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栄光の帳簿  作者: 酣睡


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5/12

行き場のない優しさと、拙い扇動

赤く灯る和紙の提灯の下、路地の奥深くに佇むこの居酒屋は、張り詰めた警戒心を芯から解きほぐすような確かな温もりに満ちていた。


店内には、備長炭で炙られたタレの香ばしい匂いと、湯気を立てるおでん鍋から立ち上る鰹と昆布の深い出汁の香り、そして揚げたて唐揚げのニンニクの匂いが漂っている。


小さな木製のテーブルには、すでに所狭しと料理が並べられていた――山盛りの焼き鳥ねぎま、脂の弾ける豚バラ串、黄金色に揚がった軟骨の唐揚げ、そして湯気立つ出汁巻き玉子。


つい先ほどまでオフィスで震え上がっていた三人の間抜けなチームメイトたちは、キンキンに冷えた生ビールを前にした途端、すっかり地金を露わにしていた。


重厚なジョッキが威勢よくぶつかり合い、黄金色の液体と白い泡が弾け飛ぶ。焼き鳥の奪い合いによる騒ぎと、互いの恥を晒し合う爆笑の声。先刻までの重苦しい空気など、この賑やかな生活の匂いに瞬く間に押し流されていた。


伊織は壁際の最も奥まった小上がりに腰を下ろし、大きめのコートにすっぽりと埋もれるようにして、小さな両手で微炭酸が弾ける冷たい烏龍茶のグラスを大事そうに抱えていた。


彼女がこうした無防備な喧騒に慣れていないのは明らかだった。これまでにこなしてきた千以上の任務において、食事とは単に肉体の稼働を維持するため、冷たくドロりとした高エネルギーゼリーを喉へ流し込む作業に過ぎなかったのだ。


目の前で湯気を立て、芳醇な脂の香りを放つ本物の料理を前にして、少女の緋色の瞳は見開かれ、テーブル中央に置かれた照り焼きタレの焼きおにぎりをじっと見つめていた。


その小さく整った鼻が、反射的にぴくりと動く。


「おいおい伊織ちゃん! 遠慮すんなって! 今日は白峰ボスの奢りなんだから、食い倒さなきゃ損だぞ!」


隣の男性隊員が大声で笑いながら、こんがりと黄金色に焼き上がった焼き鳥二本と、マヨネーズを添えた分厚い玉子焼きを、伊織の小皿へと豪快に盛り付けた。


甘辛い脂の香りが、一瞬にして少女を包み込む。


伊織は顔を上げ、騒ぎ立てながら最後の唐揚げを巡ってあわやおしぼりを振り回しかねない仲間たちを見つめた。その瞳にわずかな戸惑いがよぎるも、テーブル一面を満たす蠱惑的な香りに、心は静かに綻んでいく。


ふう、ふう、と小さく息を吹きかけながら、白く細い手で竹串をそっと掴む。まるで宝物を抱える小リスのように頭を下げ、熱々の焼き鳥にかじりついた。


パリッと焼き上げられた皮、そして甘辛いタレをまとった熱い肉汁が舌の上で弾けた瞬間、少女の愛らしい頬がぷっくりと膨らんだ。


あまりに久しぶりの、確かな美味の衝撃に、目尻にはほんのりと幸せな生理的な涙さえ滲んでいた。


食べ物の香りに優しく包まれたこの狭い空間には、鼻を突く消毒液の匂いも、彼岸の黒水の腐臭も、秒読みを刻む沈降率もない。ただテーブルを囲む陽気な笑い声と、口いっぱいに広がる本物の温もりだけがあった。


境遇に恵まれなかったこの少女がようやく素直に口を動かし始めたのを見て、同席していた大人たちの顔にも、自然と安堵の笑みが浮かんだ。


先ほど甲斐甲斐しく小皿を満たしてくれた黒髪黒瞳の青年は、橘悠真。この小隊の名目上の現場リーダーであり、階級は最も一般的な「渉水しょうすい」クラスだ。


悠真の能力は痕跡の追跡と解析に特化している。現場に残されたごく微小な手掛かりさえあれば、それを霊気で包み込み、目標の核心部へと漂い導く光へと変えることができる。


気性が極めて穏やかで、日本の創作物によく見られる「普段は大雑把で頼りなく見えても、部下思いでいざという時には責任を背負い込む良き先輩」そのものの気質を持っていた。


対面に座るもう一組の男女は、彫りの深い顔立ちと大柄な体躯が目を引く白人系コーカサスの特徴を備えている。


世界中が一致団結して彼岸の侵食に抗う現代において、国家の境界などとうに形骸化し、渡航にパスポートすら必要とされない。異なる文化圏の人々が交じり合い、支え合って防衛拠点を築き上げているのだ。


伊織を育ててくれたあの李先生が、どう見ても中華圏の出身でありながら、長年の居住によって流暢でわずかに訛りのある日本語を話すのと同じように。


ウェーブがかった金髪をなびかせ、澄んだ青い瞳を持つ青年は、レオン・ヴァレンタイン。白い歯を見せて笑うその佇まいは、旧時代の映画に出てくる気ままな西部劇のガンマンを思わせる、この小隊の主力戦闘員だ。


レオンの能力は極めて単純明快、「運動加速」。放たれた拳や蹴りの先端、あるいは筋肉の瞬間的な爆発力をコンマ数秒で数倍に引き上げ、極限の加速度によって桁外れの物理破壊力を叩き出す。


接近戦では肉眼で追いきれない黄金の残像を描く実力者だった。


そしてレオンの隣に腰掛ける、背筋の伸びた金髪緑眼の長身美女が、クロエ・アーサーである。洗練された都会的な雰囲気をまとった彼女はとにかく毒舌で、席に着いた瞬間からレオンの注ぎこぼしたビールに文句を言い、悠真の選んだ店の換気の悪さを並べ立てていた。


しかし、乾杯の前には当たり前のように温かいおしぼりを男二人に配り、最後にはひときわ仕草を和らげて、隅に座る伊織の前に差し出していた。


「毒舌」は他者を寄せ付けないための鎧に過ぎず、その根底にある気遣いと繊細さこそが、彼女の本質だった。


クロエは極めて希少な生命回復型の覚醒者であり、霊性によって人体細胞の超高速再生を促す力を持つ。


精密な索敵と追跡、前線での牽制と突破、そして後方での治療と継戦維持――どう見ても、それぞれの役割が綺麗に完結した標準的な編成の小隊だった。


だからこそ、伊織は首を傾げざるを得なかったのだ。


歩く天災と化し、いつ暴走してもおかしくない自分のような兵器が、なぜこれほど手堅くまとまった小隊に無理やりねじ込まれたのか。


少女の緋色の瞳に浮かぶ迷いを察したのか、上座に座る凛花は、温くなった烏龍茶の湯呑みを静かに置いた。薄暗い明かりの中で、その深遠な紫の瞳が真剣な光を湛える。


「わけがわからない、って顔をしているわね。けれど事実として、この煌びやかな街の底では、すでに暗流が渦巻いているのよ」


凛花は片手で顎を支え、伊織を真っ直ぐに見据えた。


「失踪した溺亡者の数が多すぎる。それ自体が極めて危険な兆候よ。それに、軍が報道を完全に封殺してはいるけれど、市街地の外れではすでに『溺亡者による一般市民の襲撃事件』が複数件発生しているわ」


声は低く落とされていたが、そこには上位者特有の冷徹な真実が含まれていた。


「だからこそ、軍上層部はこの決定を下したのよ――肉体の摩耗が激しく、高強度の作戦にはもう耐えられない。けれど実戦経験が極めて豊富で、圧倒的な戦力を誇る溺亡者を、軍の管轄外である独立組織に秘密裏に送り込んで調査させる、とね。……現世を裏切って逃亡した溺亡者たちも、同じ被害者である『同類』に対してだけは、異常なまでの寛容と信頼を見せるものだから」


その言葉を聞いた瞬間、聡明な伊織はすべてを悟った。

上層部が求めていたのは、彼女の稼働率などではない。彼女の「立場」と「抑止力」だったのだ。


限界に達しつつある沈降率は、軍の目には彼女が彼岸の深淵に同化している紛れもない証拠と映る。そして前線で積み重ねた凄惨な武勲は、溺亡者という枠組みにおいて絶対的な格の違いを保証する。


逃亡した反逆者たちに接触した際、伊織は相手の警戒を解く「同胞の証」となると同時に、交渉が決裂した瞬間に相手を叩き潰す「安全装置」でもあるのだ。


そして、この三人の呑気な仲間たち――彼らはただ、新しく配属される溺亡者が桁外れに強く、おまけに人形のように可憐な少女だと聞かされ、純粋に歓迎しようとクラッカーやスイーツを用意しただけなのだろう。


平和な後方に居続けた彼らには実戦経験など皆無に等しく、殺戮の中で生き延びてきた兵器にとって、前触れのない破裂音がいかに骨の髄まで染み付いた迎撃反射を引き起こすかなど、想像もつかなかったのだ。


――チリン。


澄んだ涼やかな音が、伊織の思考を現実に引き戻した。

見れば、凛花が白くしなやかな指先で、悠真の前のジョッキをトンと軽く突いていた。


陣を敷くことも、霊力の波紋を乱すこともなく。ジョッキの中で温まりかけていた琥珀色の液体の中に、音もなく角の立った透き通る八角形の氷が幾重にも結実し、冷たい白霜をまとって浮かび上がったのだ。


それは「不渡」級の覚醒者たる白峰凛花の本命天賦――「絶対零度」を操る天災の力。


本気配を出せば、瞬く間に数区画を凍てつく地獄へと変えうる破滅の権能を、この気高き令嬢は部下の酒を冷やすためだけに、何気なく使ってみせたのだ。水滴一つ零すことのない、完璧な制御。


天災級の冷気をミクロの精度で操るその神業が、そこに紛れもなく示されていた。


仲間たちから向けられる温もりを肌で感じながらも、伊織の胸の奥底には、言いようのない居心地の悪さと拒絶感が燻り続けていた。


彼女の記憶において、見返りを求めない純粋な優しさを注いでくれたのは、これまでの人生で李先生ただ一人だった。


臨時の小隊で束の間の時間を過ごし、彼女に善意を向けてくれたかつての戦友たちは……例外なく、出会ってから数日と経たないうちに、最前線の砲火の中で魔神に八つ裂きにされて散っていった。


温かな笑顔が、決まって生臭い血飛沫となって飛び散る光景。それは幼い少女の魂に、決して消えない深いトラウマを刻み込んでいた。


思いが千々に乱れた伊織は、お手洗いに行くという口実で席を立った。


あの賑やかで緩やかな空気が嫌いなわけではない。ただ、あまりにも無防備な笑い声は、彼女の記憶の閂を無慈悲にこじ開けてしまうのだ――かつて優しくしてくれた人々の顔と、その直後に肉片となって四散した、地獄の絵図を。


彼女の「溺亡者」という異形の身体を毛嫌いし、罵倒を浴びせてきた者たちのことすら思い出された。


化け物と吐き捨てながらも、出撃前の夜明けには「なぜ朝飯をしっかり食わないんだ」と怒鳴りつけてきた者。髪がボサボサで薄汚いと悪態をつきながら、唐突に取り出した清潔な木櫛で、不器用ながら丁寧に髪を梳いてくれた者。


この世界が彼女に遺した思い出は、どれほど美しく温かに見えようとも、最後には決まって濃密な血の色に染まり、焼き鏝のようにその魂へ重い痛みを焼き付けてきた。


蛇口を捻る。


冷たい水が勢いよく指先を洗い流し、泡立つ水たまりを見つめる伊織の瞳は、どこか焦点が合っていなかった。


ふと、酷く無礼で麻痺した思考が頭をもたげる。


――この能天気な三人組は、私の隣でいつまで生き残れるのだろう。


過去の記憶では、大半の仲間が四十八時間すら耐えられず、質の悪い肉花火のように前線で弾け飛んでいった。

冷酷な現実と無慈悲な別れこそが、人造の孤児である伊織の、真の人生の基調だった。


「ふぅ……」


少女は目を閉じ、細く息を吐き出した。


だが、心を防壁で閉ざし、水を止めようとしたその瞬間――神経の切っ先が、鋭く跳ね上がった。


大気の流れに溶け込むように潜められた、微かな気配。

頂点捕食者としての彼女の五感が、それを寸分の狂いもなく捉えていた。


極めて高度な潜入隠蔽の技術――すなわち、尾行されていた。


「出てきなさい。見えているわ」


伊織は鏡に向かったまま、静かに口を開いた。大仰に身構えるような真似はしない。相手の目的が知れない以上、こんな繁華街で外の仲間に騒ぎを気取られたくはなかった。


鏡に映るタイルの壁が、水面のように小刻みに揺らぎ、肉眼では捉えがたい透明な波紋を広げた。


数秒の後、伊織と同じように小柄で華奢な少女が、虚空から音もなくその姿を現した。


顔に散るそばかす、カサついた皮膚、そしてパサついた髪。長年にわたる栄養失調と過酷な逃亡生活が如実に刻み込まれていた。


何より、その少女の顎から首筋にかけては、不気味な灰白色を帯びた異形の硬質角化層が張り付いている――遺伝子が彼岸の力と深く融合したことで生じる、変異の徴候。伊織の身体に所々刻まれている龍鱗と同じものだ。

彼女もまた、紛れもない「溺亡者」だった。


「さすがは前線にその名を轟かせる怪物の大先輩……私の光学・霊性迷彩は、並の『不渡』覚醒者ですら見破れないはずなんだけどね」


そばかすの少女はひび割れた唇を歪め、探りと畏怖の混じった笑みを浮かべた。


相手が友好的でないと確信した瞬間、伊織の澄んだ緋色の瞳がわずかに収縮した。


人間らしい柔らかな光は一瞬にして消え失せ、太古の巨獣が目を覚ましたかのような、冷徹な黄金の縦瞳へと変貌する。


――ゴオォッ……!


濃密で重厚な太古の龍気が、少女の全身から静かに沈降した。


不可視の重圧が実体を持った結界と化し、女子トイレの換気口からドアの隙間に至るまでを完璧に封鎖する。外界の喧騒と、ここに渦巻く殺意は、完全に遮断された。


「目的は何? こんなところに隠れて忍び込んできたのよ、ただのナンパってわけじゃないでしょう」


伊織の声は低く沈み、捕食者としての有無を言わさぬ威圧感を帯びていた。


本音を言えば、同類に牙を剥くなど真っ平だった。だが、街で溺亡者による襲撃事件が起きていると知った時から、薄々勘づいていたのだ――逃亡した溺亡者たちが組織を結成し、裏で戦力を集めるために暗躍しているに違いない、と。


「決まってるでしょ、同胞としてあなたを迎えに来たの」


息の詰まるような龍の威圧に晒されながらも、そばかすの少女は強張った笑みを張り付けて言った。


「まずは誠意を見せるわ――私たち、軍の粗悪品なんかより遥かに進んだ深層抑制剤を手に入れたの。この新型血清があれば、その崩壊寸前の沈降率だって完全に安定させられる」


それはあらゆる溺亡者にとって、命そのものと言っていい取引材料だった。


沈降率の限界突破が意味するもの、それは龍の血が内臓を焼き焦がす地獄の激痛であり、人間の自我を失って彼岸の怪物へと堕ちることに他ならない。その魂の際を削るような苦痛を、伊織以上に知る者はいなかった。


少女は懐から赤黒い燐光を放つアンプルを取り出し、伊織の目の前で軽く揺らしてみせると、最高硬度を誇る合金製のアタッシュケースへと慎重に収め、足元のタイルへと静かに置いた。


軍が公開している『栄光の帳簿』において、伊織の戦果は常軌を逸した数字として刻まれている。


しかし生体兵器という機密性ゆえ、顔写真はおろか個人を特定する情報は一切伏せられていた。西園寺夫人がどれほど血眼で探そうとも、前線の死神と我が子を結びつけられなかった理由がそこにある。


だが、底辺で寄り添い合う溺亡者のネットワークにとって、彼女を特定することは難しくなかった。


互いの身元を照合し、すべての同胞の遺伝子シグナルを消去法で除外していけば、最後に残る唯一の「至高の真龍」の血を持つ存在――それこそが、伊織に他ならないからだ。


伊織の出方が見えない以上、そばかすの少女の足取りは薄氷を踏むがごとしだった。自分たちが現世の秩序を裏切った逃亡者であるのに対し、目の前の少女は、数百もの至高の魔神を屠ってきた生ける単兵兵器なのだから。


「あなたにはこの血清が必要よ、伊織先輩。でも、それ以上に必要なのは『人間』としての尊厳じゃないの?」


そばかすの少女は身を乗り出し、耳元に囁きかけるように声を潜めた。それは同胞の痛みを巧みになぞる、甘く危険な扇動の響きを帯びていた。


「尊厳ってものは、『栄光の帳簿』の冷たいデータの中に転がってるんじゃない! 私たちには、胸を張って生きる権利がある。太陽の下を堂々と歩く権利があるはずでしょ!?」


その言葉は熱を帯び、溺亡者が長年味わわされてきた差別と、使い捨ての道具として扱われる苦痛の芯を的確に抉っていた。


これまでの逃亡劇の中で、彼女はこの手慣れた演説を用いて、絶望に打ちひしがれた同類たちを何人も籠絡してきたのだろう。


――世界に虐げられているのだから、剣を抜いて抗うべきだ。


――軍が理不尽なのだから、群れを成して人間共の秩序を踏みにじり、尊厳を勝ち取るべきだ。


――私たちだけが、あなたを受け入れる真の家族なのだから。


薄暗い鏡の前で、伊織の冷徹な金の縦瞳が、かすかに揺らめいた。


その手の演説なら、保護施設にあった埃っぽい歴史書で何度も読んできた。


古今東西、権力を欲して戦争を煽る政治家どもが、決まって口にする手口そのものではないか。


ほんの少数の過激派が向けた悪意と差別を針小棒大に煽り立て、相容れない対立へとすり替える。


そこに確かに存在した温もりや善意、思いやりには一切口を閉ざし、最後には耳触りのいい大義名分と甘い餌をぶら下げて、すべての人々を自分たちの戦車へと縛り付けるのだ。


あまりにも似通っている。

あまりにも、安っぽい。


少女はわずかにうつむき、その華奢な肩を小さく震わせた。


そして――静まり返った密室に、氷のように冷たく、どこまでも皮肉めいた嗤いが、零れ落ちた。

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