エピソード0(4)
オリビアの両親は彼女が夜に屋敷を抜け出したことに、まったく気づいていなかった。
朝食の席で話題に上ったのはオリビアの仕事の話や、領地の話ばかり。前日に言い過ぎたと思ったのか、例の婚約破棄については触れもしなかった。いたって平和な家族の会話に、オリビアは安堵した。
数日間の休暇を経て、オリビアは日常へと戻った。
王城に住み込みで働く、リリアン王女付きの侍女。それが、普段のオリビアだ。
「ねえ、オリビア。お願いがあるの。例の続き、買ってきてくれない?」
「リリアン様。もう読破されたのですか? 渡したのは昨日でしたよね?」
「だ、だって……想像よりもずっと面白かったんだものっ!」
「まさか、それで夜更かしなんて……」
「してないわ! それはしないとオリビアと約束したじゃない。だから、ね。いいでしょう?」
「……仕方ありませんね」
途端にリリアンの目が輝く。
「ありがとう。オリビア!」
オリビアは苦笑した。
頬を紅潮させ、浮かれた様子のリリアンはまるで恋する乙女のようだ。しかし、残念ながらリリアンにそのような表情をさせているのは現実の男ではない。市井で流行っている恋愛小説だ。
リリアンには未だ婚約者はいないが、将来親の選んだ相手と結婚する未来は決まっている。そんなリリアンの恋愛観は……
『私? 私は誰とも恋なんてしないわ。だって、怖いもの。きっと、私はその感情に振り回されてしまうから……私の立場でそんなこと許されないでしょう』
さも当然のように笑うリリアンに、オリビアはなんとも言えない気持ちになった。
そして、その反動故か、リリアンは『他人の恋愛事情』に並々ならぬ興味を抱いていた。
少し前まではオリビアが、元婚約者と浮気相手たちとの赤裸々な恋愛模様を語り、彼女の好奇心を満たしていたが……婚約破棄によって情報源を失った今はもうそれもできない。
悩んだ末、代わりに提供したのが恋愛小説。この世界で、一般的に恋愛小説とは平民が楽しむ物とされている。特に恋愛描写が具体的に描かれているものは上流社会では忌避されがちだ。
(現実の方がよほどえげつないのにねえ)
この程度の内容でリリアンは満足してくれるかと不安だったが、存外彼女は気に入ってくれたようだ。
リリアンにお願いされ、王城を抜け出し、恋愛小説の続刊を買いに行ったオリビア。
本来の侍女の仕事からはかけ離れたことをしている自覚はあるため、手早く用事を済ませてリリアンのもとへ戻るつもりだったのだが……
(どうしてこの文官は毎回私に声をかけてくるのかしらっ)
心当たりは正直ある。過去に彼が手にしていた書類の間違いをその場で指摘したことがあった。その時に、オリビアは彼のプライドを傷つけてしまったのだろう。
だとしても、顔を合わせるたびにわざわざ話しかけてきて遠回しにグチグチ嫌味を言ってくるのはどうかと思う。
いい加減うんざりし始めたオリビアが、適当な嘘でもついて逃げようとしたその時。
姦しい集団が現れた。煌びやかなドレスを身にまとった女性たちの中心にはジュリアンがいる。
オリビアと文官は廊下の端に避けて頭を下げ、彼らが通り過ぎるのを待った。しかし、彼らの行進は亀のように遅い。
(早くしてくれないかしら)
こうしている間にも時間は刻々と過ぎていくのだ。
ところが、オリビアの願いもむなしく、いきなり女性同士の口論が始まった。オリビアはバレない程度に顔を上げる。今、彼らがいるのは階段を上がりきったところ。安全な場所とは言えない。案の定、令嬢の一人が他の令嬢に押されて、足を踏み外すのが目に入った。
オリビアの体は考えるよりも先に動いていた。それこそ、令嬢が落ちると予測できた時点で。
令嬢を強引に引っ張り上げ、代わりにオリビアが空中へと投げ出される。咄嗟にオリビアは両手で本を抱え直した。
(せめてこの本だけは守らないとっ!)
なにせ自腹を切って買ったリリアンへのプレゼントだ。
ボロボロの状態で渡すわけにはいかないし、買い替える程の余裕もない。多少の衝撃は覚悟の上で、受け身を取る。しかし、予想していた痛みが襲ってくる前にオリビアの体は硬い肉壁に包まれた。
「ぐっ」
「きゃあああああああ!」
複数の女性の悲鳴に紛れて聞こえた男性の声。そして、覚えのある香りと、抱きしめられる感覚。
(ジュリアン殿下?)
「……つけた」
何かを耳もとで囁かれた気がする。聞き返そうとしたその時、ジュリアンの手が皆から見えない位置でオリビアのボディラインを確かめるように僅かに動いた。
(ちょっと!)
オリビアは怪しい動きをする手を掴んで止める。睨みつけようと顔を上げると、捕食者のような瞳とかち合った。本能的に今すぐ逃げるべきだと悟る。
オリビアは慌てて立ち上がり、ジュリアンから距離を取った。ジュリアンはオリビアを見上げ、口を開く。
「君は……」
「ジュリアン殿下! 大丈夫ですか⁉」
「私が確かめますわ!」
「それならあなたは上半身をっ! 私は下半身の無事を確かめますわ!」
「ちょっ、君たちどこを触って……」
ジュリアンはあっという間に女性たちに囲まれ、埋もれてしまった。その隙を逃さず、オリビアはさっさとその場から立ち去ることにする。
(ジュリアン殿下のおかげで本も無事ね。ジュリアン殿下も……あの調子なら大丈夫でしょう)
あれだけ騒いでいれば、事が広まり、誰かしらが宮廷医師を呼ぶはずだ。
(念のため、後で医局に伝えておきましょう)
背中に複数の視線を感じながらも、気づかないフリをしてオリビアは歩き出した。
(それにしても……さっき、ジュリアン殿下はなんて言ったのかしら? 聞き取れたのは『つけた』の一言だけ。つけたって何を? バレたってことはないと思うけど……一応しばらくは顔を合わせないように気をつけた方がいいわね)
念には念を。ジュリアンと関わっても面倒事が増えるだけだ。今の短時間でそれが十分に分かった。
ようやく元婚約者との悪縁が切れたのだ。新たな悪縁はいらない。
(両親には申し訳ないけど。この先の結婚は諦めてもらわないと……その代わり、自力で成り上がってみせるわ。目指すはそうね……侍女長あたりかしら。その頃には私にもそれなりの伝手ができているだろうから、生家の存続問題もなんとかなるでしょう)
――オリビアがそう楽観視できたのもほんの数日間だけだった。
「え? 異動……ですか? 急にどうして……というかどこに……」
青天の霹靂とはまさにこのこと。
いつもどおり出勤したはずが、なぜかそこで待ち構えていた侍女長にオリビアは強制的に連れ出された。その際、リリアンがなぜか妙に嬉しそうな顔をしていたので、悪い内容ではないと思っていたのだが……まさかの異動。しかも、今から。
オリビアは状況を整理できないまま、侍女長の後をついて歩く。
階段を上り、辿り着いた先はリリアンの私室よりも広く、華美な一室。その部屋の中には、豪奢な調度品にも負けない色男――ジュリアン――がいた。
(ちょ、ちょっと待って異動ってまさか……)
立ち尽くすオリビアの背後で扉の閉まる音がする。我に返って振り向いた時にはすでに侍女長はどこにもおらず、扉は完全に閉められていた。
(あり得ない。というか、王弟殿下といえば、決まった侍女を持たないことで有名。きっと何か行き違いがあったに違いないわ)
そう信じてオリビアは改めてジュリアンに向き直ったのだが……
「オリビア・アシュレイだね。君は今日から私の専属侍女だ。よろしく頼むよ」
いつの間にか近くまできていたジュリアンに顔を覗き込まれ、ニコリとほほ笑まれた。
「離れてください。近すぎます。……なぜ、私なのですか?」
オリビアは眉間に皺を寄せ、ジュリアンから距離を取る。そして、納得できる理由を求めた。
ジュリアンは小首を傾げる。
「なぜって、約束しただろう? 『次は君の時間を私に預けてもらう』って。君も『そのような機会がありましたらぜひ』って言っていたじゃないか」
「っ! な、なんのことで……」
反射的に誤魔化しの言葉が出たが、ジュリアンの確信めいた態度にオリビアは内心狼狽えていた。
オリビアには気づかれない自信があったのだ。
酒場でジュリアンを助けた女と今の自分が同一人物だとバレない自信が。
(あの日は、素顔を晒していたのにどうして……)
――オリビア・アシュレイは整った容姿をしている。
そのことに誰よりも早く気づいたのはオリビア本人だった。付随する危うさも。
(うちは男爵家だから、変な目立ち方をするべきじゃない)
学園に入るのを機に、オリビアは変装をするようになった。
顔がのっぺりして見えるようにメイクを施し、女性らしい体は大きめの服で隠した。加えて、髪型はいつもシニヨンでかっちり固め、言動も若年寄のように振舞った。おかげで、今世では異性からのアプローチも同性からの嫉妬も一度も味わっていない。
ただ……何度か一緒にダンスを踊ったことのある元婚約者だけはオリビアのメリハリボディに気づいていたようだが、それでも地味顔が彼の好みではなかったおかげで無理やり関係を迫られることはなかった。
(何がきっかけでバレたのかしら……)
ショックを受けているオリビアを見て、ジュリアンが肩を竦める。
「私は一度抱いた女性の体を忘れることはないからね」
その物言いに、オリビアの頬に朱が差す。
(人聞きの悪い言い方をしないで欲しいわ! ただ抱擁を交わしただけじゃない。というか……)
オリビアの脳裏に蘇ったのは、先日階段から落ちた際にジュリアンから囁かれた一言。
(あれは……『つけた』ではなく、『見つけた』だったのね)
これ以上は誤魔化しても意味がないと悟り、オリビアはジトッとした目をジュリアンに向ける。
「まさか、『次は君の時間を私に預けてもらう』っていう言葉が、そういう意味だとは思いませんでした。知っていたらお断りしたのですが……恩人相手にあまりにもひどい仕打ちではありませんか?」
「そう? 私の専属侍女になりたいという者は多いのだけど……」
「では、その方たちにお譲りします」
「それは許可できないな。私が望んでいるのは君だ。美しく、機転が利くオリビア。君でないと私の唯一の専属侍女は務まらない」
ジュリアンはオリビアの胸元のリボンの端を手に取り、愛を囁くかのように甘く告げる。けれど、オリビアの瞳は冷えたまま。「その真意は?」と問い返した。
(来る者拒まず去る者追わずのジュリアン殿下がわざわざ嫌がる私を手元に置こうとするなんて、何かあるに違いないわ。この前の事件で私に利用価値を見出したのでしょうけど……いったい何をさせるつもりなのかしら)
オリビアの警戒心を前に、ジュリアンの目が愉しそうに弓なりに曲がる。
「私の傍にいれば自ずと分かる日が来ると思うよ。賢い君ならきっと、ね」
しばらく見つめ合った後、オリビアは嘆息し、彼の手から逃れるように身を引いた。リリアン王女付きを示すリボンが解ける。
「新しいリボンが届くまでは、コレを使うといいよ」
そう言って、ジュリアンは己の髪紐を取り、リボン代わりに結んだ。見る人が見ればすぐにジュリアンの物だと分かる品だ。
(この格好には似合わないデザインね。せめて新しいリボンはこれよりマシであって欲しいわ)
これからの毎日を想像すると憂鬱だが、オリビアがいくらリリアン王女付きに戻して欲しいと願ってもそれは叶わないだろう。すでに辞令は下されているのだから。――オリビアはふとあることに気づいた。
(リリアン様が妙に嬉しそうにしていたのって、ジュリアン殿下が次の情報源になるからでは?)
恋愛小説だけではリリアンの大いなる好奇心を完全に満足させることはできなかった、ということに気づき、オリビアは思わず遠くを見つめたのだった。




