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 九月の午後、エアコンの効いた研究室で画面に映る自分を見つめる。伸びた黒髪が画面に写り込み、手で払う。美容院では「少しだけ」と言って、整えるだけで済ませてきた。


 メールの着信音。開くと、先月送ったエントリーシートへの返信。「これからのご活躍を心よりお祈り申し上げます」の定型文。期待していなかったはずなのに、やはり落胆する。自分が否定されたような気持ちになる。


「髪、そのまま?」

隣の席から、遠慮がちな声。この研究室でも就活を終えた学生が増えている。


「面接、決まってからでいいかなって」

言い訳めいた声に自分でも嫌気がさす。手で髪を払いながら、心の中で呟く。


 まだ切れない。切りたくない。


 ――「伸ばしてみない?」

 ――「私は好き」


 先輩の声が、今でも耳の奥で鳴り続けている。


 ――「ダメよ」


 あの声の強さを思い出す。先輩の期待を裏切りたくない。失望させたくない。


 黒髪は確実に肩まで伸び、就活生としてはもはや致命的な長さになっている。鏡の中の自分は、現実から浮いた存在のように見える。


「ってことは……」

同じゼミの女子学生の声が続く。

「まだ面接、一回も?」


 沈黙が答えになる。エントリーシートすら、ほとんど出していない。もう周りはほぼ全員が内定を獲得している。同期のSNSには笑顔が並ぶ。スーツ姿で、短髪で、自信に満ちた表情で。


「まあ、院も考えてるし」


 言葉が口をついて出る。確かに、研究室に残る方法はあるかも知れない。でも、それは逃げ道を探しているだけなんじゃないか。


 スマートフォンのカレンダーを開く。次回の撮影予定。日程は覚えているが、日付を見るだけで、心が落ち着く。先輩との特別な時間。レンズの前での解放感。仮面を外せる唯一の場所。……仮面? いつの間にか現実が仮面になっている。


 グループチャットは、相変わらず賑わっている。


「内定式、スーツどうする?」

「○○商事の懇親会、緊張する~」

「自己紹介考えとかなきゃ」


 画面を消す。比較することさえ、もう辛い。


 就職課の面接対策セミナー。気は進まないが、義務感だけで出席する。後ろの方の席に座り、ただ時間が過ぎるのを待つ。講師の声が、遠くから聞こえてくる。


「第一印象が大切です。特に身だしなみは、面接官への重要なメッセージです」


 聞き慣れた言葉に、無意識に髪に手が伸びる。講師の目が、一瞬自分に向けられたような気がした。


「男性の場合、清潔感のある短髪が基本です」


 肩に触れる黒髪。就活生としてはあり得ない。でも、スマートフォンのギャラリーを開けば、先輩が撮った写真が並んでいる。レンズを通して切り取られた瞬間。それは紛れもない今の自分の姿。


「髪は、面接が決まってから」


 がらんとした教室で、小さく呟いてみる。でも、現実感がない。エントリーシートは書けず、面接の予定も入らない。ただ時間が過ぎていく。それでも、先輩の期待を裏切るのは、もっと怖い。


 夕暮れの教室で、現実と理想が激しくぶつかり合う。窓ガラスに映る自分の姿が、オレンジ色に染まっていく。


 ***


 土曜日。足取り軽く、スタジオに向かう。扉を開けた瞬間、いつもと違う空気を感じる。


 先輩が窓際に立ったまま、こちらを向かない。カメラバッグは机の上に置かれたまま。普段なら既にライトの位置を確認し、レンズを選んでいるはずなのに。


「あの、今日の衣装は……」


「せっかく来てくれたのに、ごめんね」

振り向いた表情が、暗い影を帯びている。

「今日は、撮影はやめましょう」


 言葉に、不安が胸をよぎる。


「あんなこと……言うべきじゃなかった」

声が掠れている。

「あんな気持ちをぶつけてしまって」


「聞いたわ。就活のこと」

スタジオの照明が、先輩の横顔を浮かび上がらせる。

「全然進んでないって。後輩から」


 カメラバッグに目を落としたまま、先輩の言葉が続く。

「これ以上、あなたを縛り付けるわけにはいかない」


 そんなこと、別に構わない。


「私が、邪魔をしてる。髪を切れないのも、面接に行けないのも」


 そうであったとしても、先輩は悪くない。思わず否定しようとする。

「そんなこと……」


「わかってる」

先輩が遮る。白いブラウスの袖口を無意識に弄り、唇を噛む。

「でも、私が原因」


 反論できない。確かに撮影の日だけを心待ちにし、それ以外のことが手につかなくなっていた。髪を切れないのも、先輩のことがあったから。


「あなたは私の気持ちを受け止めるって言ってくれた。嬉しかった。でも……」


 あの夜の記憶が蘇る。吐き出された感情。そして、その後の撮影も。


「私みたいな人間に振り回されちゃだめ」


「だから、しばらく会わないことにしましょう」

スタジオバッグに伸びる先輩の手。

「就職が決まるまで」


「でも……」

この関係は特別なものだったはず。あれほど心を通わせ、わかりあえたと思った。それなのに――。


「髪も、切った方がいい」

ドアに向かいながら、先輩がポツリと呟く。

「それが、今のあなたにとって一番大切なこと」


 立ち去ろうとする背中を、思わず追いかける。

「待ってください」


「ダメ。来ないで」

声に、生々しい感情が混ざっている。

「あなたのためじゃなく……私が自分を許せなくなる。お願い」


 ドアが閉まる音が、妙に重い。取り残された空間に、静寂が広がる。

 スタジオの鏡に映る姿。伸びた黒髪。先輩の決断は、きっと正しいのだろう。でも、それを受け入れる準備が、まだできていない。


 ***


 夕暮れ時の研究室。一人残っていると、教授が声をかけてきた。


「どうしましたか?研究で困ってることでも?」


 PCの画面には、未完成のエントリーシートが開かれたまま。天井の照明が、やけにまぶしい。


「先生……このまま就活を続けるべきなのか、迷ってます」


 口を開けば、悩みが溢れ出す。周りは内定を得て、次のステップに向かっている。自分だけが立ち止まったまま。不安と焦り。言葉にすればするほど、自分の迷いが形を取っていく。


「無理に今、決める必要はないと思いますよ」


意外な言葉に、顔を上げる。


「でも、それは逃げでは……」


「逃げ?」

教授が白い眉をひそめる。

「君は何から逃げてるんですか?」


 問いに、言葉が詰まる。


「世間の常識や周りの目、というところでしょうか」

窓際に歩み寄ると、教授の白髪が夕陽に輝く。

「修士に上がってから就活してもいいんじゃないですか」


 答えを待たず、教授は「じゃあ、お先に」と手を上げて去っていく。


 研究室に長い影が落ちている。


 大学院。学問に強い思い入れがあるわけではない。でも、逃げることと、選ぶことは、違うはずだ。大切な人との時間を、もう少し大切にしたい。


 研究室を後にする頃には、日が暮れていた。スマートフォンを取り出し、ためらいがちにメッセージを打つ。


「先輩、お話ししたいことがあります」


 返信を待つ間、耳の奥で血が騒ぐ。


 ***


 夏の終わりを感じさせる夕暮れ。あのカフェに向かう足取りが、妙に重い。新緑の季節に先輩と再会した場所。レンガ造りの壁に蔦の絡まる、落ち着いた空間。


「大学院に進むことにしました」


 窓際の席で、カップを持つ先輩の手が、一瞬止まる。


「就活を諦めたわけじゃありません。ただ、今は……」

言葉を探す。

「先輩との時間を、大切にしたいんです」


 ゆっくりとカップを置く音が、静かに響く。


「そんな……私のせいで……」


「違います」

強く否定する。

「研究は嫌いじゃないんです。面白いと思えるところもあって」


 研究室での日々を思い出す。就活の代わりに、データと向き合っていた時間は、確かに充実していた。


「奨学金も貰えそうなんです」


 カップから立ち上る湯気が、夕陽に照らされて煌めく。


「覚えてますか?先輩は言ってくれました」

自分の番だと思い、勇気を出して話し始める。

「素直な方が、好きだって」


「……」

「進学も、問題の先送りに見えるかもしれません。でも、そうしたいんです」


「でも……」


 店内の柔らかな照明が、横顔を優しく照らしている。


「本当に……いいの?」

掠れた声。

「そこまでして、私みたいな人間に……」


「はい」

迷いのない返事。

「先輩との時間に、その価値があると思ったんです」


 潤んだ瞳が、まっすぐこちらを見つめる。


「これからは……」

声が、少しずつ力強さを取り戻していく。

「あなたの作ってくれた時間、もっと大切にしなきゃね」


「色々と撮ってみたいと思ってたものがあるの」

まるで、夢見るように続ける先輩。

「今まで触れられなかった世界を、表現したい」


 窓の外では、夕陽が街並みを染めていた。

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