第9話 ホームズとワトソン
志賀野と神崎が起きてきたのは、八時を過ぎた頃だった。
まずは志賀野が部屋から出てきた。少し眠って落ち着いたのか、苛立った気配はない。簡単な挨拶を交わしたあと、医者は一度自室に引っ込んだ。
神崎が部屋から出てきたのはその五分ほど後だった。熟睡できなかったのか、目が僅かに充血している。
「あまり眠れなかった?」
神崎はゆるゆると首を振った。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとでも眠れたならよかった」
それから他愛ない会話で時間を数分潰していると、ブルゾンを羽織った志賀野が部屋から出てきた。医者と女子大生は軽く視線を交差させたあと、互いに気まずそうに視線を逸らし合う。
そんな二人に小五郎が苦笑していると、階段から秋島が現れた。
「皆様、おはようございます」
老女は慇懃に頭を下げる。
「朝食の準備ができましたので、食堂にお越しくださいませ」
四人の客は疎らにお礼を言って、ダイニングルームに移動した。そこにはガーリックトースト、スクランブルエッグ、ベーコン、シーザーサラダの洋定食が並べられている。人が死んでいることを忘れてしまいそうなほど、日常的な朝食の光景だった。
小五郎たちはタイミングの合わない「いただきます」を言って、それらをモソモソと食べる。
料理はどれも絶品だったが、妹山だけは手を付けるのが遅かった。食事が始まって五分ほどして、初めてガーリックトーストをひと齧りだけする。食べ始めが遅かったから、もちろん食べ終わりが一番遅いのも妹山だった。
小五郎は半分だけ呆れが混じった忍び笑いを溢した。
「さて、このあとはどうする?」
志賀野が厳めしい顔で問う。
「僕は寝ます。さすがに眠さが限界なんで」
小五郎は欠伸をしながら答えると、神崎が不安そうな目を向けてきた。小五郎は偽物の探偵として肩を竦めながら答える。
「このままじゃ頭が働かなくてまともな推理ができないよ――マスターキーは僕が部屋に持ち込みますけど、一応、皆さんも一人にならないように。かつ、誰も一人にしないように。単独行動を許すと、その人がなんらかの方法で僕の部屋に侵入して、僕を殺そうとしてくるかもしれないので」
「ま、そしたら犯人の正体も自ずと割れるんだけどね」
「僕を生け贄に犯人を見つけようとするな」
妹山にツッコミを入れながら、小五郎は立ち上がる。机の周りをぐるっと回るようにして出入り口に辿り着くと、一同に向かった。
「では、おやすみなさい」
階段を上り、二階へ。二〇四号室に入って鍵をかける。寝間着に着替えて歯を磨いてベッドに入った。部屋の鍵とマスターキーは寝間着のポケットの中に入れてある。
嵌め殺しの窓には、相変わらず強烈な雨と風が叩きつけられていた。
瞼を下ろす。すると、小五郎の意識は微睡むこともなく夢の世界へと落ちていった。
※※※※※※※※※※
自然な目覚めだった。
なにか物音に目を覚ましたとか、嫌な予感に目が冴えたとか、そういう目覚めではない。単に、充分な時間眠ったから目覚めた、といったような目覚めだった。
どうやら台風は通り過ぎようとしているらしい。窓の外はまだ雨が降っているが、今朝ほどの豪雨ではない。風も弱まっている。もう何時間かすれば、台風一過で空は快晴になるだろう。
小五郎は微睡みながらスマホを手に取ると、まずは時間を確認する。
午後四時二十八分。
八時間近く寝たということになる。
「……我ながらなんて神経のずぶとさ」
様々な職を経験した都合で様々な場所で眠ったことがあるが、死体のある部屋の隣の部屋で八時間も眠ったのはさすがに初めてだった。
ベッドから抜け出し、軽く身体をほぐす。
それからTシャツとジーパンに着替え、昨日と同じペールグリーンのカーディガンを上から羽織った。そしてカーディガンのポケットに部屋の鍵とマスターキーを入れる。洗面所で軽く顔を洗い、寝癖を簡単に直したら、小五郎は部屋の扉を開錠した。
廊下に出て、階段を下り、リビングルームに向かう。
扉を開けると、ソファに座っていた妹山が真っ先に小五郎に気が付いた。
「おはよう。なかなか熟睡してたみたいだね」
「寝不足はお肌の敵だからな」
テキトウな返事をしながら、妹山の正面に腰を下ろす。
「雨、弱くなってるな」
「予報では九時頃に晴れるそうだ」
志賀野がテレビを見ながら言った。
「さっき、秋島さんが警察に連絡してたんだけど――明日の昼頃には到着できるから、それまでペンションから動くなって」
神崎が近寄ってきて、小五郎の隣に腰を下ろしながら言う。
「明日の昼頃か……」
「探偵に明確なタイムリミットが設けられたわけだ」
「そして犯人にもな」
「佐々木くんの意見は?」
小五郎は下唇を舐め、答えた。
「一刻も早く犯人を見つけた方がいい。犯人が捨て鉢になって暴れ始める可能性が、ないとも限らない」
「意見が一致したね、佐々木くん」
「犯人を刺激するようなことはしない方が良いんじゃないですか?」
神崎が不安そうに口を挟む。
「大人しく警察の到着を待って、犯人が自棄にならないことを祈る方が……」
「いや、それだと犯人に主導権を委ねることになる。生殺与奪の権を殺人犯の理性に握らせるのは、僕としてはぞっとしない。犯人が我慢できなくなるよりも早く、こっちから犯人を見つけて、可能なら拘束してしまうのが理想だ」
「でも……」
「大丈夫」
小五郎はいつになく強気に言った。
「言ったろ? 犯人の目星はついてるって。そうだよな、ワトソン君」
格好つけながら、妹山にアイコンタクトを図る。
妹山は苦笑を溢した。
「そうだな、ホームズ。なら、証拠を固めるために現場検証でもしよう」
「現場検証?」
神崎が首を傾げる。
「俺と佐々木くんで二〇五号室を調べてこようと思う」
「え、でも……それは警察の人が保存しておけって……」
「その警察の人が到着する前に全滅することがないように、現場を調べて犯人を見つけだそうとしてるんだよ。もし誰かが暴れ出したら、遠慮なく大声を出せばいい。二階にいる俺らがすぐに駆けつける――それじゃあ行こうか、佐々木くん」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべる神崎を置いて、妹山は出入り口に向かう。小五郎は神崎に「大丈夫だから」と優しく言って、その背中を追った。
リビングルームをあとにした小五郎と妹山は、二〇五号室の前に到着する。小五郎は妹山に促されるまま、マスターキーで扉を開錠した。ノブを捻って、部屋の中に入る。二〇五号室には、どこか重たい空気が澱のように沈殿していた。
「犯人の目星がついてるとか言って大丈夫だったのかい?」
扉を閉めた途端、妹山が皮肉っぽい声音で言葉を飛ばしてくる。
「犯人は妹山先生がきっと見つけてくれるから大丈夫だ」
「他力本願という言葉が服を着て歩いているような男だね、君は」
「実際のところ、どうなんだ? 解決できる予感がするとか言ってなかったか?」
「うーん……喉元まで出かかってはいるんだけどね。単純なんだよ、トリックは。きっと複雑なものじゃない。感覚の話になるけど、必要な情報は充分に出揃ってる気がするんだ。あとはパーツを上手く組み合わせるだけで、全ての謎が解ける……気がする」
惑うように言いながら、しかしその歩みに惑いはなく、妹山は御法川の遺体に近付いた。
「首を絞められた痕跡はない」
妹山は迷う素振りも見せず、御法川の服を捲り上げた。
「胸を圧迫された痕跡もない」
「おい……さすがに死体に触れるのは……」
「なに言ってるんだい、佐々木くん。志賀野さんが蘇生をかけた段階で、もう死体に残った痕跡は滅茶苦茶になってるんだから、気にする必要はないんだよ。そもそも事件は警察が到着する前に解決するんだ。現場の保全なんて気にしなくていい」
妹山はそう言うと、ベッドの周りを捜索し始めた。
小五郎は机に近付き、そこに置いてある鍵を手に取る。洋風の意匠が凝らされた鍵には二〇五と刻印されていた。間違いなく、この部屋の鍵だ。
「やっぱり、鍵をすり替えるのは無理か……」
「こっちもいい物を見つけたよ」
妹山が声を上げる。
視線を向けると、妹山が遺体の横で膝を着いて、ベッドの下を覗き込んでいた。
「なにしてるんだ?」
「ちょっと待って」
妹山はスマホでベッドの下の写真を撮った。フラッシュの光が一瞬だけ視界を白く飛ばす。それから、妹山はベッドの下に腕を突っ込んで、引き抜いた。その手には白い塊が握られている。
「タオルだ」
「それって……」
「凶器だろうね」
妹山は頷いた。
「凶器がどこに行ったのかが謎だったけど、蓋を開けてみればあっけないものだったね。犯人はベッドの下に凶器を遺棄したんだ」
タオルをベッドの下に戻すと、妹山は立ち上がった。それから、御法川の首筋に手を振れる。
「間違いなく死んでる」
「当たり前だろ」
「そうかな? 御法川さんと志賀野さんが共謀して、狂言をやってるという可能性はあったと思うけど……まあ、それも今否定された――出よう、佐々木くん。これ以上長居してもなにも見つかりそうにない」
小五郎と妹山は部屋の外に立った。
扉を閉める前に最後に一度だけ、小五郎は部屋の中を振り返る。寝台に横たわる御法川の遺体は、冷たい肉の塊にしか見えなかった。
「不思議なもんだな」
小五郎は扉を閉めながら呟く。
「なにが?」
「いや……小説家にこんなこと言うのもアレだけど――ほら、『眠るように死んでいる』なんて表現がさ、小説とかだとよく出てくるだろ? でも、死んでるってわかって死体を見ると、とても眠ってるようには見えないんだよな」
「……眠っているようには見えない?」
「ああ」
「君、死んでるってわかって死体を見ると、眠っているようには見えないって言った?」
「言ったよ」
「それって逆に言うと……」
「妹山?」
小五郎は首を捻った。
どうも妹山の様子がおかしい。
妹山は長く垂れ下がった前髪を右手の親指と人差し指で摘まむと、頻りに髪を弄っている。瞳からは狂気にも似たエネルギーが空中に散乱されていた。口はそれとは対照的に、ポカンと力なく開いている。
「妹山?」
小五郎はもう一度呼びかけた。
「いや、なんでもない」
「……ああ、そう」
なんでもないわけがないことは小五郎にもわかっていたが、わかっていた故、邪魔をしてはいけないと思い、深くは突っ込まなかった。
扉の方に向き直り、マスターキーを鍵穴に差し込む。手首を捻るようにして鍵をかけた。
薄暗い廊下に響いたカチリという音は、二〇五号室に鍵がかかった音だったに違いないが、もしかしたら、それ以外の音でもあったのかもしれない。




