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安心

「ごめんね、遅くなっちゃった」


 いつもの学食カフェ。元カノが近づいてくる。ゆったりとしたニットにジーンズ姿。


「彼氏が急に電話してきて」

椅子を引き寄せる。

「昨日の夜、なんで返信しなかったのかって」


 いつものように相槌を打つ。


「就活仲間と打ち上げしてただけなのに。週末の予定どうするんだって。チケット売り切れたって」

ラテを無意識にかき混ぜる手。この前と同じ派手な指輪が光を反射する。

「自分だって、友達との飲み会の時は返信遅いくせに」


「銀行に決まって、急に偉そうになっちゃった。付き合い始めた頃は、もっと私のこと大切にしてくれたのに」


 なぜ自分に話すのだろう。複雑な思いが込み上げる。


「この前も、『俺が予約した店、気に入らないの?』って。確かに高い店なんだけど、私の好みとか全然考えてない。ただの見栄でしょ」


 ふと気がつくと、彼女の目がこちらの反応を探っている。


「キミ、なんだか前とは違うね」

意外な言葉に、カップから顔を上げる。

「昔は私の愚痴、必死に聞いてくれたのに。今は他人事みたいに聞いてる」

じっと見つめてくる。

「……ん、もう他人事なのは事実か」


 そう笑う彼女にとって、自分はどういう存在なのだろう。自慢や愚痴を言っても大丈夫な暇つぶし。それとも、何か相談したいと思ってるのか。でも、自分は彼女に、先輩の話や相談事をしたいとは思わない。


 立ち上がる彼女が、ふと足を止める。


「あ、来週は早めに出なきゃいけないから、30分くらいしか時間ないんだけど」

「自分も研究室の発表の直前で……来週はちょっと」


 瞬間、優先順位が、はっきりと見えた。


「そう。じゃ、また都合が合うときに」

あっさりと受け入れる彼女。昔なら、こんなことでも傷ついただろう。

 

 去っていく背中に、ふと聞きたくなった。


「本当に好きだった?」


 意外そうな表情の後、小さな笑み。

「うん、好きだった。でもね」

視線を窓の外に移す。色づいた紅葉が風に揺れている。


「私、相手に期待しすぎるのかも。それで思い通りにならないと不満で」

一瞬の間。

「今の彼氏だって、最初は頼もしく見えたのに。結局、自分の都合ばかり。難しいよね」


 言葉に、先輩の顔が浮かぶ。期待は、形を変えた執着なのかもしれない。先輩との関係は――。


 ***


 十二月のスタジオは、いつもと違う空気に包まれていた。アンティークチェア、ベルベットのソファ。燭台の炎が揺らめき、天井から吊るされた星型のオーナメントが煌めいている。壁際には、繊細な装飾が施された十字架。非日常の物語を予感させる舞台。


 ライトの前で、サンタ風の赤いミニドレス姿の自分。膝上まで伸びる編み上げのブーツが、脚のラインを強調している。レザーの長手袋は肘まで達し、バックルで固定されている。


「そうね、でもまだ何か足りない」


 今日の先輩は、様子が違う。黒のペンシルスカートのスリットから覗く脚、胸元の開いた白のシルクブラウス。首筋の細いチョーカーと耳元の小さな十字架が、後れ毛を残して緩く束ねた髪に映える。


「その衣装、気に入らない?」

一歩近づく足音。官能的な香水の香りが、普段より強く漂う。

「いえ」

呼吸が浅くなる。柔らかな布地の下で、体が締め付けられる。


 シャッター音が響き、キャンドルの炎が揺れる。


「こっち向いて」

前かがみになってファインダーを覗く先輩の声。胸元が大きく開き、影を落とす。

「そう、その目」


 レンズを通して見つめる先輩の目が、熱を帯びている。視線に応えようと、必死で呼吸を整える。


「上着、脱いで」


 ファスナーに手をかけると、布地が肌を擦る。中から現れるのは艶めく黒のレザーコルセット。肌に食い込む編み上げの紐。呼吸を制限する本体。


「すごい汗」

先輩の目に、熱がこもる。

「続けましょう」


「もう少し、強調した方がよさそうね」

背後から伸びる手が、コルセットの紐を引き直す。一本、また一本。きつく、さらにきつく。


「息、できる?」

優しく尋ねる声。でも、手は容赦なく紐を引き締めていく。


「はい」

掠れた声が漏れる。


「本当に?」

先輩の声が耳元で囁く。吐息が、汗で濡れた首筋を撫でる。

「無理しなくていいのよ」


 言葉とは裏腹に、紐はさらに締められていく。肋骨が軋むような感覚。視界が歪む。それでも、レンズを見つめ続ける。


「いい顔になったわ」

シャッター音が加速する。

「演技じゃない、本物の表情」


「椅子に座って」

姿勢を変えるたび、締め付けが全身に響く。

「腕を上げて」

動きだけで、呼吸が乱れる。


「すごくいい」

先輩の声が高まっている。ブラウスの胸元が荒い呼吸で上下している。


「苦しい?」

「はい」

「そうよね。苦しめてるんだもの」


 シャッター音が加速していく。視界が徐々に狭まる。


「いい、最高……」


 痛みを受け入れながら、自分を委ねていく。先輩への無条件の信頼。だが、意識が遠のいていく。光が遠ざかる。


 慌ただしい足音。切迫した声。


「ダメ、このままじゃ」


 ハサミの金属音。紐が切れる感触が背中に伝わる。


「大丈夫っ?」


 解放された胸に空気が流れ込む。


「……はい、……なんとか」


 強張っていた先輩の表情が、ゆるむ。


「私、つい……」


 レザーの拘束具を外す手が、冷静さを取り戻している。解放されていく体に、呼吸が戻ってくる。


「でも、なんだか安心しました」

「安心?」

「はい。先輩も安心しましたか?」


 一瞬の沈黙。演技めいた色気も意図的な仕草も消え、素の表情に戻っている。元カノの話をしてから、先輩はどこか不安定だった。


 キャンドルの灯が、ふたりの影を重ねるように揺らめく。


「……ありがとう」


 微かな声。先輩が顔を背け、カメラをケースに納めた。

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