『栄光の帳簿』の疑念と、飼われゆく幼獣
薄暗く湿り気を帯びた地下通信シャフトの内部には、無骨で荒々しい重工業の気配が澱むように充満していた。
頭上で錆びついた大型の排気ファンが重苦しい轟音を響かせ、黄色く濁った斑状の光と影を、まるで細かく砕かれた赤錆の破片のように通路全体へ切り落としている。
その薄暗がりの中、いまの伊織はほとんど兄に頼りきるような格好で、風見幽月の腕の中にしっかりと抱きかかえられていた。
少女の体躯はあまりにも華奢で小さく、まるで質量のない一枚の枯れ葉のように頼りなかった。
それゆえに、男としてはどちらかといえば細身で痩せ型の部類に入る幽月であっても、少しの力みすら見せることなく、彼女を横抱きに軽々と抱え上げてしまえるほどだった。
事態の転変は、誰もが息を呑むほどに唐突だった。
伊織が「大人しく無抵抗で兄さんたちについていく。その代わり、後ろで腰を抜かしている仲間たちには絶対に手を出さないこと」という口頭の条件を提示した途端、光希たちは実に潔く、二つ返事でそれを承諾したのだ。
兄たちは悠真たちの方へ視線を向けることすらなく、まるで道端に転がる無価値な小石でも蹴り飛ばすかのように見向きもせず背を向け、伊織を連れて迷宮のように入り組んだ地下暗道へとその身を隠したのだった。
悠真、レオン、そしてクロエの三人は、実際のところ、いずれも安全な後方の権力層や名門財閥の出身である。
戦火がどこまでも泥沼化するこの時代にあっては、いくら名家の大貴族の血筋であろうと、体内の霊性が暴走して覚醒者としての素質を発現してしまえば、例外なく軍による強制徴募の対象となってしまう。
彼らがあらゆる一族の太いコネと人脈を使い果たし、頭を下げてまで白峰凛花のオフィスに潜り込み、怠惰な日々を貪っていたのも、ひとえにこの過酷で残酷な乱世の中で少しでも自分の命を永らえさせるためであった。
だが、まさにそうであるからこそ――後方で平穏無事な日々を正々堂々と享受し続けるために、彼らのような人間はむしろ前線のどの一般兵卒よりも、各戦区で巻き起こる情勢の激変に目を光らせていたのだ。
彼らは「断空」の二つ名を背負う佐佐木光希が、かつて前線でどれほど敵味方を問わず恐れられた最高峰の戦力であったかを熟知していた。
そして何よりも重要なことに――彼らは幽月の腕に抱かれて去っていったあの黒髪の少女が、血みどろになって前線で戦い続けるすべての戦士たちの心の中で、一体どれほど重く、神聖な意味を持っているのかを、誰よりも理解していたのだ。
軍の上層部が敷いた、伊織の過去の戦闘記録に対する幾重もの厳重な情報封鎖。それは市井の一般市民の目をごまかすには十分であっても、裏の事情に精通した名門の子弟たちの耳目を完全に遮ることはできなかった。
人類側の戦線が総崩れとなり、彼岸の住民たちによって一方的な虐殺と蹂躙に晒された、あの最も暗く絶望的な極限の局面。
まだ骨格すらろくに成長しきっていなかったあの小さな少女こそが、血みどろに引き裂かれた龍化の肉体を引きずり、天を埋め尽くすような絶望の重圧を真正面から跳ね除けながら、現世における大反撃の最初の狼煙を吹き鳴らした張本人だったのだ。
完全に巨大な龍神の姿へと変貌を遂げた彼女は、彼岸の大軍が張り巡らせた包囲陣を力任せに真正面から食い破った。
そしてその一役において全身の力を極限まで使い果たし、血の海の中に力尽きて倒れ伏すその直前までに、彼女はただ一人の蛮勇によって、人類軍が退却を重ねていた防衛線を、信じがたいことに数百キロメートルも外側へと押し戻してみせたのである。
その奇跡というほかない壮絶な光景は、泥濘の中で絶望に沈み、ただ死を待つばかりだった数千万人もの敗残兵たちの瞳を、激しい熱と血涙で赤く染め上げた。
あんなにも痩せこけ、小さく脆い幼女ですら命を削りながら死力を尽くして戦っている――その光景を目撃した全軍の魂と血性は、有史以来かつてない規模で一斉に引火し、爆発した。
無数の戦士たちがあの瞬間、心の中に巣食っていたあらゆる恐怖をかなぐり捨て、胸の奥から湧き上がる灼熱の血涙と狂怒を抱え、まるで巨大な津波となって戦場を飲み込んでいった。
そして、高みから人間を見下ろしていた彼岸の魔神や異形の怪異どもを、鎧の破片一つ残さぬ勢いで片っ端から屠り尽くしたのだ。
それは軍全体を巻き込んだ集団的な熱狂であり、理性をかなぐり捨てた暴走であった。
兵士たちは地面に降り積もる黒い返り血を踏み越え、我先にと彼岸の焦土の奥深くへと狂気の進撃を続けた。
やがて戦火が鎮まり、沸騰していた頭の熱から我に返った時、人類軍自身すらも、一体自分たちがどのような奇跡の連鎖によってこの勝ち目のないはずの戦役を覆したのか、まったく理解できていなかった。
それどころか、気づいた時には逆に彼岸の領土の一部を力ずくで強奪し、人類の境界碑たる巨大要塞を打ち立て終えていたほどだったのだ。
あの一戦を経て以降、前線で生き延びたすべての将兵たちの心の中で、伊織はもはや単なる冷酷な生体兵器などでは断じてなくなっていた。
彼女は兵士たちの魂を救った唯一の「生き神の聖女」であり、純粋にして絶対的な精神的支柱へと祭り上げられていたのである。
軍の上層部が彼女に抱く執着と警戒心もまた、極めて歪で矛盾に満ちた領域に達していた。
彼女の体内に眠る太古の龍神の暴虐な潜在能力を底知れず恐れる一方で、底辺の軍隊内部において彼女が帯びてしまった、まるで宗教指導者に対する狂信に似た崇高な威信に、どうしても依存せざるを得なかったのだ。
もしもその威光がなければ、肉体機能が致命的なまでに摩耗し、ほぼ使い物にならなくなった彼女など、上層部はとっくの昔に解剖台の上で徹底的に処分していたはずである。
治安部隊へと左遷し、低リスクな局所掃討やパトロール任務でお茶を濁すような生ぬるい処遇を与えるはずがなかったのだ。
ただ、伊織自身は昔からどこか世情に疎く、物事をぼんやりと捉える性分だったため、自分がこれほど無数の人々から神格化され、信仰の図騰と化していることなど露ほども自覚していなかった。
そしていま、転がるように司令部へと駆け戻り、事態を報告しようとしている悠真たち三人にしてみれば、現在の局面は想像を絶するほどに危険極まりないものだった。
――自分たちは、前線の戦士たち全員の信仰そのものである「生ける聖女」を、あろうことか見失ってしまったのだ!
もしこの失態が前線の血に飢えた獰猛な将官たちの耳にでも入れば、たとえ彼らの背後に控える名門財閥がどれほど天に届く権勢を誇り、全財産を投げ打って保身を図ろうとも、彼らの首が胴体から切り離される運命だけは絶対に免れようがなかった。
悠真たちが油鍋の上の蟻のように取り乱し、白峰凛花のもとへ罪を乞うために一目散に駆け出していったその頃。
冷たく湿った地下暗道の中を行く伊織の周囲には、それとは対照的に、酷く荒唐無稽でどこか穏やかな空気が漂っていた。
幽月は片方の手で伊織の膝裏から小さなお尻のあたりまでをしっかりと支え、もう片方の腕を彼女のあまりに細すぎる腰回りに回しながら、横抱きの姿勢で自らのひんやりとした胸元に大切そうに抱きかかえていた。
青年の足取りはどこまでも軽やかで、歩行の規則正しいリズムに合わせて、腰に添えられた手が幼子を寝かしつけるように、ぽん、ぽんと優しく伊織の背中を叩き続けている。
蘇った兄たちの目から見れば、この妹が自分たちの死後に過ごしてきた歳月は、まるで地獄の中で拷問を受けていたかのように痛ましいものだった。
ほんの数分前にも、暗道の角を曲がったところで、伊織の深刻な栄養失調とやせ細って骨の浮き出た肉体を目にした兄たちから、頭ごなしに手酷く怒鳴りつけられたばかりだったのだ。
伊織が軍に入隊してからの最初の二年間、彼女は消耗品として各地の前線キャンプを盥回しにされていた。
三年目になってようやく光希たちの部隊へ配属され、三食の食事を与えられ、着る服を整えられ、文字の読み書きを一から教わるという、整った生活を三年間にわたって送ることができたのだ。
だが彼らが全滅して以降の数年間、庇護者を失った伊織は再び軍によって各地の部隊へと使い潰すように転属させられ、砂泥の混ざった味気ない圧縮乾パンを齧るだけの灰色の毎日に逆戻りしていた。
とりわけ、数日前に居酒屋で翠花と再会したあの食事の席が、伊織にとって「この丸三年間で初めて口にした本物の鶏肉」だったという事実を知らされた時――迦楼羅は激怒のあまり、傍らにあった分厚いコンクリートの耐力壁の柱を素手で殴りつけ、巨大な亀裂と穴を穿ったほどだった。
かつて泥と血煙の中から拾い上げ、あれほど苦心してようやく少しばかりの肉付きをつけさせた幼い体を、軍の腐れ外道どもはまたしても指一本で砕け散りそうな骨組みへとすり減らしていたのだ。
だが、兄の腕の中に抱かれた伊織には、いま眠気など少しも湧いてこなかった。
久しぶりに取り戻した兄たちの温もりに浸っている余裕すらなかった。なぜなら地上を離れるまさにその瞬間、前を歩いていた光希が、ふいに振り返って彼女に極めて奇妙で、不気味な問いを投げかけてきたからだ。
「伊織、お前はどう思う? 軍の定義において……『栄光の帳簿』があるからこそ俺たち覚醒者や溺亡者が生まれるのか? それとも俺たちが存在するから、帳簿が後からその功績を記録しているのか?」
一見すれば、荒唐無稽極まりない問いだった。
世間のあらゆる常識に照らし合わせれば、まず人間が異能に覚醒するか、あるいは感染によって溺亡者へと異化し、軍の上層部がその戦果やデータを査定した上で初めて、その生と死を細大漏らさず登録する――だからこそ、それは『栄光の帳簿』と呼ばれているはずなのだ。
しかし、光希がその後に続けた言葉は、伊織のうなじを骨の髄まで凍りつかせるような寒気で包み込んだ。
地下の反乱組織がここ数年にわたって密かに行ってきた統計によれば、溺亡者という個体群の総数には、あまりにも異常な偏りがあった。
体内に埋め込まれた彼岸の遺伝子が引き起こす強烈な拒絶反応と、内臓器官の急速な壊死により、溺亡者の日常的な死亡率は絶望的なまでに高い。
通常の論理で考えるならば、この呪われた個体群は激しい消耗戦の中でとっくに使い果たされ、底を突いていなければならないはずだったのだ。
しかし奇怪なことに、軍のメインフレームのデータベースに鎮座する『栄光の帳簿』において、そこに登録されている溺亡者の総数は減るどころか、指数関数的な狂気じみた増殖を続けていた。
さらに地下組織を戦慄させたのは、複数の秘密研究所から密かに流出してきた動かぬ証拠の存在だった。
それは――『栄光の帳簿』の何もない空白のページの上に、ある日突如として何者かの本名と特定のコードネームが煙のように浮かび上がり、その数日後、あるいは数ヶ月という時を経てから初めて、現世においてその名と完全に一致する溺亡者が生み出されていたという恐るべき事実だった。
これは事後に功績を集計している記録媒体などではない。
この巨大なデータベースは、まるで神のような理不尽な傲慢さをもって、誰が怪物へと堕ちるべきか、誰が絞首台へと送られるべきかを、あらかじめ「指定」していたのだ。
何よりも恐ろしいのは、『栄光の帳簿』に刻まれるあらゆる数値、討伐記録、そして因果律に至るまで、過去にただの一度たりとも、毛筋ほどの狂いや誤差すら生じたことがないという点だった。
これほど時代を置き去りにした異形の遺物を、軍は一体どこから掘り起こしてきたのか?
背後でペンを走らせ、記録を決定づけている「管理者」の正体とは誰なのか?
軍上層部はこの件に関して頑なに口を閉ざし、国家最高ランクの絶対機密の闇に覆い隠し続けている。
ゆえに、組織内部の高官たちは、ある一つの絶望的な仮説を導き出さざるを得なかった。
国を守る栄誉の名を冠された『栄光の帳簿』――その本体は、人類の科学技術が生み出した産物などではなく、彼岸の最も深い暗黒の底よりもたらされた、古の禁忌のアーティファクトである可能性が極めて高い、と。
それは異世界の魔神に対抗するための力を人間に与える代償として、あらゆる人間を生贄として捧げさせ、その魂から「人」としての輪郭を音もなく剥ぎ取っていく呪縛そのものなのだ。
文明がいつ崩壊してもおかしくないこの乱世において、破滅的な危機を退けるために外なる禁断の力にすがる行為そのものは、あるいは責められないことなのかもしれない。
だが、その起源すら定かでない彼岸の禁物を弄び、無実の人々を無差別に拉致しては不可逆の人体改造を施し、果ては一部の上層部が権力闘争の盤面を弄ぶための道具に成り下がっているのだとすれば、それは断じて許されざる人道への大罪であった。
これこそが、翠花の背後にいる組織が、盤面そのものを根底から覆そうとしている真の目的だった。
彼らは単なる復讐や殺戮のために泥水を啜っている狂気のテロリストではない。彼らはその鋭利な刃で偽りの平和の幕を引き裂き、政府と軍に対し、『栄光の帳簿』のからくり、真の起源、そしてホルマリンの瓶の中に沈められた血塗られた真実のすべてを、ありのまま白日の下に晒すよう突きつけようとしていたのだ。
伊織はどこか神経質そうに、自らの両足を微かに身悶えさせた。
足が宙に浮いたままぶら下がっている感覚が、どうしても肌に馴染まなかったのだ。
生まれてから十数年の生涯において、彼女は何者からもこれほどまでに無遠慮で、病的なまでの過保護さで甘やかされたことなど一度もなかった。
だがこの三人の兄たちは、彼女の足の裏を少しでも冷たく汚れた地面に触れさせまいと、固い決意を固めているようだった。
地下道に足を踏み入れて間もなく、光希は表情一つ変えずに自らの手で、伊織の足からミリタリーブーツを脱がせてしまったのだ。
そして、その靴が迦楼羅の大きな手によって、通路脇のドラム缶の廃棄物焼却炉の中へと躊躇いもなく放り込まれるのを目の当たりにした瞬間、伊織の精神はほとんど崩壊しかけていた。
それはこれからの日々において、自らの足で歩く権利すら完全に剥奪され、まるで壊れやすい骨董品のように彼らの腕から腕へと運ばれ続ける日常を宣告されたに等しかったからだ。
だが幸いなことに、彼女は修羅場の血の海の中で何度も転がり回ってきた歴戦の猛者でもあった。
底知れぬ諦観と並外れた生存本能のおかげで、数秒ほど頭を抱えて絶望した後は、まあ素足で歩くだけのことだと、呆気なくその現実を受け入れてしまっていた。
観念した少女は、幽月の腕の奥へと小さく身を縮こまらせ、冷たく剥き出しになった小さな素足を、彼の羽織るロングコートの裾の奥へと滑り込ませた。
実際のところ、かつての古い部隊にいた頃、伊織が最も恐れていたのは幽月だったのだ。
光希の厳しい説教や、迦楼羅の大声を張り上げた耳をつんざく怒号よりも、幽月の課す規律の締め付けこそが、夜毎の悪夢にうなされる最大の原因だった。
彼は伊織に文字の書き取りをさせ、全身の汚れを徹底的に洗い落とさせる際、誰よりも執拗で厳格だったのだ。
伊織が駄々をこねて言いつけを破ろうものなら、幽月は殴ることも怒鳴ることもせず、ただ底知れぬ冷徹な眼差しで上から彼女を見下ろし、伊織が泣きべそをかいて自分から許しを請うまで、数日間に及ぶ息の詰まるような沈黙の冷戦を課し続けたのである。
だが、そんな背筋の凍るような訓練の記憶を除けば、伊織は心の底からこの兄を好ましく思っていた。
幽月は夜霧のように艶やかで柔らかな淡い紫の長髪を蓄えており、薄暗い地下道の光の中で、その蛍光グリーンの瞳は異形特有の妖しい魅力を放っていた。
彼の顔立ちはあまりにも美しく華やかで、貴族社会で着飾っている多くの令嬢たちと比べても遥かに艶やかだったのだ。
それゆえに、身も心も擦り切れるような前線の任務の合間、伊織は時折彼を頼れる綺麗な姉のように錯覚し、甘えるようにすり寄ることがあったのである。
少なくとも、汗と鉄錆の濃い匂いを漂わせるあの二人の屈強な筋肉質の男たちに比べれば、伊織の肉体的な本能は、幽月の纏う清潔でひんやりとした体躯を好んでいた。
もっとも、いま彼の胸元に顔を埋めている伊織には知る由もない。幽月が彼女の腰を抱きしめる腕にどれほど並々ならぬ力を込め、その瞳の奥深くに、彼女を自らの鳥籠の中に永遠に閉じ込め、二度と自由な空へ放つまいとする狂気じみた情念を滾らせているかなど。
配管の奥から空調装置の鈍く単調な唸り声が響き渡り、幽月の細長い指先が、彼女の薄い背骨のラインをリズムよく、優しくぽん、ぽんと叩き続けていた。
連日にわたって張り詰めていた神経、取調室で感じていた恐怖、そしていま、この冷涼で心地よいシダーウッドの香りに全身を包まれている奇妙な安心感の中で――伊織のまぶたは次第に鉛のように重くなっていった。
残されていた意識が温もりの中にじんわりと溶け出し、やがて小さく首を傾げると、幽月の首筋に顔を埋めるようにして、すやすやと深い眠りの中へと落ちていった。
「……妹が、寝たよ」
幽月は冷えた唇をごくわずかに開き、通気管をかすめる風のように、声を低く掠れさせて囁いた。
足音をさらに殺して歩幅を緩め、蛍光グリーンに怪しく光る瞳を僅かに巡らせて両脇の二人を牽制する。これ以上の会話で、腕の中で無防備に眠る幼い獣を起こすことは断じて許さないという、明確な警告だった。
伊織の規則正しく穏やかな呼吸を確かめ、先頭を行く光希と、殿を務めていた迦楼羅もまた静かに歩調を緩めた。
三人の蘇った溺亡者たちは、薄暗い通路の物陰に身を寄せ合い、押し殺した低い囁き声と共に、瞬時にして歴戦の冷酷な狩人の顔つきへと切り替わった。
「白峰凛花は、次にどう動いてくる?」
迦楼羅の野太い声が喉の奥で押し潰されるように響いた。顔面に浮き出た魔神の骨棘が、神経の昂ぶりに合わせて鈍く明滅している。
「伊織は形式上、あの女の直属の部下だ。あの女がもし消極的な態度を取りでもすりゃ、上層部の骨までしゃぶり尽くすような老いぼれたちが、容赦なくあの女を血祭りに上げるはずだが」
「あの白峰の女が、手を抜くような真似をするはずがない」
光希が唇の端を冷酷に歪め、背負った巨刃の柄を無意識になぞりながら言った。
「だがそれは、上層部からの追及を恐れてのことじゃない。あの女の骨の髄まで染み付いた、傲慢でねじ曲がった独占欲のせいだ。自分の至宝が横取りされたと知れば、白峰財閥の暗部と覚醒者軍団のすべてを動員して、血眼になった狂犬のようにこの地下都市の敷石を一枚残らずひっくり返しにかかるだろうよ」
彼ら三人は、すでに圧倒的で暴力的な半魔神の溺亡者としての肉体を手に入れていた。
だが、あの「不渡」の二つ名を冠する氷山のような女性と真正面から刃を交えた場合、果たして自分たちに勝ち目があるのかどうか――百戦錬磨の光希であっても、確信を持つことはできなかった。
幽月はわずかに顎を引き、伊織の柔らかな黒髪へと愛おしげに自らの頬をすり寄せながら、静かにいま果たすべき最優先の目標を口にした。
「第一に、組織の最深部にある避難所へと伊織を完全に隠匿すること。彼女の体臭も、残留した気配も、足取りの痕跡もすべて消し去り、軍の猟犬や白峰凛花の密偵がここへ辿り着く道を徹底的に遮断する」
「第二に、一刻も早くメインフレームの深層部へハッキングを仕掛け、『栄光の帳簿』の真のメカニズムを解明すること。軍の上層部が本当に彼岸の住民たちと、あのような人道を冒涜する血の取引を交わしているのか、その動かぬ証拠を掴み取る」
そこまで告げると幽月は顔を上げ、暗闇の中で蛍光グリーンの双眸を、冷酷無比な殺意に細めてみせた。その声音には、一片の揺らぎすら存在しなかった。
「そして第三に……退路と罠を周到に張り巡らせ、あの白峰のお嬢様がここまで嗅ぎつけてくる前に、何としてでもあの女を完全に始末する手段を整えることだ」
暗く淀んだ通路の死角の中で、人間性を剥奪された三人の兄たちは、あの「不渡」級の歩く天災と刺し違える覚悟を、静かにその胸の奥で固めていた。
言葉にして確認し合う必要すらなかった。彼らは誰よりも白峰凛花の理不尽なまでの恐ろしさを知っている。
真正面から激突すれば、おそらく接触した最初のコンマ数秒で、絶対零度の凍気に包まれて抵抗の余地すらなく深藍の氷像へと変えられてしまうだろう。
だが、その絶望的なまでの戦力差こそが、彼らにとって最も研ぎ澄まされた警報器でもあった。
死線の泥水をすすってきた戦士として、周囲の大気の中にわずかでも不自然な温度の低下を察知した瞬間、彼らは即座に白峰凛花の致死の襲撃を嗅ぎ取り、腕の中の妹を逃がすための、ほんの一瞬の猶予をもぎ取ることができるのだから。
いまの彼らにとって、自分自身の命が砕け散ることなど、痛くも痒くもなかった。
胸に燻る唯一の執念は、この薄汚れて絶望に満ちた人間界において、呪われた異形の同胞たちのために一筋の生き残る道を切り拓くこと――溺亡者たちが普通の人間と同じように胸を張り、何一つ恐れることなく太陽の光を浴びて生きていける未来を掴み取ること、ただそれだけだった。
かつて被害者の遺族であった頃、彼らは理性と感情の狭間で引き裂かれながら、溺亡者という存在を心底から憎悪し、警戒していた。
だが、自らがこの醜悪で残破な魔神の肉体へと成り果て、日夜内臓を侵蝕し引き裂くような暴虐の痛みを味わって初めて、溺亡者たちが背負わされてきた業がいかに惨たらしく、救いのないものであったかを、血を吐くように思い知らされたのだ。
そして、その遅すぎた理解は、腕の中にいる伊織のあまりにも小さすぎる身体を思い返すたび、心臓を握り潰されるような激しい慟哭と愛惜の情へと変わっていった。
自分たちのような屈強な男でさえ、大人になってからこの悪夢のような呪いに突き落とされたというのに――胸に抱かれたこの小さな少女は、骨格すらまともに育ちきらぬほどの幼さで、誰も知る者のいない孤独な暗夜の中、一体どれほど過酷で残酷な意志を振り絞りながらこの骨を削る呪いに耐え抜き、前線の泥濘と血の海をたった一人で生き延びてきたというのだろうか。




