交錯
銀杏が黄色く染まり始めた十月の午後。事務棟に書類を提出に行く途中、急に背後から声がかかった。
「あれ、久しぶり」
声に、一瞬体が固まる。振り向くと、スーツ姿の彼女――元カノが立っていた。就活用の黒いパンプスが、冷たい音を立てる。立ち止まった自分の長い髪が、風に揺れるのを意識する。
「元気?」
にこやかな笑顔。就活を経て、さらに洗練された印象。整えられた前髪に、控えめなメイク。スーツの着こなしにも余裕が感じられる。目が合う彼女。
「ああ、今日は内定式の帰り」
一年ぶりの何気ない会話に、かつての重さは感じられない。ぎこちなさを感じているのは、自分だけのようだ。
「私ね、○○商事に決めたの」
声が弾んでいる。
「他にも内定もらってたんだけど」
どこか自慢げな口調。去年、「頼りがいのある人が必要」と言い残して去っていった彼女。
「あ、そうだ」
時計をちらりと見る仕草。
「この後、暇なんだよね。お茶でもしない?」
断る理由を探す。見つからない。
「いいよ」
木曜日の午後。これが、これからの定期的な接触の始まりになるとは、その時は思わなかった。
***
学食のカフェで、彼女がパフェをつつきながら話を続ける。スプーンを持つ手に光る指輪。自分がプレゼントしたものとは違う。
「今の彼氏ね、○○銀行の内定もらってて」
言葉の端々に、強調しすぎる響き。
「でも、最近ちょっと。約束した時間に遅れてくるし」
目を合わせないように、相槌を打つ。話題が彼氏に及ぶと、なんともいえない気持ちになる。もはや嫉妬ではない。むしろ、自分とは違う世界の話を聞いているような感覚。
「それにしても」
突然、話題が変わる。
「変わったよね、髪とか」
言葉に、先輩の声が重なる。
――伸ばしてみない?
もう肩に触れるほどの長さ。
「就活は?」
「……大学院に進もうと思って」
「え?」
彼女の動きが止まる。
「進学? そっか……」
また問題を先送りにしている、相変わらず頼りない。そう思っているのだろう。でも今は、それほど気にならない。
「ま、それもありか」
納得したように数回頷く。
「だからそんなヘアスタイルでもいいんだ」
「うん、まあ……。今しかできないしね」
言葉を濁す。
「そういうのに関心なかったのに、おしゃれなメンズボブじゃん」
冗談めかして、でも興味深そうに覗き込んでくる。
「彼女でもできた?」
この、見透かすような物言いが苦手だったことを思い出す。
「違うけど……ちょっとモデルを」
この話題は、避けたかった。
「ええっ? モデル?」
驚きの声があがる。
「キミが?」
「知り合いの趣味に付き合ってるだけだよ」
「どんな写真?見せてよ」
軽い調子。
「元カノの特権ってことで」
「いや、それは……」
「あ、ごめん。余計なこと聞いちゃったかな?」
笑って誤魔化す彼女。
「そういうの、人に見せたがらないタイプだったもんね」
言葉に、かつての自分を思い出す。確かに、内面を見せることを恐れていた。でも今は違う。見せたくないのではない。見せられないのだ。あの写真は、先輩との特別な時間の証。それを軽々しく見せる気にはなれない。
「練習台みたいなものだし」
言葉を選びながら、平静を装う。
「人に見せるようなものじゃないよ」
「ふーん」
そっけない返事。
「他人の趣味より、自分の将来の方が大事だと思うけど」
昔なら、この言葉に傷ついただろう。でも今は、ただ表面的な会話として流れていく。彼女の言葉は、もう自分の内面まで届かない。
「もうこんな時間」
彼女が時計を見る。
「そうだ。木曜は毎週大学来てるんだけど、また時間あったら」
立ち上がる姿。折り目正しいスーツ。整えられた黒髪。社会の求める理想の就活生の姿。それは、今の自分からは遠い姿だった。
***
スタジオの隅でコーヒーを手に取りながら、モニターを見つめる。黒のレースドレスに身を包んだ自分の姿。現実感のない、妖しい魅力を漂わせている。
「やっぱり、人には見せられませんね」
先輩は今日もきちんとした装い。グレーのワンピースに細いベルト。シンプルでありながら、洗練された空気を纏っている。長時間の撮影で、完璧な佇まいにわずかな乱れが生まれ始めている。襟元から覗く鎖骨のライン。肩に落ちる乱れた髪の陰影。
「先週」
何気なく話し出す。
「元カノと会ったんです」
ソファに座る先輩の手が、一瞬止まる。
「あ、偶然なんです。内定式の帰りだって」
なんとなく、言い添える。
「写真のこと聞かれて。でも、見せられなくて」
「そう……」
先輩の声が、わずかに低くなる。
「見せたくなかったの?」
「こういう衣装ですし」
画面の写真を指さす。
「それにこれは、先輩とだけの……」
「あなた自身を否定する必要はないわ」
予想外の言葉に、顔を上げる。
「見せたっていいのよ」
カップを置く音が、やけに大きく響く。先輩がソファから立ち上がる。
「また、会うの?」
背を向けたまま、さりげない口調。でも声に微かな緊張が混ざる。
「たぶん……」
「そう」
短く切られ、振り向いた先輩の目が強い光を放つ。
「もう一度、あの衣装に着替えて」
普段より強い口調に、呼吸が止まりそうになる。
「今度は」
ゆっくりと近づいてくる足音。パンプスのヒールが床を鋭く打つ。
「もっと、紐はしっかり締めて」
着替えを済ませ、ライトの前に立つ。指示が、いつになく厳しい。
「首を上げて。違う、そうじゃない」
直接顎に触れる指先。香水と汗の香りが混ざり合う。整えられた黒髪が、頬にかかる。
指先に、普段より強い力が込められている。でも不思議と、支配的な態度に安心感を覚える。先輩の熱い息遣いが耳元で感じられる。
「私の言う通りに」
その言葉に、全身で応えたいと思った。ライトの熱が、二人を包み込んでいく。




