距離
大学院の合格発表。冷たい風が掲示板を揺らす午後。内部進学者「合格者番号一覧」の中から、自分の番号を探す指先が凍えている。見つけた瞬間、頭に熱が上る。
スマートフォンのメッセージ画面を開く。先輩への報告――それは自然な流れのように思えた。
「合格しました」
「よかった」
すぐに返信が来る。
「お祝いしないと」
「ケーキでも、ご馳走していただけるなら」
「そうじゃなくて」
先輩の言葉が続く。
「一緒に温泉でも行かない? 撮影もするけど」
あの夜のことが、一瞬よぎる。でも、すごく嬉しい。
***
旅館に着いたのは、午後の陽が柔らかくなる頃。前回とは違い、普段着での旅行。仲居に案内された離れは、和の設えの二部屋。そして、小さな露天風呂まで付いているという贅沢な造り。
スタジオバッグから取り出されたのは、新しい着物。何枚もの反物が、丁寧に畳の上に広げられていく。
「お祝いだから、華やかなものを選んだの」
柔らかな桃色に白い桜が舞っている。帯は優しい朱色。いつもの準備の光景なのに、今日は空気が違う。着付けしてくれる先輩の指先はより優しく、丁寧だ。
「この光がきれいね」
障子越しの陽を受けて座る自分を、シャッター音が静かに切り取っていく。クリスマスの時のような激しさはない。ゆったりとした時間が流れる。
夕食は部屋で。運ばれてきた懐石料理を、静かに味わう。窓の外では、既に闇が深まっていた。
「結局、撮影ばかりで」
申し訳なさそうに言う先輩。
「お祝いになってない」
「いえ、十分です」
「何か欲しいものない?せっかくだし」
「本当に大丈夫です」
「そう……」
しばらく黙り込む。淡い光に照らされた横顔が、美しく映える。カシミアのニットから鎖骨が覗く。
「少し疲れたんじゃない?」
先輩が優しく微笑む。
「お風呂、先に入ってきたら?」
露天風呂から見上げる夜空に、星が瞬く。立ち上る湯気と冷たい空気の境界が心地よい。そのとき、背後でガラス戸が開く音。
振り向いた瞬間、息を呑む。丁寧に束ね上げられた髪から露わになった首筋。肩への曲線が、湯気に包まれて幻想的に浮かび上がる。
「入っていい?」
少し掠れた声。
先輩が湯船に足を伸ばす。息が止まりそうになる。
「ねえ、これからのこと、考えてる?」
湯気の向こうから声が届く。いつもの端正な物腰が、温泉の熱で緩んでいる。
「大学院のことですか?」
「うん、でも」
言葉を選ぶように、一瞬目を伏せる。
「私たちのことも」
私たちのこと、と言われて、言葉に詰まる。この関係に名前をつけたことは、まだない。
「元カノと、たまには会ってるの?」
さりげない口調。
「冬休みからは全然……」
先輩が小さく息をつく。
「ふふ、冗談よ」
笑みを浮かべる。
「気にしてないわ。ただ……」
言葉が宙に浮く。湯気の向こうで、先輩の指先が自分の肩を撫でている。
「あなたの選んだ道」
優しい声。
「これから、いろんな人と出会うのね」
月光に照らされた横顔。
「……ねえ、ちょっとは喜んでくれてる?」
声が近づく。タオルに包まれた体が迫ってくる。
普段は隠された曲線が、生々しいほど間近に感じられる。長いまつげの向こうの瞳が、湯気で潤んでいる。
言葉を探しながら、息を止める。
「先輩が、こんなに……」
体が自然に反応する。湯の中で、確かな形を持ち始める男性としての部分。
先輩の動きが止まる。沈黙。目が、湯面の下へと向けられていた。
「ごめんなさい」
慌ただしく湯船から出ていく背中。脱衣所に消える直前、手が顔を覆うのが見えた。先輩の香りが、湯の中に残された。
翌朝、先輩はいつも通りのペースで撮影を進めた。レンズを挟んだ、いつもの距離。帰りの車中、何気ない会話。
「来月から、研究室に何人か配属されるんです」
「そう。後輩ができるのね」
ハンドルを握る手に力が入り、一瞬爪が白く浮かび上がった。




