくなっている。後輩と向き合うとき、レンズの向こう側で演じる必要はない。
「そっか! それは思いつかなかったです!」
身を乗り出すようにして頷く。
熱心な議論を重ねているうちに、日が暮れようとしていた。
「もうこんな時間」
後輩が窓の外に目をやり、慌てたように時計を見る。
「センパイの時間、取らせちゃって」
「いや、むしろ」
うまく言葉が出てこない。
「こういう議論、楽しいよ」
顔がパッと明るくなる。
「よかった」
***
ある日、後輩が何気なく話題を振ってくる。
「センパイ、XXXって知ってます?」
有名なヴィジュアル系バンドの名前。
「うん、まあ」
「すごく好きなんです。特にボーカルの人の化粧とか衣装とか」
目が輝いている。
「見た目は美しくても、やっぱり男性としての魅力があるんですよね」
言葉に、どきりとする。美しさと男性の魅力との共存。先輩は男性的な部分を消そうとする。でも後輩は、共存を美しいと言う。
スマートフォンの画面を見せてくれる。後輩が撮ったバンドのライブ写真。
「かっこいいと思いません?」
画面をスクロールしながら、嬉しそうに口元を緩める。
「小さなハコなら、写真OKなこともあるんです。宣伝になるから」
後輩の写真には、ステージと観客の一体感が詰まっている。照明も、音の振動も、熱気も。技術は稚拙かもしれないが、ただ目の前のものを撮っている。
先輩との撮影を思い出す。完璧な構図、計算された照明、意図的な演出。――対極的な世界。
***
教授の居室。壁一面の本棚には和洋の専門書が所狭しと並んでいる。夕暮れの光が差し込む中、三つのコーヒーカップから湯気が立ち上る。
「この部分、面白い着眼点ですね」
教授が、机上に広げられた資料を見ながら言う。
「ここはもう少し掘り下げられそうです」
ページをめくる指に、長年の経験が滲む。指摘は押しつけがましくないのに、新しい可能性を示してくれる。
「でも先生」
後輩が資料から顔を上げる。
「その考え方だと、前提条件がおかしくなりませんか?」
思わず後輩を見る。自分には選べない言葉を、ごく自然に口にしている。
教授は少し目を見開いた後、穏やかに微笑む。
「なるほど。その方向でも調べてみましょう。いい視点です」
率直な疑問が、研究の可能性を広げていく。
「拡張した手法の有効性の確認、卒論にもなりそうですよ」
教授が後輩に向き直る。
自分の研究の一部が、後輩の卒論にもなるのだと気付いた。
暗くなった頃、教授の部屋を出る。
「さっき、つい先生に反論しちゃって」
並んで歩く後輩が、小さく肩をすくめる。
「ドキドキしました」
「大丈夫だよ」
正直、少し驚いた。だけど、何の問題もなかった。
「先生はむしろ、そういう議論を歓迎してると思う」
なぜか、いつもより近くを歩いている。
「私、いつも言ってから、しまった、って思うんです」
***
自分のデスクに戻る。スマートフォンを開くと、先輩からのメッセージ。
「今度の撮影、どう?」
「もちろん大丈夫です」
即座に返信する。この特別な時間は、もう生活の一部になっていた。
「あ、そうだ」
後輩がこちらを振り向く。
「今度、XXXのライブがあるんですけど。友達が行けなくなって」
鞄からチケットを取り出す。
「センパイ、よかったら一緒に行きませんか?」
メイクと衣装で作られる世界。直接その目で見てみるのも、悪くないかもしれない。
「あまり詳しくないけど」
「大丈夫です! きっと楽しいですよ」
***
スタジオに着くと、先輩が早めに来ていた。ライトの角度を確認し、レンズを磨き直している。
「ヴィジュアル系?」
何気なく話題に出すと、カメラを持つ手が止まる。
「後輩とよく話すんです」
「そうね、参考になるかもしれない」
液晶の設定画面を見つめたまま答える。
「メイクやライティング。世界観の作り方とか」
「ええ。ライブにも行くことになったんです」
ほんの一瞬だけ、間が開く。息苦しくなる。でも、後輩はただの後輩だ。元カノでさえない。
「へぇ。ずいぶんと仲良くなったのね」
軽やかな声。けれど目は液晶に落ちたままだった。
「若い子って、いいわよね」
シャッター音が鋭く響き、指示も強い調子を帯びていく。レンズ越しの視線が、こちらを捉えて離さない。
「もう少し、こっちへ」
声が途切れる。カメラを握る指に力が入る。
「その視線。動かないで」
囁くような声。シャッター音が加速する。一瞬の逃げ場も与えまいとするように。
***
「センパイ、お腹すきませんか?」
夜遅くまで残る日々が続く中、データ整理を終えた後輩が声をかける。
「ごめん、いつもこんな時間まで……」
時計を見てためらう。
「大丈夫です」
机から立ち上がり、軽く伸びをする。
「すごく面白くて。退屈な講義とぜんぜん違います」
「で、これ」
差し出されたのは手作りのおにぎり。
「先輩のぶんも」
いつも学食の閉まる時間を忘れてしまう。
「コンビニばっかりじゃ」
少し首を傾げて笑う。
「栄養、偏ってるなって思って」
気持ちが和らぐ。先輩との関係とは違う、緊張のない距離感。
「ありがとう」
自分の声が、不思議なほど自然に響いた。
「でも、いいの?」
「ぜんっぜん。むしろ食べて欲しいです」
大きく頷く。
「実家からお米とか野菜が届くんですけど、余ってて」
両親の理解に支えられ、好きなことを素直に追求できる環境。おにぎりの包みを開きながら、自分との違いを噛みしめる。
包み紙の可愛らしいイラストに目が留まる。
「あ、これ上手だね」
「絵を描くの、好きなんです」
照れたように目を逸らし、手元で包み紙を丁寧に折りたたむ。
「写真も好きですけど」
でも、その写真は、先輩のそれとは違うものなのだろう。
「センパイと一緒に研究できて、楽しいです」
まっすぐにこちらを見る。
「この研究、もっと続けたいなって」
窓の外は、もう夜の闇が深まっていた。




