躑躅
蒸し暑い五月。半開きの窓からの風も温い。でも、まだエアコンを入れるには早い季節。研究室の窓の下に咲くツツジが、赤く目に染みる。
「あの、センパイ」
後輩が眉を寄せている。
「ここだけ除外して考えれば、仮説に合うんですけど……」
「そうだね」
横から画面を覗き込む。
「でも、データがあるのは現実だから……」
「え?」
「そこに、大事な何かが隠れてるかもしれない」
「うーん」
頬に手を当てて考え込む。
「やっぱり都合よく解釈しちゃダメですよね」
「他の事例なんだけど」
自分のPCの画面を指差す。後輩が近づいてくる。肩が触れそうになり、わずかに身をずらす。爽やかな香りが漂う。ふと、女の子なんだと気づく。
「ここですね。確かに、こっちの仮説なら」
グラフを指す指先のネイルが艶めく。髪を耳にかける仕草。
「えっ」
後輩の目が、デスクトップの端に留まる。見返していた一枚の写真。白シャツにデニム姿の自分。先輩との撮影が始まった頃のもの。
「これ、センパイですよね?」
息が止まる。
「あ、その」
反射的にマウスに手を伸ばすが、間に合わない。
「すごい」
後輩が椅子を引いて、画面に顔を近づける。
「モデルとかしてるんですか?」
「ヴィジュアル系みたい。こういうの、大好きなんです!」
振り返った後輩と、目が合う。頬が紅潮している。
「センパイのこういう一面、もっと見てみたい」
その写真の向こうにある世界は、先輩との特別な――。
「これ、誰が撮ったんですか?」
答えに窮する。その時、携帯が震えた。
「あ、ごめん。ちょっと用事思い出した」
ログアウトし、慌ただしく荷物をまとめる。
「また、明日」
研究室を飛び出す。夜風が熱い頬を撫でる。
***
「見られた?」
カフェの窓際の席。カップを持つ先輩の手が止まる。
「はい。でも、最初の頃のもので、なんとか……」
「見せてあげれば?」
意外な言葉に、顔を上げる。
「あなたが見せたいなら」
以前、元カノに見せてもいいと言ったときと、同じ声色だった。
「どうしたいの?」
先輩がカップをソーサーに置く。小さな音が響く。
「その子、写真に興味があるみたいね」
「その……」
後輩の目に映る写真。あんなふうに見てくれるのなら。でも、先輩との時間が、薄れることにならないか。
視線が刺さる。先輩が手を組む。指先が白い。
「わかったわ」
答えない自分に、先輩が微笑む。口元だけの笑み。
「今度の撮影は、少し特別なものにしましょう」
街灯が灯り始める頃、カフェを後にする。先輩の背中を見つめる。歩く速度が、いつもより少しだけ速い。
***
後輩との会話は自然と増えていった。研究の合間の何気ない話題。データの整理をしながらの雑談。
ライブの予習をする。
「このアルバムの2曲目、最後のアンコールで」
スマートフォンの動画を見せてくれる。
「見てください。特にこのシーンが」
曲を盛り上げる演出。花火のような映像効果。
花火――元カノと行った花火大会の記憶が一瞬よぎる。自分の見通しが甘く、ほとんど見れなかった。
「もういいよ」
諦めたような彼女の顔。あの頃から距離が開き始めた。
そして最後の言葉も。
「私には、もっと頼りがいのある人が必要なの」
なのに、いや、だからこそ、先輩とはうまくいくのかも知れない。先輩の前では、リードを求められることはない。むしろ、こちらが導かれる立場。カメラの前で見せる表情も、着る服も、全て先輩の望むまま。それは束縛のはずなのに、解放されているような感覚。委ねてしまうからこそ、先輩のレンズの前の、非日常な世界の住人になれる。
そして後輩は、何も求めていない。研究でわからないことがあれば素直に聞く。自分の意見も臆することなく言う。夜遅くまでデータと向き合う時も、PCの明かりに照らされた横顔が自然と隣にある。デートプランを考える必要も、がっかりさせる心配もない。今はただ、目の前のことに向き合えばいい。
「センパイ?」
後輩の声で我に返る。
「あ、ごめん」
映像の中で、ステージの照明がまぶしく揺れる。
「見とれてた」
二人で画面を覗き込む距離が、いつの間にか近くなっている。見られてしまった写真のことは、互いに口にしない。でも、その秘密が、後輩の存在をより身近にしていた。爽やかな香りが漂う横顔に、目を留めた。




