エピソード0(3)
オリビアはまずジュリアンに彼の手についた血を洗い落とさせた。その間に、室内を整える。最後にナイフをそれらしく女の死体の横へと置き、二人して部屋を出た。わざと扉を半開きにして。
移動したのは隣の部屋。
ジュリアンは「どうして隣なんだい? もっと離れた部屋の方が……」と言ってきたが、それを無視してオリビアは下準備を始める。しかし、その間も彼の質問は止まらない。あまりにしつこいのでオリビアはキレた。
「殿下。今はまだその時ではありません。そのおしゃべりな口はしばらくの間、閉じておいてもらえます?」
オリビアの剣幕に圧されたのか、ジュリアンは無言になる。オリビアは満足げに彼の胸元へと手を伸ばした。
日を跨ぐよりも少し前――ようやくその時がきた。
オリビアたちがいる部屋の隣から二階全体に響き渡るほどの叫び声が聞こえてきたのだ。
(ようやく見つけてくれたのね)
「ふぅっ……」
オリビアは筋トレを止め、じんわりかいた汗を室内に備えてあったタオルで軽く拭う。そして、事前にジュリアンからむしりとっておいたシャツを羽織った。――いわゆる情事後の匂わせ工作だ。
ジュリアンを見れば、彼はオリビアを視界に入れないように顔ごと背けている。どうやら下着の上にシャツだけを身に付ける、という際どい格好のオリビアに気を遣ってくれているらしい。
(こういうさりげない紳士さが人気なのかしら)
女好きの元婚約者なら、女性の生足が見えただけでも興奮してガン見するところだ。
そんなことを考えている間に、複数の足音と話し声が隣室から聞こえてくる。そろそろだと、オリビアはジュリアンに声をかける。
「ジュリアン殿下」
「……ああ」
「お一人で隣の部屋に顔を出してきてくれますか?」
想定外だったのか、ジュリアンが驚いた顔でオリビアを見る。
「なぜわざわざ? その必要はないだろう?」
「いいえ。これだけ騒ぎになっているのに、出て行かない方が怪しまれますよ」
オリビアの言葉に一理あると思ったのか、ジュリアンは納得した顔で腰を上げた。
「あ、殿下。出て行く前に……」
オリビアは脱ぎ捨てたケープの中から携帯用香水を取り出して己に振りかける。そして、正面からジュリアンに抱き着いた。いきなりのことに彼は驚いた様子だったが、反射的に抱きしめ返してきた。オリビアはすぐさま離れる。
「これで、私の匂いが移ったはずです」
そう言って、オリビアはジュリアンを送り出し、そのまま扉の隙間から外の様子を窺った。
部屋の外はすでに野次馬だらけ。隣の部屋の扉は開きっぱなしで、野次馬たちは外から中を覗き込んでいる。部屋の中にいるのは酒場のマスターや店員たちだけらしい。緊迫した声が聞こえてきた。
「マスター! はやく警備騎士団へ連絡をした方がっ!」
「まて! この女はジュリアン殿下の連れだったはず。その殿下がどこにもいないところを見るに……」
「っ! まさか、殿下が?」
誰かが発した言葉で沈黙が満ち、次いで騒ぎが巻き起こった。
「『稀代の遊び人』がとうとう女性相手に問題を起こしたってよ⁉」
「ってか、この場合どうすんだよ。警備騎士に事情を聞かれたら正直に話してもいいのか?」
「ばーか。当然黙っておくにきまってんだろう。それで後からたんまり金もらうんだよ」
「なるほど! リーダーあったまいー!」
「随分賑やかだね」
野次馬連中がはしゃいでいる中、上半身裸のジュリアンが彼らの輪に入り尋ねた。ピタリと止む喧騒。皆、あり得ないという顔でジュリアンを見ている。
「いったいこの騒ぎはなんだい? それに今、私の名前が聞こえたような気がしたんだが……」
(あら、なかなか演技が上手じゃない)
前世では演技派子役として一時期名を馳せたオリビアの目から見ても、ジュリアンの演技は完璧だった。代表して部屋から出てきたマスターがジュリアンに尋ねる。
「え、ええっと……殿下は今までどちらに?」
「私か? 私なら先ほどまで隣の部屋にいたよ」
ジュリアンはそう言って隣の部屋を指差した。皆の視線がオリビアのいる部屋へと向く。
オリビアはタイミングを見計らって「キャッ!」と声を上げ、彼らから見えないところまで下がった。ただし、数秒間彼らの目にオリビアの格好がしっかりと止まるように計算して。
オリビアはさっさとケープを羽織ると、意を決したような顔で部屋から出る。そして、ジュリアンに縋りつくように寄り添った。ジュリアンの手が自然とオリビアの肩に回る。
その姿は皆の記憶の中にある、入店時の二人の姿と重なったようで「なんだ。殿下の連れはこっちだったのか……」という表情になっている。
「それで、そろそろ教えてもらえないかな? いったいこの騒ぎはなんなんだい?」
困った顔でジュリアンが問えば、我に返ったマスターが恐縮した感じで説明を始めた。
「実は、隣の部屋で殺人が……」
「隣の部屋で?」
ジュリアンが片眉を跳ね上げると、マスターは青ざめた顔で頭を下げる。そこに、客からの通報を受けたという警備騎士団の到着が告げられた。
二階は警備騎士団の手によって封鎖され、一同は一階へと場所を移すこととなった。
マスターが全員へ水を配る。一休憩を挟み、事情聴取が始まる。
始めは第一発見者である酒場の店員。
彼は定期清掃のため、二階に上がった。その際に、部屋の扉が中途半端に開いている部屋を見つけ確認しようとしたところ死体を発見した。
その次は駆け付けたマスターと店員たち。
彼らは部屋に入り、死体に触れたため、その時の詳細を尋ねられていた。
次に聴取を受けたのは隣室を利用していたジュリアンとオリビアだった。オリビアは適当な偽名を使った。ジュリアンの連れだったからか、それとも変装のためのケープを見て平民の娘だと思われたのか、家名を省略しても何も言われなかった。
「ごめんなさい。私……正直、何も覚えていないんです。あ、いえ、何も、ではないんですけど。覚えているのは殿下のことだけで、それも途中からなんかもうよくわからなくなっちゃって……あ、わ、私何を言って、あの、そのっ……」
「大丈夫ですよ」
「す、すみません」
オリビアは真っ赤になった頬に両手を当てて、俯く。警備騎士は苦虫を噛み潰したような顔をジュリアンに向ける。何か言いたいことは別にありそうだったが、警備騎士の口から出たのは通常の質問だった。
「それで、殿下の方は何か気になることはありませんでしたか?」
「何か……」
思案するようにジュリアンは顎に手を当てる。そして、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、男女が揉めるような声を聞いた気が……」
「ほうっ。内容はどんな?」
警備騎士が体を乗り出す。
「さあ、そこまでは……気になったのも一瞬だけだったから……あ」
「他にも何か⁉」
「いや……。今、考えてみれば……もしかしたら私は犯人を見たのかもしれない」
ジュリアンの言葉に全員が息を呑む。
「私がいた部屋からちょうど隣の窓の外にある木が見えたんだ。その木を降りていく男を私は見た。最初、なぜそんなところに男が? と驚いたが……すぐに覗きのためだろうと思い至った。そういう変態がいると聞いたことがあったからな。が、その男が犯人の可能性は……」
「十分あるでしょうな。ジュリアン殿下、その男の人相は覚えていますか?」
「いや……暗くてそこまでは……だが、頬に火傷のような痕があるのは見えた」
火傷の痕という言葉に、店員や客の数人が反応を示した。
「自分、見ました」
「俺も見たぜ」
警備騎士の興味が彼らへと向く。そこでジュリアンの聴取も終わった。
ジュリアンがオリビアへと視線を向ける。オリビアは小さく頷き返した。
(ジュリアン殿下、完璧でしたよ)
そんなオリビアの言葉はアイコンタクトでも十分伝わったらしく、ジュリアンはホッとしたように微かに目を細めた。そう、彼の言葉は事前にオリビアが指示していたものだ。オリビアの口から伝えるよりも、ジュリアンからの方が信憑性が増すと判断してのこと。オリビアの想像以上に彼は上手くやってくれた。仮に彼の演技が大根役者過ぎた場合は、オリビアがそれとなくフォローするつもりだったが、その必要もなかった。
結局、女は頬に火傷の痕がある男の手によって殺されたことになり、ジュリアンとオリビアは疑われもせずに解放された。すべてオリビアの計画どおりだ。
(無事に酒場を出られたけど、時間はかなり取られちゃったわね)
「ジュリアン殿下、ここで結構です」
酒場が完全に見えなくなった所でオリビアはジュリアンから離れた。ジュリアンが驚いた顔でオリビアを見る。
「いや、遠慮することはない。家まで送っていくよ。もう少し歩けば馬車もある」
(その馬車って王弟の紋章付きでしょう。絶対に嫌よ! そんな馬車から降りるところを万が一我が家の誰かに見られたら、両親にバレたら……何を言われるか!)
「いいえ。結構です」
断固として拒否する笑みで返せば、ジュリアンは眉尻を下げる。
「私は恩人を軽んじる程、性根が腐ってはいないよ」
「私が望んだことです」
「私がもう少し君と一緒にいたいと言っても?」
「はい」
(私はそう思っていませんから。むしろ、早く解放して欲しい)
オリビアの心の訴えが通じたのか、ジュリアンは仕方ないと深く息を吐く。
「では、今回は諦めるとしよう。その代わり、次は君の時間を私に預けてもらうよ」
ジュリアンはウインクをオリビアへと送る。オリビアはそれに対し、社交用の笑みを返した。
「そのような機会がありましたらぜひ。それでは……」
「ああ」
にこやかにその場で別れた二人。角を曲がり、ジュリアンの姿が見えなくなった途端オリビアは走り出した。
(急いで帰らないと! 抜け出したことが両親にバレたら面倒なことになるわ!)
抜け出したこと自体はバレてもいい。ただ、どこにいて、そこで誰に会って、何があったのか。それを聞かれるのがまずいのだ。オリビアは婚約破棄騒動で両親の頭を悩ませたばかり。今回の諸々を両親が知れば、おそらくそれ以上に頭を抱えることだろう。
(今日は私は屋敷にいた)
そういうことにしておくのが、一番平和なのだ。
オリビアの念が通じたのか、誰にもバレることなく、なんとか自室へと辿り着いた。
そうして、オリビアは朝食までの間、睡眠を貪ったのだった。




